11 自宅:両親と週末

 私服に身を包み外出用の鞄を肩に提げ、わたしは靴を履く。ちょっとでも背が高く見えるように、と買ったヒールスニーカー。随分履き込んだ、そろそろ買い換えようかしら。

 キッチンからとてとてと伊織が出てくる。エプロン姿だ。昼食の用意をしていたのかしら。

「気をつけてね。いつ頃帰ってくるの?」

「わかんない。日のあるうちに帰るよ」

 週末、お昼前。この日は須永と外出の約束をしていた。行き先はずばり、若宮のバイト先、「喫茶店・うみ」。先週は須永の活躍する姿を見たから、今度は若宮の番だ、とかそういう話の流れだった。それだと来週はわたしの活躍する姿を見せなくちゃいけないわけだけど、さて、どうしたものか。

 ともかく、週末のお昼の予定が埋まるのは好都合だった。もたもたしてる暇はない。さっさと鍵を開けてドアノブに手を掛ける。

 いってきます、と振り返れば、伊織のあとを追ってキッチンから顔を覗かせたやつがいた。

「悠宇、ほんとに行っちゃうの。せっかくお父さん帰ってくるのに……」

 母親だ。いつもの週末だったら日中は外出してるか、そうでなければ泊まりがけで帰ってくることもないのに、今日はその限りではなかった。その故はこの母親の言の通り。父親が帰ってくるから。単身赴任中の父親は滅多に家に帰ってくることはないのだけど、どうやらまとまった休暇が取れたらしい。弟曰く、一週間くらいは家にいられるそう。

 そしてそうなれば当然、母親も外出なんてしない。何故って、やつの普段の外出先は若い男のトコだからだ。休日こいつは若い男のとこに通ってる。平日は逆に、ときどきうちに連れ込んでる。なんとも大胆なものだ。おぞましいとすら思う。

 母親の不義理をわたしたち姉弟は知っている。いつからそんなことをしていたのかは知らないけど、わたしが小学校六年生だったときには始まっていた。

 そして。わたしたちに知られている、ということを母親は知っている。知られてなお、不義理を続けている。

 母親の言い訳はこうだ。

『お父さんには言わないで』

『お父さんがいなくて寂しかったの』

『お母さんに寂しい思いをさせるお父さんが悪いのよ』

 発覚した当時、これで丸め込まれたわたしたちもどうかと思うけど。でも父親の居ない家庭環境というのは恐ろしいもので、母親の発言がほとんど絶対の力を持ってしまう。なんせ母親の愛情が途切れれば子どもは生きていく術を失うのだから。反対意見など述べられるわけもない。

 だからわたしたちは、やつの行いを責める機会を逸した。今更それについてとやかく言うほどの熱意もない。どうでもいい。口論になることの面倒臭さを知った、というのは大人になったということなのだろうか。そうだとしたらいやな成長だな。

 やつを許したわけじゃない。許すとか許さないとかそんな問題ですらない。失望したというのが一番適当な言葉か。

 そんな母親に掛けてやる言葉などあるものか。軽蔑の視線で一瞥して、弟へ笑いかける。

「伊織、行ってくるね」

「……うん、行ってらっしゃい」

 わたしの態度これはいつものこと。弟も苦笑いで手を振る。

 ドアを開けた。冬の冷たい空気が髪とスカートの裾をさらう。ひゃっと身をすくめる弟へちらりと視線を送りつつ、わたしはドアの隙間から外へ出る。そうそうのんびりもしていられないのだ。早く家を離れなければ、父親とどこかで遭遇してしまうかも知れない。声を掛けられたら面倒だ。どうせ無視をするけど、無視をすることだって面倒だ。そして父親の顔を見るのは不愉快だ。母親だけでも面倒くさいのに、この上余計な心労を抱えたくない。

 玄関先の階段を降りて道路に出る。鞄の肩紐を持ちながらすったか歩く。

 背後でする車のエンジン音には気づいていた。

 それは、うちの前で止まったようだった。

 気にせずに歩いた。そこの角を曲がってしまえばいいだけだ。

「悠宇! どこか行くのか、おい、悠宇!」

 男の声があった。大嫌いな男の声。お前の質問に答える義理なんかない。

 足を速める。

 車のドアが開く音、閉じる音。駆ける足音。

 わたしも走る。だけどすぐに、追いつかれる。腕を取られる。引っ張っても抜けない。

 あるとき、母親のことを父親に言いつけてやろうと決意したことがあった。

 父親の誕生日だからと言って、不倫のことは絶対に父親へ話さないから、という守る気のない口約束まで母親と交わして、父親の赴任先へ姉弟ふたりで訪れたことがあった。

 誕生日をかねてなのだ。サプライズにしようと、父親にも内緒だった。

 ……父親の仮住まいには、女がいた。表札は間違ってなかったのに。

「離せよ!」

 思い切り腕を振る。自分でもびっくりするくらい怖い声が出た。

「っ、わ、わるい。ごめん」

 男は……父親は、手を離して一歩二歩と後ずさった。

 覇気のない顔の男。でもわたしや伊織に似た、整った顔立ちの男。わたしの父親。身長は伊織よりもさらに高い。ひょろっとした体躯で、ちびっこいわたしを見下ろしてくる。表情は弱々しい。黒縁の眼鏡のブリッヂを指先で持ち上げた。睨みつけてやれば、父親の目は小魚のように泳いだ。

 わたしも言葉に詰まる。この父親とは、母親に対してともまた違う、微妙な距離があった。もともと家を空けていることの多かったこの男は、どうにも他人のような気がしてしまうのだ。だからむしろ、浮気をしていようとなんだろうと、嫌悪感は抱くけど、はっきり嫌いと拒絶することが難しい。だってそもそもが他人だから。もともと近くに居ないやつを突き放すことって無理じゃない?

 ろくに会話をした記憶もない。親だという印象が薄い。母親以上にどうでもいい。

 どうでもいいやつに干渉されることは不愉快だし気詰まりだ。わたしは踵を返した。腕時計を確認する。まだのんびり歩いても須永との待ち合わせには間に合う。早く会いたい、会って、話をして、忘れたい。

 角を曲がる直前で声がした。

「あのひととは、別れた。ちゃんと別れた。お前たちにも、母さんにも酷いことをした。これからは、ちゃんとするから。俺が間違えた。すまない」

 わたしは足を止めなかった。返すべき言葉など持たなかった。

 ちゃんとってなんだ。そんなこと言ったって、不倫のことを母親に告げるつもりなんかないのでしょう? それに、不義理を働いた事実は消えたりしない。両親が両親ともしてはいけないことをしている。それを知ったとき、わたしと弟がどれだけ怖い思いをしたことか。

 父親が勝手に改心して、それがなんだというのだ。あったことを帳消しにできるわけじゃない。浮気をやめたからってそれがいい人間なもんか。人を殺したやつは、どれだけ反省したって殺したことのないやつとは比べられない。それとおんなじでしょ。

 償え、なんて思わない。償う方法なんかないのだから。

 だからせめて、構わないで欲しかった。

 わたしも、弟も、お前たち両親には積極的に関わらないと約束するから。母親がやっていることも、父親がやっていたことも、それぞれをそれぞれに語って聞かせたりはしないから。だからせめて、わたしたちのことはそっとしておいて。独り立ちできるようになるまでそっとしておいて。逃げてしまえる、逃げてしまっているわたしはまだいい。でもこれだと弟があんまりにもかわいそう。両親の板挟みになる。

 いや、弟のことに関してはわたしも同罪か。家に残してきた伊織の顔が脳裏をかすめる。弟は笑ってた。なんにも言わないで笑ってた。伊織はそれでいいと言う。役割分担だと言ってくれる。いつかきっと、わたしが家を出たら。そしたら絶対に、今度はわたしが伊織を助けてあげるんだ。ふたりでアパートを借りて住むんだ。家事は……あんまり自信ないけど、就職なりバイトなりしてふたりで慎ましく生活するのだ。

 そんな未来を想像すると少しだけ心が軽くなった。よく晴れた青い空を見上げる。冬の空は高い。薄っぺらい雲がふよふよ浮いてる。わたしは将来、何になってるのかしら。やりたいことはない。これといって得意なこともない。でもまだ高校一年生だし、十六だし。そんなもんじゃないのかな。今は今を楽しめればいいでしょ、きっとそのうち、いつか、やりたいこと、見つけられる、よね。

 そう自分に言い聞かせてみても、言い知れない不安が、そして北風が吹き込むような空虚感が、わたしの中で渦を巻く。わたしは足を急がせた。友人が待っている。

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