7 自宅:朝ご飯

「ただいまー」

 まだ日の昇らない、薄暗い早朝。わたしはそうっと我が家の玄関へ入る。

 日課のジョギングから帰ったところだった。最近はぐっと夜が長くなって、同じ時間に起きてるはずなのにすごく早起きしてる気分になる。それだけ得したような、反対にもっと寝てたいような。悩ましいところだ。

 汗が頬を伝う。ジャージの袖で拭う。まだ荒い呼吸を整えようと深呼吸をすれば、香ばしい油の匂いが鼻の奥をくすぐった。思わず頬がゆるむ。口の中に唾液がじわっと出てくる。耳を澄ませば足音もあった。今日は日曜日だっていうのに、我が愛しき弟は早朝から料理に励んでいるらしい。

 日曜日。須永の練習試合を見に行こうと、若宮と約束している日だ。若宮とは、練習試合の始まる十時頃に学校で落ち合うことになっている。

 匂いにつられて廊下を歩く。ダイニングに繋がるドアを開ける。部屋は既にエアコンで暖まっていた。キッチンに立つ少年の後ろ姿が見えた。愛用の赤いエプロンが腰のところで蝶結びになってる。コンロの前でフライパンを振る様子は、派手さはないけど動きに迷いがない。横に置いた広い皿へフライパンを傾ければ、目玉焼きが二つ、滑ってお皿に収まった。

 フライパンをシンクへ移してから、少年、わたしの愛すべき弟が振り返る。

「そんなとこに立って、どうしたの、悠宇ちゃん」

「んーん。ただいま」

「おかえり。そしておはよ。シャワー浴びて来ちゃいな。その間に準備しちゃうから」

「はーい」

 片手を上げて返事して、わたしは廊下に引っ込んだ。洗面所兼脱衣所に入れば、着替えの部屋着が下着を含めてもう準備してあった。弟が、頼みもしてないのにいつの間にか用意してくれてるのだ。いつものことになっちゃって今となっては驚くことも感謝することも減ったけど、冷静に考えるとうちの弟はできすぎた少年だ。学業も疎かにせず、我が家の休日の家事全般を軽々こなし、平日にもわたしのお弁当を作ってくれる。家事だけじゃなくこういうところでも先回りしていろんな準備をしてくれもする。それに頼り切りになってるお姉ちゃんはいつか手痛いしっぺ返しを食らうことになる気がするよ。

 浴室でさっさと汗を流し、中学の時から変わらずに着てるかわいげの欠片もないトレーナーを着て、ブオォーとドライヤーを掛けてからダイニングに戻った。伊織が椅子に座って食パンにマーガリンを塗ってる。テーブルの上には真ん中にレタスとタマネギのサラダと目玉焼きが、弟の席と向かいの席の前にはトーストとグラスに入った牛乳が置いてあった。向かいの席にあるのはもちろんわたしのだ。

「美味しそう」

「はは、でしょう? 今日のドレッシングはゴマドレです」

「やった。ゴマドレ好き」

 椅子に座る。伊織がマーガリンを塗り終わるのをそわそわと待った。

 それから手を合わせる。

「いただきます」

「召し上がれ」

 食前の挨拶もそこそこにさっそく箸をのばす。目玉焼きをつまんでトーストにのせる。うちは目玉焼きには塩こしょうを掛ける。醤油のときもあるけど塩こしょうが好き、ケチャップもありだと思う。黄味が端っこになってるところを噛む。半熟の黄身がとろっとトーストの上に広がる。ふふ、幸せ。昔は白身が好きだったんだけど今は半熟の黄味が好き。

 弟がふふりと笑った。

「なによ」

「いい笑顔で食べてくれるから」

「伊織が作るものは美味しいんだもの」

「ありがと」

 それだけお互いに言い合って、あとはのんびり食事に向かった。家だと食事中はあんまりお喋りをしない。テレビも付けない。静かな空間に、小さく食器がぶつかる音だけが響く。時々掃き出し窓の外から鳥のさえずりとか野良猫の鳴き声とかが聞こえてくる。そうすると二人して窓の外を見て、いないね、って目だけで会話して、食事に戻る。

 弟は成長期真っ盛りだから、食事の量が多ければ食べ終わるのも早い。早々に食パン二枚と目玉焼きとたくさんの野菜を平らげて、空になった食器をキッチンに持って行った。伊織は最近ぐんぐん背が伸びてきて、背中も男っぽくなった。身長を抜かされたのはもう二年くらい前で、それからも身長差は増すばかりだ。わたしに十センチくらい分けてくれてもいいんだけどなあ。

 そんなことを考えていたら、カウンターキッチンの向こうで弟がふと思い出したみたいに口を開いた。

「そういえば、今朝、お父さんからメールが来てたよ。お母さんからも」

「……、そう」

「うん。お父さん、来週末には帰ってこられそうだって。お母さんは今日、夜遅くなるって」

「あっそう」

「うん」

 伊織は困ったみたいにちょっと笑った。わたしのせいなんだけどやや空気が悪くなる。

 両親の話は嫌いだった。あの人たちがわたしたち姉弟の保護者であって、あの人たちがいなければ生活が成り立たないことくらい分かってる。最近やっと分かるようになった。でも、だからといって彼らを好きになれるわけじゃない、許せるわけじゃない。あの人たちもそれは分かってるのだと思う。どうせわたしにはメールは送られてきてないし、最近は謝罪の言葉もなく、彼らはわたしから目を背けるだけだ。

 わたしも、両親をあからさまに責め立て罵るようなことはしない。所詮大人は、子どもの意見の正しさを軽んずる。それがたとえ自分たちの娘の言葉であろうとも、真実を含んでいようとも。大人の苦労を分かっていない、わたしたちにはわたしたちの理由がある。そうやって有耶無耶にして、表面では同意して見せても絶対に聞き入れない。まるでわたしが聞き分けのない子どもであるかのように扱うばかりだ。それならわたしが何を叫んだって骨折り損というもの。

 悪いのは、わたしではないはずなのに。

 お互いへ裏切りをはたらいている、あの人たちのはずなのに。

 トーストを口に詰め込む。むぐむぐ咀嚼しながら、サラダを入れていたボールと目玉焼きののっていたお皿も重ねてキッチンへ持って行く。伊織はキッチンでバーチェアに座って優雅にコーヒーを飲んでいた。

「ごちそうさま」

「おそまつさまでした」

 弟はわたしにもコーヒーを淹れてくれてた。片手でコーヒーをすすりながら、空いた片手でわたしにマグを向けてくれる。弟はブラックだけど、わたしのそれはミルクをたくさん入れたやつ。砂糖の入ってないコーヒーの美味しさに気づいたのは最近だ。ブラックの美味しさを知るにはまだ長い時間が掛かりそう。「飲み始めれば慣れるよ」なんて得意げに伊織は言うけど、積極的に慣れたいとも思わない。

 姉弟で並んで、窓の外を見つめながらコーヒーを飲む。高椅子とはいえ座っているはずの弟と、立っているわたしとの視線の高さはそんなに変わらない。ほんと、弟は大きくなったよな。身長も味覚もわたしの方が遙かにおこちゃまだ。それだけじゃない。性格もこの子は随分大人びた。

「あの人たちを許してやれ、なんて言わないけどさ」

 弟は穏やかに口を開く。

「せめて、表面だけでも、仲良くしてやりなよ」

 何気なく言っているようで、口元をマグカップに隠してる。色々な思いを苦いコーヒーで飲み下しているに違いない。それは分かっていても、その言葉は両親の味方をしてるように感じられて、わたしと同じ境遇にあるはずの弟がそんなことを言うのは裏切りに思われて、つい憎まれ口を叩いてしまう。

「なによ。伊織はあの人たちのことが好きなわけ」

「そうじゃ、ないけどさ」

「じゃあどうしてそんなこと言うのよ。伊織はあの人たちに優しくしてるし。好きなんでしょ」

「そうじゃないってば……!」

 伊織が言葉尻に苛立ちを滲ませる。むくれた顔は年相応に幼く、その表情にわたしはふと安堵する自分に気づいた。体も心も、成長の兆しがまるでないわたしと比べて、弟はどんどん大人になっていく。わたしは少なからず嫉妬してるらしい。ますます子どもっぽい。

 だめだなあ。下唇を噛んだ。こんなお姉ちゃんはだめだめだ。

「ごめん。大変なのは伊織なのに」

「そうだよ。ちょっとは手伝って欲しいね」

 肩をすくめて弟は言うのだった。

 いつだったか、伊織に訊いたことがある。

 どうしてあんなやつらに優しさを向けてやるのか、あの人たちの前で笑っていられるのか、って。

 そしたらこの子は、今よりもずっと幼い顔で、身長だってまだわたしとそう変わらなかったのに、くしゃくしゃの苦しそうな笑顔で言ったのだ。

 僕まであの人たちと仲が悪くなっちゃったら、悠宇ちゃんの帰ってくる場所、なくなっちゃうでしょ。

 わたしの弟は、きっと子どもながらに勘が良かったのだと思う。具体的なことを何一つ分かっていなくても、正解にだけは辿り着けていたのだ。あのときは、わたしも、そして口にした弟本人でさえも意味が分からなかった言葉。今なら分かる。伊織までわたしのように両親に対して消極的になれば、あの人たちはきっと一緒に居るべき意味を見失う。父親はますますここには帰ってこなくなるし、母親もそのうち知らない誰かの家に入り浸るようになるかもしれない。そのあと起こることは目に見えている。

 両親が関係を解消することはどうでもいい、どうぞご勝手に、とすら思う。でもそうなるとわたしたち姉弟はどうなる。両親のどちらかについて行くのか? 冗談じゃない。どちらにしてもごめんだ。だけど無力な高校生たるわたしでは、ひとりではどこへ行くことも叶わない。家出をして、少ない友人の家を転々として。そんなやり方に先がないのは分かってる。弟を放っておく訳にもいかない。

 だから、現状維持が一番良いのだ。積極的には両親へ関わらずに済み、この家を占有できる、現状が最適解なのだ。

 だけど現状維持には、最低限、両親と関係を保つ必要がある。両親と関係を保ち、両親の関係を保ち、なあなあで有耶無耶な笑顔を作り続けなければならない。

 わたしたちは悪いことしてないのに、どうしてそんな、気の張ることをしなければならないんだろう。彼らへ笑顔を向けるのは苦痛で仕方ないし、そもそもわたしにそんな表情は似合わない。誰かに合わせて笑うのは嫌いなんだ。だからわたしは、彼らの前でうまく立ち回ることが出来ない。弟に辛い役目を押しつけてしまっている。

「わたしのせいなのに。伊織は悪くないのに。悪いのは、あいつらなのに。ごめん」

 すると伊織は、両手で持ったマグを腿の上に置いて、ふぅ……、と長い溜息を吐いた。視線を遠く遠く、どこかへ向ける。それからちょこっとだけ目を伏せて、ちらりとわたしを見て、最後にはコーヒーに視線を落としてから口を開く。

 迷うように、感情を抑え込むように、その声は少しだけ震えていた。

「べつに僕は、誰が悪いとか、誰が正しいとか、そういうのはどうでもいいんだよ。ただ悠宇ちゃんが笑っていてくれれば、それでいいんだ。だから僕は頑張れる」

 伊織は顔を上げて、わたしへ向けて、にへらと微笑む。

 珍しくも感情的に言葉を吐露する弟を前に、顔がこわばってしまうのを自覚する。この笑顔にどれだけの感情を隠しているんだろう。これまでわたしは、この子にどれだけのものを背負わせてきてしまったんだろう。善悪にこだわって、自己弁護に終始するわたしとは違う。いつまで経っても子どもっぽい姉を伊織は責めず、それどころか優しい言葉さえ向けてくれる。

 いたたまれなくなって目を背けた。鼻の奥がつんとして涙が滲んでくる。ミルクがたくさん入った茶色いコーヒーを口に含むと、まだ熱くて火傷しそうだった。ままならない自分にますます泣けてくる。弟には隠しようもないけどなるべく自然に涙を指で拭った。もう一度コーヒーに唇を付けて、「あっつい」と言い訳がましく言っておく。泣いているわけじゃない。火傷しそうになって涙が滲んだだけなんだ。

 弟は笑わなかった。柔らかな声で言葉を向けてくれる。

「やっぱり悠宇ちゃんはそのままでいいや。僕のぶんまでお父さんとお母さんを嫌ってあげて。そういう役回り、そういう分担でいこう。僕だって思うところはあるから」

「……うん」

「うん。まあ、そうだね。僕こそごめんね。弟なのに説教臭いこと言っちゃった」

「そんなことない。わたしよりよっぽどしっかりしてるから。いっそお兄ちゃんにでもなる?」

「やめとく。僕は悠宇ちゃんの弟がいい。はい、この話はおしまい」

 そう言って、パチンと片手で膝を叩いて、伊織は立ち上がった。残ったコーヒーを一気に呷って、マグをシンクに置く。洗い物を始めるようだ。わたしはもう一度「ごめん」と言って、足早にダイニングへ避難した。手伝う、という選択肢はない。わたしが手伝おうとすると弟はしっしとわたしを追い払うのだ。これについては改善の余地があると信じたいところだけど、どうやらわたしは家事に対する適性がないらしい。無理にでも手伝おうものなら、洗い残しがあるわ、水をまき散らすわ、酷いときには手を滑らせて皿を割るわで、ひとりでやった方が早い、などと一刀両断される始末なのだった。練習すればできる気がするのに、弟はまったく取り合ってくれない。以前、悠宇ちゃんはキッチンには立たないで欲しいとまで言われたことがある。洗い物に限らず、家事全般にわたり、成功した例しが驚くほど少ない。僅かな成功例は、弟が付きっきりであれこれ教えてくれたときだけだ。難しいことをやっているわけじゃないはずなのにどうしてうまくできないのだか。いや、他人事みたいな言い方をしてしまったけど、自分のことなのよね。

 手早く、鼻歌を歌いながら洗い物をこなす弟を、椅子に座って眺める。カチャカチャと小気味のよい音が響く。伊織は何をやっても絵になるし大概上手にやってのけるけど、キッチンに立っているときが一番楽しそうだ。将来はいい主夫になりそう。でもダメな女に引っかかりそうでもある。伊織は優しいから。

 洗い物を終わらせて、伊織はダイニングテーブルに戻ってくる。わたしの向かいに座る。

「悠宇ちゃん、今日は学校に行くんだよね」

「うん。須永のバスケの練習試合。若宮と見に行く」

「あー、友達の。お弁当はいるの?」

「んーん。お昼前には終わるって。そのあとも練習があるって言うから、若宮とわたしは、もしかしたら寄り道してから帰るかも。でも暗くなる前には帰ってくるつもり」

 と、これといって若宮と話し合ったわけでもない予定をつらつら考えながらふと思いつく。

「そうだ。伊織も見に行く?」

 普段、休日の弟は家事に専念してくれているから、たまには外に連れ出してやりたい。友達はいるのにこの子ったら、「掃除とかしなきゃだし」って言って遊びに行くことがほとんどないのだ。それだからと孤立するわけでもないのだから器用なものだけど、でも、息抜きくらいはしてほしい。あ、わたしも、掃除は手伝っていますよ?

 案の定……というのか、弟はわたしの提案に目をぱちくりとさせた。

「え? いや、僕が行ったらおかしくない? 悠宇ちゃんが友達の応援に行くのに、そこへ弟がついていくのって変じゃない? お邪魔じゃない?」

「若宮は気にしないんじゃないかなあ。もしかしたら喜ぶかもよ」

「でも、ほら、僕は洗濯物とかあるし」

「手伝うよ。家を出るのは九時過ぎでいいんだし。まだ時間あるし」

「買い出しとか……」

「試合は午前中で終わるんだから、それが終わったら行こうよ。荷物持ちくらいならわたしでもできるんですよ?」

「んー……」

 伊織は腕を組んで困り顔をする。断る理由を探してる。

 でも、本当に嫌ならはじめにはっきり断ってるはず。昔のわたしと違って、弟はちゃんとイヤなことはイヤと言えるいい子なのだ。普段と違うことをするのが苦手なところはわたしに似てしまったみたいだけど。つまり、有り体に言ってしまえば、伊織はちょっとビビってるだけ。

 視線をあちこちにふらふらさせて、わざとらしく難しい顔をして、最後にはわたしを見上げる。そんな仕草もわたしに似てるような気がする。

「ほんとに行ってもいいのかな」

「もちろん」

 わたしは大きく頷いてやった。

 伊織は、「じゃあ、行こうかな」と笑みを浮かべた。

 そういうわけで、伊織も須永の練習試合へいくことと相成った。

 それを若宮にSNSで伝えたら、案の定返信は嬉々としたものだった。それを伊織に見せれば、ほっと息を吐いていた。

 日曜日の朝はそんな感じで幕を閉じる。

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