10 学校:一週間の出来事

 真鍋と別れて教室へ行く。さすがにスキップはしなかった。

 朝早くに学校へ来るのがすっかり習慣になってるけど、この前の若宮みたいに何かしらしたいことがあるのではない。母親と鉢合わせしたくなくて、あの女が起き出す前に家を出てるだけ。学校の他に時間の潰せるところがあれば是非そうしたいのだけど、この早朝では喫茶店も開いてない。コンビニの立ち読みはなんとなく肩身が狭いし足が疲れる。だから他に取るべき手段もなく、教室に着くと席に座ってのんびり過ごすのが日課となっているのだった。

 やることといえば、寝てるか、スマホをいじってるか、校庭でわちゃわちゃ動いてる運動部の連中を眺めてるか、そんなところ。最近は読書をしてみるのもいいかも知れないと思っている。

 今日はどうしよう。試しに目を瞑ってみる。でも眠れそうになかった。なんか落ち着かない。スキップをしていれば多少は発散できてたんだろうか。仕方ないから徐々に集まってきた野球部の練習を眺めて時間を潰した。



 二限と三限の間の十分間。お手洗いに行くべく教室を出ると後ろから軽やかな足音が追ってきた。

「枯野っちゃん。トイレ一緒っ」

「はいはい」

 若宮がわたしに腕を絡めてくる。わたしより背の高い彼女に腕を取られると警察に無理矢理に連行されてるみたい。引きずられる。若宮は気にせずずるずるとわたしを引きずってお手洗いへと突入した。

 用を足し、水道で手を洗う。隣で同じように手を洗っていた若宮がふと口を開いた。

「弟くんって機械音痴なの?」

「ん? そう、だね。どしたの」

 若宮のご指摘通り、我が弟は機械音痴である。かわいい。いまどき自ら進んでガラケーを選び使っている中高生がどれほどいるだろうか。必要最低限の電話とメールの機能をこの前ようやく覚えた。わたしが教えた。教えてるとき、伊織は眉根を寄せて指を迷わせてた。とってもかわいい。

 でもどうしてそれを若宮が知ってるんだろう。

「ほら、この前。弟くんが持ってたのガラケーだったじゃん」

 日曜日のことか。弟と若宮はファミレスで連絡先を交換していた。若宮が「え、メアド? IDじゃなくて? うわ久しぶりに使うわ。なつかしー」って笑ってたのを覚えてる。

「メールも、たまーに字をミスってるときとか、あと途中なのに送られてくるときとかあるし」

「ああ……」

 よくあるよくある。いや、それにしても、

「けっこう、連絡取ってるんだ」

「うん。いい弟くんだよね。お姉ちゃんは学校でうまくやってますか? って質問してくるんだよ。枯野ちゃん人付き合いは悪いけど集団に馴染むのは上手だからね。あんまり心配いらないよって返事しといた」

 えへへへ、って笑ってるけど、それ褒め言葉じゃないからね。

 伊織のやつもまったく、いらない心配を。わたしが恥ずかしいじゃないか。家でのわたしの立ち居振る舞いを思えば当然の心配なのかも知れないけど。でもわたしは家の事情を友人たちには話してない。伊織の態度は友人たちからすれば過保護に映るだろう。

「あと、枯野ちゃんが居眠りしてる写真とか送ったりしてる」

「やめなさい」

 えっへっへー、とさっきより得意げに笑って、若宮はくるりと踵を返す。お手洗いの出口へ向かう。首だけで振り返って言うことには、

「行こ、枯野ちゃん」

「……はいはい」

 どうやらやめる気はないらしい。



 お昼休み、昼食を共にしたのは須永だけだった。四限が終わりお弁当を用意していた若宮へ、別のクラスの女子生徒が声を掛けに来たのだ。それに「ふんふん」と頷いた若宮は、わたしと須永に両手を合わせて、お弁当を片手にその女子生徒とどこかへ行ってしまった。

 たまにこういうことがある。なにって、相談事を持ち掛けられてるらしい。若宮は交友関係が広く、性格も言うことなし、口も堅い。場合によっては大学生の姉に振るという最終手段も持っている。人間関係の悩みをこぼすにはちょうどいいのかも知れない。男女の隔てなく交友関係を持ってるから、恋愛相談(「あの男の子って好きな人いるのかな?」みたいな)をするにもうってつけだ。そういう相談をされたあとは、決まってわたしたちに「わたしも恋愛がしたいー」と嘆くのだけど。あっはっは、友人が多いというのもいいことばかりではないな。

 そういうわけで須永と向かい合ってお弁当をつついていた。そこで気づいたことがひとつ。若宮がいないと昼食の時間がわりに静かに過ぎていく。須永も口数の多いタイプではない。どっちも食べ物を口に入れちゃったりしてふと会話が止まってしまうと、何か話さなきゃ、と少し気詰まりだった。若宮のありがたさに気づかされる。

「そうだ。悠宇、これを見てくれよ」

 ふと須永が口を開く。脈絡のない切り出し。彼女も話題に困っていたんだろうな、と意地の悪い考えが頭の隅を過ぎる。言う間に須永はポケットからスマホを取り出した。手早く操作して画面をわたしへ向けてくれる。机の中央にそれを置く。

 動画の再生画面だ。サムネイルには茶色いロングヘアのミニチュアダックスが映っている。犬の見分けなんかつかないけど、これ、須永の彼氏が飼ってる犬じゃなかったかしら。

「ハミルのかわいいのが撮れたんだ」

 楽しそうに言って、須永は画面の真ん中の再生ボタンを押す。画面いっぱいに映ってるダックスが動き始める。

 撮影場所は室内のよう。ハミル(という名前らしいダックス)は窓際のフローリングに座っている。外を見ていたハミルが、画面外からの須永の呼び声ではっとこちらを向いた。

 急に画面が揺れてハミルが遠ざかった。いや、撮影者(たぶん須永)が後ろへ飛び退いたのか。

 それを追ってハミルが床を蹴って走り出す。こっちに向かってくる。しゃりしゃりと爪が床をひっかく音がする。そして須永に飛び込……もうとしたその直前で、犬が足を滑らせてずっこけた。顎を床にぶつけて、しゃーっと床を滑る。モップみたいに滑る。須永の足下で止まった。

 自分でも何が起きたのか分からないというように、目をまん丸にして、間抜け面で床に這いつくばったままこちらを見上げるハミル。画面が揺れて、須永と他数名の笑い声が響く。

 そこで動画が終わる。

 不覚にも笑ってしまった。

「ふふ、か、かわいい……!」

「だろっ、かわいいだろっ」

 わたしの反応がお気に召したらしい須永は、画面をスクロールして次々にハミルの映ってる動画や静止画を見せてくれる。頭を撫でてるだけの動画、須永の彼氏と遊んでる動画、寝てる写真、須永とハミルのツーショット、その他諸々。なかなかいい表情をする犬だ。須永も、須永の彼氏も楽しそう。ときどき端に映る彼氏の家族も楽しそうに笑ってる。なんとなくそっちに目が行った。幼馴染みだけあって彼氏だけじゃなくその家族とも良好な関係を築いているようだ。

 須永と彼氏は、もう一緒に居るのが当たり前みたいな顔してる。彼氏の家族だってそうだろう。このままずっと一緒に居るものだと信じて、努力を怠ってもいない。彼氏は須永を大切にしてるようだし、須永もかわいくなろうとしてる。すごいなあ、と思った。なんとも語彙の貧弱な感想だけども、すごいなあ、と思った。こんなに幸せそうな、幸せになろうとしてる人間が身近にいる。嘘くさいテレビドラマでも観ている気分だ。羨ましいとすら思わない。作り物めいて感じて、須永の楽しそうな声が、表情が、仕草が、ものすごく遠のいて見える。わたしの生きてるこことつながりのない場所で起こっている出来事みたいに思える。

 でも、目を離せなかった。ハミルがかわいいというのもあるかも知れない。映像も音声も、何もかもが脳みそを素通りしていくのに、どうしても目が離せなかった。

 視線を必死に引き剥がす。向かいに座る須永の表情をそっと窺う。彼女はスマホの画面を眺めながらにこにこしてた。普段の引き締まった表情をちょっとだけ緩めて、穏やかな笑顔を浮かべていた。

 唇を噛む。涙が出てきそうだった。

 早くお昼休みが終わればいいのに。そう思った。



 お昼休みの終わり際、五限の準備をする。ノートと、教科書と、筆記用具と。科目は音楽、移動教室だった。

 席を立つ。気の早いやつはもう数人で連れ立って教室を出てる。わたしは教室の後ろの方を振り向いて須永を探した。若宮は今日もどこかへ行ったまま、まだ帰ってきてない。あの子、五限が移動教室なの覚えてるかしら。

 須永と目が合う。彼女は小さく頷いて、自身も必要な道具を揃えて、戸口へ足を向けた。わたしもそれを追う。

 ふたり並んでドアをくぐる。ちょうどそのとき、若宮が駆け足気味に戻ってきた。勢いよく抱きつかれる。いやだからわたしより身長高いんだからそんなことされたら押し倒されそうなんですけど! もぅ、ほっぺくっつけないでよくすぐったい。

「待って! わたしを置いてかないでっ」

「わかった、わかったから早く準備してきなさいな」

「ははは、親子みたいだ」

 わたしたちのあきれ顔を背中に受けながら、若宮は自分の席まで行っていそいそと支度を調える。

「リコーダーいるかなぁ」

「いらないんじゃないか?」

「今日からギターやるとか言ってなかったっけ」

「そっか! よし、じゃあ忘れ物なし」

 ぱたぱたと若宮が戻ってくる。お待たせ、とまた抱きついてこようとする彼女を躱し、踵を返して音楽室を目指した。欲求を充足させられなかったらしい彼女は、うしろで須永の腕にすがりついている。須永は背も高いし、運動をしてるだけあってしっかりと受け止めていた。

 五限の始まりまでまだいくらか時間はある。残り僅かの休憩時間を歓談に勤しむ生徒諸君の間を縫って、廊下をのんびり歩く。一年生の教室があるのは、南側の教室棟一階。目的地である音楽室は、東西二カ所の連絡通路で結ばれた北側の管理棟の四階にある。ひとまず、連絡通路を渡って管理棟に移った。昼休みは賑わいを見せる中庭も、その終わり際となるともう誰も居なかった。

 管理棟は、北側の校舎であり生徒の喧噪から遠ざかることもあって、薄暗く、どことなく緊張感が漂ってる気がする。二階の職員室や生徒指導室からの重圧もあるのかも知れない。なんとなく口数も減って、友人たちとのお喋りもなく階段に足を掛ける。

 上階から階段を下る足音が聞こえていた。タイミングを考えるとこれからどこかの教室へ向かう教師だろう。挨拶しなくちゃなあ。ちょっとだけ緊張する。

 踊り場で、相手とすれ違った。やはり教師だった。彼が身に纏う白衣が翻る。見知ったその姿に、つい立ち止まってしまった。

「真鍋先生。こんにちは」

「ん、おう、枯野か。こんにちは」

 真鍋も立ち止まる。

「移動教室か?」

「はい。音楽で」

「そうか。こっちも授業だ。……生物のな」

「わかってますよ」

 生物の教師が他に何を教えるというのだ。

 すると真鍋は肩をすくめた。彼なりの冗談だったのかも知れない。

 がんばれよー、とひらひら片手を振って真鍋は階段を下っていった。わたしの後ろに居た須永や若宮とも軽く挨拶を交わしていく。

「先生も頑張ってください」

「おう」

 背中に声を掛けると、歩みは止めず、真鍋は肩越しに小さく振り返った。軽く手を上げて連絡通路へ消えてゆく。なんだろう、機嫌がよかったのかな。いつもの無愛想な感じとは違った、気がする。

 わたしたちも止めていた足を前へ進める。

 階段を上りながら、後ろで若宮と須永が小声で会話を始めた。

「枯野ちゃんって、いつの間にあの真鍋先生と仲良くなったの?」

「さあ。つーか、あの先生って雑談できるんだな」

「それそれ。生徒の見分けついてないと思ってた。わたしたちに関心がない、ってゆーか」

「な。わたしたちじゃなくて、わたしたちの欠点だけを見つめてるんじゃないかと思ってたよ」

 わぁ、酷評されてるなあ、真鍋のやつ。生徒指導教員っていう肩書きのせいもあるんだろうけど、あの無愛想な態度だもんな。かくいうわたしもついこの間まで同じように思ってた。

「意外にいい先生だよ」

 踊り場で折り返すとき、振り返って口を挟む。ふたりがこっちを向く。どうしてか、ふたりともがわたしを見てちょっと驚いた顔をした。息ぴったりに彼女たちは顔を見合わせる。なんだなんだ、どうしたのよ。

「悠宇がひとを褒めることがあるのか」

「それ。しかもあんな顔して」

「え、どんな顔よ」

 とっさに片手を頬にやるけど、触った程度じゃ自分の表情なんかわからない。それに、わたしだって誰かを褒めることくらいあるわよ。なんだと思ってるのよ、わたしを。

 訊いても、若宮はにやにやしてるし、須永はただただびっくりした顔をしてるだけだし、何も答えてくれない。急に恥ずかしくなってわたしは歩調を早める。階段を一段飛ばしで上がった。後ろから、待ってよ、という声が聞こえてくるけど知ったことか。いったいわたしはどんな顔をしてたんだ。変な顔をしてたのか、そうなのか。

 あー、恥ずかしっ。



 放課すると早々に若宮は教室を出て行った。「バイトバイトぉっ!」という元気な声が残される。

「透はせわしないなあ」

「そうだね」

 わたしと須永は彼女の背中を見送る。

 今日は須永の部活が休みだった。練習試合を終え、大会も控えていない現状、さして強くもないうちのバスケ部はゆるゆると活動することにしてるらしい。体育館のコートの数にも限りがあるし。

 須永の部活のない日は彼女といつも一緒に帰ってる。彼女の家が駅の向こう側にあるからだ。だから特に示し合わせることもなく、ホームルームが終わると須永がわたしの席へ寄ってくる。前の椅子の背もたれにお尻を乗せる。

 わたしはすぐには席を立たず、机に頬杖ついて教室の出口を眺めていた。部活や委員会へ向かう者、寄り道の計画を立てる者、若宮と同様にバイトへ駆けてゆく者。それぞれがそれぞれの表情を浮かべて、黄昏時に束の間現れる自由な世界へ躍り出てゆく。彼らは間違いなくこの一瞬を謳歌してる。それが眩しく思えて仕方がない。

 ほとんどの生徒が教室を出て行って、残った者もそろそろ帰り支度を済ませる頃。

「なあ、悠宇は恋愛経験あるのか?」

 出し抜けに須永がそんなことを言った。

 思わず振り向けば、彼女はちょっと唇を尖らせてる。心なしか頬も赤い。

「どしたの、いきなり」

「あー、いや、その。悠宇はあんまりそういう話しないだろ。ちょっと気になってね」

 それだけとも思えない話し方だけど、裏を探るのはやめにした。悪意を持って話題を振ってる表情ではなさそうだし。

「そう? んー、そうかも。高校に入ってからは彼氏いないし」

「中学のときは居たのか」

「まあ……、そうね。居たよ」

 居たけど、あんまりいい思い出じゃない。意図せず言葉を濁してしまう。変な表情をしてないか何気ないそぶりで顔に手を当ててみたけど、須永には無用な気遣いだったみたい。彼女はこっちを見てない。何やら緊張した面持ちで言葉を紡いでる。どしたんだろう。

 須永はちらっと教室の出入り口へ目をやった。残っていた最後の生徒が出ていく。教室に残るのはわたしと須永のふたりだけになる。

「その恋人とは、その、どこまでいったんだ?」

「どこまでって?」

「いやほら、手を繋ぐ、とか、キス、とか……」

「あー、そういう」

 須永はいやに歯切れの悪い言い方をする。幼馴染みで二年も付き合ってて、今さらキスで恥ずかしがることもないだろうに。事実、初キスは付き合い始めた直後に済ませてるらしいし。どっちかっていうと、済ませちゃったから付き合い始めた感じか。そんな話を以前に聞いた。幼馴染みとは恐ろしい。

 いやしかし、なんと答えたものか。いやな思い出に直結する話題なだけあって、わたしも言葉に迷う。

 迷ってるうちに須永が続きを語ってくれた。

「この前、な。日曜日。部活が終わったあとでレンとデートをしたんだ」

 日曜日。練習試合があった日だなあ。レンって言うと……須永の彼氏の名前か。ふむふむ、それで?

「それで、その、帰りにうちに寄って」

 ……ふむ、ふむ。

「父さん、居心地悪かったみたいで出かけちゃって、二人きりになっちゃって」

 そうね、須永は母親がいないから必然的にそうなるよね。父親も追い出されてかわいそうに。

「それでその……」

「おーけー。事情は飲み込めた。付き合ってる若い男女が人目のないところで二人きり。起こることは決まってる」

 堪らずに須永の言葉を遮った。変な口調になってる、動揺が隠せないぜ。尤も、須永の動揺とはまた別物だろうけど。

「結論だけ聞こう。したの?」

 すると須永は思いきり首を横に振った。

「してないっ。そういう雰囲気になったけど、怖くなって、何もしないで終わった。やめてくれた。あいつが謝ってきて、それでわたし、泣いちゃって」

「そう……」

 やめてくれたならよかった。ほんとに。ほんとによかった。須永は良い人間に巡り会えたんだろう。

「別れ話にはなってないよね?」

「あ、ああ、それはない。わたしもはじめは、いいかなって思ってたんだ。だけどいざそうなると色々考えちゃってな。レンにも悪いことをしたかも知れない」

「ふむふむ」腕組みして頷く。「そうだよね、考えちゃうよねえ。彼氏さんは、まあ仕方ないよ。そんなもんでしょ、誰だって」

 若宮と違って恋愛相談なんかされたことないから、他の人のことはよく知らないけど。経験論ってやつ。

「……あんまり、驚かないんだな」

「ん? んー、そうね」

 鋭い。

「経験あるのか」

 直球だなあ。

 でも、そうね、隠すことでもないか。いやな思い出ってだけ。須永が同じ轍を踏まないようにひとつ忠告でもしておいてあげよう。

「あるかないかで言えば、あるよ。もうわけわかんなかった」

 上手に断れなかったわたしが悪いのかも知れない、中学三年生だった当時のわたしはそこまで強くなかった。わりと本気であの男のことを好いていたつもりだったし、拒んで嫌われるのはいやだった。そう思うとかわいいもんだな。

 ま、それで、痛いんだか気持ち悪いんだか涙でぐずぐずな時間をひたすら我慢してやりすごした。やつに嫌われないように必死だったのをよく覚えてる。終わったあともしばらく泣き続けた。どうしてかわかんないけど涙が止まらなかった。

 それで、そのときに見たあいつの顔。わたしを見下ろすあいつの表情。今でも忘れられない。

 ……達成感に、満ちていた。あるいは充足感か。下卑た笑みすら口元に湛えていた。

「だから、そのあとすぐ、別れた」

 もう一緒に居られないと思った。そのときになって謝られたけど、そばに居るのもいやだった。

 しん、と須永が静かになってしまう。さっきまでの頬の赤みは失せて、むしろ少しばかり青ざめてるような。怖がらせ過ぎちゃったかな。あはははは、と笑ってみる。

「やめてよ、須永。そんな真剣に取らないで。もう終わったことだし。今はなんとも思ってないよ」

「だが……!」

「だから、ね。怖いのは当たり前。無理にしようとなんて考えなくていいと思うのよ。彼氏さんは、我慢してくれるんでしょ」

「ああ。……ごめんな、いやなこと聞いて」

「あはは、やめて。いいの。須永がおんなじになるのはいやだと思っただけ」

「ごめんな……」

 すっかり意気消沈した様子の須永に苦笑いを向ける。いやまずったな。こんなに重い空気になることは想定外だ。悲劇のヒロインを演じられてちょっとした充足感も得つつ、重たい沈黙に耐えかねて席を立つ。

「帰ろ? 暗くなっちゃう」

「そうだな」

 須永も俯いたまま立ち上がる。

 廊下を渡り、玄関で靴を履き替える。

 夕日が赤々と燃えている。道すがら、須永はぽつぽつ呟いた。

「透に相談するのも申し訳ないかと思って、あの子が居ないときに聞いたんだが……」

「ん? あ、さっきの。そうね。若宮は『うらやましいっ』って言いそう」

「ほんとにごめんな、悠宇のこと、知らなかったから」

「いいのいいの。わたしが話さなかったんだし」

「だが、悠宇があんまりそういう話しないのも、恋人作らないのも、そういうことだろ?」

 あー、もう。須永はほんと、すっぱりそういうこと聞いてくる。わたしはびっくりだよ。これで図星だったらけっこう傷ついてたかも知れないぞ。あとそんなに低姿勢でこられると、かえって本心を疑うからね。ほんとに謝る気があるのか、とか思っちゃうからね。わたしはそういう人間だからね。

「違うよ。まあ、あれも原因のひとつなのかも知れないけど。でも、まあ……」

 それだけじゃないし。とまでは口にしなかった。肩をすくめてお茶を濁す。そんなことを言えば追及……はされないにしても、後味悪いし。わたしの両親が両方とも不倫してるせいだよ、あいつらが悪いんだ、なんて言っても、仕方ないじゃない? いくらなんでも悲劇のヒロインを気取りすぎで気持ち悪いよ。

 代わりに別の言葉を続ける。

「須永と彼氏さんの話を聞いてるのは好きだよ。素敵な恋愛をしてる」

「む、そ、そうか? それなら、いいんだが。よかった。今まで悠宇をずっと傷つけてきたのかと心配だった」

「あー。それは杞憂きゆーだよ。考えすぎ」

 言えば、須永がほっと息を吐く。ようやく信じてくれたらしい。そんなに気にすることかね、わたしの内情なんてさ。須永が幸せならそれでいいのに。そうは思えないのが友人ってやつなのかな。ありがたいような、面倒くさいような。

 本当に心配してくれてたんだな、ってなんとなく信じられて、照れくさくなった。誤魔化すために空を見上げる。

「わあ。夕日綺麗だよ」

「ほー。そうだな」

 言いながら須永も上を向く。それから、ふふ、と笑いを漏らした。

「なによ」

「いや、悠宇って時々ロマンチックだな、と思ってな。夕日が綺麗って」

「馬鹿にしてる?」

「してないしてない」

 須永は首を横に振るけど、本心はどうなのやら。なんか勝手に傷ついた気分になる。そうだな、っていう同意は上辺だけか。夕焼け、綺麗じゃないか。山間で輝く太陽も、朱色に染まる空や雲も、見ていて飽きないじゃないか。ロマンチックとか、そういうのとは違う。違うと思う。

 思わず溜息が漏れる。片言隻句を気にしすぎていらいらしても仕方ない、か。須永にも他意はない。そう思うことにしよう。直球の質問なんかよりもよっぽど心にきたけど、でも我慢だ。

 わざとらしく「むー」と唸っておいて、それで誤魔化して、水に流す。折良く駅に着いたから、そこで須永と別れた。改札をくぐり、ホームの乗車位置に立つ。もう一度空を見上げる。あっという間に色合いを変えていく夕空はいつまで眺めていても見飽きない。もうすぐ日が落ちて夜がやってくる、その儚さも好きだった。

 ロマンチックって、なんだよ。

 明日はいい天気になるかもね、とかそれくらい言ってくれてもいいのに。

 すっかり太陽の消えてしまった稜線を眺めながら電車を待った。恋バナより夕日のことで余程傷ついている自分が馬鹿馬鹿しかった。

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