13 女子トイレ:ひとりでうだうだと悩む

 ……教室に戻りたくない。

 ひとりトイレの個室に座り込んで、誰にも聞こえないように溜息を吐いた。

 誰にも聞こえないように、なんて配慮はそんなに意味はないけれど。余程大きな声を出さない限り誰かに聞こえることもあるまい。

 もとより生徒がほとんど居ない、特別教室や職員室が集まる北校舎。その中でも四階の西側は、文化祭など行事でしか使わない備品を置いた物置部屋とそれに類する部屋が集まっていて、それこそ行事でもない限り生徒はおろか教員ですらほとんど来ない場所だ。そこにある女子トイレで多少声を上げたところで、誰が耳に留めるだろうか。

 ここはお昼休みの喧噪すら遠く、心が安らぐ。同時に、きっとそんなことはないのだろうけれど、わたしだけが知っている穴場のような気がしてわくわくする。現実に隙間が空いているみたい。

 ここにいる間は、嫌なことがあってももやもやした気持ちが少しだけ軽くなるようだった。

 息苦しかった土曜日は、嘲笑と嫌悪の日曜日を連れてきた。両親が夫婦水入らずで外出するとかいう滑稽なイベントがあったのだ。わたしも伊織ももはや笑うしかなかった。

 そんな休日を乗り越えて。ほんの少しの居心地悪さを感じながらも、須永や若宮と笑い合える月曜日がやってきたのに。

 お昼休みになって一つ先輩の男子生徒に呼び出しを受けた。その時点で、わたしの平穏は脆くも崩れ去った。野球部に所属しているらしいその先輩は、同じ部活の後輩でありわたしのクラスメイトでもある男子生徒をメッセンジャーに、ひとけのない裏庭にわたしを誘ったのである。

 こう言っては多方面に反感を買いそうだけれど、正直、ちょっと迷惑だと思ってしまった。クラスメイトくんはその話をおおっぴらにはせず、わたしのもとへこっそりと言いに来てくれた。でもそれだって、いつも一緒に居る若宮や須永には知れてしまうのだ。須永は慮るような目をわたしに向けただけだったけれど、若宮はわかりやすく反応した。

 すごいね、とか。枯野ちゃんやっぱモテモテだね、とか。

 さすがに大声出してクラスメイトくんの配慮をぶち壊すことはしなかったけれど、彼女はあれこれとわたしを羨むような言葉を口にする。

 その態度に少しだけ、ほんの少しだけむかついた。

 わたしより余程色々なものを持っているお前が、わたしを羨むなよ、と思った。

 いっそ枯野悠宇は男を誘惑することしか出来ないやつだと皮肉を言われているのではないかとすら疑った。

 気を抜くと若宮を睨みつけてしまいそうで、わたしはまだ近くに居たクラスメイトくんへ顔を向ける。

「ごめん、わたし、いけないよ」

 面と向かって断るのは、疲れる。

「えっ、なんで!」

 そう過剰に反応するのは若宮だ。うるさい、お前には言っていない。

 クラスメイトくんは困ったように笑って、ひとつ頷いた。「わかった」とだけ言って踵を返す。友人たちのもとへは戻らずそっと教室を出て行ったのは、多分、件の先輩へわたしの返事を伝えに行ったのだろう。

 わたしの隣で同じように彼を見送っていた若宮が、ぽつりと漏らす。

「ちょっと、かわいそう」

「っ……」

 思わず彼女を振り向いていた。若宮もはっとこちらを見た。わたしは今、どんな顔をしている?

「ごめん、そういうつもりじゃ……」

「いや、いい。わたしが悪いのはほんとだから」

「違うって、わたしそんなこと言ってないよ」

「それは、嘘でしょう?」

 しまった、言葉尻がきつくなった。若宮の顔が青ざめる。舌打ちでもしたい気分だったけどそれはさすがに控えて、若宮から視線を切る。横目に須永が仲裁に入ろうとするのが見えた。それすら鬱陶しく思われて、大げさに溜息を吐いて牽制する。

 だめだ。

「ちょっと、頭冷やしてくる」

 席を立つ。今この子たちに何を言われても嫌味にしか聞こえないに違いない。

「あ、おい、昼飯は」

「あとで食べるよ」

 目も合わせず須永に答えて、わたしは早足に教室を出た。

 ――そして管理棟の四階まではるばるやってきた、というわけである。

 うぅ……。完全にわたしの八つ当たりだよなあ。やっちまった。自制が利かなかった。今頃若宮は途方に暮れているかも知れない。どうしよう、と須永へ泣きそうな顔で相談していることだろう。……いや案外なんとも思っていないかも? ともすればわたしがいなくなって清々したといい笑顔を浮かべているかも知れない。そうじゃなければ日頃言えていないわたしへの文句をグチグチと須永へこぼしていたり。須永もそれに同調して頷いて。わたしが教室に戻ったとき、そこにわたしの居場所なんかなくなっていたりして。そもそもわたしたちは三人揃っている必要なんかなくて、習慣と惰性で行動を共にしているだけで、きっかけさえあれば離れたって誰も損しないのではなかろうか。

 分かってる。動揺して、被害的になっているだけ。きっとこんな想像は間違っている。須永も若宮も、そんなに薄情なやつらでは、きっとない。

 でも、わたしは居ても居なくても同じなのではないか、という思いは拭えない。考えれば考えるほど、もともとあの輪の中にわたしの居場所なんかなかったように思えてくる。女の子らしさに憧れる須永は、若宮やその姉にアドバイスを貰えばいい。恋をしたいという若宮は、経験豊富な須永に指南を仰げばいい。じゃあわたしは? わたしは彼女たちから何を受け取って、何を渡せばいいの。なんにも持っていないわたしは。わたしはいつもふたりの話を聞くともなしに聞いているだけ。たまあにやることと言えば、彼女たちの間に割って入って、自分の話したいことをべらべら話すくらいだ。それも、自己満足を得たいがためだけに。自己満足を得られているなら一緒に居る意味はあるかじゃないか、とも思うけれど、それはべつに、あの子たちといなければ得られないもの、というわけじゃない。「誰か」が居ればいいのであって、「若宮と須永」である必要はない。それなのに彼女たちと一緒に居るのは違うだろう。それどころか今みたいに場の空気を悪くするのでは、まるで申し訳が立たない。

 それならば、たとえあのふたりが何を思っていなくても、わたしは彼女たちから距離を置くべきではないだろうか。こんなことになったのは、いいきっかけなのではないだろうか。

 ひとりぼっちになるのは寂しいと思う。でもひとりぼっちが寂しいから、というのは誰かと一緒に居るべき理由とは思われない。誰でもよかったけどあなたが傍にいてくれて嬉しい、なんて思いたくないし、そう思うような人間は絶対に好きになれない。

 それに、ひとりになると少しだけ安心するのだ。若宮たちと一緒に居ると、どうしたって自分と彼女たちとを比べてしまう。わたしには足りないものばっかりだし、よしんば彼女たちより優るところを見つけたって、その瞬間は悦に浸れても、あとから惨めな気持ちになる。そうやって悶々とするくらいならいっそ独りでいた方が気楽というもの。

 やっぱりわたしは社会不適合者か。自嘲の笑みが漏れる。でもすぐに自嘲している自分すら馬鹿らしくて溜息が出た。ふと冷静になる。そうなると突然、寂しさが膨れ上がる。それに同調して、怖さもまた大きくなる。教室に戻りたくない。でもひとりは寂しい。

 人差し指の背の皮膚を噛む。人前では控えている癖。噛み跡が赤黒く残るくらいにぎりぎりと歯を立てる。血が出るほど力を入れられはしないけれど、じんわり広がる痛みは頭の中をすっきりとさせてくれる。口を離して、指に残った歯形を見ているのもちょっとした快感だった。ほ、と息を吐けば肩に入っていた余計な力も抜けてくれる。

 どうしよう。まだ昼休みは始まったばかり。授業をばっくれるような度胸はないから五限には教室に戻ろうと思う。しかしそれまでどこで時間を潰そうか。勢いに任せて教室を出てきたのは失敗だった。伊織が作ってくれたお弁当が恋しい。

 トイレに籠もっていても、と思って個室を出た。手を洗ってからトイレの出入り口の開き戸へ手を掛ける。ドアノブをひねったところで、向こう側から引き戸がガラガラと開く音が聞こえてきた。とっさに一歩後ずさる。

「センセ、ありがと」

 ドア越しに聞こえる、知らない女子生徒の声。

「おう。お前ならなんとかなるだろ」

 それに応える、男の声。こっちは知ってる。真鍋の声だ。いつになく柔らかい彼の声だ。

 ぱたぱたと前の廊下を足音が横切っていった。女子生徒がどこかへ行ったらしい。それからまた引き戸の動く音がして、真鍋の気配もそれっきりだった。立ち去ったわけではない。もともと女子生徒を含めてどこかの部屋にいて、真鍋だけがその部屋に戻ったみたいだ。

 なんとなく不純な臭いがした。また、指を噛む。一度深呼吸をしてからトイレを出た。わたしには関係のないこと。生徒と教師がどんな関係だろうと知らないこと。

 真鍋たちがどの部屋にいたのか、廊下に出て周りを見てみた。物置部屋ばかりだと思っていたけれど、その一角に生物準備室があった。なるほど、あるいみ物置部屋には違いあるまい。こんな人気のないところに真鍋は幼気な女子生徒を連れ込んでいたわけね。わたしの知っているヤツの様子からはまるで想像ができなかったけど、まあ、わたしは彼の何を知っているわけでもない。

 真鍋に居合わせても気まずい。だからどこかへさっさと移動してしまおうと思った。なのに、豈図らんや真鍋がすぐに生物準備室を出てこようとは。

 がらり、戸が開く。

「あ」

「ん?」

「あはは、どうも」

「枯野じゃねえか。どうしたんだ、こんなところに居るなんて」

 答えようもなく、あははは、と重ねて笑い誤魔化した。

 さっきのことで真鍋も動揺するかな、と思ったけどそんなことはなかった。不思議そうにこちらを窺っているだけ。女子生徒と二人きりでなにをやっていたんですか、なんて聞けないし。気にならないと言えば嘘になるけど、踏み込めるほど彼と何があるわけじゃない。

 踵を返す直前で口にした「失礼します」という言葉はいやに他人行儀な響きだった。

「ああおい、ちょっと待て」

 ところが真鍋がこれを引き留める。数歩わたしへ寄ってくる。

「何かあったのか?」

 彼の口からそんな言葉が続く。

 唇を噛んだ。気にしてくれて嬉しい、でも気にされるような表情をしていたのかも知れない自分は醜い。息を止めて、明るい表情に見えるように眉を上げて、それから体ごと振り返った。ちゃんと笑えていたと思う。

「なんにもないですよ」

「……」

 それなのに真鍋はすっと目を細めて、まるで怒ったみたいに口を噤んで。

 ほんの数瞬目を逸らしたのは何を思っていたからなのか。すぐに顔を上げて言った。その顔は、なぜだか少し、緊張しているように見えた。

「お前、やっぱり嘘が下手くそだなあ」

 苦笑いと共にそんなことを言う。

「そんな、こと……」

 今度はわたしが口を噤む。笑顔が崩れそうで唇を噛んだ。そんなことをしたら結局笑顔なんか保てないと気づいたのはそのすぐ後だった。いたたまれなくなって顔を背ける。

 真鍋は僅かの間を開けて、口を開く。

「俺には言いづらいことか?」

「それ、は」

 その言い方はずるい。柄にもなく優しい声色なのもずるい。不覚にも鼻の奥がツンとしてくる。べつに泣くほどじゃないけど、でも、多分、傍から見たら目が潤んでいたんじゃないかと思う。真鍋に見られたくなくて俯く。ちゃんと隠せたかどうかは知らない。

 何も答えられずにいたら、真鍋が「あー」と声を出した。わたしが困らせているのは分かっている。でもどうしろというのだ。今更誤魔化しようもないだろうけど、だからって、彼に話すようなことでもないし。そもそも誰に話すようなことでもない。ただ、わたしがどうしようもないやつ、というだけ。こみ上げてくるどろっとした熱を散らしたくてゆっくり息を吐くと、なぜだか口が引きつれて笑みがこぼれた。俯いたまま真鍋へ目を向ける。口を開けば、自然と言葉が出てきた。遠くから響いてるような、自分のじゃないみたいな声だった。

「ちょっと、教室に戻りづらくて。ああいや、大したことはないんですよ。でもちょっと、どうやって時間潰そうかなって、うろうろしてたんです」

「……そうか」

 真鍋がいくらか躊躇ってからひとつ頷く。他に色々言いたかったのかも知れない、まあ教員としては気にせざるを得ない案件だろう。だからといって安易に踏み込まないのは、きっと彼が大人だからだし、わたしが子どもだからだ。

 真鍋の難しそうにしてる顔を見たら、どうしてか一息つけた。ため込んでたこと、ちょっとだけでも口に出来たからかも知れない。話せれば誰が相手であれ楽になれたのだろうか、と自問。そうじゃないと願いたい、という曖昧な自答だけが返ってくる。こいつに聞いてもらえたから、というよりは、そもそもこいつじゃなかったら話していなかったんじゃないかな。これも、そう思いたいってだけだけど。

 力が抜けたおかげか、なんだか妙に笑えてきた。何をやっているのだろう、わたしは。友人に八つ当たりして、傷つけたのはわたしなのに勝手に傷ついて、トイレに引きこもって。挙げ句に居合わせただけの教師へ泣きついている。悲劇を気取る馬鹿な女の見本みたいだ。さっきまでの息苦しさなんか全部演技だったんじゃないかとすら思えてきた。自分を騙すための演技、自分に酔いしれるための演技。ほんとはひとつも傷ついてなんかいなくて、苦しくなんかなくて、でもそんな自分は薄っぺらくて目を背けたかったのだ。

「ありがとうございます、真鍋先生」

 こんなわたしの自己陶酔に付き合ってくれて。おかげで自尊心が満たされた。

「は?」

 もちろん真鍋からしたら脈絡のないお礼だろうけれど、あれこれと説明するのは恥ずかしい。にやり、と今度はそれと分かるような作り笑いで返した。伊織にすら心配を掛けるから見せたくないわたしのどうしようもない一面。それを見られたけど、真鍋ならまあいいかと思えた。はじめっからガキみたいに号泣する姿を見せていたからかも知れない。

 わたしの言葉をどう受け取ったのか、真鍋は変わらず難しそうな表情でぼそっと言った。

「時間潰したいなら、そこにいてもいいぞ」

 言いながら肩越しに指差すのは、彼が今しがた出てきた生物準備室だ。

 腕時計を確認する。五限が始まるにはまだ三十分はある。ひとりで校舎内を徘徊するには、些か時間がありすぎる。

「いいんですか?」

「ダメだったら言わねえよ」

 それもそうか。

 考えたのも一瞬のこと、わたしはその厚意に甘えることにした。ありがとうございます。小さく頭を下げる。真鍋は軽く頷いて答えただけだった。ぶっきらぼうな彼のそんな態度が、堪らなく嬉しかった。

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