14 生物準備室:ありのままのわたし

 先に入っててくれ。

 真鍋はそう言って階段を下っていった。お昼ご飯を購買で買ってくるのだという。もともとそのために準備室から出てきたらしい。わたしもお腹が空いていたけど、お弁当も財布も教室に置いたままだ。わかりました、と応える外なく、真鍋を見送った。

 いつだったかの生徒指導室と同じで、生物準備室なる部屋に足を踏み入れるのも初めてだった。入学してまだ一年も経っていないのだから、むしろ入ったことのない部屋の方が多いくらいなんだけれど。でも生物準備室なんて、ひょっとしたら入ったことのある生徒はほとんどいないんじゃないの。それは生徒指導室もそうだけれど、こっちは前向きなレアリティな気がする。

 てっきり物置部屋みたいなものを想像していたのだけど、手狭ではあれ、室内は思いの外すっきりと整理されていた。窓がなくて薄暗いのはきっと日に当てちゃいけないものが置いてあるからだ。部屋に入った右手と正面は背の高い戸棚が壁を覆っていて、左手は壁に向かってワークデスクがふたつ並んでる。戸棚の上半分の戸はガラスがはまっていて中が見えた。とんでもない数の教科書や参考書、資料集、その他難解そうな書籍がぞろっと背表紙を並べてる。全部生物学に関連するものなのかしらん。それだけでなく、わかりやすく生物っぽい薬品漬けの鳥や魚の標本も置いてある。ちょっと気持ち悪いけど興味深くはある。あとは何かの内臓の模型とか。もはやなんの生き物のものなのかも分からない。人体模型は置いてなかった。場所取るし、他の所に置いてあるのかしら。ワークデスクは教員個人が好きに使える机なのか、積み上げられた書類や参考書の他にマグカップとか電気ケトルとか置いてあった。真鍋の他にも生物の教師がいるのだろうか、マグカップは二つあった。どっちも見るからに男もの。引き出しの中にはインスタントコーヒーでも入っていそうだ。

 どっちのデスクが真鍋のものなのかしら。そう机を見比べて気づく。回転椅子が向かい合わせに置いてある。誰かと誰かが向かい合って話し込んでいたみたいに置いてある。

 ……。

 片方に座ってみた。

 向かいの椅子は、結構近いところにあった。

 つい五分前まで、きっとここで真鍋と見知らぬ女子生徒が話していたのだろう。どんな話をしていたんだろう。文字通り膝をつき合わせて、ふたりきりで。相談事とか? 真鍋相手にそれはないかなあ。でも、あの人ならなんだかんだ真面目に聞いてくれそうではある。

 誰も見ていないのをいいことに、わかりやすく唇を尖らせてみた。

 面白くない。それが本音だ。わかりやすい本音だ。嫉妬、している。

 わたしが真鍋に抱いている感情を、恋だとか愛だとか、そういう安直な言葉で片付けたくはない。あんな、薄気味悪いくせに体面ばかり高尚さを繕った、上っ面な言葉と同じにしてくれるな。手を繋ぐだとか抱きしめるだとか、そういうことがしたいわけではない。ましてやキスやセックスをしたいわけでもない。一緒に居てほしいだけだ。そっぽを向いていても、わたしのことなんか考えていなくても、たまに声を掛けたら返事をしてくれる、そんな距離に居てほしいだけだ。でも、傍に他の誰かが居たら、真鍋はそっちばかり気にしてしまうかも知れない。わたしにはあの人の傍にいる特別な理由なんてないのだから、そのうちに真鍋はわたしのことなんかすっかり忘れてしまうかも知れない。

 それが怖い。どうやったら傍に居てくれるのだろうと考えてしまう。

 階段を軽快に上る足音がする。息を吐いて表情を入れ替える。しばらくもせずに扉が開いて、真鍋が入ってくる。片手にしているビニール袋からは購買の調理パンが透けて見えた。いっぱい入っている。体が大きいからご飯もいっぱい食べるのねえ。

「待たせたな」

「いえ」

 待ってはいなかったけど、真鍋の顔を見たらちょっと安心した。以前、生徒指導室で二人きりだったときにはあれだけ居心地が悪かったのに。

 彼は空いている方の椅子に腰掛けて、机上の資料を整理しつつその隙間にビニール袋を置く。遠慮なく足下の袖机の引き出しを開けているのを見ると、あっちが真鍋の机だったみたい。袖机からは案の定インスタントコーヒーの瓶が出てきた。電気ケトルのスイッチを入れて、真鍋はわたしを振り向く。

「枯野もコーヒーでいいか?」

「え、いや、いただけるんですか?」

「おう。コップもあるしな」

 言いながら、真鍋はインスタントコーヒーと同じ所から、断熱素材のやつなんだろう、丈夫そうな紙コップを取り出した。準備がいい、やっぱりさっきの子がこの部屋にはよく来ているのかも知れない。いやあの女子生徒ばかりが来ているとは限らないけれど。でもさっきのやりとりは親しそうな雰囲気だった。

 気づくと真鍋がこっちを見てる。

「どした、コーヒー嫌いか? 紅茶もあるぞ」

「あ、じゃあそっちで」

「なんだよ、いやならそう言えよな」

 彼は紙コップへコーヒーの粉を入れる直前だった。

 口調の割に真鍋の表情は楽しげだ。わたしもいたずらっぽく笑って返す。

 ティーバッグの紅茶をやはり袖机から取り出した真鍋は手慣れた様子で準備していく。目上の人間にあれこれとやらせているのは心苦しかったけれど口を挟む間もない。お湯が沸いて、注がれて、いい香りが部屋に漂う。あれよあれよとわたしの前に紅茶が用意された。

「ありがとうございます」

「ん。さすがに砂糖とかミルクは置いていないが」

「平気です」

 紅茶はストレートの方が好きだ。

 真鍋も自分のコーヒーに口を付けながら言う。

「堺先生もコーヒーが苦手でな。……お前は堺先生、まだ知らないか。非常勤の先生で、そっちの机の人なんだが」

「そうなんですか」

 おう、と頷くと、真鍋はそれ以上話を広げるわけでもなくマグカップを置いた。ガサガサとビニール袋からパンを取り出す。ホットドッグだ。美味しそう。

 あんまりじろじろ見ていたら真鍋も食べづらいだろうし、何よりこっちの空腹を悟られそうだし、そっと顔を逸らした。くるーっと椅子を回して戸棚をなんとなく眺める。ほんと、あの模型なんの内臓なんだろう、気になるなあ。なーんて自己暗示をしてみてもしかし……油のいい匂いがするなぁ。お腹、鳴らないといいけれど。鳴ったら恥ずかしすぎる。

 会話が途切れる。それだからと言って、わたしも真鍋も、積極的に口を開こうとはしない。無言の時間が続く。だけどそれは一緒に学校へ来るときと同じことだ。今更気まずい気持ちにもならない。真鍋が黙々と食事しているのを、ビニールの擦れる音だとか、時たま漏れる咀嚼音だとかで確認する。すぐそこに真鍋が居る。

 紅茶をすする。椅子の背もたれに体を預けるとキィと椅子が鳴った。

「枯野」

「なんですか? ……ん、先生、口にケチャップついてますよ」

「うわ、まじか」

 真鍋がティッシュで口元を拭う。丸めたティッシュを部屋の隅に置いてあったゴミ箱に放った。ナイスシュート。

 それはそうと、彼はホットドッグを食べ終わったところのようだった。

「すまんな。それで、枯野、お前は昼飯食ったのか?」

 出し抜けに真鍋はそんなことを言う。

「あー、えっと」

「食ってないな」

「あはははは」

 とっさに誤魔化す言葉が出てこないあたり、確かにわたしは嘘を吐くのが下手くそだ。普段から食べないんですよ、くらいの言い訳はできただろうに。

「教室にあるんだったら、取りに行って、また戻ってきてもいいぞ」

「いいですよ。教室一階ですし、またここまで戻ってくるの大変です。一食くらい抜いても死にはしません」

「だがなあ」

 分かっている。空腹の人間を隣に置いて自分だけ食事を取っているのは居心地が悪かろう。それを思えば真鍋の気遣いに応えて取りに行くのが正解なのだろうけれど、今は教室に行きたくない。行って、友人たちを振り切ってまたここに戻ってくるだけの体力はない。

 真鍋も事情は察していよう。何やら迷った末に、彼はわたしにメロンパンを押しつけてきた。

「それでも食え」

「え、でもこれ、先生のじゃないですか」

 会話の流れからして真鍋には他に取り得る選択肢などなかったのだから、わたしの遠慮は全く空虚だった。でもそれだからと当然と受け取れるほど図太くはない。

「いいから食え。俺は甘いのそんなに得意じゃない」

「じゃあなんで……」

 買ったんですか、とまでは続かず。なんでってそりゃ、初めから自分で食べる気なんかなかったからだろう。

 真鍋は若干わたしから顔を逸らしつつ、しかめ面でサンドイッチを取り出している。プラスチックのパックに幾つか入っているやつ。須永がよく食べている気がする。彼はそれを二つ袋から出して、これもまた片方をぎこちない仕草でこちらに滑らせる。顔はやっぱり背けたままだ。その横顔がいつになく強ばっていて、幼い子どもが見たら泣いちゃいそうなくらい怖い表情で、わたしはなんだか胸がいっぱいになって堪らずに笑いが溢れた。

 口には出来ないけれど、かわいいなあ、なんて思ったり。

「これは、甘くないですよ?」

「……。甘いの苦手かもしれないだろう」

 じろり、目だけがわたしを向く。抗議の視線。お前分かっていて言ってるだろう、とかきっとそんな感じ。

「ふふっ、ありがとうございます、真鍋先生」

「ん」

 真鍋はサンドイッチに集中する。わたしもメロンパンを袋から取り出す。なんだか落ち着かなくてパンにかぶりつきながら椅子をくるくる回した。頬が緩むのを止められない。ちょろいなあ、わたし。

 思わず軽口も出てしまうというものだ。

「なんだか今日の先生、優しい。なんかいいことあったんですか」

「は? んなもんねえよ。いつも通りだ」

「そうですね、いつも優しい。色々くれるし」

「それだと俺がお前に貢いでいるみたいじゃねえか」

「違うんですか?」

「違えよ」

 真鍋が眉根を寄せる。でも口元はきつくない。本当に怒ってるわけじゃない。それが分かるとますます笑みが口をつく。ほんと、初めからずっと優しい。それが根の性格なのだろう。表情や物言いで随分損をしている気がする。普段からもうちょっと笑うようになれば、いろんな生徒が真鍋のこと気に入るんじゃないかな。

 わたしとか、ほら、さっきの女子生徒みたいに。

 うん。分かってる。ちゃんと分かってる。真鍋は別に、わたしだから優しくしてくれているわけじゃない。彼に近づこうとする人が少ないだけで、真鍋は誰にだって同じことをする。

 それはいいことだ。それを面白くないと感じてしまうのは悪いことだ。

 分かってるのに、真鍋は期待させるようなことを言う。

「違えけど……、友達とかにはあんまり言うんじゃねえぞ。お前ばっかり贔屓してるみたいになってるのはほんとだからな」

「そうなんですか?」

「ああ」

 真鍋は苦笑いして食事に戻る。その彼の横顔を思わずまじまじと見つめてしまう。

 口にするべきか、迷ったけど。……この流れなら、不自然じゃない、かな。

「でも、先生、わたしの他にもちゃんと優しくしてるじゃないですか」

「あ? そうか?」

「ほら、さっき。女の子と一緒に居たでしょ」

「さっき? あー」

 あいつなー。と真鍋はぼんやりした返事をする。動揺されたらそれはそれでこっちも戸惑ったと思うけど、こうも反応が薄いとそれもなんだか納得いかない。それならどんな反応がいいのかと訊かれると、それもまた難問なのだけれど。

 そのままこの話題は流れてしまうのかと思いきや、彼はサンドイッチを口へ運んでいた手を止めた。両手を机に下ろして、ふと息を吐いて。どこか遠くを見るような目つきをした。

「あれはただの進路相談だよ。あいつも、もう三年生だしなぁ」

「進路相談ですか」

 ただの、と言う割には色々思うところがありそうな表情だ。

 訊きたい。けど根掘り葉掘り尋ねるのは踏み込みすぎだ。生徒指導教員なのだから進路相談くらいされるだろう。その過程で生徒とどんな関係になろうが、外野が口出しするようなことではない。わたしには関係のないこと。首を突っ込むべきでないこと。その線引きを間違えたら、きっと真鍋は困惑する。彼のそんな顔は見たくない。

 だから出かかったあれやこれやといった言葉は全部メロンパンと一緒に飲み下した。

 ところが、真鍋は手に残っていた食べかけを胃に収めてから、訥々と語り初めた。

「こういうこと、言っていいのかわからんが……。あいつは家族関係があんまりよくなくってな。聞いたことがあるかも知らんが、あいつが一年のとき、ちょっとした暴力事件の当事者になったりもして。それでもまあ、なんだかんだ卒業できそうだし、そこそこの大学にも行けるみたいだし」

「そうなんですか」

 そんな、事件を起こすような生徒がこの学校にいたのね。全く知らん。

 感慨深そうな真鍋の顔。きっとここに至るまでに色々あったのだろう。手の掛かる生徒だったのならそれだけ関わる機会も多かったのだろうし。もしかしたら真鍋があれこれ世話を焼いたのかも知れない。

「きっと真鍋先生のおかげですね」

 言ってから、皮肉みたいに聞こえたのではないかと不安になった。わたしの言葉に真鍋が困ったみたいに笑ったから余計に焦った。だけれど、どうもそういうわけではなかったみたい。

「いやそれがな。俺はなんにもできなかった。教師だし、多少の事情は知っていたし、気に掛けているつもりだったんだがな。結局あいつを救ったのは、あいつのいっこ上の先輩だったよ」

「へえ」

「教師としても、大人としても、もっと何か出来たんじゃないかなあと思うが。そううまくはいかんなあ」

 そんなことはない、と思うけれど。なにも出来なかったなら今もその女子生徒と関係が続いているわけもないだろうし。……なあんてことを思ってはみても、口にはしなかった。ガキが何偉そうなことを言っているんだ、とか思われたらやだし。

 でも、そうか「教師としても、大人としても」ね。なんだか特別な関係を勘ぐっていたのが馬鹿みたいだ。恥ずかしいくらい思春期な思考回路だな、わたしも。若宮とそう変わらん。いい大人がわたしたちみたいな高校生をそういう対象として見るわけもない。……見るわけないのだ。

 んぅ、これでもやもやするのはあれだな、やっぱり独占欲的なあれだな。結局のところ、なんやかんやと潔癖を装ってはみても、わたしは真鍋のことを。

 恋だとか愛だとか、そんな安直なものではない。……そう思いたいのは、それらの言葉にはどうしたって両親や元彼の影がちらつくからだ。元彼のときのわたしはそうだったし、両親だって始まりはきっとそうだった。だとすれば、わたしの気持ちの行き着く先は、やっぱりそこだということでしょう?

 同じ轍は踏まない、踏んでやるものか。その点、真鍋の態度はありがたかった。彼はわたしを好きにならない。わたしのことなんか、なんとも思ってない。だからわたしがどんな気持ちになってしまおうと、この距離感が近づいてしまうことはない。遠ざかることはあっても、近づくことだけは絶対にないのだ。それを思うと胸が痛くなる、その自覚はある。もっと彼の傍に行きたいというのもまた本音ではある。でも同時に、この動かしようのない関係性が何よりも得がたいものに思われるのだ。片思いの気楽さ、みたいなものなのかも知れないけれど。だけどわたしのこれは片思いと呼べるほど何を希求するものでもない……と思う。

 そもそも、真鍋だっていい歳だ。彼女とか、もしくは奥さんだっていてもおかしくないのでは? どうなんだろう。真鍋の口から、これまでそういうことをにおわせる言葉を聞いたことはない。いやまあ、生徒相手にそんなことをちらつかせる教師もなかなかいるまいが。

 それにしても、真鍋の私生活は謎だ。なんやかんやと共有する時間はそれなりにあったと思うのだが、わたしは彼のことを何も知らない。

 そしてわたしもまた、彼に何かを語った記憶がない。

「枯野はどうだ?」

 唐突に、そんな質問。なんだなんだ、なんのことだ。さっきまでの話と繋がってなくないか? 繋がってるか? あれこれごちゃごちゃ考えていたせいで何が何だか分からなくなったぞ。

「ああいや、すまん。枯野は将来の夢とか、あるのか」

「ああ……」

 そういうこと。

「えっと、ですね……」

 ない。そう答えるのは簡単だったはずだ。なんせ一昨日に友人たちと一度済ませた話題なのだから。それなのに口ごもってしまったのは、単純な見栄だった。友人たちならともかく、目の前にいるのは教師、それも生徒指導教員だ。進路の相談もされるような彼に「将来の夢はない」などとどうして言えようか。

 しかし言い淀む振りをして間をもたせたところで、何かそれらしい言葉が出てくるわけではなかった。こんなことならいっそ初めから正直なところを語ってしまった方が良かったのでは、と気づいたのはすぐ後だった。

「ん、別に言いづらいならそれでいいぞ。ただの興味本位だから」

「いや、そうじゃないんです」

 そんなふうに気遣われてはますます言い出しづらくなる。子どもっぽい見栄なんぞ張るのではなかった。

 口を噤むわたしを一瞬だけ不思議そうな目で見て、真鍋は食事に戻る。何も言いはしない。わたしが言い出すのを待ってくれているのかな、なんて、自分に都合のいい考えが過ぎった。

 紅茶をすする。メロンパンの最後のひとかけらを口に入れる。真鍋は変わらず隣にいる。

「わたし……」

 どこを見ながら話せばいいのか分からなくって、俯き加減に口を開いた。真鍋が顔をこちらへ向けたのが視界の隅に映った。

「将来の夢って、ないんですよね。変ですよね。もう高一も半分以上過ぎてて、来年の今頃は具体的に考えられてなきゃならないのに、わたし、なんにもないんです。やりたいことも、出来ることも、得意なこともないんです。友達は二人とも、しっかりした夢持ってるのに」

 こんなこと言われても困るだろうなあ、と思いながらつらつらと言葉を並べる。真鍋はどんな顔をしているのか、苦笑いとかされていたらいやだな。でもそんな表情を向けられるのがわたしには似合いか? 思わず自嘲の笑みが漏れた。ちょうどいい。かわいそうな自分を演出したいわけじゃない。笑われるくらいでちょうどいい。

 この話題にこれ以上先があるとも思えなくて、笑いながら、わたしはサンドイッチにも手を付けることにした。パックの接着をパリパリと剥がす。タマゴ、ハムレタス、ポテサラ、カツ。どれから食べようかしら。好きなのはタマゴ。これは最後に取っておこう。ポテサラからにしましょうか。

「いただきます」

 一言断ってから口をつけた。

「ん」

 真鍋が頷く。それからいくらか間があって、彼は続けた。

「俺はお前のことまだよく知らねえし、ありきたりなことしか言えねえけどさ」

「えっと、はい」

「焦ることは、ねえと思うぞ。お前だけじゃねえよ、そういうの」

「……。そうですかね」

 苦笑いを返すと、真鍋は唇をへの字に曲げた。自分で言うだけあってほんとにありきたりな言葉だ。気休めのようにすら聞こえる。けれど彼のその不満そうな顔を見ていると、不思議と肩の力が抜けて、わたしの顔に笑みが浮かぶのだった。緩んだ頬を誤魔化すためにサンドイッチを口へ詰め込む。

 焦りが消えたわけじゃない。いつかは正視しなければならないものをほんの少しだけ先延ばしにして、それで安心を得ることの愚かさはなんとなく理解しているつもりだ。だけど今この瞬間だけは、色々な不安に目を瞑らせてほしい。誰にともなくそう願った。

 それからは言葉なく、ふたりして黙々とお昼ご飯を食べた。もともと食事中に会話をすることが苦手なわたしにとって、それは心穏やかな時間だった。

 そんなつもりはなかったけれど、友人たちとの食事は、わたしもそれなりに気を遣っていたらしい。いや、それではまるで彼女たちに非があるようだ。彼女たちと一緒に居ることを苦に思っていたわけじゃない。きっとそれなりにわたし自身も楽しんでいた。

 だけど、わたしだって程々には社会性を学んできた人間なわけで。意識するとせざるとに関わらず、相手に合わせて幾らか言葉や表情、態度を変えることくらいはできるし、してしまう。「ありのままの自分」なんてものはどこにも居ない。自分本位な言い方をしてしまえば、きっとそうやって「自分」を作る中で、どれだけ気分よくいられるか、が重要なのだ。どれくらい「ありたい自分」でいられるかが大切なのだ。

 そういう意味で、友人たちと居るよりも、真鍋と居る方が気楽だった。部分的にはもしかしたら、弟といるときよりも気楽かも知れなかった。

 真鍋はわたしのことを知らない。だからどんなわたしを表現しても、それをわたしだと思ってくれる。わたしにとって都合のいいわたしを見てくれる。

 叶うならばそのわたしが、真鍋にとっても不快でないものだったらいいなとも思う。それだからといって真鍋にとって都合のいい女を演じようとまでは思わないけれど。そんなことを考え始めたら疲れてしまうし、それこそ元彼のときと同じになってしまう。

 だから、程々に、程々に。距離感は大切にしよう。不用意に近づけば接触事故は免れないし、そうでなくとも近づいた分だけ粗は目立つものだ。真鍋がそれに気づいてしまうのは怖い。

 サンドイッチを食べ終わると、折良く予鈴が鳴った。真鍋とわたしは顔を見合わせる。

 真鍋はコーヒーを片手に肩をすくめた。

「授業だな」

「はい」

「戻れそうか?」

「……はい」

 わたしの僅かな逡巡を見て取って、真鍋は表情を歪める。ぎこちなく、口早にまくし立てる。

「授業はちゃんと受けろよ。友達と距離を置きたいなら、またここに来てもいい。そういや来週から期末考査じゃねえか? 放課後とか、勉強するのにこの部屋使ってもいいぞ。あー、堺先生がいる金曜日はちょっと難しいが。そんときは生徒指導室使ってもいいしな」

 どうしてこんなにも必死そうなのか。内心ちょっぴりドキドキしつつも、表面上は申し訳なさそうに笑っておいて、「ありがとうございます」と頭を下げる。彼なりの理由があっての言動なのだろうけれど、青臭いほどの恋愛脳なわたしからすれば、まるで「一緒に居たい」と言われているように聞こえてしまう。違うぞ、違うからな。しつこいくらいにそうやって自分を戒めて、だけどそんなことをすれば余計に真鍋を意識してしまって、どぎまぎしている自分は醜いくらいに滑稽で、膨れ上がる自尊心は叩き潰してしまいたいほど気味が悪い。

 ぐるぐると渦巻いて持て余した感情は向けるべき矛先が分からないから、ひとまず保留。無視だ無視。なんにせよ今は教室へ戻らざるを得ない。ルーティーンを逸脱するのは苦手なのだ。立ち上がって、パンの包みやらをまとめてゴミ箱へ突っ込んで、真鍋へ向き直った。彼は彼で、次の授業の用意を始めていた。

 何を言おうか迷ったけど、別れ際っていうのはどういうわけか妙な勇気が湧くものだ。

「ありがとうございました。放課後、また来てもいいですか?」

 そんなことをつい口走った。

 真鍋は虚を突かれたみたいな顔を一瞬だけ浮かべたけど、それもすぐに下手くそな笑顔に変わる。

「ん、構わん。勉強道具はちゃんと持って来いよ」

「はーい」

 わたしの雑な返事と、真鍋の「しかたねえなあ」みたいな苦笑い。何度か繰り返した気のするやりとりを済ませて、わたしは気分よく生物準備室を辞した。

 廊下はひんやりと冷たくて、相変わらず喧噪はどこか遠くから聞こえていて、足音がいやに大きく響く。早足に階段を下ってゆく。

 ちょっとした幸福感に浸る暇もなく、教室までの道すがら、先送りにしていた現実という名の不安が忍び寄ってきた。明りに乏しい廊下を歩きながら、意識して大きく深呼吸をする。大丈夫、若宮や須永と会話ができなくても死ぬわけじゃない。彼女たちがわたしをどんなふうに思っていようと、わたしはひとりぼっちでも教室にいられる。放課後には真鍋に会える。

 そうやって気を紛らわせるうち、ふと先までの真鍋とのお喋りを反芻して、なんて浮かれたことを話していたのだろうと思った。真鍋がわたしを好いているかも知れないなんて、想像するだけでも馬鹿馬鹿しいじゃないか。彼はちゃんと生徒と一線を引いてものを考えている。「教師として、大人として」、何かしてやれないかと生徒の身を案じている。それなのにわたしと来たら、放課後にまた来てもいいか、なんていう図々しい申し出をして。彼の良心に乗っかって、自分の承認欲求を満たそうとして。

 なんて余計なことを言ってしまったのだろうと後悔した。わたしの内心を見透かされていたら、と想像すると呼吸がおかしくなるくらい恥ずかしかった。急に放課後の予定が恐ろしく感じられ始めた。

 指を噛む。やり場のない感情への対処法は、押さえ込む以外に知らなかった。

 教室に戻ると、若宮も須永も、もうそれぞれの席に戻っていて。

 拍子抜けするくらいに何もなく、彼女たちとは視線も合わせることもなく放課後になって。

 ……真鍋には会わないまま、わたしは逃げ出すように家路についた。

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