3 教室:若宮と隠し事
学校の最寄り駅に着いてからも真鍋は一緒に歩いてくれた。何を話すでもなかったし、そもそも隣に並んで歩いていたわけでもないけれど、一歩先を、わたしに気遣っていることの分かるのんびりとした歩調で、彼は足を運んでいた。
校門をくぐれば、朝練をする野球部やサッカー部の元気な声が校庭に響く。教室へ向かう他の生徒の姿はない。朝練のある人はもう部活が始まってるだろうし、朝練のないやつらはもう少し来るのが遅い。校庭の喧噪からは壁を一枚隔てたような、不思議な静けさが漂う。顔に当たる空気は相変わらず冷たかった。
生徒玄関の前で真鍋は立ち止まる。
「教室には行けるか」
「はい、その、ありがとうございました」
「いやいい。俺はいつもあの時間の電車に乗ってるから。乗る車両も変わらん」
「はい」
何かあれば声を掛けろと言ってくれてるのかもだけど、言葉少なでいまいち伝わってこない。眠そうな、ともすれば怒っているとも思えるような表情のまま、真鍋は教職員用の玄関へ行っちゃった。あの人は眼鏡を掛けていない方がいいな。眼鏡があるとものすごく目つきが悪く見える。
とぼとぼと歩く背中を眺めてから、わたしも玄関へ入った。教室へ向かった。
教室には先客があった。戸を開ければ、気持ちの良い挨拶が耳朶を打つ。
「おはよ、枯野ちゃん」
「おはよう、若宮」
クラスメイトの若宮透、バイトに生きるバイト戦士。姉をまねて明るく染めた髪が、挨拶に合わせて今日も元気よく揺れる。こんな朝早くから机に向かって何をやってたんだろう、紙と色鉛筆が彼女の机の上に置いてあった。わたしの席は窓際の前の方だ、そこへリュックを置いて、若宮のところまで行ってみる。
近づくわたしを見て、若宮は慌てて紙を伏せた。えへへへ、とわざとらしい笑みで誤魔化す。
「なに、描いてたの」
まあ訊くよね。わっはっは、そんなことで誤魔化せると思ったか!
「ナイショ」
「なんでよ」
「恥ずかしいから」
「恥ずかしいもの描いてたの」
「そうじゃ、ないけど」
若宮は裏返った紙をぺたぺた叩いて、困ったみたいにはにかむだけだ。そうか。じゃあまあ、いいか。見せたくないものを無理に剥ぎ取って見ようとも思わない。ただ少し寂しくは思う。
空気が悪くなる前に話題を変えてしまおう。
「今日は珍しく、早く来たんだね」
若宮はバイト戦士だ。でもだからといって勉強の手を抜いたりもしない。平日も夜遅くまで働いて、家に帰ってきてから勉強をしてるらしい。良くやるものだ。成績を落とさない、という両親との約束を必死に守ってる。その代わり、ギリギリまで寝ていたいと、学校へ来るのはいつも遅刻寸前の時刻なのだけど。今日は珍しく、早くに来てる。
わたしが言えば、若宮はさっきとおんなじように曖昧に笑うだけだった。ああ、なるほど、絵を描くために早くに来てたのか。話題の選び方が下手だなあ、わたしは。なんとも察しが悪い。
「ごめん、悪意はないんだ。言いたくないなら言わなくていい」
「あはは、ごめんねっ。そのうち、見せられるときに見せたげる」
若宮は両手を合わせて片目を瞑った。んむ、そのときを期待して待とう。仮にその約束がこの場限りのものだとしても。期待していようと自分に言い聞かせた方が気楽だ。
「枯野ちゃんは、反対に、今日は遅かったんだね。いつももっと早くに来てるんでしょ?」
「そう、だね。まあ色々と」
今朝の出来事は、口にしてしまえばもしかしたら少しは気持ちが軽くなったかも知れない。でもあえて思い出したくもなかった。嫌な思い出は心の奥底に沈めてしまうに限る。笑い話にもならないのだし。
困り笑いを浮かべてしまってから気づく。わたしも、若宮と同じように訊かれたことを笑って誤魔化した。彼女を責められたものじゃない。たぶん若宮とは事情が違うと思うけど、それはそれ、彼女からすればそれは分からないのだし。
ただ、若宮はわたしと違って人を気遣える女の子だった。ふとわたしの顔を下から覗き見て、不安げに目を細める。
「目、赤いよ。なにかヤなことあった?」
「あー、まあ」
若宮の机上の紙と違ってわたしの顔は裏返して隠すわけにもいかない。片手を目にやれば、たしかにまだ腫れぼったかった。だいぶ泣いたから仕方がないんだけど。
答えあぐねていると、ところが若宮はわたしが何を言うより先に引き下がった。
「言えないことなら、無理しないで。でも相談には乗るからね、辛くなったらちゃんと話してね」
引き下がったものの、心配そうな表情は崩さない。わたしが頷くと、悲しそうな顔で彼女は笑った。罪悪感が募る。友人にそうやって心配されるのはどうも苦手だ。若宮はいいやつだと知ってても、こうも正面から心配されると、誰であれ、その表に現れる気持ちが、表情が、言葉が、全部嘘なんじゃないかと思えてきちゃうことがある。このうえ今朝のことを話せばさらに気遣われるに決まってる。気遣いの言葉は、ますます嘘っぽく思えちゃうに違いない。
いやなやつだ、わたしは。友人の善意を疑っている。優しさを素直に受け取れない。ありがと、と口にしたその声はどこまでも薄っぺらかった。それなのに若宮は「いいよ、待ってる」と頷くだけだ。その言葉にすら裏を探そうとする自分が嫌いだった。
若宮にはなんにも非はないのに、なんだか話してるのが辛くなっちゃって、「邪魔してごめんね」と言ってからわたしは自分の座席へ戻った。優しい友人の視線を感じても、それに応える気力もない。あ、わたしまだ今朝のことを引きずってるのかもな、なんて冷静に自己分析しながら机に突っ伏す。
ほんとは分かってるのだ。引きずってなんかない、だってもう冷静なんだから。こんな自己嫌悪はいつものこと。わたしに笑顔を向けてくれる人間が信じられないのはいつものこと。
他人の善意を信じるのは恐ろしいことだ。自分の善意を疑われると傷つくくせに。
考えるのがいやになって目を閉じる。窓の外からは、運動部連中の騒がしいかけ声が消えつつあった。そろそろ朝練も終わりの時間か。
廊下に増えゆく足音、机のちょっとしたかび臭さ、友人の吐息、目の裏の暗闇に映る幾何学図形。
今日もまた、一日が始まるのだ。
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