6 生徒指導室:ぎこちない会話
生徒指導室、なんて入るの初めてだった。ここに呼び出されるのはよっぽどの悪事をはたらいた生徒とか、じゃなきゃそれと同罪になるくらい成績の悪い生徒くらいなもんだろう。温かいココアの缶を両手で持って、真鍋の後について怖ず怖ず足を踏み入れる。
部屋の明かりに導かれて戸をくぐると、暖かい空気が顔にふわっと当たる。思わずほうっと息を吐いた。手の中でココアを転がす。真鍋が買ってくれたものだった。もともと彼も自販機へ向かう途中だったのだという。自販機は生徒玄関を入ったところにあって、生徒指導室から行くなら教室棟を通ると遠回りな気がするんだけど、散歩でもしたい気分だったんだろうか。教師の仕事はブラックだと聞く。息抜きに校舎を歩き回ってたのかも知れない。それが息抜きになるのかは分からないけど。
部屋に入ると正面には北向きの大きな窓があって、左右の壁はステンレスの本棚で埋まってた。本棚にぎっしり並んでるのはファイルやら、プラスチックケースやら。アルバムやクリップで留めただけの紙束もある。時々「教育」だの「構造」だのといった難解なタイトルの書籍が挟まってるけど誰か読むんだろうか。ファイルの背表紙は乱雑な文字が並んでるばかりで中身は分からない。近寄ると西暦が書いてあるらしいことだけは読み取れた。何をまとめてるんだろう。
「そんなとこ見ても面白いものなんかねえぞ」
部屋の窓寄りに長机が二つ、長辺をくっつけて並べてあって、こっち側と窓側にパイプ椅子が二つずつ置いてある。真鍋は向こう側の椅子の片方にどかりと腰掛けた。隣の椅子には、今朝も見たトートバッグとコートがあった。
真鍋がちょいちょいと向かいの椅子を指差す。ここまで来ておいて遠慮するのも変だ、「ありがとうございます」と一言置いて、真鍋の斜向かいのパイプ椅子にわたしも腰を下ろした。座面が冷たい。リュックは隣の椅子に置かせてもらった。
てっきり残ってる仕事でもやるのかと思ってたのに、真鍋は大きな欠伸をすると、ブラックの缶コーヒーをすすって溜息を吐いた。背もたれにまるっきり身を預けて、天井へぼんやり視線をやってる。完全無欠のくつろぎモード。眼鏡を外して目頭をもむ。まだそんなに歳はいってないと思うけど、よれよれのくたびれたサラリーマンみたいな仕草だ。
それを横目に、ココアを机に置いてリュックからスマホを出す。須永に生徒指導室にいる旨のメッセージを送っておいた。ついでに、弟にも帰りが遅くなるとメールしておく。
そのまま癖でついついSNSを開いて、投稿されてる写真を流し見してしまう。手作りアクセの写真をよく投稿してた女の人が、久しぶりに写真を投稿したと思ったら、自分の子どもが産まれたという報告だった。夫に撮ってもらったのか、赤ちゃんが女性の腕に抱かれて眠ってる。幸せそうだ。幸せそうな家庭だ。この赤ちゃんもきっと幸せに育つに違いない。喜ばしいことのはずなのに、胸の内がドロドロ濁っていくような気がした。嫉妬してるわけじゃない。この赤ちゃんは抱きしめたいくらいにかわいい。でも同時に、胃の中のものを全部ぶちまけたくなるくらい気持ち悪かった。
ほんとは羨ましいのかも知れない。でも認めたくないからスマホから目を離す。急いでスマホをリュックの奥底にしまった。
顔を上げると、いつの間にか真鍋は小説に目を落としていた。机に斜めに向かって、組んだ足の上に置いた左手で本を持って、右手は机に頬杖ついている。時々右手でコーヒーをすする。なんだか気取った仕草だけど、意外と様になっていた。小説の内容のせいなのか、ふと顔をしかめたり、眉を上げたり、そんな表情はモデルみたいな雰囲気にハマってなくて、でもそれがなんだか、作り物すぎなくていい。自然な態度なんだと思わせた。
わたしの視線に気づいたか、徐に真鍋が目を上げた。片眉が上がる。わたしは首を横に振って、ココア缶へ手を伸ばした。真鍋は何も言わなかった。
「いただきます」
プルタブに指を掛けながら言う。
「おう。他のやつらには内緒な」
真鍋は本から目を上げずに答える。
くだけた言い方がちょっとおかしくて、ふふ、と鼻から息が漏れた。
カシュリと缶を開ける。口に近づけるといい香りがした。まだ熱かったけど、ちょびっと唇をつける。喉の奥を通って、温かさがじんわりとお腹に広がる。飲み下すと体から力が抜けた、背もたれに身を預ける。ふぅ……と長い溜息が出てしまう。
外はすっかり暗くなっている。真鍋の向こうにある窓には、外の景色の代わりにわたしたちが映ってた。意味もなく上を見れば、シマシマともブチとも言いがたい変な模様の天井があった。天井ってこんな模様だったのか。教室も一緒だったかなあ。
遅ればせながら真鍋の欠伸が移ったみたい。体を丸めて隠す、目尻に浮いた涙を拭う。急に暖かい部屋に来たせいか、妙に眠かった。でも目の前に真鍋がいては寝るわけにもいかないし。やることないなあ。
暇つぶしに、このあと須永とどんな店を見て回ろうか、考えを巡らす。化粧品だけじゃなく、服屋をあちこち冷やかすのも楽しそう。最近新しい雑貨屋の店舗が入ったからそれを見のもいい。続きが気になってる漫画はそろそろ新巻が出る頃かな。キモカワグッズを扱う店は須永がきっと回りたいと言うに違いない。かわいいイヤリングとかあったら欲しいかも知れないな。帰りに甘いものでも食べて帰ろうかしら。あ、弟にもお土産買って帰ろう。
とまあそんなふうに想像を働かせてみても、早々に限界がやってきた。ちらりと腕時計を見てしまったときにはもうダメだった。だってあれだけわちゃわちゃ考えていたのに、五分も経ってない。秒針も長針も、短針ですら恨めしい。短針なんて、短いんだからさらっと一周くらい回っちゃえばいいのに。
時計とにらめっこすれば、見つめれば見つめるほど秒針がのんびり屋に思えてくる。わたしになんの恨みがあるんだ。高校入学祝いに買ってもらって以来、お前を大切に扱ってきたつもりなんだぞ、わたしは。
手持ち無沙汰のあまりに竜頭をくりくり回して、一時間半くらい時刻を送ってみる。むふふ、わたしの時計ではあと五分で七時になるな、わたしの時計では。須永はもうすぐ来るかなあ。
いやまあ、来ないんだけど。七時でもないんだけど。
わたしは何をやってるんだろう。仕方なくリュックの奥からスマホを発掘して、腕時計の時刻を合わせ直す。スマホにはいつの間にかメールの着信があった。差出人は伊織、さっきわたしが送ったメールの返信だ。
『あんまり遅くならないようにね
夕飯はどうするの』
んー。たぶん家に帰ってから食べます。美味しいの作っといて。
メールを返してから、またもSNSのアイコンへと指を伸ばしかけた自分を固く戒める。だめ、スマホのいじりすぎは。なんでだめかって言うと、なんでか分かんないけど。誰に言われたわけでもない。でもどうしてか、スマホばかり見ている自分が醜く思えた。自分だけじゃなくて、暇さえあれば画面を眺めている人間全般のことを実はこっそり軽蔑していた。
でもそんな自分を俯瞰してみて思う。ほんとはスマホのことなんかどうでもよくて、ただ周りに迎合することが嫌いなんじゃないかと。みんながやっていることをやらないわたしが好きなんじゃないかと。周囲とはちょっとずれてる自分に酔っているんじゃないかと、そう思うのだ。
自分を好きな自分は、あまり好きじゃない。でも気づくと、自尊心を満たすことに必死になってる。周囲を軽蔑してでも満たしたい自尊心ってなんだろう。
自分のことなのに、どうしてこうもままならないのか。わたしはわたしが嫌いだ。でもそんなことを思ってしまう自分のことは好きなのかも知れない。考え始めるときりがなかった。こういうときは、思い切り叫んでどこかに走り出してしまいたくなる。そうじゃなきゃ指を噛んでしまいたいのだけれど、悪癖だと理解しているから人前ではやらない。
「大丈夫か、枯野。腹でも痛くなったのか」
突然そんな声が聞こえた。
はっと顔を上げれば、目の前には真鍋がいて、彼はわたしを見ていて。そしてここは生徒指導室だった。
「いや、えっと、違います」
「そうか? 苦しそうな顔してたぞ」
「すみません。ほんとに大丈夫です。ちょっと考え事してて……」
そんなに酷い顔をしていたのだろうか。わたしが笑ってみせても、しばらく真鍋はじっとこちらを見ていた。
深呼吸をした。大きく息を吐いたとき、初めて、肩に力が入っていたと自覚する。いつの間にかぬるくなっていたココアに口を付ける。甘い香りに内心のモヤモヤが溶けて流れてくみたいだった。真鍋の視線はそのうちに自身の手元へ戻っていった。
何を読んでるんだろう、と首を傾けて真鍋の手元を覗き込んでみる。この、見るからに堅物そうな先生のことだから、お堅い、
真鍋もこちらの仕草に気づいて、ちょっと本を傾けて表紙を見せてくれた。ほっそりとした女性が窓辺に佇むイラストが描かれている。右上にタイトルが柔らかなフォントで記されていた。
『風花の樹』
「ふーか? の、き」
「かざはな、と読む。晴れた日にちらつく雪のことらしい」
「へえ……。どんな小説なんですか?」
「……恋愛小説だ」
「れんあい」
れんあい、ってあの恋愛か? 真鍋が?
真鍋が顔を上げる。
「お前、今、似合わない、って思っただろ」
「いえ、めっそうもありません」
「嘘が下手くそだなぁ」
真鍋が呆れて言う。ただ、彼にも自覚があるらしく、自嘲気味に笑って肩をすくめた。
「まあ、そうだよな。俺が恋愛小説なんか読んでたら笑うよなあ。しかも登場人物は学生だ。俺よりも枯野の方が似合いそうだ。枯野は、本、読むのか?」
「いえ、あんまり……」
というか全く読まない。小説に限らず、書籍全般に縁遠かった。漫画は読むけど決まったシリーズの続きを買うくらいで、たくさん読んでるわけじゃない。あと、新聞の見出しでときたま気になったのがあれば、そこだけさらっと目を通すことがあるか。新聞を読めるわけだから、活字が嫌いなわけでもないと思うんだけど、きっかけがないというか。たくさん売ってるからどれが面白いとか分からないし。人気作だからって買って、漫画で失敗したことあるし。買うのに勇気がいる。
わたしの言葉に真鍋はやや残念そうな顔をすると、ぱた、と本を閉じた。栞、挟まなかったけどいいんだろうか。それから彼は、閉じたその本をわたしへ向ける。
「え?」
「あー、……読んでみるか?」
「え、いいんですか?」
まだ半分くらいしか読んでないみたいだったけど。
「これ、一回読んだことがあるんだ。あ、いや、読みたくねえならそれでいい。学生は本を読め、とかそんなことを言うつもりはない。まあ暇つぶしくらいにどうだ、と思ってな。あと一時間くらいあんだろ、友達の部活終わるまで」
「でも、先生が暇になりませんか?」
「実はもう一冊ある」
空いている片手でトートバッグの中をごそごそ漁って、真鍋はまた別の小説を取り出した。
『パンくずと胡桃』
どういう小説かは分からないけど、表紙は、真っ黒の背景にタイトル通り食パンと胡桃が映ってる写真だった。なんとなく暗い内容を思わせる。どうして二冊も持ってるのか不思議に思ってそれらを見比べていると、作者が同じことに気づいた。聞いたことのない名前の作家さん。もともとわたしは本を読まないから、もしかしたら有名な人なのかも知れない。
「こっちの方がいいか?」
真鍋は二冊目もわたしへ差し向けた。
どちらにしても受け取るか逡巡したが、ここまでしてもらっては断りづらく、頭を下げながら一冊借りた。真鍋がさっき読んでた方、『風花の樹』っていうやつ。恋愛小説って言ってたし、わたしでも読めるかも、と思った。
「先生、本が好きなんですね」
「んー、まぁな」
答えながら、真鍋はさっさと読書へ戻っていった。さっきまで違う小説を読んでたのにこれといって未練はなさそうだ。すぐに物語の世界に飲み込まれて、真剣な顔に変わる。その表情を目の端に見ながら、わたしも本を開いた。ちゃんと本を読むの、中二の夏休みに読書感想文を出さなくちゃいけなかったとき以来じゃないだろうか。
――冬枯れの樹をひとり、ただ立ち尽くして眺めていた。
そんな一文から始まる、快活な女子大学生を主人公にした物語。夢のような恋愛と残酷な現実とが上手に纏められていて、文章そのものも軽やかで読みやすい。真鍋の読む小説だ、というバイアスでちょっと気負って読み始めたんだけど、いつの間にやら引き込まれていた。
高校卒業をきっかけに別れた元彼とは、未だに友人のように連絡を取っている。大学では恋人が出来ず、さりとて不満もなく友人に恵まれ充実した生活を送っていた。ある日、元彼に「やり直さないか」と持ち掛けられる。だけど主人公は彼との「友人」という距離感が気に入っていて、それが崩れしまうのを嫌って断ってしまう。
時を前後して、主人公は偶然にも道端でまた別の高校時代の男友達と再開する。彼は主人公の元彼と親友でもあった。彼は元彼が復縁を望んで、断られたことを知っていた。彼と思い出話に花を咲かせていると、突然、主人公は交際を申し込まれる。以前から好意を寄せていたが、当時は友人と恋仲にあった手前、言い出せなかったのだという。
……とまあ、だいたいそんな物語。主人公がどんな答えを出すのか、仮に交際するのだとしたら元彼との関係はどうなるのか。わたしだったらどうするかなあ、なんて思ってふと小説から顔を上げたちょうどその折りに、
コンコン
入り口の戸がノックされた。わたしも真鍋も、揃って扉へ顔を向ける。
「入っていいぞ」
真鍋が言えば、そろりそろりと戸が引かれる。須永がこわごわと顔を覗かせた。
本を長机に置きながら腕時計を確認すれば、もう十九時を回ってた。あっという間だ。じっと読んでたせいかちょっと肩も凝ってる。座ったまま思い切り背伸びをした。んうー。ほぅ、現実に戻ってきた感じ。
「一年の須永です。悠宇を……枯野を迎えに、来ました」
「ん」
真鍋は立ち上がって、彼もやはり伸びをする。ただでさえ長身なのに、両腕を上げて思い切り身を反らすととんでもない威圧感だった。ビルみたい、こっちに倒れてきそう。そして蛍光灯の交換に脚立が要らなそう。さすがに言い過ぎなんだろうけど。
わたしも立って帰り支度をする。とはいえリュックにしまうものもない。
「これ、ありがとうございました。あとココアも」
小説を真鍋に返した。
ん、と受け取りながら彼は口を開く。
「面白かったなら、貸すが」
「あー、いや。面白かったんですけど、いいです。えっと……」
借りちゃうと、読まなくちゃっていう義務感でいまいち楽しめなそう。返すときに感想言わないといけないかな、とか考えるし。でもそういうの本人に言うわけにもいかないし、なんといいわけしたものか。
言葉を濁してたら、真鍋は「そうか」と気にせず小説をトートバッグの中へ片付けてしまった。少なからず肩透かしを食らう。もう少し何かあると思ったんだけど、わたしが自意識過剰なだけ?
最後の最後に消化不良なものを残しつつ、この後の予定もある、もう一度礼を言って須永と共に部屋を辞した。真鍋は残った仕事を片付けてから帰ると言う。それならさっきやってればよかったのに……と思ったけど、生徒の前じゃできない仕事なのかも知れない。
廊下を渡り、生徒玄関をくぐって校門を抜ける。須永とたわいないお喋りしながら歩く。道中、須永が、「よくあの真鍋先生と一緒にいられたもんだね」とただただ感心したように言った。
「そう?」
「だっておっかねえもん。なるべく近づきたくない」
「あはは、そうかも」
彼女の言うとおり真鍋はおっかない。何を考えてるのか分からない。でもまあ、悪い先生ではないのだろうと、今日一日の出来事だけではあったけどそう感じられた。ちらっと今日を振り返って気づく。帰り道が一緒になっちゃうから、仕事があるって言って時間をずらしたのかも?
真偽のほどは分からない。わざわざ後日問いただすようなことでもない。でもあの先生ならそれくらいの気遣いはしてくれるのだろうなあ、とは思えた。
それから、約束通り須永と一緒に電車に乗ってショッピングモールへ行った。ぐちゃぐちゃどうでもいいことを話しながらあちこちを回った。目的の口紅を目にして須永が尻込みし、そうとなればかわいい服でも買うかと服屋に入ってこっちでも恥ずかしがる。ついでにあっちこっちの店を冷やかして、途中で甘いものが好きな弟のためにちょっと高級なチョコを買いつつ、まるっきり趣旨を外れて予想通りキモカワグッズに目を輝かせる須永に呆れたり、弟が買ってくれた口紅と同じものを見つけてその値段に驚いたりした。
結局、最後に須永が買ったのは、薬局に売ってたかわいげのないトップコートだった。バスケで爪割れちゃうかもしれないから、なんて言ってたけど、さては怖じ気づいたな。
ま、人はそうそう簡単に変わることなんか出来ないか。なーんて達観したこと言ってみる。わたしだって変われるものなら変わりたい、変わろうとしてる須永はすごい。それに比べて、わたしは変わろうとしてるのかしら。
そんなこんなで一日が終わる。須永とは駅で別れ、家までは自転車だ。良くも悪くもルーティーンから外れた一日だった。締めとしては、まあまあ悪くない日だったのだろう。
ただ、悪くない日、というだけであって。
振り返ってみると、何か大きな変化があったようにはやっぱり思えないのだけど。つまらない一日だったように、思えてしまうのだけど。
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