第2話 今際の花

「あぁ、『あんぱん』が食べたい」


 ロンドン郊外の自宅で母が呟いたのは、家族三人で朝食を囲んでいるときだった。ライ麦パンにチーズを乗せて頬張りながら、母は夢見るように言う。


「こしあんがいいわ。桜の塩漬けが真ん中に乗ってるやつ。自分で作れないこともないでしょうけど、やっぱり日本のお店で売ってるやつが美味しいわよね」


 母は日本人だ。日本で出会ったイギリス人の父と結婚し、ロンドンへ移り住んで二十五年。父が仕事を引退したのをきっかけに、郊外で田舎暮らしを満喫している。


 イギリスで生まれ育った僕は『あんぱん』を見たことがない。聞き慣れない日本語に驚いて、思わず顔を上げた。


「どうしたの、珍しい」


 僕が知る限り、彼女が日本や日本ゆかりの物を恋しがることは滅多になかった。郷に入ってはなんとやらという言葉を忠実に守った人なのだ。

 薔薇の品種改良の研究をしていた母は、イギリスに住むことを自ら望み、この国を心から愛していた。『日本に帰りたい』どころか『和食が食べたい』という言葉も聞いたことがない。日本の祖母が死んだときだって、『覚悟の上でここに渡ってきた』と、葬式は親戚に任せて帰らなかった。


 そんな母が朝からあんぱんを食べたがっている。僕の驚きは父にとっても同じだったらしい。


「そんなにあんぱんが好きだった?」


 目を丸くした父が尋ねると、母はしれっとした顔で「ううん」と、答えた。


「そんなに特別好きじゃないわ。日本にいた頃はあんぱんなんて食べたいと思ったことがないわね。でも、ふと今、そう感じたのよ。不思議ね」


「へぇ。母さん、何かの虫の知らせかもしれないね」


「珍しすぎて槍でも降るかしら。それか、あなたの描いた猫が本物になっちゃうかもよ」


 僕は駆け出しの絵描きで、猫を多く画題にしている。この日も黒猫の油絵を仕上げているところだった。


「本物になるくらいの絵を描けるなら、本望だよ」


 冗談めいた口調で返したが、本心だった。僕は自分の絵について、ある悩みを抱えていたのだ。それを知らない母が屈託のない笑みを浮かべた。


 しかし、母の笑顔を見たのはそれが最後になった。三時間後に突然倒れ、意識不明の重体に陥ったのだ。

 医師は「予断を許さない状況です。親近者に連絡を」と、言った。つまり危篤状態だ。それからというもの、母はベッドの上で眠り続けている。


 僕は打ちひしがれた。毎日、祈るような思いで病室へ向かい、母の体につけられた医療機器の画面から心拍音が感じられると、ほっとする。夜眠るときも「明日を無事に迎えられますように」と、今までろくに信じてもいなかった神に祈るのだった。


 母が倒れてから三日目の朝のことだった。


「おい、これを見てくれ」


 病院に行く支度をしていると、父が一輪の薔薇を手に現れた。


「母さんが植えた早咲きの薔薇が咲いたんだ。この家に来て、最初に植えた思い出の薔薇だよ。毎日、母さんに届けよう」


 父は薔薇をベッドの傍らの花瓶にいけ、腰を下ろし、呼吸器をつけた妻を黙って見守った。


「呼吸器をつけていても香りは届くのかな」


 そんな呑気なことを言っているが、目は笑っていなかった。

 僕はそんな父を病室に残して家に戻ると、描きかけのキャンバスの前に立った。妖しい目をした黒猫の絵はまだ絵の具が乾いておらず、独特の匂いを放っている。嗅ぎ慣れたはずなのに、このときばかりはいやに鼻についた。


「僕が描きたいのは、これじゃない」


 僕は顔をしかめてそう言うと、真新しいキャンバスをイーゼルにセットする。

 母のために絵を描こうと思い立った。けれど、何を描けばいいのだろう。

 真っ先に思いついたのは薔薇だ。しかし、父が本物の薔薇を届けている。


「そうだ、桜を描こう」


 母があんぱんの話をしたことを思い出したのだ。かといって、あんぱんを描くのもどうかと首をひねり、『桜の塩漬け』にちなんで桜の絵を届けようと考えた。


『もしこの世に薔薇が存在しなければ、桜の専門家になっていたかもしれないわ。とっても綺麗で好きなの』


 母が一度だけ僕にそう言ったことがある。けれど、桜への思慕は、日本を発つときに置いてきたものの一つだったようだ。

 意気揚々と下絵を描こうとした。しかし、僕はすぐに唖然とした。日本人の血が半分も流れているというのに、桜を見たことがないことに気づいたのだ。

 慌ててインターネットで桜の画像をさがした。しかし、描いても描いても、満足のいくものはできない。

 当たり前だ。桜への感動を僕は知らない。桜を好きな母は知っているけれど、彼女が桜のどこに惹かれたのかまったくもってわからない。そんな僕に、母が喜ぶ絵が描けるとは思えなかった。押し寄せる絶望は、落胆を伴って重さを増していくばかりだった。


 それから一週間がたった。父が毎日運んでくる薔薇は、病室のベッドサイドを埋め尽くす勢いだった。僕は薔薇の香りで溢れる病室を出ると、市街地へ向かった。白の油絵の具を買い足したかったのだ。


 馴染みの画材屋へ行くと、うら若き女店主のクローディア・クレイルが挨拶代わりに「いい絵は描けてる?」ときいてきた。僕は曖昧に微笑むだけにとどめた。

 実のところ、僕の悩みというのは、贅沢なものかもしれない。気まぐれに描いた猫の絵が、ある展覧会で賞をとった。どうして猫だったかというと、うちの庭で野良猫が寛いでいるのをよく見かけるのだ。たまたま目にしたものを何の気無しに描いた。たったそれだけの理由だった。


 猫が幸運をもたらしたといえば聞こえはいいけれど、賞をとっただけで生活に困らないだけの収入が見込めるわけでもない。かといって別の仕事を始めてしまうと、描く時間がなくなる気がして怖い。だから芸術大学まで出ていながら、未だに親のすねをかじっている。

 賞のおかげで少しは依頼がくるようになったが、画題はいつも猫だ。依頼主の要望に応える日々で、本当に描きたいものを描かせてもらうこともない。

 空いた時間に自分の絵を描こうと思っても、本当に描きたい画題が何であるかわからない。


 『何か描きたい』という衝動はひしひしと感じる。絵筆を走らせる手を止めると言いようのない不安に駆られるのだ。それで僕はとりあえず猫を描くのだが、そこに情熱は見いだせずにいる。実績がすべてではないにしても、絵で生活していきたい焦りが視界を狭くさせていた。


 そして今、僕は母を喜ばせる絵すら満足に描けないでいる。描いても描いても、造花のような桜しか描けないのだ。何が展覧会の受賞者だろう。たまたま審査員の好みに合っただけであって、僕の実力なんてたかがしれているのだ。惨めで仕方なかった。


 画材屋の棚にある白い油絵の具のチューブを睨むようにして見ていた僕に、クローディアが歩み寄ってきた。


「今日は白をお探し?」


 ハッと我にかえり、彼女の顔を見た。彼女は艶やかな黒髪を耳にかけながら、僕に話しかける。


「いつものチタニウムホワイト?」


「いや、パーマネントホワイトを」


「へぇ。今度はどんな猫を描くの?」


「猫じゃないよ。桜を描きたいんだ」


「ふぅん、それで苦労してるのね。確かにイギリスにいながら桜を描くのは難しいわね」


「どうしてそう思うんだい?」


 見透かされたようで心臓が高鳴った。けれど、クローディアは「すぐにわかるわ」と、翡翠色の目を細めて笑った。


「だって、今にも死にそうな顔をしているんですもの」


「死にそうなのは僕じゃないんだ。母が危篤でね。彼女の故郷の花を描きたくて」


「そうなの。お気の毒に」


 そう言うと、彼女は「あぁ」と何か思いついたようだった。


「そうそう、桜ならあるわよ」


「なんだって?」


「私の母は骨董品店を営んでいるんだけどね、ある日本人画家が作品を手離したらしいの。ずいぶん昔のことなんだけど、今になってこっちにまわってきたのよ」


「へぇ、そんなこともあるの」


「うん。絵画みたいな美術関係は私に押し付けられるのよね」


「なるほど、確かにここなら骨董品店に置いておくよりは売れやすそうだ」


 この店の奥はちょっとした画廊になっていて、若手作家の作品を中心に置いているのだ。


「今回は困りものでね。売れそうになくて」


 クローディアは渋い顔で、額縁におさめられた絵を見せてくれた。

 僕は思わず「おや」と間抜けな声を漏らした。描かれているのは、一筋の枝。たったそれだけだった。

 背景は少しあたたかみのある白一色で、黒い枝がひゅっと伸びているのだ。先のほうに灰色の小さな蕾のような膨らみがある。しかし、花は咲いていないし、葉っぱもない。水墨画のような色使いだが、使用しているのは油絵の具だ。


「これは何の枝なんだろう?」


「だから、これが桜よ」


「枝だけじゃないか」


 クローディアに非難の視線を送った。しかし、彼女は首をすくめる。


「仕方ないわ。花は散ってしまったの」


「何を言っているんだい?」


「つまり、いわくつきなのよ。この絵は画家が桜のように美しい妻を想って描いたもの。けれど、その妻が死んだとき、桜は弔いとして散る道を選んだの。それ以来、この絵は咲くのをやめてしまったのよ」


 僕をからかっているんだろうか。まるで小説か映画のストーリーを聞かされているようだ。しかし、クローディアは僕が何も言わないうちに「別に、からかってないわよ」と言った。


「あなただから言うけれど、そういうことってあるの」


「どうして僕に?」


 思わずどきりとして彼女の顔を見た。翡翠を思わせる瞳が妖しく光った。

 僕はすかさず彼女の目から鼻、そしてふっくらした唇に視線を走らせる。そして、彼女が思っていた以上に美しいことに気づいた。


「だってあなたは、この店にたどり着いたんですもの。それなりの理由があるのよ。きっと、あなたの手はミューズに愛されているからね」


 そう言って笑う顔は艶やかでミステリアスだ。どうして今まで普通に話せていたんだろうと思うほど、眩しく見えてきた。


「買いかぶりだよ。僕はしがない絵描きだ。賞をとったからって天狗になって、今じゃ細々と意にそぐわない絵を描いて食いつないでる惨めな男さ」


「そういう卑屈なところ、不幸のもとね」


 ずいぶんはっきりものを言う。少しばかり傷つきながら、僕は乾いた笑みを浮かべた。


「本当のことだよ。だって、僕には桜の枝一本も描けやしない」


 そう口にした途端、惨めさと悔しさ、そして焦りで涙がこぼれそうになった。思わず赤面した僕に、クローディアが静かに言う。


「絵というのは自分が行くべきところを知っているものよ。この絵がここにやってきたということは、つまり、あなたがここに今日来るからだったのね」


 きょとんとしていると、彼女は大きな紙袋に絵を入れて僕に渡した。


「これはあなたが持っていて」


「えっ?」


「桜の絵が必要なんでしょ? あなたに描けないんだったら、これを持っていくといいわ」


「幾らだ?」


「お金は結構よ。その代わり、あなたの絵を画廊に置きたいわ」


 僕は心底驚いて彼女を見つめた。


「賞をとった作品かい?」


「いいえ、新作を」


「あいにく僕の絵は売れないと思うよ」


「あら、どうして?」


「君も知っているはずだよ。賞をとったのも一回きり、それもきっとまぐれだ。だってそれっきり他の賞にはかすりもしないし、依頼は猫の絵ばかりだよ」


「もし、あなたが描きたいと思うのなら猫でもいいわ」


「それが、僕には描きたいものがわからないんだ。世間に何が求められているかもわからない」


 自分で言っていて情けなくなってきた。しかし、彼女は小さな笑みを漏らす。


「大丈夫、私にはあなたが金の卵に見えるから」


 意味がわからない。きょとんとした僕の手に紙袋を持たせると、クローディアが言う。


「この絵が役目を果たしたとき、どうするかはあなたに任せるわ。それが絵の運命だから」


 奇妙なことを言うものだ。しかし、僕は「あ、あぁ」と答え、絵を小脇に抱えて店を出た。

 僕は呆気にとられ、店を振り返る。


「不思議な女だ」


 独り言を漏らし、家に向かって歩き出した。今までもたびたび感じていたが、クローディアは人を見透かすようなところがある。実のところ、僕はそこが少し苦手だった。心の奥にねじこんだ醜い部分まで見られているようで、逃げ出したくなる。それなのに、いつもこの店に来てしまうのだ。


 ふと、僕は眉をしかめた。そういえば、僕はいつからあの店に出入りしているのだろう。ずっと昔から行っているような気がしていたが、どうやってあそこに出入りするようになったのかも思い出せなかった。

 そこまで考えると、「あっ」と短い声を漏らした。


「肝心のパーマネントホワイトを買い忘れてるじゃないか」


 何から何までうまくいかない。僕は長い溜息を漏らし、うなだれたのだった。


 家に戻った僕は再びキャンバスに向かう。しかし、やはり桜は描けないままだった。花そのものはうまく描けている。けれど、匂い立つものがまったく感じられない。

 僕は絵筆を煙草に持ち替えた。椅子に浅く腰をおろし、うなだれる。紫煙が目にしみて、痛いほど涙が滲んだ。

 なんて情けないんだろう。芸術大学で学び、賞をとり、絵を描く商売をしているくせに、ここぞというときに何も描けないでいる。

 両親は僕が画家になると言ったときに反対しなかった。それどころか母は「思うように生きなさい」と、背中を押してくれたのだ。その母に報いることができずにいる自分は、なんと非力なことか。


 初夏の夜風が窓ガラスに吹きつける音がした。母が育てた薔薇は、主人のいない庭で不安げに揺れているだろう。

 僕は紙袋からあの絵を取り出した。黒く伸びた枝先にある蕾まで風に揺れているように見える。自分が描いた桜の花より、よっぽど生命にあふれてみえた。


「どこの誰が描いたか知らないけれど、完敗だよ」


 僕は絵を袋に戻し、ウイスキーを飲み干してベッドに潜り込んだ。しかし、寝付きの悪い夜を過ごす羽目になってしまった。


 翌朝、父は用事を済ませてから行くと言うので、僕一人で病院に向かった。

 病室の扉を開けようとして、躊躇した。毎度のことだが、この向こうにある現実に怯み、逃げたくなる。それでも唇を噛んで思い切って飛び込んだ。

 母は相変わらずベッドに横たわっていた。医療機器の画面に波打つ線が、僕を安堵させる。心臓の動きを目に見える形で感じるたび、どうか止まらないでと、祈る。

 僕は窓際に枝の絵を置いた。


「僕が描いた絵でなくてごめんよ」


 パイプ椅子に腰を下ろし、かすれた声で囁いた。


「せっかく絵の勉強をさせてくれたのに、不甲斐ないよな。いっそ、画家になるのを反対してくれたらよかったのに」


 そう言ってから、自嘲した。描けないことを母のせいにするなんて、僕はどこまで小さい人間なんだろう。

 途方にくれた顔で、呼吸器をつけた母を見ていた。あんなにいきいきとしていた肌は今では艶もなく、血色がない。顔に刻まれた小じわが目立ち、時の流れを残酷に映し出していた。

 絵のそばには父が持ってきた薔薇がいけてあり、芳しい香りが漂っている。寝不足もたたって、睡魔が押し寄せてきた。

 父はまだ来ないのだろうか。そう思いつつ、舟こぎをし始めた。


 次の瞬間、瞼を閉じたにもかかわらず、僕は川沿いの遊歩道を見ていた。


「ここはどこだ?」


 知らない街並みだった。通行人はみな日本人で、遠くに見える店の看板や標識も日本語だ。


「そうか、これは夢か」


 僕は「はは」と笑う。さっきまで病室にいたのだから、夢に決まっている。ぽかぽかと陽気があたたかいのは、窓からの日差しのせいだろう。

 僕は遊歩道をゆっくり歩き出した。せっかく日本を夢に見ているのだから、少しでも楽しもうじゃないか。

 歩きながら、僕は懐かしさを感じていた。おかしなものだ。一度も訪れたことがないはずなのに、僕はこの道を知っている気がする。

 そのとき、すぐ後ろから聞きなれた声がした。


「もうすぐだね。楽しみだな」


 父の声だ。慌てて振り返り、息を呑んだ。そこにいたのは僕の知っている父ではなく、若い頃の父だった。そして彼と腕を組んでいるのは、僕と同じくらいの歳をした母だ。

 唖然とする僕を、彼らはするりと通り抜けていく。二人とも、僕の姿は見えていないようだった。


「あぁ、そうか、夢だもんな」


 慌てて二人の後についていく。若かりし頃の二人は仲睦まじく寄り添っていた。

 やがて父が「あぁ、見えた」と前方を指差した。母が「綺麗!」と歓声を上げる。そして僕は、言葉を失った。

 道の先に見えたのは、満開の桜の並木道だった。


「桜、桜、桜! なんて素晴らしい景色だろう」


 父が興奮気味に言う。僕は無言で頷きながら、舞い散る桜を見上げていた。

 風がそよぐたびに儚く散る桜の美しさが、僕の心にしみた。霞のように花が枝を飾るのも、さらさらと花弁が流れていく様も、どうしようもなく僕の胸を締め付ける。

 不思議なことに、そこにあるのは新鮮さではなく、確かな既視感だった。

 僕は桜を知っている。そう思った途端、母が父の肩にもたれて呟く。


「お腹の子にも見せてあげたかったわ」


「見てるさ。君の目と心を通じて」


 そうか、僕は母の胎内で桜を見ていたのか。そう思うと、涙がはらはらと溢れてきた。


「私ね、日本にいろんなものを置いていくけれど、悔いはないの」


 母が言う。


「だって、桜はここで咲くからいいんだもの。あるべき場所が誰にでもあるんだわ。だから、私はあなたのそばにいるのよね」


 父の顔が綻ぶ。二人が触れるだけのキスをした瞬間、風が吹きわたった。優しい色をした花弁が無数に風に乗った。


「うわぁ!」


 まるで吹雪のように桜が押し寄せ、僕を呑み込んだ瞬間だった。


「遅くなってすまない」


 薔薇の花を持って病室に入ってきた父が目に飛び込んできた。日本の風景が消え失せ、吹きすさぶ風に今度は桜ではなく、父の手にある薔薇の花弁が飛び散った。いや、そればかりではない。ベッドサイドにいけられた薔薇まで花弁が吹き飛んでいた。


「な、なんだ? どうなってるんだ?」


 花吹雪に目を丸くする父は、若者の姿ではなく僕がよく知る熟年の顔だ。

 花弁は渦を描きながら病室を舞い、音もなくベッドの上に散らばった。

 風が止み、狐につままれた顔の僕と、放心状態の父は顔を見合わせる。だが、静まり返った病室で、医療機器の『ピッ』という心臓の音が『ツー』という音に変わり、僕らは我に返った。


 父は叫ぶように助けを求めた。駆け付けた医師と看護師が慌ただしく処置を試みたものの、最後には脈をみて、死亡時刻を告げた。

 父の泣き咽ぶ声を聞きながら、僕は呆然としていた。

 薔薇の花弁は消えていた。そして、あの枝の絵に、桜の花が咲き誇っているではないか。

 震える手で、母の頬をなぞった。今際に母が見ていたのは、薔薇だったのだろうか。それとも、桜だったのだろうか。


 翌日、僕はクローディアの店に向かった。

 店に入るなり、彼女は小さく頷いた。


「逝ったのね」


「うん」


 僕は小さく微笑んだ。そして小脇に抱えていた絵を差し出す。


「返すよ。母がいなくなった今、僕には必要のないものだ」


 黒い枝に咲き群れる桜を見て、彼女は呟いた。


「桜ってね、土地が痩せるほど養分を吸い取ってしまうの。この絵は花を咲かせるためにお母さんの最期の時間を吸い取ったかもしれない。この花にはお母さんの欠片が宿っている気がするわ。あなたが持っているべきよ」


「そうだとしても、必要ないよ」


「どうして?」


「母はあるべき場所を知っていて、きちんとそこにいるからさ。桜だって、あるべき場所に戻って来た。そして、絵はそばに置く意味を見出せる人が、あるべき場所になる」


 僕はそう言うと、いまだかつてないほど澄んだ気持ちでクローディアを見つめた。


「僕がこの店にたどり着いたのにも、意味があったんだ。君が言いたかったのはそういう意味だろう?」


「さぁ、そんなこと言ったかしら?」


「言ったさ」


 ほんの少し、桜の花弁一枚分だけ、勇気が持てるようになった気がする。僕はクローディアに微笑んだ。


「またこの店に来たいし、君に会いたいと思った。本当に僕の手がミューズに愛されているなら、そのミューズって君だといいんだけど」


 彼女は顔色ひとつ変えず、首を少し傾げた。


「描きたいものは見つかった?」


「そうだね、とりあえず猫を抱いた君かな」


「うちの画廊で高値がつくといいわね、金の卵さん」


「君って、何者?」


「しがない画材店の店主です」


 クローディアは美しい黒髪を耳にかけながら妖しく微笑んだ。


「でも、まぁ、あなたのそばが私の居場所なら、いずれわかるわ」


 その瞬間、桜吹雪が見えた気がした。霧のような無数の花弁の向こうに、いつかの両親のように腕を組み、身を寄せ合って歩く僕らがいればいいなと、心から願った。

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