第3話
案の定腑分けで胃の腑から出て来たのは海藻だった。砂もいくらか出たことから、浅瀬で顔を水に漬けて、との解釈で捜査となった。顔が変わらないうちに似顔絵をこしらえて、まずは身元捜し。廻船問屋の手代だと言うことが分かる。名前は清右ヱ門。廻船問屋なら海もそう遠くない、そうした捜査に加われない火盗改の与力である瑠璃べえは長屋で猫と戯れる日々だ。遺体が財布や印籠を持っていなかったことから賊の可能性もあるが、まだそうと分かったわけではない。川底に落ちている可能性もある。たまに代官所に行っては長谷川に指南してもらうこともあるが、他は捜査状況を聞くだけ。自分が一等に関わったはずなのになんだかのけ者気分なのは、少しつまらなかった。別に火事と喧嘩は江戸の華、なんて信じているわけじゃない。喧嘩はまだしも火事は関わったことが片手で超えるほどもあるから、迷惑千万なものだ。火消したちの活躍は確かに格好の良いものがあるが、あまり起こって欲しいものでもない。
まあ起こってしまったらやいやいと纏の舞をはやし立てるしかできないわけだが。それも大事なものは避難させてあるからだ。江戸の町は度重なる大火で痛めつけられている。だからこそ半鐘が鳴ったらすぐに床下に作った物入に大切なものはしまい込むのだ。間に合わない時を考えて端からそこを金庫代わりにしている家もある。瑠璃べえの祖母たちの家だ。手伝い人もいるが、大事なものは最初からしまっておけと常々二人の祖母には言われている。互いの娘息子の事があるからだろう。だが孫の瑠璃は可愛いし、互いに趣味も気も合う。そこに諍いがないことは。瑠璃べえにとっても、喜ばしいことだった。
「ハッ!」
「いじっ」
「はっは、剣の腕はまだまだ私にはかなわないようだな、瑠璃」
「今は瑠璃べえ! 長谷川様の腕力が強すぎんですよ、十手使って良いならその木刀、ぽきりといきますぜ」
「それは怖いな。爺に怒られる」
「爺ちゃん優しくて良い人なのに怒るんです?」
「怒るぞー怒る。今でも泣いてしまいそうになるぐらいにな」
「へええ」
一瞬十手を出そうかと思ったが、自分も巻き添えを食いそうなので止めておく瑠璃べえだった。しかしあの爺やが怒るところは見てみたい。度々火盗改と一緒に出張ってくるぐらいには市民に近い代官である長谷川だが、そんな長谷川でも泣かされるとは、どんな時なのだろう。興味は尽きないが、ここは長谷川の顔を立てて十手は胸にしまっておくことにした。と、むにょりとした違和感がある。胸だ。さらしで巻いてもやはり根本からどうこうはならない。
「なあ長谷川様。おれはおんなに見えるかい?」
「なんだ藪から棒に」
お白州に面した縁側に座ると、牡丹餅がそっと差し出される。件の爺やだ。こういう細かいことに気が利く、良い家人だと瑠璃べえは思う。馴染んでいるから瑠璃の性別の事も承知しており、気兼ねしない人の一人だ。とりあえず牡丹餅を一口で半分ほど食ってから、落ちそうになった餡をもう片手で受け止める。その手を取って、長谷川はぱくりと餡のかけらを喰ってしまう。まったくと言うほどではないが甘いものが瑠璃べえ程好きではないはずの代官にそうされてきょとん、としていると、苦笑いをされた。
「そうだな、男女の前にまだ子供だと言える」
「年が明ければ十五、元服して良い頃だぜ」
「歳の数だけが子供と大人を分けるわけではないよ、瑠璃……べえ、か、今は。いつかお前は小間物屋の若女将のお瑠璃になるんだ。その時には、立派な女振りが身についてるだろうさ」
「女振り、ねえ……」
ばくっと残り半分の牡丹餅を食って、飲み込んだところだった。
その声が響いたのは。
「通して下せえ、通して下せえ! 用があるのは代官様じゃない、うちの孫や! 通して下せえ!」
「ばーちゃん?」
母方の祖母の上方訛りにてってってっと門に向かうと、門番たちも槍を下した。よく来る客の瑠璃べえの事は、代官所の人間の殆どが知っている。瑠璃べえが来たら牡丹餅を買いに走る係があるほどだ。瑠璃、と祖母が膝をついて袴に取りすがるのを、瑠璃べえはきょとんとして見ていた。どうしたことだろう、この慌てようは。人事不詳とも言える。瑠璃が一人ぼっちになってしまった時だって、もう一人の祖母と共に任せろと言ってくれる頼もしさがあったと言うのに。
「芳ちゃんが、芳ちゃんが戻らないんだよう。例の廻船問屋に仲買と行ったっきり、戻ってこないんだ。もう丸一日にもなる。芳ちゃんに何かあったらあたし、あたしは」
「ばーちゃんたちそんなことしてたの!? なんでそんな危ない事したの! 相手は殺しをやる奴だよ、よしんばそこに犯人がいたとして、ばーちゃん一人で敵うはずないじゃないか!」
「流石はお前の祖母たちだな、だが丁度良いとも言える」
「長谷川様?」
「こちらも機会を待っていたのだ。頃合いだ、廻船問屋に踏み込むとしよう」
「お願いします! 芳ちゃんは、芳ちゃんの命ばかりは!」
「ばーちゃん、そう言うのはこういう事もうしないって証文書いて床下に埋めてから言うもんだ。長谷川様、おれは――」
「火盗改のお前の出番はないぞ、『瑠璃べえ』」
「……」
「だが。祖母を案ずる娘の出番ならあるかもなあ、『お瑠璃』?」
その時の長谷川の顔は、中々の
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