5 教室:放課後、ひとりでぼうっとしていたとき

 冬の夕空は綺麗だ。教室の窓からぼんやりと空を見上げて思う。

 目の覚めるような朱が西から差して、東になるにつれて藍と混ざり合う。空は暗くなりつつあるのに、雲が夕日を反射して輝いている。この空の色を表現するのにどれだけの語彙が必要なんだろうと漠然とした疑問に襲われる。

 机に頬杖をつく。誰も見てないのをいいことに、ただただ黄昏の空に魅入っていた。夕空はあんなにも輝いているのに、たったひとりわたしだけ残っている教室はどこか薄暗くて、その寂しさにも酔ってた。

 なにも、無為に教室に残って黄昏れてるわけじゃない。きっかけはお昼休みの終盤のことだった。

 大波乱に満ち満ちたわたしの告白物語(大いに誇張あり。というかわたしが告白したわけじゃない)を語り終え、みんなでその余韻に浸ったあと。ふと須永が問うてきたのだ。

「あれ、悠宇。口紅変えたか?」

「ん? あ、そうそう。良く気づいたね」

 ほんと、よく気がついたものだ。嬉しくなって、実物を見せながら、弟に誕生日プレゼントでもらったことを話す。嬉しいとつい饒舌になるのは、あとで思い返すと恥ずかしいやつだけど話すときには気にならないよね。

 で、途中でふと冷静になって、友人たちの視線が気になり始める。つまんないと思ってるとき、人は隠そうとしてても割に簡単に表情に出る。女の子はそういうの隠すの上手なタイプが多いけど、若宮も須永も少数派の女子だった。類は友を呼ぶというやつだな。何を隠そう、苦手筆頭がわたしだから。何を隠そうというか、何も隠せない感じ。むしろ率先して話を遮ろうとするタイプです。

 どう続けたものか、いやいっそ不自然でも話を切り上げてしまおうか、と思って言葉が詰まったところで二人が相槌を打ってくれる。

「へえ、いい子だよな、悠宇の弟くんは。まだ中二だろう?」

「ねー。お弁当も作ってくれてるんでしょ? いいなあ、わたしもそんな弟がほしい。ちょうだい?」

「あげません。若宮にはお姉ちゃんがいるじゃない」

 よかった、話には乗ってきてくれてる。それだからって、面白いと思ってるかは分からないけど。いや、面白い話でもないのだ。ただ、わたしが弟に誕生日プレゼントをもらった、というだけの話を面白いと思う方がどうかしてる。

 つまんない話をべらべらしてしまった、と先に立たない後悔を後から後から乱立させる。友人たちへ向けている笑顔が引きつりそうになる。

 そのうちに、須永が呟いた。財布のことを引きずっていたのだろう。

「わたしも、口紅くらい持っていた方がいいのかね」

 そんな言葉に真っ先に食いつくのはもちろん、若宮だ。

「おっ、須永ちゃんにも春が!」

「いや、わたしたちの中で須永が一番春爛漫でしょ」

「ぐっ、それもそうだね……」

「やめろやめろ、そんなんじゃない。透もそんなことで落ち込むなよ」

「そんなこと、じゃないやい!」

「あ、あぁ、悪かったよ」

 どうどう、と若宮を宥めてから、「ともかく」と須永は仕切り直す。

「悠宇のそれは、どこで買ったものなんだ? この辺りの店なのか?」

「んー、たぶん、うちの駅前のショッピングモールかなあ」

 他に化粧品を色々扱ってる店も思いつかない。どこで買ってきたか、なんてもちろん聞いてないけど、伊織おとうとの活動範囲から考えてもそこが妥当だろう。田舎は買い物する所なんて限られてる。ましてや、ちょっとおしゃれな商品を扱っているところとなればなおさらだ。

 売ってるのはどの辺りなのかしら、とモールの中を思い浮かべているうちに、ふと今朝のことを思い出してしまった。家に帰るためにはまた電車に乗らなきゃいけないことに気づいてしまった。

「……今日、一緒に見に行ってみる?」

 思わず、ぽろっとそんなことを口にしてた。理由が理由なだけに、いや、とすぐに提案を撤回しようとしたけど、思いの外に須永の食いつきがよかった。

「ほんとか! ……あ、でも、いいのか、今日も部活があるんだが」

 目を輝かせたのも一瞬のこと、須永はすぐに顔を俯かせた。そんな申し訳なさそうな顔をされたら、こっちが言い出しちゃった手前、断りづらい。それに一緒に帰ってくれるならその程度のことお安い御用だった。

 むー、と声を上げたのは若宮だ。

「いいなあ、わたしも行きたい。でもバイトがあるー」

 唇を尖らせてる。この若宮を置いていくのは心苦しい。今日行きたいのはわたしだけの都合だし……。

「バイトの休みはいつなの?」

「日曜日」

「って言ってるけどどうする?」

「すまない、日曜日は練習試合なんだ」

「だそうですけど若宮くん」

「……諦めます」

 がくっ、と首を落っことす若宮。ぐちぐち言わず引き際が良いのは彼女の美点だ。

「でもっ!」

 あっという間に若宮が復活した。わたしへ上目遣いに視線を向ける。

「日曜日、一緒に須永ちゃんの試合見に行こ?」

「んー、いいよ。須永もいい?」

「ああ、場所もここの体育館だしな。是非見に来てくれ」

 須永が頷く。

 そんなこんなで日曜日の約束が交わされて、今日は今日で須永とお買い物が決定したわけである。

 というわけで、現在、放課後。わたしはひとり、教室にて須永の部活が終わるのを待っているのだった。

 さむっ。首をすくめる。染め物にでも使えそうなくらい濃厚な赤の太陽は、その名残すらがもはや山間に消えようとしている。中天はすっかり夜の色だ。教室にはエアコンがあるけど、放課後は集中管理とかいうやつで使えなくなってる。窓際の席は窓の縁から冷気が這い出てくる。若宮の席でも借りようかしら、と鞄をとって立ち上がった。上着の袖に腕を通しながら、教室の中央あたりの席へ移動する。

 ほう、と一息。さすがに白くはならなかった。黒板の上の壁掛け時計を見上げる。時刻はまだ十七時にもならない。須永、部活終わるの何時って言ってたかなあ。十九時しちじ……だっけ? 練習試合前だし、長引いたりしそう。自販機であったかい飲み物でも買ってこようかな。

 財布を求めてリュックの中を探ってたら、カラリ、廊下側の窓が開いた。びっくりして顔を上げると、誰かがこちらを見ている。薄暗くてすぐには誰か分からなかったけど、よくよく見れば真鍋だった。

「えーっと、か、か……」

 真鍋が何かを言おうとして詰まってる。「か」ってなんだ。あ、わたしの名前か。

「枯野です」

「枯野……さん」

「『枯野』でいいですよ」

 そんな無理して丁寧に言わなくても。普段、生徒をそんなふうに呼んでないでしょ。

 今朝はわたしの名前なんかひとっつも知らなそうだったのに、いつの間に知ったのか、わざわざ調べたのか……なんて疑ったのは一瞬だけ。今日は三限が生物基礎の授業だった。授業開始直前、教室へ入ってきた真鍋が教壇に立ったとき、一瞬だけ彼と目が合った。真鍋はすぐに逸らしたけど、ちょっと驚いた顔をしてた。教卓には席順に合わせた名簿が置かれてるから、そのときにわたしの名前を確認したんでしょう。

 すまんな、と真鍋が表情を歪める。苦笑したのだ、と分かるのにちょっと時間が掛かった。

「枯野は帰らねえのか。明かりも点けないで」

「友達が部活終わるの待ってるんです。デンキは、夕日が綺麗だったんで、べつにいいかなって……」

 眼鏡の奥で、真鍋の視線がわたしを通り越して窓へと向かった。「夕日が綺麗だった」とか、妙に芝居がかった台詞だったかな。気取ったやつとか思われたら嫌だなあ。

 こうしている間にも刻一刻と空は暗くなっていく。夕日などもう見る影もない。朱は濃紺に塗りつぶされて、星明かりと主役を交代している。真鍋はあの夕日を見られなかったのかな。それはもったいないことだ。もったいないと思うかどうかは人それぞれだけど。

 真鍋は軽い調子で言う。

「夕日、綺麗だったのか。見逃したな」

 ほんとにそう思ってるのかよ、とつい眉根が寄った。他人の話に合わせて心にもないことを言う人間は嫌いだ。真鍋の表情は教室が暗くてよく見えない。小さく肩をすくめるシルエットだけは窺えた。

「じゃ、明日はいい天気なんだろうな」

「そうですね」

 頷いて返すと、真鍋も頷いて、窓から身を離した。なんだろう、教室の見回りでもしてたんだろうか。

 会話が区切れるのをきっかけに、教室が冷え切っていたことを思い出す。思わず身を縮めて太ももを両手で擦った。上着の襟元に顎を埋める。そろそろマフラー出した方がいいかなあ、でもどこにしまったっけ。家に帰ったら伊織に聞いてみよう。

 ふと廊下へ視線を戻せば、まだ真鍋がそこに立ってわたしを見ていた。目が暗さに慣れてきて、ぼんやり彼の表情が分かる。難しい顔をしていた。

「どうしたんですか?」

「いや……。友達の部活はいつ終わるんだ?」

「十九時頃、って言ってたと思いますけど」

「その間、ここで待つつもりか?」

「その、つもりです」

 他に行くところも思いつかないし。あと二時間弱。寒いけど、我慢するほかない。

 すると真鍋はちょっと考えてから、言いづらそうに口を開いた。

「生徒指導室、来るか。エアコン効いてるぞ」

「え、いいんですか」

「まあ。悪くはないだろ」

 ほんとにいいんだろうか。あったかいところの居られるなら確かにありがたいけど。なんか微妙に歯切れの悪い言い方なのが気になる。よく分かんない先生だ。

 真鍋との距離感も分かんないし、そんな状態で真鍋とひとつの部屋に二人きりになるのもなんだか気疲れしそう。魅力的な提案ではあるけど、辞退しようかな。

 そう思って断りの言葉を口にしようとしたのに。

 不意に、鼻がむずむず。

 抑える間もなく、くしゃみが出た。間抜けな声が教室に響く。

 うぅ、ティッシュどこだ。リュックからポケットティッシュを取り出して鼻をかむ。頬に触れた手が冷たかった。やば、早く体をあっためないと風邪引きそう。

 教室の隅に置いてあるゴミ箱に丸めたティッシュを捨てに行った。席まで戻る途中に真鍋を見ると、気の抜けた笑顔を浮かべてた。馬鹿にされてるみたいでちょっとだけむっとする。同時に、恥ずかしいところを見られたと居心地の悪い気持ちにもなる。

 何に対してかは分からないけど、対抗心が燃えた。これが反抗期というやつか。違うか。

「行きます、お邪魔します」

 気づけばそんなことを言っていて、仕方ないから挑戦的な視線を送ってみた。

 それなのに真鍋は、むしろどこかほっとしたようにちょこっと首を傾げ、頷くだけだ。

「ん。友達にはちゃんと連絡しとけよ」

「はい。ありがとうございます」

 真鍋はくるっと踵を返して廊下をのんびり歩いて行く。リュックを背負って彼を追った。

 廊下の暗がりに、真鍋の羽織る白衣の背がゆらゆらと揺れていた。

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