クレイル奇譚
深水千世
第1話 Love is the sweetest thing
ヘンリー・リッジウェイが老衰で死んだのは1936年のイギリスだった。牡丹雪が舞い降りる朝のことで、看取ったのは村の医師と、住み込みで世話係も兼ねて働いていた看護師の老婆クレイルだけだった。
葬儀から三日目の朝、クレイルは白いものが目立つブルネットを綺麗に結い上げていた。足下ではヘンリーの遺した愛猫が額をこすりつけている。
「あらあら、甘えちゃって。お前も寂しいの? なんて静かな朝でしょうね。旦那様は無口な御方だったけれど、もっと静かに感じるわ」
猫に話しかける声は柔らかく、歌うようだ。
高齢の彼女は穏やかな性格だった。所作がしなやかで物音一つたてないところが、今は亡きヘンリーに好まれていた。
クレイルは身支度を調えると、猫に餌をやり、自分も腹ごしらえをしてから、お茶の支度にとりかかる。
これからヘンリーの数少ない遺族と弁護士がやって来て、遺言状を公開することになっていた。
使用人はみんなとっくに出て行き、この屋敷に残っているのは彼女と猫だけなのだから、彼らをもてなさなければならない。しかし、葬儀にも来なかった薄情な親戚にお茶を振る舞わなければならないのは癪だった。
ヘンリーと十年前に死んだ夫人との間には子どもがなかった。その遺産は甥と妹夫婦、そして弟の四人に分配されるのだろうと思うと、クレイルはぼやくように独りごちた。
「葬儀には誰も来ないくせに、遺産の話し合いとなると飛んで来るんだから、どうせろくでもない人たちなんだわ」
まるで同意するかのようなタイミングで、足下の猫が鳴く。それを聞いたクレイルの表情がいくらか和らいだ。
「お前もそう思う? この屋敷がこれからどうなるのか知らないけれど、私もお前も次の居場所を見つけなきゃいけないわね」
胸元に白い毛のある黒猫は、呑気な顔でただただ喉を鳴らしているのだった。
片田舎にあるヘンリーの屋敷に彼らが顔を揃えたのは、午前十時のことだった。
彼らが屋敷に着いたとき、クレイルに挨拶をしたのはワイズ弁護士ただ一人だった。親族はそろいもそろってクレイルの挨拶を無視し、ヘンリーを看取った礼はおろか、今まで世話をみてきたねぎらいの言葉一つなかった。
応接間のテーブルにワイズ弁護士と四人の親族が席についた。
お茶を出し終えたクレイルは部屋の隅で控えながら、失礼にならない程度に彼らを見る。
だらしなく肘をついて煙草を吸っているのは甥のロバートだろう。厚化粧の女はヘンリーの妹マリー。その傍らにいるでっぷり太った男は、マリーの年下の夫アーサー。そして始終おどおどしているのが弟リチャードだった。
マリーもリチャードもヘンリーとは腹違いの姉弟のせいか、どちらも主とは似ていないように思えた。アーサーとは血のつながりはないし、甥のロバートもそれほど似てはいない。
「ロバートはまだギャンブルに夢中なのかしら?」
マリーがにやにやしながら言うと、煙草の煙を勢いよく噴き出してロバートが応酬する。
「マリー叔母さんは相変わらず毛皮の収集に夢中みたいですね。よくお似合いだ」
クレイルはその響きに嫌味を感じて噴き出すのを堪えた。体格がよく、がに股歩きのマリーが毛皮で身を包むと、冬眠を控えた熊のようなのだ。
アーサーも皮肉を感じ取ったのか、「ふん」と鼻を鳴らして葉巻を取り出した。毛皮の収集に不満があっても、それを口に出すことはできないようだった。彼は傲慢な男でありながら、恐妻家なのだ。
マリーは気分を害したようだったが、平静を装って肩にかけたショールを寄せ合わせた。
「まったく、どこでそんなお世辞を身につけてきたのやら」
「おや、本当のことですよ」
唇を吊り上げ、ロバートが端の席にいたリチャードに話しかける。
「ねぇ、そう思いませんか、リチャード叔父さん」
「えっ、あぁ、そうだね」
蚊の鳴くような声で答えると、リチャードは忙しなく両手をもみ合わせていた。マリーがげんなりした顔になる。
「あんた、相変わらず気になることがあるとその手をこねくりまわす癖が出るのね。女々しいったら」
リチャードは何も言わず、ばつの悪そうな顔をして両手をテーブルの下に隠す。
それからロバートとマリーが世間話を始めたが、皮肉と嫌味のオンパレードでクレイルをうんざりさせた。
しかしその一方で、クレイルはこの応接間にこれだけの人数が集まるのは初めて見たと、感慨深い気持ちになる。この屋敷で働き出したのは十年前のことだが、こんなに話し声が飛び交うことはなかった。
ヘンリーの妻がいた頃は、夫妻の多くの友人たちがクリスマスや誕生日に集まっては賑やかに過ごしていたらしい。この親戚たちもつきあい程度に顔を見せていた。
ところが、クレイルが雇われる直前に交通事故で夫人が他界して以来、ヘンリーはすっかり打ちひしがれ、すべての交友関係や親戚づきあいを断ち切ってしまった。
歓迎されない遺族だとしても、いわゆる『枯れ木も山の賑わい』だろうかと、クレイルはほんの少し口角をつり上げた。
そんな中、ワイズ弁護士が小さく咳払いをして、「皆さん、お静かに」と、切り出した。
「それではヘンリー・リッジウェイ氏の遺言状を公開したいと思います」
遺族たちの視線を一身に浴びながら、彼はこう言った。
「遺言状にはヘンリー・リッジウェイの預金、不動産、株、あらゆる財産の権利はステラに遺すとあります」
「ステラだって? それは一体誰のことだ?」
真っ先に憤慨したのはロバートだった。
「どこの泥棒猫だよ? 苗字は?」
「それが、遺言状にはステラという名前しかないのです」
「それって、まさか」
遺族の視線はワイズ弁護士から窓辺で丸くなる猫に注がれた。
「あのステラ?」
明るい日差しの中で気持ちよさそうに寝ている黒猫こそ、その名をステラといった。
アーサーとマリーが怒鳴るように言った。
「まさか! 猫に全財産を遺すなんて馬鹿げてる」
「そうよ、そんな遺言状聞いたことないわ」
しかし、ワイズ弁護士はきっぱりと断言した。
「いえ、あの猫ではないと思います。この屋敷には他にステラという人物がいるからです」
ワイズ弁護士はそう言うと、まっすぐ部屋の隅を見つめた。その視線を追い、親族たちの目が丸くなる。そこにはクレイルが立っていた。
「なんだって、この看護師の婆さんがステラだっていうのか?」
アーサーのだみ声に、クレイルが静かに答えた。
「確かに私の名前はステラ・クレイルです」
ロバートが腰を浮かせ、「馬鹿な!」と叫ぶ。
「なんだって叔父さんは俺たちに何もくれないで、使用人なんかに遺すんだ」
アーサーが同意する。
「まったくだ。納得いかん! こんな遺言状はありえない! 無効だ!」
だが、弁護士が静かに答える。
「いいえ、この遺言状は正式なものです」
それを聞いたマリーが静かに立ち上がって、クレイルに歩み寄った。
「ねぇ、あんたは私たちを見捨てるようなひどい人じゃないでしょうね? 私たちだってヘンリーのことを案じてはいたんだ。だけど、ほら、自分たちの生活で手一杯で来る余裕もなかったんだよ。私たちの今後の面倒をみてはもらえるんだろうね? だって、それは親族である私たちの当然の権利じゃないか」
猫撫で声のマリーに、クレイルがにっこり微笑んだ。
「私は財産というものにまったく魅力を感じませんし、必要もないものです」
「それじゃ……」
「しかしながら」
クレイルは穏やかな笑みを浮かべたまま、毅然とした声で言う。
「あえて遺族に何も遺さなかった旦那様の意志を尊重し、すべて慈善団体に寄付したいと思います。その手続きが終わり次第、私はここを出て行くつもりです」
一同が唖然としている中、クレイルはワイズ弁護士に向かって「先生、今日中に手続きをお願いしますね」と言うと、一礼して部屋を出て行った。
「な、なんなの、あの婆さん!」
マリーがヒステリックに叫び、ワイズ弁護士に詰め寄った。
「先生、どうにかならないの? このままじゃ全部あの婆さんにもっていかれる! 絵画のコレクションも! 銀食器もよ?」
リチャードは土気色の顔を歪ませ、ぶつぶつと呟いた。
「慈善団体だって? そんなところに金をやって何になるっていうんだ? 俺なら有意義に使ってやるっていうのに」
ロバートが「はっ」と鼻で笑った。
「リチャード叔父さんはいい年して若い女優に貢ぐだけでしょう」
リチャードの顔にサッと赤みがさし、その手がぶるぶると震えた。
「じゃあ、ロバート、君は何に使うっていうんだい。どうせギャンブルだろう?」
アーサーが顎の肉を震わせて怒鳴る。
「何をごちゃごちゃ言っているんだ、俺たちのほうがもっと財産管理に相応しい」
「あぁ、叔父さんも株でだいぶ損をしてるって噂ですものね。どうして才能もないのに手を出すんです? そうでなきゃ、自棄酒でアル中になんてなることもないのに」
「なんだと? ギャンブル狂いのお前に言われたくはないぞ」
げんなりした顔でワイズ弁護士が立ち上がった。
「もう結構。私は相続人の意志を尊重するだけですよ。では失礼します」
弁護士が立ち去ると、アーサーが「くそっ」と悪態をつく。ロバートはくさくさした気分で新しい煙草に火をつけた。
マリーは隣の席に腰を下ろし、自分のハンドバッグからシガレットケースを取り出した。真っ赤な口紅を塗った唇に煙草をくわえると、ロバートがライターで火をつけてやる。
「ロバート、あなた今日はこれからどうするの?」
紫煙を噴き、マリーが静かに言った。だが、ロバートはその声色と裏腹に彼女の目がぎらついているのに気づき、眉根を寄せる。
「村の宿屋をとってありますよ。急いでロンドンに戻る必要もないし」
「その宿屋、空きはあるかしら」
そう言うと、マリーがそっと顔を寄せて囁いた。
「ねぇ、私たちはきっと利害が一致すると思うの」
探るような目のロバートと、唇を吊り上げるマリーの視線がかち合い、緊迫した空気が流れていた。
真夜中のことだ。
ステラ・クレイルは二階の自室で、暖炉の明かりの中、荷造りをしていた。
「我ながら身軽だこと」
ベッドの上に置かれた小さな革製のトランクには鼻眼鏡と少しの衣類、ブラシ、数冊の本、万年筆が詰め込まれていた。
その横で黒猫のステラが丸くなっている。
「お前の行き先を見つけなきゃね」
クレイルはそう言うと、艶やかな黒い背中を撫でてやった。
「まったく、旦那様ったら。私は遺産なんていりませんとあれほど言っておいたはずなのに」
ワイズ弁護士は仕事が早かった。夜が来るまでにはヘンリー・リッジウェイの遺産は幾つかの慈善団体に振りわけて贈られる手はずが整っていた。
「さぁ、これで身軽になった。どこにでも行けるわ」
そう呟いたときだった。
「そうはいかないわ」
振り返ると、黒い衣服で身を包んだ二人組が部屋に入ってきた。
「ワイズ弁護士に書類を書き直させるんだ」
暖炉の火に照らされた二人組に、クレイルは目を細める。
「まぁ、夜分遅くに」
部屋に忍び込んできたのはマリーとロバートだった。その顔には禍々しいものが浮かび、力尽くでもなんとかしようという気配が漂っている。
だが、クレイルは取り乱すことも驚くこともなく、静かに微笑んでいた。
「てっきりマリーさんは旦那さんと来るものだと思っていましたけど」
マリーが顔を歪ませた。
「ふん、うちの亭主は威張ってばかりいるけど肝っ玉が小さくてね。ロバートのほうがずっと話がわかるわ」
「それに僕のほうが機敏だし力もある」
にじり寄り、ロバートが不敵な笑みを浮かべる。
「婆さんの首をひねることなんて朝飯前なんだぜ」
「遺産を放棄して、私たちに振り分けるように書類を書き換えるんだよ」
マリーが凄みのある声で唱えるように言った。
「この屋敷も財産も、私のものだよ!」
クレイルが笑った。
「そうはなりませんよ。私にはこの屋敷もあなたも消え失せる姿が見えますから」
ロバートとマリーはぎょっとして身をこわばらせる。クレイルの背後に燃えさかる火を見た気がしたのだ。
「なんて絵に描いたような醜悪な姿なんでしょうね。ヘンリーの悲劇は妻を亡くしたことよりろくな親戚がいないことかもしれないわ」
その声は老婆のものから次第に若く張りのあるものに変わっていく。にたりと笑った唇の隙間から、牙のようなものが見えた。
「お、お前は誰だ」
ロバートの声が震え、歯の根が合わなくなった。クレイルは前屈みだった背筋をぐっと伸ばし、まっすぐ彼らを見つめていた。
「私が誰かって? そんなこと訊かれたのは久しぶり。私だって忘れそうだわ」
マリーの短い悲鳴が漏れた。クレイルの皮膚から黒い毛が伸び始め、全身を覆っていく。青い眼はアーモンド型に大きくなり、口元からヒゲが伸び、頭部から三角形の黒い耳が飛び出た。クレイルが机にあったハサミでスカートの後ろに切れ込みを入れると、長い尻尾がゆらりと揺れる。
「でもそうね、ケット・シーと呼ぶ者もいれば、化け猫だの猫又だのと言われることもあるわね」
そう歌うように言う彼女は、二本足で立つ猫の姿になっていた。全身は黒く、その胸元だけは雪のように白い。
「ば、化け物だ!」
マリーが腰を抜かしてへたりこむ。
ロバートは必死の形相で銃を乱射した。だが、弾が貫通したはずのクレイルは平然としていた。
「ひぃい!」
逃げ出すロバートを追いかけようとしたマリーの外套が暖炉の柵に引っかかった。恐怖の叫び声が上がる。
「ひっ、ひっ!」
慌てて引っ張ろうとしても、柵から外れない。そうこうするうちに、外套に火が燃え移った。紅蓮の波はあっという間に絨毯に広がり、マリーもろとも屋敷を呑み込んでいった。
だが、クレイルと黒猫のステラは静かにそれを見守っているだけだ。
叫び声をあげてのたうちまわるマリーを見ると、クレイルはそっとステラを抱え、トランクを手にした。
「さぁ、私たちが行くべきところへ行こう」
クレイルは窓を開け、二階だというのに躊躇することなく足を踏み出した。その体はまるで牡丹雪のようにゆったり落ちていき、地面に舞い降りる。
彼女が屋敷の出口まで歩いてきたとき、そこに一人の老人が立っていた。白く淡い光に身を包み、その体は氷のように透けていた。
クレイルがそれに気づき、ふと笑みを漏らす。
「旦那様、待っていてくださったのですか」
ヘンリーは何も言わず、じっとクレイルの肩越しに燃えさかる屋敷を見ていた。
「私を責めないでくださいよ。あなたの望み通り、あのろくでもない親戚たちに奥様との思い出がつまった屋敷を渡さないようにはしましたからね」
すると、黒猫のステラがするりとクレイルの腕から抜けだし、ヘンリーの足下に擦り寄った。
猫の青い瞳から長年の自責の念が消えているのを見て取ると、クレイルは微笑んだ。
「あんたも旦那様と一緒に行くといい。本当はとっくに行くはずだったんだからね。奥様のところに案内してあげなさい」
十年前、クレイルは車が正面衝突をした事故現場に居合わせた。
その一台の車はヘンリーの妻とステラを乗せたもので、体調を崩したステラを連れて獣医師に診せに行くところだった。
運転手もリッジウェイ夫人も即死だった。そしてステラは出血多量で死にゆく中、通りすがりのクレイルに『旦那様を頼む』と訴えたのだった。
クレイルは見開いたままの青い目に、『ふぅん、あんたステラっていうのか』と唸った。
『あんた、名前も目の色も毛色も私とおそろいじゃないか。こいつは滅多にないことだね』
そう言うと、クレイルは血のついたステラの額を撫でた。
『これもなにかの縁かもしれないね。これから娘たちを訪ねるところだったんだが、まぁ、いい。同じ名前と色を持つ猫のよしみだ。旦那様とやらが安心して奥さんのあとを追えるようにしてやる。だから自分のせいだと責めるのはおよし。その代わり、終わったらお前の魂をもらうからね』
こうしてクレイルは報酬として受け取ることになったステラの魂を生身の体に見せかけて屋敷に戻し、自らもヘンリー・リッジウェイの屋敷に入り込んだ。
だが、結局クレイルはステラの魂をとることはしなかった。
天上に向かって寄り添って歩いて行く老人と猫を見送りながら、ステラ・クレイルは満足げに微笑む。彼女はこの十年の間に、あの老人も猫もすっかり好きになっていたのだ。
「不器用な者ほど深く愛するなんて、人も猫も厄介なものだね」
そう言うと、彼女は小さいトランクを右手に持ち、靴の踵を鳴らした。
みるみるうちにその姿から猫らしさが消えていく。最後に尻尾がするんと消えたとき、そこに立っていたのはあの老婆のステラ・クレイルではなく、薔薇色の唇をしたうら若き女性だった。
艶やかなブルネットを風になびかせ、彼女は青い目を細めて笑う。あの歌うような口調で、一人呟いた。
「さぁ、今度はどこに行こうか。この靴が連れていってくれるところへ向かおうか。私は世界を旅するケット・シー。猫の妖精は気ままなものさ」
数年前に流行した『Love is the sweetest thing』という曲を鼻歌で風に乗せ、一歩踏み出す。
その日を境にステラ・クレイルは村から姿を消した。そして二度と彼女をこの界隈で見ることはなかった。
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