12 喫茶店:将来のこと
恐る恐る、木製のドアを開ける。カロンカロンとドアベルが鳴った。
スマホの地図アプリを見つつ辿り着いた「喫茶店・うみ」。寂れた商店街の一角にある、こぢんまりした喫茶店。スマホを鞄にしまいながら店内に這入れば、寒風に冷えたほっぺが暖められてチクチク痛んだ。暖房が効いている。思わずほうっと息を吐く。ずり落ちそうになった鞄を肩に掛け直して店内を窺った。
床や腰壁、天井は燻してあるみたいな黒っぽい木材。壁の上の方は対照的に白い。控えめの採光と照明、天井でくるくる回ってるファン、天井の角にあるスピーカーから流れるジャズバラード。どれをとってもステレオタイプな喫茶店といった雰囲気。鼻をくすぐるコーヒーの香りも心地いい。不思議と笑みが浮かんだ。いいお店な気がした。
ちょっと違和感だったのが、壁に掛けられた何枚かの絵だ。なんの絵なのだろう。白壁に挟まれた狭くも明るい路地裏だったり、黄昏れる女性の横顔だったり、あるいはこの喫茶店の風景だったり。水彩で淡く丁寧に描かれた上手な絵だったけど、いまいち統一感がないし店の雰囲気にも合ってない。店主さんの趣味なのかしら。
客入りは五分。カウンターに社会人ふうのカップル、テーブルには老夫婦とママ友っぽい三人組、女子学生の二人組、そしてわたしの待ち合わせ相手。
ファミレスみたいに店員さんが席を案内するわけではないみたい。そもそも店員らしき人影が見当たらないし。カウンターの向こうはもぬけの殻だ。暖簾が掛かった戸口があるから、その奥に居るのかしら。ちょっと迷ってから、足音を立てないようにそろりそろりと奥の壁際に向かった。店内は静まりかえっているというわけでもないけど、むしろそこにいるママ友さんたちはわちゃわちゃうるさいくらいだけど、こういうお店だといやに足音が響く気がするのってなんでだろう。
「須永。お待たせ」
「ん、来たか、悠宇」
テーブルの上でスマホをぴこぴこしてた須永が顔を上げる。画面を消して机の脇に追いやる。彼女へ片手を振って、向かい側の椅子に座った。上着を背もたれに掛ける。須永の前にはもうカップが置いてあった。湯気を立てるその中身、色からしてブラックコーヒーを彼女はひとくちすする。とっさに腕時計を確認する。待ち合わせの時間には間に合ってるけど、ひょっとしたら待たせちゃったのかしら。
すると須永が苦笑いを浮かべる。ちょっと肩をすくめて言うことには、
「いやなに、押し売りみたいなことする悪徳店員がいてな……」
とのこと。
まさかそれを聞きつけたわけではあるまいに、目の端に派手な動きがあった。とっさに目でそれを追うと、カウンター向こうに掛かっている暖簾が奥から押しのけられて、翻って、人影が姿を現したところだった。
そこにあったのは女の子の姿だ。白シャツにベスト、スラックスに黒靴、蝶ネクタイなんか結んじゃって。髪は珍しくも後ろで一つにまとめてる。
「あれ? いらっしゃいませー」
極めつけにこの、聞き慣れないよそ行きの声色。思わず笑ってしまう。すると彼女はむっと唇を尖らせて、でも伸びた背筋は崩さずにこちらへ歩いてくる。ぴったりした服だから、スタイルの良さと姿勢の良さとが際立って見えた。かっこいいな、というのが素直な感想。
このいかにもウェイター然とした姿の女の子は、他に誰あろう、若宮透さんだ。引っ込み思案なこのわたしが、来たことのない喫茶店に勇んで足を運んだのは、彼女の働く姿を見るためだった。冷やかしに来たとも言う。
「むぅ、枯野ちゃんも笑う。君たちはわたしをいじめに来たのかー」
ということは須永にも笑われたのか。
「ごめんって。よく似合ってる、かっこいいよ」
「ほんとぉ? 嘘っぽい」
「ほんとだって」
若宮はじぃっと訝しげな視線をわたしに向けてから、一転、ころっとかわいらしくはにかんだ。頭の後ろでぷらぷら揺れてる髪にさっと手櫛を入れる。へへへ、とわざとらしく声を出して彼女は笑った。恥ずかしがってる。かわいい。
「ありがと。はい、そしたら注文ね、注文。おすすめはこれだよ、これ」
言いながら、態度の悪い店員はテーブルの端に立て掛けられたメニューを引っ張り出した。わたしの前に広げて一点を指差す。そこには簡単に『ブレンド「うみ」』とだけ書かれていた。画用紙みたいな質感の紙を縦に一度折りたたんだだけの実に簡素なメニュー表で、コーヒーや紅茶といったドリンクメニューは一個も写真が載っていない。精々が末尾にデザートメニューの集合写真がある程度だ。これで飲み物を選ぶのもなかなか勇気の要りそうなもので、さらにはコーヒーひとつとっても「うみ」の他に「りく」と「そら」がある。いったいどう違うのだ。
とはいえコーヒーの味の善し悪しが分かるほど何を知ってるわけじゃない。こう違うんだよ! とか力説されても愛想笑いを返すのが関の山。須永へちらりと視線を向ければ、彼女は片手にしていたカップを小さく掲げた。たぶん同じものなんだろう。
わたしは頷いて返した。
「じゃあ、それで」
「はーい、かしこまりました。デザートはどうする? マスターの娘さんが作ってるの。おいしいよ」
「へえ……」
考えるように頷きつつもつい助けを求めて須永へ視線をやってしまう。喫茶店なんてそうそう来ることもない。店員は良く見知った友人だけど、わたしは緊張しているのかも知れなかった。
「わたしもまだ注文していないんだ。早くに来ちゃったからな。悠宇を待ってからにしようと思って」
「そうなの? じゃあ……。店員さん、デザートはどれがおすすめですか」
問えば、若宮が「んー」とメニュー表へ視線を落とした。パンケーキとかショートケーキとかクレープとか、洋菓子が並んでる。シュークリームが美味しそうかも?
「あ、これ好き。かぼちゃプリン」
若宮は写真の中央付近を指差す。ショートケーキみたいに扇形に切られた、黄色とも橙色とも言える暖かい色味のそれ。ホイップクリームがちょこんとのっていてかわいらしい。カボチャのケーキじゃなくてプリンだというのもなんだかいい。シュークリームも捨てがたかったけど、若宮がおすすめだと言うのならそれにしようじゃないか。
須永も頷く。ふたりともかぼちゃプリンにすることに。
「かしこまりました。ちょっと待っててね」
ぺこりと頭を下げて若宮は踵を返す。
普段の元気な若宮もいいけど、こうしてぴしっとした彼女もまたいい。ギャップ萌えとでも言うのか。大概のことを器用にこなす若宮は、接客も立派にやってのけているみたい。他の客にも声を掛けられて、笑顔で対応していた。
カウンターに入った若宮はそのまま暖簾の奥に消えた。
「店主を呼びに行ったんだろ」
若宮が消えた先を見ていたら、須永が言った。
彼女の言うことには、このお店の二階は店主の自宅になっているらしい。ついさっき、わたしがここを訪れる直前に店主は自宅へ引っ込んでいったのだという。コーヒーを淹れるのは店主だから、当然、注文が入ったら彼(彼女?)は仕事をしなければならない。
ほどなくして若宮が戻ってきた。彼女に遅れて四十がらみと思われる男性も出てくる。この男性が店主なのだろう。若宮に困り顔で「ありがとう」と口にする仕草や物腰は柔らかい。痩せ気味だったけど飲食店をやるだけあって清潔感はあった。端々からいい人感がにじみ出てる。
カウンターに入る彼にさらに続いて、こちらもお初に見る女性が出てきた。動きやすそうなパンツルックにコートを羽織る、短髪の女性。しゃんとした姿勢や押しの強そうな目元はやり手のOLを思わせた。ただ、歳はそんなにいってなさそう。わたしたちよりもちょっと上かな、くらい。さっき、娘さんが居るみたいな話が上がっていたし、彼女がそうなのかも知れない。
若宮は彼女ともなにやらお喋りをしてる。軽口を叩いているのか女性がケラケラ笑う。そんな様子を眺めていれば、向こうもわたしたちの視線に気づいたらしかった。ふとした瞬間に目が合っちゃって、お互いに小さく目礼だけする。若宮に一言、注文かもよ? と言うその声ははっきりと聞こえた。若宮はわたしたちが注文を終えていることを知っているし、ただ興味で女性のことを見ていたことも予想がついただろうから、わたしたちのことを簡単に説明したみたいだった。女性はまた笑いながらこっちを見て、若宮が止めるのも構わずすったかわたしたちに寄ってくる。見るからに人見知りしなさそうな、気のいいお姉ちゃんって感じの人。わたしは思わず身構えてしまう。ああいう人は、いい人なのは分かるけど苦手だ。
「こんちわっ」
小型犬みたいな元気の良さとなつっこい笑顔で女性が言った。
わたしと須永がぎこちなく応えれば、何が面白いのかけたけた笑って、後ろの若宮を振り返る。
「みやちゃん、紹介してよ」
みやちゃん。若宮ちゃん、か。なんでそこを取ったんだろう……。
「もう。急ですよ宇美ちゃん先輩。ごめんねふたりとも」
「いや、構わないよ」
「うん、平気」
内心あんまり平気じゃないけど。でもそう言うしかないじゃない。
ほら、こう言ってるし、と宇美ちゃん先輩とやらは得意げに言って若宮に催促している。尊大な態度、というよりは些事を気にしないあっけらかんとした性格なんだろう。気持ちのいい気質だ。羨ましい。
仕方ないなあなんて女性に前置きしてから若宮はこっちを見た。困り笑いを浮かべてる。こんな彼女も珍しい。
「この変なテンションの人は戸川宇美先輩。亜祭高校の出身だから先輩って呼んでるけど、今専門生だから直接の先輩じゃないよ。えっと、一年生でしたっけ」
「そそ。君たちに押し出されてところてんのごとくうちは卒業をいたしました。今はお菓子作りの勉強してんのよ。よろしく、宇美です」
変なテンション、とか言われても気にせず宇美先輩は片手を振る。わたしたちは小さく頭を下げる。
「かたいっ。まあいっか。それで、みやちゃんのお友だちの名前を教えておくれ」
「須永ちゃんと、枯野ちゃんです」
「須永涼です。よろしくお願いします」
「……枯野悠宇です」
若宮の友人のようだし悪い人でもなさそうだけど、名前を言うのはちょっと怖い。
「涼ちゃんと悠宇ちゃん。よろしくー」
宇美先輩は人のよい笑みを浮かべる。嘘っぽくないのがかえって嘘っぽい。考えすぎなんだろうけど。思わず彼女から目を逸らした。
わたしがビクビクしている隣で、須永はもう宇美先輩のことをまるっと信じちゃったみたい。
「ここのケーキも宇美先輩が作ってるって聞きました。すごいっすね!」
なあんて、目をキラキラさせて感心している。この子、料理とかするのかしら。男の子みたいな言葉遣いだからかそのへん不調法なイメージがある。とはいえ須永の趣味は妙に女の子っぽいし、家でこっそり作ってるのかも知れない。彼氏は須永の手料理を食べたことがあるのかしらん。
宇美先輩はこの疑うことを知らない少女を気に入ったようだった。両手を腰に当ててえっへんと胸を張る。
「すごいっしょ。是非堪能していっておくれ。まだ勉強中の身だけどね」
「はいっ」
わたしも、彼女たちの話にのってるみたいに横で曖昧に笑っておいた。宇美先輩の台詞を胡散臭く思っているわけじゃなかったけど、自分に自信のある台詞を冗談でも言える人には理由なく嫌悪感を覚える。あるいは嫉妬なのかも知れない。わたしにもあんなふうに言える何かがあればよかったのに。
まだ口を開きたそうな宇美先輩だったけれど、そのとき店の奥からから声が掛かった。
「宇美、遅刻するぞ」
店主……つまり宇美先輩の父親だ。先輩は腕時計を確認して、表情にちょっとした焦りを浮かべる。店主を振り返る。
「うえっ、わっかりましたよパパさん」こっちをもう一度見て、「ごめん、うち行くわ。ゆっくりしてって」
早口にそう言い残して、いつも慌ただしいわねえなんてママ友さんたちに言われながら、宇美先輩は店を出て行った。ドアを勢いよく開けるものだから、ドアベルがガランガランと大きな音を立てる。通りに面したガラスの向こうで颯爽と彼女は駆けていく。土曜日だというのに専門学生というものは授業があるようだ。大学生でも同じかしらん。わたしも三年後にはあんな生活を送っているのかね。
ぽつり、須永が呟く。
「すごい先輩だな」
それに答えたのは店主だった。
「うちの娘が、申し訳ない」
いつの間にか至近に迫っている。わたしたち三人ともぎょっとしてそちらを振り向いてしまったけれど、なんのことはない、彼はコーヒーを持ってきてくれたのだった。驚いてしまって、こちらこそ申し訳ない。
店主が片手に持つ盆にはカップが二つ乗っていた。わたしが注文したものと、もう一つは……?
「若宮くんも、お喋りしていていいよ。お客さん来たら対応はお願いしたいけれど。ケーキも好きなのひとつ持ってきていいし」
「いいんですかマスターっ。優しいっ」
なんと気のいい店主だろう。さっそく若宮が暖簾の奥へ駆けていった。その背中を困ったような笑いで見つめて、ちらりとこちらにも顔を向ける。「ゆっくりしていって」と会釈して彼はカウンターへ戻っていった。なんとなく店主の気持ちが分かる気がした。宇美先輩と若宮は似てる。娘を見るような気分になるのだろう。
程なくして、若宮がケーキを運んできた。かぼちゃプリンが三つ。音を立てないように皿をテーブルへ置く仕草は堂に入っている。お待たせしました、なんてよそ行きの笑顔を向けられては笑うしかない。若宮も笑われると分かってやっていたのだろう、今度はいたずらっぽく笑い返すだけだった。それから彼女は椅子を引いて座る。デザートを置くのとは打って変わってぎこちない動作。そわそわとお尻をずらす。
「なんか変な感じ」
「いつも店員だもんな」
須永が応える。言いながら彼女が小さく手を合わせるから、わたしと若宮もそれに続いた。友人ふたりはフォークを取る。わたしはコーヒーにミルクを垂らす。
「そう。初めてかも、ここでお客さんになるの」
「好きだったからここでバイト始めたんじゃないのか?」
「んーん。うちのクラスに明ちゃんっているでしょ?」
彼女たちの話を聞きながらコーヒーカップを傾ける。……あ、美味しい。インスタントと香りが全然違う。インスタントと比べるのは失礼か。でもほんとに美味しい。なんというか、ほわっとする。思わず溜息が溢れてしまうくらい。体から力が抜けて、背もたれに身を預けた。
わたしの様子に須永がにやりと笑った。わかりやすいやつだ、とか思ったのかな。見られていると思わなかったから恥ずかしい。だけど須永だってそう変わらない。若宮の言葉に頷きながら、小さく切り分けたかぼちゃプリンにぱくついた直後の彼女の顔。目がきらきらと輝き、口の端っこが緩んでいくではないか。
「……んまっ。すげえうまいな、これ」
口調はこんなだけどやっぱりちゃんと女の子だなあ、なんて思ったりして。
「でしょっ。宇美ちゃん先輩上手なんだよ!」
興奮した口ぶりで若宮が頷く。自分もぱくりと頬張って、声にならない声を上げる。足をパタパタさせて全身で美味しさを表現していた。自分で勧めただけある。
ふたりして大げさだろうと思いつつ、そこまでされては気にならないわけもない。わたしもかぼちゃプリンをいただくことに。ちょうど友人たちは束の間の幸福感から抜け出したところだったらしく、自然、彼女たちの視線がこちらを向いた。そんなふうに見つめられては食べづらいことこの上ない。プリンを切ったところで手を止めて、若宮に視線をやった。
「それで? その……梁瀬さんがどうしたの」
明ちゃん、なんて呼ぶような仲でもない。件の梁瀬明というのはうちのクラスにおける所謂ところの不思議ちゃん枠で、表情あんまりないくせに妙に身振り手振りの大きい女の子だ。ほとんど話したこともないからどういう子なのかは知らない。今回の話でも別段重要ではないだろう。
そうそう、と若宮がフォークを振る。
「明ちゃんね、お兄ちゃんがいるらしいんだけど。そのお兄ちゃんと宇美ちゃん先輩が友達なんだって。それで、宇美ちゃん先輩の専門学校が忙しくなる前にひとりバイトを探そうって、わたしにお話が回ってきたの」
んん? つまり、若宮の友達の兄の友達の父親がやっているお店、というわけか? なんというかまあ、
「ずいぶん薄い繋がりだな」
須永がわたしの気持ちも代弁してくれた。わたしもプリンを口に突っ込みながら追従して頷く。あ、ほんとだ美味しい。かぼちゃの優しい甘みがなんとも言えない。いやしかし、他にも候補はなかったのだろうか。宇美先輩もああいう性格なら交友関係が広そうなものだけれど。
すると若宮が唇を尖らせる。
「そうかも知れないけど。いいの。こういうのは縁だよ」
「そういうもんかね」
「そういうものなの。おかげで宇美ちゃん先輩とは仲良くなれたし。お菓子作り教えてもらえるし」
「お、そうなのか? いいなあ、わたしにも教えてくれよ」
なに、彼氏に作ってあげるの? そうだよ悪いかよ。きゃあ、須永ちゃんかわいい! とかなんとか。目の前で実に女の子らしい会話が繰り広げられている中、わたしは黙々とプリンを口に運んでいた。だって美味しいし。なんかあのテンションの会話にはついていきづらいし。無表情にならないように、適当に相槌と笑顔と視線とを向けてはいた。ほんとこのかぼちゃプリン美味しいな。
明るい口調での会話の応酬は、聞いていると段々何を話しているのか分からなくなってくる。女のわたしが言うのも何だけれど、女の子の声って高くって聞き取りづらいし。だからどういう話の流れだったのかは知らないけれど、ともかく、いつの間にやら話題が少しずれていた。
若宮がふと口にする。
「ふたりは、バイトとかしないの?」
わたしにも向けられた言葉らしい。意識がプリンから会話に戻ってくる。まだなんとなく頭がぽわぽわしていて、気を抜くと質問内容もよく理解しないまま「たしかにこれ美味しいよね」とか言っちゃいそうだったから先に須永に答えてもらうことにした。ちらっと彼女と視線を合わせて頷いてやる。
須永が僅かに悩んで、それから口を開く。
「たしかにやってはみたいんだ。家に少しでもお金入れたいしさ」
志が高いな。なんて親孝行な娘だよ。
「だけどそれを父さんに言ったら、『ガキは勉強しとけ、飽きたら遊んどけ』って言って許してくれないんだ。遊ぶためにもお金が要るだろって反論しても、そんな金は俺が出すって聞かないし」
なんていい父親だよ。男手一つで娘をここまで育てた父親は言うことが違うな。まったく、うちのとは大違いだ。まったく、まったく。いやなことを思い出してしまった。
若宮とわたしとで、そうなんだあ、なんて相槌を打てば、続いて矛先はわたしに向かう。
「枯野ちゃんは? バイト、しないの?」
「んー。今のところ、予定はないなあ。お金、そんなに使うわけじゃないし」
いつかはしなくちゃ、とは思っている。でも今のところ、生活や遊びに使うお金はお小遣いで十分に足りていた。そもそもあんまり友人たちと遊びに出かけない、というのもあるし、罪滅ぼしのつもりなのか口封じのつもりなのか、両親とも多めにお小遣いをくれるのだ。その気がなくとも貯金が出来てしまうくらい。その貯金はいつか家を出たときの資金にしようと画策している。
わたしとしては文句のない回答だったつもりが、若宮的には不十分だったらしい。
「お金だけじゃなくってさ。色々経験になるよ。将来を考えたら大事じゃない?」
「まあねえ」
なぜ同い年の友人にそう説教臭いことを言われなければならないのかよく分からなかったが、言っていることそのものは正しい。ひとまず頷いて返す。たしかに、若宮はわたしなんかよりも余程多くの経験を積んでいるに違いない。
友人相手に説教したがるような性格の子でもないのにどうしたのかしら。ちらっと訝しんだわたしの前で、須永が首を傾げる。
「若宮はどうなんだ?」
「え?」
「バイト。色々しているみたいだし、何か理由があるんだろう?」
須永に問われた瞬間の、若宮の表情。こざっぱりとした彼女にしては珍しい、複雑なそれ。虚を突かれたように目を丸くする一方で僅かに唇の端が上がった。尋ねられることを分かっていた、いやむしろ尋ねてほしかったとでも言いたげだ。そしてその割に、彼女はすぐには口を開かなかった。数瞬迷って、上目遣いに、思わせぶりに須永を見る。
「えっと、そんな、大した話じゃないよ」
「つまり、理由はあるんだな」
「う、うん……」
控えめに頷く、そのまま俯く。若宮は俯いたまま、ちらりとわたしにも目を向けた。
わたしは肩をすくめて返す。他の女の子が同じような態度を取っていたら、めんどくさ、と顔をしかめるところだけれど、若宮なら話は別だ。言いたいけど言いづらい、けど気にしてほしい。そんなアンビバレントな態度は、時折見せるからこそかわいらしいのだ。
勉強を疎かにすることなく、バイトを懸命にこなす彼女。しかしお金を何かに使っている訳でもない。どんな理由があって若宮はバイトをしているのかしら。
「えっと、やりたいことがあってね?」
「ほうほう。そのやりたいことっていうのは?」
若宮は往生際悪く誤魔化そうとする。しかし須永は逃がしたりしない。須永も若宮の態度が珍しいものだと感じているのだろう。ちょっとした嗜虐的な笑みを浮かべていた。
かわいそうに、と内心思いつつ、わたしも若宮へ助け船を出さなかった。気になるんだもの。
「うぅ……」
呻いて、ひと呼吸置く。
ようやく若宮は決心したようだった。顔を上げて、目をさまよわせて。小声で言う。
「絵を、勉強したいの」
「絵? イラストってことか?」
「うん。絵とか、デザインとか、そういうの」
「ほう」
若宮の言葉にわたしは思い出す。いつだったかの朝の教室で、彼女はひとり、絵を描いていたことがあった。そのときは彼女が絵を隠してしまって話はそれっきりだったけれど、なるほどそういう事情だったのか。そりゃ恥ずかしいわな。
言い出してしまえば踏ん切りがつくのか、若宮は顔を赤くしながらぽつぽつ続ける。
「だから、専門学校か、芸術系の大学に行きたくて。まだ親には話してないんだけど、お金は自分でやりくりする、って言えば説得の材料にはなるかな、と思って。そういう大学ってお金掛かるみたいだし」
「へえっ」
須永が興奮したみたいに頷く。若宮は小さく縮こまる。ここまで話すことにだって相当な勇気が要っただろうに、須永はさらに問いを重ねた。とはいえ彼女にも悪意があったわけではあるまい。須永の表情にあったのは無邪気な少年のような好奇心だけだ。
「どんな絵を描くんだ?」
そんなことを聞かれれば若宮は恥ずかしがって黙ってしまうに違いない。そう思ったのに、ところが彼女はむしろ嬉しそうな顔をした。なぜだかわたしはいたたまれない気分になって、彼女の顔から目を逸らす。
「えっと、ねっ」
答える若宮の声にも興奮が混じっていた。
「その、そこにあるやつ、なの……っ」
若宮が指を差す。ふたりしてそれを追う。
その先には壁に掛けられた水彩画があった。ここに来たときにちょっと違和感を覚えた、店の雰囲気にはあまりそぐわない数枚の絵。だけれどそれは、素人目にも分かる立派な作品だ。
「透が、あれを、描いたのか……?」
須永の困惑はもっともだ。俄には信じられない。
しかし、若宮ははにかみながらも明確に頷くのだ。
須永もわたしも言葉を失った。もっともわたしは話を聞いているばかりでもとから何も口にしてはいなかったけれど。
「……すげえ、なあ」
しばらくの間があって、須永がやっと、吐息交じりに言葉をこぼした。その声にわたしも現実に引き戻される。
須永の顔をちらりと伺う。彼女はただ感心をしているだけのよう。しかしわたしはそれどころではなかった。
若宮は突拍子もない夢を描いていた。だけれどその夢に相応しい才能も持ち合わせていた。そのうえ、その将来のために明確な行動を起こしていた。バイトをしてお金を貯めているだけではない。こうして自分の描いたものを、たくさんの人の目につくところへ飾ってもいる。
将来ってそんなに近いところにあるものなの?
「……す、須永はっ」
気づけばわたしはもうひとりの友人の名を呼んでいた。
「ん?」
「須永は、何か将来の夢、あるの?」
興味があったわけじゃない。自分が安心したかっただけだ。
将来のことを明確に考えているなんて若宮くらいのものだ、そう思いたかっただけ。だからむしろ、須永の口から将来の夢なんて出てこなければいいとすら思った。
しかしわたしの醜い願いはあっけなく散る。
須永は恥ずかしそうに、だけど楽しそうに、若宮とおんなじ表情で頷いたのだ。
「……ある」
「へ、へえ」
わたしから尋ねておきながら、言葉に詰まってしまった。
好都合なことに、若宮が後を引き取ってくれる。
「なになに、須永ちゃんの将来の夢って」
「えっとな、わたし、犬が好きだろ」
「うんうん! あ、もしかして獣医さん?」
「あはは、違うよ。ペットトリマーを目指そうかと思って」
「へー、似合うかも!」
「ん……、そうか?」
若宮にも、須永にも、将来の夢がある。やりたいことがある。好きなことがあって、できることがある。
実はもう専門学校も決めていてな、親にもレンにも言ってあるんだ。すごい、わたしよりも具体的! いや透の方がすごいよ。
ふたりの会話が遠のく。耳を塞いで立ち去ってしまいたくなる。早くこの会話が終わってくれないかと祈るような気持ちだった。
しかし、そうやって黙ってしまったのが悪かった。友人たちの視線がいっせいにこっちを向く。きっと、いや絶対にそんなことはないのだけれど、彼女たちの目がひどく昏く、残酷なものに思われた。わたしを厳しく責め立てようとしているように思われてならなかった。
「枯野ちゃんは?」
「悠宇は、何かあるのか?」
「いや……」
薄ら笑いすらまともに浮かべられているか分からない。
「ふたりはすごいね。わたしはまだそういうの、ないかな」
ない。なんにもない。やりたいことも、できることも、認めてもらえて、すごいと言ってもらえるようなこともない。人付き合いが苦手で、料理が苦手で、自分から何かをしようと思うことも苦手。得意なことなんてなに一つない。
みんな、いつの間にそんなものを持っているの。どうしてわたしにはそれがないの。わたしは遅れてる? おかしいの? まだわたしは十六で、子どもで、将来なんてものとは縁遠くて。
そういうものじゃ、なかったの……?
「そうなのか」
「そっかそっか。枯野ちゃんも何か見つけたら教えてね」
須永も、若宮も、そうやって軽く頷いただけだった。薄情じゃないか。話を掘り下げて欲しかったわけじゃない。どうせわたしには何もない、掘り下げられてもわたしが苦しくなるだけだ。そうじゃなくて、ふたりともそんなふうに自分のやりたいことを見つけているのなら、わたしにも何か見つけてくれたっていいじゃないか。見つけてくれなくても、ふたりがどうやってそれを見つけたのか教えてくれたっていいじゃないか。
いや、それは筋違いも甚だしいこと。ふたりはなんにも悪くない。悪いのはわたし。なんにもできないわたし。
居心地が悪い。コーヒーを飲んでも、かぼちゃプリンを食べても、大した味がしない。
話題はいつの間にかまた移ろっていた。お菓子作りの話に戻っている。わたしからはなんの話題の種も出てこなかったのだから当たり前だ。話を振ってくれたふたりには申し訳ないことをした。そして今度の話題も、お菓子作りではわたしはどうやってのっかったらいいのか分からない。
友人たちはきっと何を思ってもいないだろう。でも彼女たちがわたしをつまらない人間だと思ったのではないかと、それが心配でならなかった。話題についていけないのは、彼女たちがわざとわたしに縁のない会話をしているからなのではないかとすら思えてきた。きっと勘違いだ。でも友人たちの笑顔が、楽しげな声が、わたしを現実感から遠ざける。
ママ友さんたちの語らい、スピーカーから流れるジャズバラード、友人たちの声。何もかもがぐちゃぐちゃに入り混じって騒音になる。もうどれがなんの音なのか聞き分けられない。五月蝿い、息苦しい。
わたしはそれから口を開かず、けれどそうとは悟られないように時折相槌を打ちながら、残りの時間をひたすらにやり過ごした。結局、わたしは周囲に合わせてただ笑うだけの自分のない人間だった。居なくてもいい人間だった。成長なんかしていない、昔と何一つ変わらない。
大嫌いだ、こんなわたしは。
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