8 体育館:バスケの練習試合

 ダンッ! 体育館の床を思い切り踏みつけ、長身の少女が飛び上がる。

 彼女の手から離れたボールがバックボードに柔らかく触れて、危なげなくゴールへ吸い込まれた。

 ナイッシュー! とコートの外から声が飛んだ。わたしの隣でもまた然り。

「やったー! 須永ちゃんさすがっ!」

 良く通る声を張り上げて、若宮がコートへ向けて拍手を送ってる。わたしも鉄柵に肘を掛けたまま、それでも精一杯拍手を送った。若宮のように躊躇いのない大声は出せなかった。

 それら周囲の喧噪を置いて、試合はすぐさま相手チームのスローインから再開される。

 キャットウォークの上からの観戦だった。立ち見で足が疲れないか、試合は始まったばかりだけど少しだけ心配。体力にあまり自信はない。対戦相手は近隣の公立高校。須永による事前情報に寄れば、お互いに冬期の公式戦の予選を一戦目で敗退しているから、実力は拮抗しているぞ、とのこと。悲しい事実だ。当然ながら、わたしたちの他に部活に関係のない観戦者はいない。体育館にコートは二面あって、向こう側では男子バレー部が練習をしてた。

「ねえねえ弟くん、うちの須永ちゃんはすごいでしょっ」

「そうですね、すごく上手だ」

 若宮と伊織が、わたしを挟んで興奮した声を交わす。初対面のはずなのにぎこちない雰囲気はもう消えていた。

 若宮は誰に対しても気さくに接するし、弟も他者との関わりをそつなくやってのける利口なやつだ。さらにどちらも体を動かしているのは好きなのだから、そりゃ、意気投合も早いわな。落ち合ってからまだ一時間も経ってないけどすっかり彼らは仲良しだった。ちょびっと疎外感。

 不機嫌な顔がばれないように、そっと身を引いた。壁に背を預ける。キャットウォークに幅がないから、壁に寄りかかったままでも十分に試合の様子は窺えた。相手チームがシュートを打つ、ブロックに入った少女の手をかすめてボールはゴールへ向かう、リングに弾かれる。リバウンドを再びシュート。今度は入った。相手チームのメンバーが沸く。日めくりカレンダーみたいなスコアボードの点数が変わる。四対六。点数は向こうが高いけど大した差じゃない。競り合ってる。

「どした?」

 きりのいいところで若宮が振り返る。

「ん、なんでもない。空気にあてられてちょっと疲れた」

「あははっ、枯野ちゃんらしいね!」

 テンション高いなぁ。若宮はすぐにコートへ視線を戻した。片手をぐるぐる回して声援を送ってる。ひょっとしたらバスケ部の子たちよりも元気なんじゃないの。

 伊織もちらっと不安そうな表情をこっちに見せたけど、わたしは笑顔を作って指でコートを差して返した。今は純粋に楽しめるやつが楽しんだらいい。楽しめないわたしのことなんか放っておけばいい。本当に放っておかれたら多分すねるけど。いや絶対すねるけど。気難しいのよ、あなたのお姉ちゃんは。

 小さく頷いて、伊織も試合観戦に戻った。「おおっ」とか「すげえっ」とか「惜しい!」とかボールが動く度に声を上げて、身も揺らしながらゲームに浸ってる。こんなに興奮してる弟を見るのも久しぶりだ、連れてきて良かった。

 わたしが鉄柵を離れて空いた隙間は、友人と弟が言葉を交わす度にどちらからともなく詰まっていく。ふたりとも試合に夢中でさほど気にしてないみたい。だけど後ろから見てるわたしはおもしろくない。むむむ、弟はわたしのものだぞー!

 両手で顔を覆った。勘の良い弟にもばれないように溜息を吐く。だめだ、わたしも楽しまないと。

 壁を離れて柵の前に戻った。わざわざふたりの間に入ったりせず、あえて伊織とは反対側の、若宮の隣に立つ。伊織の隣に立ったりしたら、弟はわたしを気遣うに決まってるからだ。それで楽しめなくなっちゃうのはあんまりにも申し訳ない。今日は弟のための弟の日にしたい。家でわたしが手伝えることなんでほとんどないのだし。

 コートでは、うちの高校の名前も知らない先輩がゴールへ向けて勢いよくドリブルをしてるところだった。途中で相手に阻まれて足が止まる。キョロキョロと周囲を見渡して、パスを向けたのは須永だった。ところがこのふたりを結ぶ線上に相手の選手が飛び込んできて、うまいことボールをかすめ取られた。両チームの人間が一斉に配置を換える。反対のコートへ集まっていく。

「ありゃ、惜しい! いけぇっ、須永ちゃん!」

「須永……先輩? はやっぱりマークされてますね」

「ねっ。須永ちゃん上手だもん。身長高いし」

 めまぐるしく攻守が入れ替わるスポーツなのに、ふたりともよく目が追いつくなあ。わたしなんか、シュートの瞬間くらいしか全体に目をやる余裕がない。ボールを追うのが精一杯だ。

「一年生なのにすごいですね。他に一年生はいるんですか?」

「んや、今んとこコートには居ないと思うけど……。ね、枯野ちゃん」

「えーっと、たぶん?」

 ぶっちゃけよく知らない。一年生で誰がバスケ部に所属してるのかも把握してない。ぱっと見、須永の他は先輩のような気がするけど、気がするだけだ。コートの外で応援してる部員の顔を見てもどれが一年生なのかはっきりしない。まさか須永以外にひとりもいない、なんてこともあるまいに。交友関係が貧困なわたしに問わないでほしい。空しくなっちゃう。

 そんな会話をしている間に、ボールは再びこちらのチームに渡っていた。ボールを運んでるのは我らが友人の須永だ。一度パス交換を挟んで、あっという間にゴール下まで来てしまう。

「シュートだっ! 須永ちゃんシュートだよ!」

「……っ」

 声を張る若宮と、息を飲む伊織と。その他諸々の熱い視線やら声援やらを受けて、須永はしかし横へパスを出した。相手の守備が激しかったみたい。パスを受けた先輩がシュートを打つけど、これはバックボードに当たって跳ね返る。ボールは向こうさんの手に渡った。

 あー! っと若宮が悔しそうに声を上げる。この子はほんと、楽しそうに観戦するなあ。伊織と顔を見合わせて、「今の惜しかったですね」「そうだよねっ」とふたりしてまるで自分のことのように悔しがってる。なるほどこれが正しい試合観戦か。堪らずに目を背けた、こういうときどんな顔をすればいいのか分からなかった。場の空気で調子を合わせることがすっかり苦手になっている。おかしいなあ、中学生のときは出来てたと思うんだけど。

 そう困惑する裏で、心の隅っこではああいうやりとりを冷めた目で見つめて嫌悪してもいる。いやこれは嫉妬か。疎外感故の嫉妬か。暗い感情を抱いていても、試合が動けば知らず手に力がこもってる。わたしも彼らのように楽しみたいと思ってるのかな。自分のことなのによく分からない。

 水たまりに浮いた油分みたいに気味の悪いグラデーションの揺れる内心。拳を叩きつけて壊してしまいたいけどどこへ向けて振り上げたらいいのか分からない。観戦しているはずなのに気づけば視線は柵に乗せた自分の手に向いてる。若宮と伊織はボールの行方に魅入っていてわたしの表情に気づく様子はない。何やってるんだろ、わたしは。ここにいる意味あるのかな、楽しめないわたしがここにいたらいけないんじゃないかな。早く帰りたい、来るんじゃな……

 ――ビィーッ

 突然鳴ったけたたましい音に、びっくりして顔を上げた。どこかへ消えていた喧噪が途端に戻ってくる。ぼやけた目を擦ってコートを見れば、どうやら最初の十分(第一クォーター?)が終了した合図だったみたい。両チームともコートの外に出て、顧問や他のチームメイトのもとへ駆け寄っていった。スコアボードの数字は十二対十五。この三点差が大きいのか小さいのかは検討が付かない。

 須永を探す。部活の顧問であるらしい体育の教師のそばで水を飲んだりタオルで汗を拭ったりしていた。メンバーと笑顔や声を交わし、先輩や顧問の言葉に「はいっ!」と腹の底から返事して、床に座ってくつろぐ。周囲に寄ってくるチームメイトは同学年なのか。彼女たちとハイタッチを交わして浮かべる笑顔は、わたしたちの知るものとはまた別の表情だ。興奮の入り混じる衒いのない笑顔。いや、わたしたちといるときも裏を感じる表情をするわけじゃないけど。

 仲間に囲まれる彼女は輝いて見えた。先輩に混じって試合を引っ張る姿はまるで物語の主人公のようだ。チームメイトから頼りにされ慕われて、クラスメイトの友人から貰う大きな声援を力に変えて、彼女はコートを自由に駆ける。

 須永だけじゃない。わたしの隣で試合の行く末を必死に見守る若宮や伊織は、活躍する少女のまさしく友人代表といった様子で、青春の一ページを飾るにふさわしい画に思われた。ふたりともそれなりに見栄えのする出で立ちなものだからなおのこと。彼らの声援があるからこそ須永は活躍できるのではないかと、そんなおかしな想像までさせられる。

 それに比べてわたしはどうだ。声も出せず、体で表現することもままならず、それどころか熱気にあてられて目を回す始末。わたし自身はいくらか興奮を覚えていても、それをどこにも表出できないのでは何も感じてないのと一緒だ。そして何も感じてないのなら、わたしはここに居なくても一緒だ。輝いて見える彼らに嫉妬して、不機嫌になるくらいなら、むしろ居ないほうが……。

 鉄柵を握る手に力がこもる。唇を噛んで、だけど眉根に皺は寄らないように、誰も居ない体育館の床へ視線を送った。ここの空気を悪くしたら、ほんとにわたしは居ない方が良い人間になってしまう。

 誰も居ないところを見てるつもりだったのに、いつの間にか目は須永を映していた。男勝りな言動の目立つ彼女だけど、仲間と談笑する姿はかわいらしい少女のそれだ。そんな彼女が、会話の隙間にふと上を見上げる。わたしたちを見る。

 ひらりと彼女は手を振った。わたしたちには馴染みのない、溌剌とした笑みを浮かべて。

 やめてくれ。表情が歪みそうになる。

「須永ちゃーん! このあとも頑張ってねっ!」

 隣で若宮が思いきり手を振り返した。はっとして、わたしも遅れてそれに倣う。倣うといっても腕全体を振ってる彼女とは違って手の先だけだけど。それでも自分なりにできうる限りの誠意を込めて手を振った。一瞬のうちに苦い罪悪感が体中を巡っていた。

 今、わたしは躊躇った。友人の好意を拒絶しようとした。せっかくわたしたちへ振ってくれた手を、やめてほしいと思ってしまった。だって彼女は物語の主人公なのだ。そんな彼女が、わたしのような脇役と呼ぶのさえおこがましいような人間にわざわざ意識を向けるだろうか。もしかしたら若宮へ向けただけでわたしはそれを勘違いしたのかもしれない。それとも慈悲か。彼女のその優しさ故にわたしのことも視界に入れてくれたのか。わたしが手を振り返しても、須永は興が冷めてしまうだけなのではないか。

 違う。そんなことない。須永は友人だ、良い人間だ。そんな冷たいことちらりとだって思ってないだろう。だからこれは杞憂ですらない。考えすぎの被害妄想だ。でも怖いのだ。泣いてしまいそうなほど怖いのだ。須永も、若宮も、わたしの友人たちは素敵な人間だ。どうしてわたしと一緒に居てくれるのだろう。

 一度首をもたげた不安はなかなか収まってくれない。五分経って再開された試合のさなかも、須永がボールを手にする度、若宮が声を上げる度、頬が引きつりそうになった。呼吸がおかしくなった。それなのにいつの間にか須永の姿に魅入られていて、それを自覚した途端にまた自己嫌悪に引き戻される。楽しみたい自分と、楽しんでいていいのかという自分とがせめぎ合って息苦しい。若宮に内心を悟られないようにするのも大変だった。

 気の休まらない時間が続いた。あるいは、振り返ってみれば、あれこれと思案しつつもただ楽しんでいただけなのではないかと思ってしまうような、密度の薄い時間だった。

 第二クウォーターの途中で須永が他のメンバーと交代した。事前に彼女自身から聞いていたことに間違いがなければ、このあと彼女がコートに戻ることはない。レギュラーでない部員を含め、全員を参加させるために、パワーバランスを見ながら入れ替えを挟んでいくらしい。ここまでに須永の他にも入れ替えがあったようだった。

 それからはいくらか心穏やかでいられた。隣では若宮や伊織が、そしてコート脇からは須永が部員たちに向けて檄を飛ばしていたことに変わりはなかった。でもそこへわたしも、積極的に参加できた。友人が活躍してないときの方が前向きになれるわたしは、どこまでも後ろ向きな人間だった。

 ゲームはその後も一進一退の攻防を続け、怪我人も出ずに無事終了した。最終的には六十九対五十三で我らが市立亜祭高校女子バスケットボール部は勝利を果たした。挨拶を終えた彼女たちの喜ぶ姿にも、相手チームの悔しそうな顔にも、どうしてか心をぎゅっと掴まれた。自分のことのように涙がこぼれそうになった。これは感動してるのかな。それともやっぱり、青春を生きる彼女たちに嫉妬してるの?

 勝敗には無関係の若宮と伊織、ついでにわたしも、キャットウォークの上で喜びを分かち合った。分かち合おうとした。若宮と伊織はハイタッチをして、いえーいと声を上げている。いや、ほんと、この短時間でよく打ち解けたものだな。わたしも彼らと「やったね」と言葉を交わした。

 練習試合が終わっても合同の練習は続くらしい。軽く須永へ声を掛けてからわたしたちは体育館を出た。労いと感謝の言葉はまた明日にでも言えばいい。

「須永ちゃん、かっこよかったね!」

 興奮冷めやらぬ若宮が言う。

「そうだね、活躍してた」

「ほんと、かっこよかったです」

 あそこがかっこよかっただの、あそこが惜しかっただのと話しながら歩く。若宮が自転車通学だから、校門へは向かわずに駐輪場へ寄った。

 自分の自転車の錠を外し、スタンドを上げてから若宮は言う。

「このあと、枯野姉弟はどうする予定なの?」

「んー、買い物かな。ね?」

「うん。わざわざ出直すのも大変だし。スーパーは帰り道にあるし」

 駐輪場から、改めて校門へ向かう。カラカラと自転車を押す若宮は、数瞬の間を置いて口を開いた。

「お昼、一緒に食べない? 今日お姉ちゃんデートでさ、家、わたしひとりなんだよね」

「あ、そうなの?」

 日曜日なのに? と口にしかけた言葉は飲み込んだ。そういえば若宮の両親は病院勤務だったか。母親が看護師で、父親は……医者ではない、聞き慣れない職種だった気がする。なんだったかな。

「わたしはいいよ。どうする、伊織」

「え、あ、じゃあ僕は先に帰ってるよ。買い物ならひとりでもできるし」

「そんな、弟くんも一緒に食べようよー。せっかく仲良くなったんだしさっ」

「だけど……」

「若宮がこう言ってるんだから、行こうよ」

 気遣いの上辺だけでああいう言葉を口にするやつではない。仲良くなったというのなら、若宮はほんとに仲良くなったと、もしくは仲良くなりたいと思ってるんだろう。こういう、人間関係に対する思い切りの良さは羨ましい。見習いたいものだ。

 伊織は伊織で、わたしに似て引っ込み思案の気があるけど人見知りはしない子だ。迷っているのはただ遠慮してるだけなのだろう。

「いいの?」

「いいの」

「いいよっ」

 ここまでされても伊織は応と言い淀む。しかたない、ここはお姉ちゃんの出番かな。わたしは弟の手を取ってちょっと無理に引っ張った。つんのめる弟に、わたしを挟んだ反対側から若宮が笑いかける。駅前には何件かファミレスがある、どこにしようか。弟は諦めたように息を吐いて、そのくせ嬉しそうに苦笑いを浮かべていた。

 試合中にあれだけくよくよと悩んでたことは、この頃にはすっかり忘れていて、ただ空腹に任せて想像を膨らませていた。きっと家に帰ってから今日という日を思い返してまた死にたくなるのだろうけど、それはそれ。わたしの悩みなんて空気みたいに軽くて、無色透明で、どこにでもあるつまらないものだ。深刻なふりをして、すぐに忘れられてしまう。

 薄っぺらな自分に呆れてしまうけど、今は考えないようにした。周囲に合わせて生きるのは苦手だが、空気をぶち壊したいわけじゃない。ニヒルを気取りたいわけでもない。笑っていられるのなら、笑っていたいのだ。弟にも、友人にも、笑っていてほしいのだ。

 だからわたしは足取り軽く、おふざけを挟みながら帰路を行く。大切な家族と気安い友人に挟まれて歩く。

 冬の空は澄み切って、わたしの心は淀んでいて。

 わたしはそれが誰にもばれないように無理矢理に笑顔を作った。

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