9 通学路:登校中
もう一週間以上も前になるか。登校中、真鍋に救われたのは。それまで全く知らなかったのだけど、どうやらヤツとは毎朝同じ電車に乗っていたらしい。わたしの乗る車両は気分によってまちまちだったし、平凡な高校へわざわざ遠方から通学する生徒も他にない、周囲の人間に気を払う理由を持ち合わせていないのだから仕方ないとはいえ、実際に教えを乞うている教師をこの半年間見落とし続けていたことに自分で驚きだった。電車の中で気づかなくても、駅から学校までの道のりで気づいても良さそうなものなのに。
そんな疑問や呆れは早々に氷解する。同じ車両に乗らなくとも、改札はひとつきりだ、改札の手前で人波の向こうに真鍋の背中を見つけたことがあった。彼にはわたしが見えてないみたい。このまま無視してしまおうか迷って、でもどうせ道は同じか、お礼もしたいし、と追いかけようとしたことがあった。
ところがこれは失敗に終わる。あの人、ものすっごく歩くのが速い。身長が高ければそのぶんだけ足も長く、そのうえ歩調もめちゃめちゃ早い。何かの競技かよと思った。小走りにならなきゃ追いつかない。そしてわたしには致命的に体力がなかった。もう、駅を出たところで諦めたね。気づけばヤツの背中はずっと遠くにあるし、あっという間に角を曲がって見えなくなってしまったんだもの。なるほど、そりゃその存在に気づかないわけだ。わたしと一緒に居たときはよほどゆっくり歩いてくれてたわけね。
そんなこともあって、あの日をきっかけに毎日一緒に学校へ行くようになったかといえば、そういうわけでもなく。たまたま同じ車両に居合わせて、さらに目が合うようなことがあれば、会話らしい会話もないけどなんとなく一緒に歩く、みたいな感じだった。お互いに口下手だったし、教師と生徒だ、盛り上がる話題もなかったことだし。
しかし習慣とは恐ろしい。そしてわたしが真鍋を意識していたというのも否定しない。いつの間にやら、彼の乗る車両が止まる乗車口で電車を待つようになっていた。いや、「いつの間にやら」とか「なっていた」なんて無意識を装うのもおかしいか。認めよう。わたしは自らの意思でそこに立つようにした。真鍋と一緒に登校することに、不思議と安心感みたいなものを覚えるようになっていた。きっかけがきっかけだったから錯覚なのかも知れないし、別段、真鍋であることに意味はなかったのかも知れない。人の温もりに飢えていた、みたいな。
そういう点では真鍋の距離感はありがたかった。一緒にいても彼は露骨にわたしへ気を払ったりしない。わざわざ場を盛り上げようとしないし、言ってしまえばわたしのことなんかあんまり考えてなさそう。だけど反対に、あるいは同時に、一緒に居ることをいやがっているふうでもない。
気にされてないことが嬉しい、というのもおかしいかも知れないけど。
時刻表通りに電車がやってくる。窓越しに座席へ座る真鍋を探す。今日も本を読んでるのか、そうでなければ寝てるのか。丸まった大きな背中を見つける。ドアが開く。
電車に乗った。真鍋は本を読んでいた。がらがらの電車で、端っこの席に座って、腕組みを右手だけ解いて本を持ってる。マナー違反だけどトートバッグは隣の席に置いていた。まあ、この車両に乗ってる人数が両手の指があれば数えられそうな程度だし、これくらいのことを咎める人間なんて誰もいない。
わたしは彼の前に立った。
「おはようございます、真鍋先生」
真鍋は顔をあげる。眼鏡は掛けてない。そもそもあの日が例外的で、本人の話に寄ればコンタクトをその日の朝に誤って踏んづけてしまったのだそう。それを聞いたとき、そんなことあるのか、とちょっと笑った。
「枯野。おはよう」
小さく頷いて、すぐに視線が小説へ向く。読書に戻るのかな、と思ったらパタリと本を閉じた。ページを覚えているのか、どこまで読んだかをなんとなく把握してるのか、何にせよ栞を挟まないのはいつものことなのだとこの数日間で分かった。本をしまいながら、真鍋はトートバッグを胸の前に抱えて隣の席を空けてくれる。
あれ、いいのかな。ちょっと戸惑った。他の席が埋まってるわけじゃない。わたしも今まで、さすがに隣に座ろうとしたことはなかった。バッグをわざわざどけてくれたのも今日が初めてだった。
真鍋もわたしの顔を見上げてしばし。ドアが閉まる。遅れて気づいたみたい。
「……、すまん」
「いや、その、ありがとうございます」
慌てた様子で真鍋は本を取り出してまた読み始めた。珍しいものを見た。平静を装って読書に戻ったけどバッグは抱えたままだ。電車が進み始める。すっごく高いところにあるつり革にほとんどぶら下がりながら考える。せっかく空けてくれたんだし、座らないのもおかしいよね。挨拶しておきながら避けてるみたいになっちゃいそう。えっと、それじゃあ、失礼して。
身を縮こめながら真鍋の隣に座った。真鍋はさらに端っこに寄る。ちょっとドキドキした。急に前髪が気になって直す。リュックに鼻を埋めながらちらっと隣に視線を向けても、真鍋は手元の文字を追っているばかりだった。垣間見えた珍しい様はすっかりなりを潜めてる。……と思ったけど、彼はすぐにわたしの視線に気づいてこっちに顔を向けてくれる。苦々しい表情を浮かべる。わたしはどんな顔をしていいのか分からなくて、ちょこっとだけ首を傾げてから目を逸らした。向かいの窓に見える景色を見つめる。薄雲のかかる空、住宅街、狭い踏切、自転車を漕ぐおばちゃん、急ぎ足にどこかへ向かう会社員。いつも通りの景色が右から左へ流されてく。
何か考えようとして、何を考えようにもうまくまとまらない。流れる景色はいつも通り。それがなぜだか落ち着かない。
電車の揺れの合間に、ページのめくれる音を探す。目を伏せた。何かを考えなくちゃいけないわけじゃないのだ、この音に耳を傾けていよう。真鍋はどんな表情で本を読んでいるのだろう。普段の彼からは考えられないくらい、読書中の真鍋の表情はころころ変わる。それを目の端に眺めているのも面白かったかも知れないけど、今はやめておこう。ばれちゃいそうだし。それに紙のこすれる音は耳に心地良い。
そんなふうに音に意識を傾けて、目を伏せたのがいけなかった。
「……起きろ枯野。起きろ。着くぞ」
不意に肩を叩かれた。はっとして目を見開く、温い枕から頭を上げる。ドアへ視線をやる、まだ開いてない、それとも閉じた後か? いや、電車は減速しつつある。アナウンスは学校の最寄り駅への到着を告げている。乗り過ごしたわけじゃない。それもそうか、わたしは起こされたのだ。
誰に?
真鍋に。
「んあ、ありがとうございます……」
目を擦りながら頭を下げた。だめだ、欠伸が漏れる。
真鍋は肩をすくめた。彼が立ち上がるので、そのあとを追ってわたしも立った。次第に電車が止まる。ドアが開く。外から吹き込んだ冷気に晒されて眠気がひといきに流された。さむっ。
電車を降りて、改札を抜けて。前を行く真鍋の歩調はやっぱりのんびりとしていた。ひとりで歩くときとは全然違う。普段はこうして歩いていても会話はないのだけど、今日は珍しく彼がわたしを振り返った。歩調をさらに落としてわたしに並ぶ。
口を開くなり、彼はこんなことを言う。
「さすがに気まずかった」
「え?」
どうしたんですか?
「お前なあ……」
真鍋は溜息を吐いた。なんだなんだ、どうしたんだ。わたし、何かしたかしらん。寝言を言ってたとか? もしそうだとしたら、それは恥ずかしいな。真鍋の名前が出てたりしたらなおのこと。
……と思ったら、もっと恥ずかしい話だった。
「がっつり俺に寄りかかってたんだよ、お前」
「え」
いや言われてみれば確かにそんな気もする、ような。
「考えても見ろ。がらがらの電車でわざわざ隣に座った高校生の女の子が、大人の男に寄りかかって寝てんだぞ? 周りの視線が痛いったらありゃしねえ」
「ああ……」
そりゃ気まずいわ。想像するだに恥ずかしい。
すみませんでした、と頭を下げた。
「ああ、よく反省しろ。俺だったからまだいいが、それくらいのことで怒り出すやつとかいるからな。じゃなきゃ変な気を起こすやつとか……」
真鍋が不意に口を噤む。
「あいや、すまん。今のは言い過ぎた」
ん、どうした、急に謝ったりして。言ってることは間違いじゃないと思うんだけど。
わたしが真鍋の顔を見上げると、もう一度「すまん」と言って彼は目を逸らした。今しがたの言葉を反芻する。んー、変な気を起こすやつ。ああ、そういうこと。この前のことを言ってるのか。
「気にしすぎですよ」
「だが」
「もう大丈夫ですって」
あれだけ泣いたしな。なんせ初めてだったのだ、けっこう怖かった。あの日の帰りは電車に乗ることを躊躇ったくらいだし。説得力はあんまりないかも知れない。でも、学校へ行くには乗らなきゃどうにもならないし、あんなに混雑することはまずまずない。折り合いはつけやすい。同じ状況に立たされたら乗るのを諦めるかも知れないけど。
気にしすぎです。ダメ押しにそう繰り返して笑ってやった。真鍋の気にすることじゃない。
「……そうか。それならあんまり言うのもな」
真鍋も頷いてくれた。しかし、と彼は話題を変える、いや、戻す?
「寝不足か? わりに深く眠ってたみたいだが」
「いえ、そんなことないですよ。早寝早起きだけは得意です。でもほら、電車の揺れって眠気を誘いますよね」
「まあなぁ。だが寝過ごすなよ、それで遅刻しても知らんからな」
「はーい」
努めて優等生っぽく、すまし顔で返事しておいた。真鍋が表情を歪める。知ってる。怒ってるのかと勘違いしそうだけど、それが表情に乏しいこの人なりの笑い方。わたしもいたずらっぽく笑い返す。真鍋は小さく肩をすくめた。
話題を探るのが苦手なわたしたちは、一度会話が途切れるとどうにもその接ぎ穂を掴むのが難しい。共通の話題など持ってない。今日も寒いですね、なんて言葉はそれこそ寒々しいものに違いなく、口にするのがはばかられる。だから結局、そのあとは学校に着くまで口を開かなかった。ここ最近の、いつも通りといえばいつも通りの通学路。ただ、今日は真鍋が前ではなく隣に居た。だからといって何ということもないけれど。
生徒玄関に着く。校庭にも校舎にもまだひとけはない。真鍋は立ち止まって、振り返る。
「じゃあ、まあ……」
言い淀む。わたしもなんと返したら良いのか悩んだ。「また」じゃおかしいし。「じゃあな」とか言ってもそんなに離れるわけじゃないし。今日もまだ会う可能性は十分にあるし。でも「あとで」と言うほど確定的でもない。こういうところで上手な言葉が思いつくのなら口下手とは言わないか。
諦めて「あはは」と愛想笑いで曖昧に濁して別れようとしたら、真鍋が眉を上げた。いい言葉を思いついたのか。さすが、年長者なだけはある。
「もうすぐ期末考査だ。勉学に励めよ」
「……はーい」
光の速さで期待を裏切られた。いきなり親か教師みたいなことを言うなよ。いや、わたしの親はそんなこと言わないし、この人は間違いなく教師なんだけどさ。
片手をひらりと振りながら真鍋は踵を返した。教師らしいことを言えて満足したのか心なしか歩調が軽く見える。その背中に心の内だけで思いっきり舌を出してからわたしも玄関へ入った。靴を履き替えてリノリウムの床を踏む。どうしてかは分からないけど、スキップでもしたい気分だった。
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