第2話 貴族の奴隷です。

 貴族の奴隷になった。

 それは好ましいことかどうか。奴隷になったということで事態が好転するとは思えない。

 首についていたものが首輪になって、背中には奴隷の証として印を付けられた。少年にはこれを何と呼称していいか分からず、一先ずは奴隷証と呼ぶことにした。

 人体への焼印は苦痛を伴うものだった。思わず叫び声を上げてしまった。

 それを何食わぬ顔で彼らは見ていた。

 何となく、奴隷がどういうものなのか理解できてしまった。

 知識として知っていても、現実として受け止めるかどうかは別の話だ。

「……くそ」

 文句を垂れてしまう。

 ただ、その言葉を咎めるものはいない。くそと言っても言語が違うから意味を理解できるものなど存在しないからだ。

「何で、こんな事に……」

 下着を一枚、その上からサンキュロット。上半身は奴隷の証を晒すように裸である。首輪とこの証が奴隷である証拠だ。

「ふざけんな……。あのトラックの野郎……」

 怒りはスリップ事故を起こしたトラック運転手に向く。

 あそこで死ぬことがなければこんな目に遭わずに済んだ。理解できない地獄に迷い込むことなどなかったというのに。

「△○*$%!」

 怒鳴り声を上げた女に鞭で背中を叩かれる。

「ぐぁっ……」

 露出した肌に痛みが走って、呻き声を上げる。

 何となく今回は言いたいことを理解できた。早く歩けと言いたいのだろう。

 逆らえばその分だけ痛みを覚えさせられる。現代日本人の彼にはこんな苦痛は耐えられない。奴隷として利口にしていれば良いのだ。

 そうすれば痛みは無いはずだ。

 だから、それで。

 奴隷という権利も何も無い地獄から救いを待つだけで良いのか。

「抗う力なんて何処にもねぇよ……」

 この細い腕、細い足、小さな身体。

 簡単に折られて、捥がれてしまう。無力なものだ。

「剣も魔法もねぇし、言葉も何も通じねぇからな……」

 何もなくて、何も出来なくて助けを待つことしかできない。奇跡にすがらない限り、救済はあり得ない。

 知恵を求めるか。

 奴隷の癖に。

 力を求めるか。

 奴隷の癖に。

 自由を求めるか。

 奴隷の癖に。

 奴隷、奴隷、奴隷。

 求めることすら罪だ。

 だから、願うだけ。

「誰か、助けてくれよ……」

 言ったはずだ。

 分かっていたはずだ。彼に人運はない。だから、彼を助ける人間など存在しない。

 そして、奴隷となって数か月。

 栄養を真面に取ることのできない彼の身長はとても低く、線の細さからひと目では男とは思えないほどだ。むしろ、そこらの女よりも細い。

 数か月経って言葉が分かるようになったかと聞かれればニュアンスが何となくわかるようになった程度で、全く持って言葉への理解は深まっていない。

 まるで、犬がお手や伏せを命じられて従うようなものだ。

 彼の仕事はあの悪趣味な女の夜の相手をすることだった。

 好きでもない女に命令をされて道具のように使われるのは苦痛だった。奴隷だから仕方がないのかもしれない。そう思い込んで、感情を隅に追いやって、心を守る。

 そして、その夜には決まって暴力が体を襲う。首を締められて、危うく窒息しかけた。顔を殴られた。腹を殴られた。痣が出来る。殺したくなほどの怒りを覚える。

「5※€$○!」

 叫ばれて彼は立ち上がった。逃げることは不可能だ。兵士の監視がついている。

 だから、不可能だ。

 何もできやしない。

 死ぬまで一生、少年は奴隷として使い潰される。

 喚いたって変わるわけがない。

 人運が悪いのは変えられない事実だ。天も人も何一つとして味方しない。

 扉を開ければ大柄な体に似合わない薄い下着を身につけた女が気色の悪い笑みを浮かべてベッドの上に座っていた。

「*$○△……」

 少年はこの言葉の意味を覚えている。

 服を脱げという命令だ。

 当然逆らえば、苦痛を伴う。衣服を脱ぐという行為に躊躇いがないのか、彼は衣服の裾に手をかけた。

「…………」

 ああ、嫌だな。

 何でこんな目に遭わなければならない。

 何となくで生きて、その人生に価値があったかは分からないが、少なくとも今よりはきっと幸せだった。

「助けて、くれ……」

 そんな小さな呟き。

 日本語で吐き出されたその言葉を目の前の女は獣の理解不能な鳴き声と考えるのだろう。

 誰にもこの言葉は届かない。

 そう諦めようと一度瞬きをした瞬間に、割れるような音が響いた後、部屋には血の匂いが充満した。

 少年が恐る恐る目を開けると其処には黒髪の黒い外套を着た男が立っていた。

「$%£○*△?」

 何かを尋ねているようだが、その言葉を理解できない。

 なら、この男は少年の声を聞いて助けに来たわけではないのだろう。

 男は少年の首輪を破壊し、頭を撫でる。それが何処か心地良くて、思わず細目になる。

 その頭に当てられた男の手からポゥッ、と柔らかな光が発生する。

『大丈夫。俺は君の味方だ』

「日本、語?」

 脳内に響いてくるのは日本語だ。だが口元の動きと音声が合わない。

『ニホン語?』

 今度は音声とピッタリな言葉が聞こえた。

『よく分からないが、今、会話は成り立っているな?』

「どういう仕組みですか?」

『言語間の障壁を破壊する便利な魔法だ。商業でもよく使われている』

 少年は言葉の通じる相手ができた事に安心して、その場に崩れ落ちた。

『服を着ろ。奴隷を連れてここから出るが、他の奴隷に心当たりは?』

 そう言われても少年には覚えがなかった。ただ、地下には他にも奴隷がいたような気がした。

「たぶん、地下に……」

『地下だな。お前もついて来い。一人だと危険だ』

「でも兵士が……」

 そう話していると扉を空けて兵士が入ってくる。

「○*$%€!」

 慌てたように大声を出した。そして、男を視界にとらえると剣を構える。

『弱いな』

 そんな呟きが聞こえたと思うと、兵士の首は身体から切り離されている。首を失った身体は膝をついてガシャンと音を立てて倒れた。

『兵士など気にするな。その程度に遅れを取るほど俺は弱くない』

 そう言って少年の手を引いた。

『ところでお前』

「?」

『名前は?』

 そう聞かれても答えられるものがない。この世界に来る前の名前は。

「名前……」

『そうだ、失礼だったな。先に俺が名乗っておこう。俺はニコラウス』

 久しく名乗っていなかった。

 意味を持つとも思えない。

山本やまもとさくら……」

『ヤマモト・サクラか……。よろしくな、サクラ』

 そう言ってニコラウスは少年、サクラに右手を差し出した。

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