第2話 じいじの回想
あれは大学の四回生になったときのことで、昭和四十年代…そう、東大入試がなくなった年だったな。
もっとも我々は東大とは無関係だったんだが。
自分は翌年の就職に備えて、実家を出て下宿はじめたんだ。
え?下宿ってなにかって?
ま、いわゆるアパート借りて一人暮らしということだが、当時はアパートの一番広い部屋に大家さんも住んでいるという形式が多かったな。
玄関とトイレは共有で風呂なんてない六畳一間だった。
ん?トイレはともかく、玄関共有がわからん?
なんて説明したらいいのだろうね、
アパートの入り口ってのがあってだね、
扉を開けると大きな玄関があり、
皆一斉にそこで靴を脱ぐんだ。
下駄箱というのがあって、脱いだ靴はそこへしまうんだ。
ああ、大きめの一軒家にいくつも部屋があり、その部屋ひとつひとつが店子が借りているような形状のアパートと言えば想像つくかな?
とにかく、そんな感じだ。
自分の部屋は二階にあって、下駄箱からすぐのところに階段がありのぼって行くんだが、なんせ大家も住んでいる家なもんだから、ドタドタ音を立てて階段のぼると「うるさい」って叱られるもんだから、住人誰もが抜き足差し足だったよ…。
今にして思えば、それがあんなことになったのかもしれんが…。
当時婆さんとは交際して半年目くらいだった。
こんなこと孫や子供の前で話すのは恥ずかしいんだが、しかたない。
その日の自分、『今日こそ決めよう』と、決心していたんだ。
その日デートに映画に誘って…映画は『うたかたの恋』というタイトルだったか?
とにかく女性が喜びそうなロマンチックな映画という触れ込みを悪友から情報を得て、その後で洋食店へ入ったんだ。
その気合い入れたデートのおかげでスッカラカンの金欠になったんだが、
当時の自分は意地でもそんなことおくびにも出さないで、始終カッコつけてた。
洋食屋で映画の感想語り合いながら旨い飯に舌鼓打ち、店を出た後腹ごなしにぶらぶら散歩…。
このときほど緊張したことなかったな、
どうやって女性を自分の部屋へ引き込もうか頭一杯だったから…。
おや婆さん、今さら恥ずかしがることないだろう?
洋食屋で飲んだワインでほろ酔いの効果もあって、なんとか下宿先のアパートまで連れてくることに成功した。
「あらやだわ、ここは私の
ワインの効果でそれまでトロンとしていた婆さんの目は、一気に覚めたようだ。
「ここは俺の下宿先なんだけど、ちょっと休んでいかないかい?そんな酔っ払った状態では、家に帰すわけにはいかないから」
このときはもう、なんとか部屋へ連れ込むのに必死だったよ。
なに?そんな恥ずかしい話を聞きたくないって?
なにを言う、そういうことがあるからお前たちが生まれたのだろうに。
ところが肝心の婆さん、何のかんのとなかなか部屋へは入ろうとしないんだ。
「ねぇ…私そんなふしだらな女ではないのよ?」
なかなかお堅い。
「わかってるさ!君がこれまでのガールフレンドとはちがうことくらい!」
ガールフレンドって言葉が死語だと?
この時代はまだ彼氏彼女という言い回しは一般的じゃないんだよ。
婆さん以前にも女はいたのかって?
そこは想像に任せたいとこだが、
うっかり口をすべらせたかな…。
階段の下でしばらく部屋へ行く行かないモメてたんだが、夜分遅くに声が響いて大家のオバサンに注意される危険性があったのもあり、
「とりあえず大家に見つかるとえらいことになるから、階段のぼろう」
そう言うと婆さんもやはり見知らぬとはいえ、こんな時間に若い娘が男と一緒にいるのを見られたら何と思われるか気になったのだろうな、素直に階段のぼってくれた。
自分の部屋は、階段のすぐ前にあった。
素早くポケットから鍵を取り出して開けようとしたんだが、開けたはずなのに何故か閉まる…。
はて?出かけるときにかけたはずだが?
もう一度鍵を開け、ドアを開いたんだ。
部屋へ一歩入ろうとして驚いた、
そこに妙な物体があったから…。
それはな、こんもりと茶色くてな、プ~ン…となにやら臭ってくるシロモノだったんだ。
「おっと危ねえ!踏むとこだった!なんだこりゃ!」
思わずこんなセリフが出たと同時に婆さんは、
「やだ!なによこれ!こんなもの私にわざわざ見せるため呼んだのかしら?悪ふざけもいい加減にして!」
大激怒。
あの時はアワアワしたねぇ、なんせ何日も前から綿密に計画を立てていたのだから。
「いや、これはなにかのまちがい…」「言い訳なんて聞きたくないわ!帰ります!」「いや、ちょっと待ってよ、俺は一体どうすりゃ…」
ん?茶色い物体はなにかって?
そりゃ、決まってるだろ?
えー、そのあとどうなったかな?
ああ、そうそう、
我々が押し問答していたとき、隣の部屋のドアがカチャリと開いて中から住人が出てきたんだ。
お隣さんは二十代半ばくらいの独身サラリーマンでね、七三わけの髪型に黒ブチ眼鏡でいつも白いワイシャツ着てるような人だったんだ。
いつも丁寧に挨拶してくれる人だったんだけどね、このときに限って第一声、
「もしかしてお宅もやられましたか?」
なんて言うんだよ、サラリーマンの顔色がちょっと青ざめていたもんだから、
「えっ、そちらもウ○コされたんですか!?」
そう言いながら隣の部屋を覗いたら、
部屋中メチャメチャに荒らされていたもんたから、こりゃまたビックリした訳さ…。
「!?」
「空き巣にやられたみたいです…部屋へ帰ってきたときに、鍵が開くからおかしいとは思ったんですけどね…」
自分と同じだ!
「金目のものは置いてはいなかったんですけどね…故郷から送られてきたなけなしの米を米びつごと全部やられましたよ…」
あのときのサラリーマンは見てられないくらい気の毒だったね、確か母一人子一人という家庭で育った人で、貧しいながらも毎月米を送ってくれるんだって話を嬉しそうにしながら米をお裾分けしてくれてたような感じだったから…。
「そちらの被害はどうです?」
サラリーマンがうちの部屋覗いた途端、アッ!と大きな声を挙げたもんだから、
他の住人らが次々と顔を出してきた。
「なんだ、うるせーぞ!」「一体なんの騒ぎだ」「ケンカなら外でやれ」
「すみません、お騒がせして!決してケンカではありません」
私はとりあえず謝ったんだがね、あまりのことに目の前で起きたことに対してどうすればいいのかわからなかったさ。
住人(今思えば顔を出してきたの、全員男だったな)らは何か察して次々我々の部屋を覗きにきた。
「うわ、なんだこりゃ!」「ひでぇ!!」
異口同音…。
「あの…、何か盗られませんでしたか?」
さっきまでこっちが同情の目で見ていたサラリーマンに、今度はこっちが同情の目を向けられたんで参ったね、あのときは…。
「いや…実は何も盗られるものなかったんですよ…お宅からお裾分けしてもらった米は全部自分が食っちまいましたし、ちょっと金が要り用で、持ち物は全て質入れしちまって…あるものと言えば、ボロいちゃぶ台と
俺は正直に話した。
「やだ!まさかあなた私のために…」
ここで婆さん声を挙げたんだ、婆さんとのデートのために質入れしたこと知られたくなかったんだがね、黙ってうなずくしかなかったよ…。
一同シーンと静まりかえったのは、
空き巣騒ぎだけでなく痴話喧嘩が始まるとでも思われてたのかね?
注目の視線が部屋の中ではなく、我々に集まってしまったんだ。
ここで沈黙を破るようにサラリーマンがある推理を語り出したんだ、
「あくまでも憶測なんですが…今日遅い時間まで留守にしていたのは、私とお宅だけだから被害は二軒…先に階段より奥にある私の部屋へ押し入って盗めた物が中身の入った米びつしかなく、次に入ったお宅に期待したのではないかと…」
「……なるほど……じゃあ、このブツは一体なんで?」
あのときのサラリーマンさん、探偵に見えたなぁ、一同次の言葉を待った。
「私の想像では…期待して押し入ったものの、盗る物がなんにもなくて、腹いせにやったのではないかと…」
なんと!盗むモノがなきゃ嫌がらせしてやれ!って考えるヤツがこの世に存在するのか!?
しかもその嫌がらせが
そのときになって初めてそういうの知って、衝撃だったよ。
なんだかんだまだ学生で世間知らずだったしな…。
あまりのことに一同固まったまんまだったんだが、
「私…警察へ電話してきます!このアパートの一階に公衆電話ありましたよね?」
そのときまで内気でおとなしいタイプと思っていた婆さんが即行動したもんだから、
あれは感動したねぇ…。
「ありがとう、下まで一緒に行くよ」
「じゃあ私は大家さんに報告を…金目の物盗まれてないとはいえ、楽しみにしていたオフクロの仕送りをやられて黙ってるわけにはいきませんからね!」
そのあとが大変だったさ、警察の事情聴取ってなんであんな長いのだろうね、
お隣も自分も金目の物盗まれてなかったとはいえ、自分の部屋の入り口にされたブツがブツなだけにね、前代未聞だと何回も言われたよ。
「おやまあ、なんてこったい!」
大家のオバサン目をひんむいて怒り狂ってたな、警察は調べるだけ調べただけなもんだから、結局後片付けは我々がしなきゃならなかったからな。
大家のオバサン、自分が片付けしなきゃならんと思ったんだろうね。
ん?ブツでDNA鑑定はしなかったのかって?
当時はそんなもんなかったさ、だから警察がブツの写真撮ったり・調査のため持ち帰ったりということはなく、失笑されておしまいさ。
だから大家のオバサンと自分、この汚物を片付けにゃならんとガックリ肩を落としていたんだ。
そこへ婆さんが、
「あの…、ゴム手袋といらない袋に雑巾はありませんか?私お手伝いします」
申し出たもんだから感動したさ。
こっちが君はそんなことしなくていいんだよ…と言う前に、
「おや、すまないねぇ…ありがたい」
大家のオバサンにお礼言われちゃったもんだからしかたない、自分も一緒に片付けたさ。
ブツも片付けて掃除しすっかりキレイにした後でこの人を自宅まで送ることになったんだが、もう夜の十一時半をすぎていたから覚悟したんだ。
当時は若い独身の娘さんがそんな時間までほっつき歩くというのが考えられなかったからね、当然親御さんも心配してるもんだったから…。
それが若い男と一緒となりゃ、ただごとじゃないからな。
一応帰る前に婆さん、公衆電話から自宅へ電話入れてた。
「もしもし?
ああ、怖い怖い、
昭和の三大怖いものは『火事』『雷』『親父』と言われてたほどだったからな、
殴られる覚悟したさ!
「あの…、これからガールフレンドを家まで送って行きますんで…」
一応大家に声をかけとく、昔の下宿形式だと、こういう場合はひとこと伝えるって暗黙の了解だったからね。
「ああ、しっかりそのお嬢さんを送るんだよ。帰ったら今夜はウチにお泊まりよ、小林さん(お隣さん)もアンタも空き巣にやられて怖いだろうし、鍵がなおるまでウチにいな!」
「ありがとうございます!」
昭和の時代のこういう交流、今やないだろうねぇ…。
お隣のサラリーマン・小林さんに軽く挨拶すませてから、この人送ったんだよ。
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