2 途中駅:真鍋との会話

「飲むか」

 降りたのは、ホームから階段を上がればすぐに改札があるだけの、売店もない小さな駅だった。電車を待ってる人影すらない、静かな駅だった。

 ホームのベンチに座るわたしに、男が自販機で買ったミネラルウォーターを向けてくる。受け取るのに躊躇したけど、男は自身の分も買っていた。断りづらく、身を縮こめて受け取った。まだうまく言葉が出てこなかったから、小さく頭を下げる。

 わたしとひとつ間をおいて、男もベンチに腰掛けた。肩に掛けていたトートバッグは間の席に丁寧に置いている。それからすぐにペットボトルの蓋を回して、ひとくち口に含んだ。

 それを横目に眺める。薄手のグレーのコートを羽織る、眼鏡を掛けた大人の男。背が高く、細身で、筋肉質だが、表情が薄いせいで陰気な印象を受けた。わたしを気にするふうでもなく、目はホームの屋根を避けて空へと向いていた。通勤時間なのに私服姿だ。それだからと無職という風体でもない。それにわたし、この人どこかで見たことがあるような。

 考えてみても思い出せないし、他人のそら似かも知れない。じろじろ男を見のはやめにして、わたしももらった水を飲む。飲んでから、ひどく喉が乾いていたことを自覚して、一息に半分を空けてしまった。

「ふぅ……」

 息をつくと同時、ようやく声が出せた。あ、あ、と声の調子を整えるみたいに空気を震わせると、やっと自分があの場を抜け出せたことが信じられて、止めようもなく涙が溢れてきた。隣に座る男の他は誰も見ていない。抱えたリュックに顔を伏せて、嗚咽も止められずに泣いた。

 男は何も言わない。わたしを見ているようでもない。ただ、ひとつ空けた隣のベンチに座っているだけだ。それがなぜだか慰めの言葉よりも心地よかった。

 どれだけ泣いたか。寄せた感情の波が引いていき、少しだけ呼吸が楽になったとき。ふと頭の端っこが冷静さを取り戻して、わたしをルーティーンへ急き立てた。気になって腕時計を見ると、いつもならもう学校の最寄り駅を出て歩き始めている頃合いだった。そうは言っても、いつも野球部の朝練が始まるより早く教室に辿り着いているのだ、遅刻の心配はない。

「どうする、学校、行けそうか」

 横でそんな声がした。ぶっきらぼうな物言いだがそれがこの男の常なのかも知れない。泣いている少女に向けた態度とも思えないけど、ちょっと嬉しい。いや、何が嬉しいんだかよく分かんないな。気持ちがおかしくなってる。落ち着かないと。

 答えあぐねているうちに男が立ち上がった。視線だけでその姿を追うと、彼は頭上の電光掲示板へ目をやっていた。腕時計を確認して、またベンチに戻る。田舎じゃないまでも、とてもじゃないが都会とは言えないこのあたりは、電車の数もそう多くない。わたしも気になって電光掲示板を見やる。まだ五分は次の電車は来ないようだった。ホームには疎らに人が集まり始めている、いつまでも泣いていられない。

 視線を下へと戻すとき、不意に男と目が合った。この男の顔、やっぱりどこかで見たことがある気がするなあ。んー、どこだっけ。思い出せそうで……、思い出せない。

 そんなふうに不躾にも男の顔を眺めていたら、ふと男の方が、気まずそうに顔を逸らした。照れているのかしらん、なんて思ったのも束の間、男は言いづらそうに、ぼそりと口を開く。

「お手洗いに行ってこい」

「え?」

「……」

 二度は言わなかった。急かすみたいに親指で背後の階段を示す。

 よく分からないまま、疑いつつも従うことにした。心はともかく、体はさっきの出来事からまだうまく抜け出せないみたいで、ふわふわ足下が覚束ない。なんとか立ち上がって、こっちを見ようとしない男をちらっと窺ってから上階に向かった。

 お手洗いに入り、すぐ目の前にあった鏡を見て気づく。

「うわっ」

 自分で驚いて声が出ちゃった。やばい、化粧が崩れてる。

 崩れてると言ったって、そもそも、化粧水と口紅くらいしか使ってないけど、その口紅が大変なことになっていた。ひとまず制服にはついてないっぽい。リュックも大丈夫。無意識に手で擦っちゃったらしい。右手の甲に口紅が擦れてた。えっと、どうしよう。化粧落としなんて持ってないし……。石鹸で落ちるかなぁ。

 クレンジングオイルもなしに落ちるとも思ってなかったけど、ものは試し、というか他にやりようもないし、ひとまずお手洗いの水道横についてる液体石鹸で擦ってみた。

 これがなんとうまくいって、口の端からこすれて伸びた赤色が石鹸に滲んで、水で流せば落ちてくれた。ちょっとびっくり。誕生日プレゼントに弟が買ってくれた、オーガニックの口紅。今日初めて使ってみて、色の良さにウキウキしていたんだけど、なるほど、こういう利点もあるわけね。知らなかった。

 リュックの中からその口紅を取り出して、端っこだけ塗り直す。うん、いい感じ。

 目が腫れぼったくなっちゃってるのはもうどうしようもない。深呼吸。笑顔を作ってみる。痛々しいけど及第点としておこう。そもそも、わたしに笑顔はあんまり似合わない。造りはそれなりに整っているつもりでも、なんだかつまんない顔をしてるんだよな、わたし。

 前髪もちょこっと手ぐしで整えてからお手洗いを後にした。

 ホームに戻ると、男はベンチで足を組んでスマホをいじっていた。不意に眼鏡を外して、レンズへ息を吹きかける。ポケットから出したハンカチで拭う。

 礼を言わなければと近づいて、眼鏡を外した男の横顔を見て、わたしの脳裏に電撃が走る。お礼の言葉なんか全部すっ飛んでしまった。思わず声さえ漏れた。

「あっ」

 真鍋だ!

 男がわたしに気づき、さっと慣れた仕草で眼鏡をかけ直してこちらを向く。間違いない、この男は真鍋だ。どうして今まで気づかなかったんだろう。

 真鍋……先生。下の名前は忘れた。担当科目は生物で、生徒指導教員。この半年、授業を受けてきたはずなのに、まるで思い至らなかった。それもそのはずで、この先生、普段は眼鏡なんかかけてないじゃない。初めて見たぞ。

「あの、えっと」

 まさか学校の教員に助けられていたとは。思わず口ごもる。

 真鍋も感づいたらしい。

「まさかお前、気づいてなかったのか。状況が状況だったし、俺も眼鏡掛けてるし、しかたねえとも思うが」

「はい、すみません。あの、ありがとうございました」

 頭を下げる。教師だろうと何だろうと、あの場で手を差し伸べてくれたことがどれだけ嬉しかったか。あの狭い空間での怖さを、救い出してくれたあの瞬間を、思い出しちゃって、また涙が滲んでくる。

「やめろやめろ、俺も済まなかった。もっと早く気づいてやれればよかったんだが」

「いえ……」

「どうする。学校休むか。担任は……お前一年だよな。クラスどこだ。言っといてやるぞ」

「いや、行きます」

「そうなのか? まだ電車混んでるかも知れねえぞ」

 あ、そうか……。また電車に乗らなきゃなのか。でも、これで学校休むとか負けたみたいだし、若宮や須永にも会いたい。会ってさっきのことを忘れたい。それに、それとは別の理由で家に帰りたくもなかった。この時間に学校以外をふらふらしてたら補導されちゃう。ルーティーンを逸脱するのは苦手なのだ。

 でも、またあの満員電車に乗らなければならない、のか。女性専用車両へ乗る、という選択肢があったと思ったけど、そもそも片田舎の電車にそんな上等なものあるわけなかった。高校に通い始めた頃、一度確認したことがあったのだ。あったら毎日それに乗ってる。

 答えあぐねているうちに、真鍋がふと息を吐く。

「ま、学校へ行きたいって言うなら、それを助けてやるのが教師の仕事か。いちおう生徒指導教員だしな」

 冗談めかして笑っていたが、普段が無表情なだけに、最高に似合ってなかった。とはいえ、わたしを気遣ってくれてるのはわかる。ははは、とわたしの口から漏れたのが愛想笑いだったのが申し訳なかった。

 どうやら察しの良い人間らしい。わたしの反応に真鍋の顔からすぐさま笑顔が消えた。俯いて、頬をかく。

「俺で構わんなら、一緒にいてやる。……それぐらいしかできねえが、それでもいいか?」

「いえそんな、その、ありがとうございます」

 慌てて首を横に振った。それぐらい、なんて謙遜することない。見知った顔が傍にあるだけでどれだけ安心できるか。まともに会話したのは今が初めてなくらいだけど、いい先生なのかな、と思い直す。授業はわかりやすいのに、生徒指導教員だし、表情薄いし、口調荒いし、そもそも無口だし、と近づきがたい印象だったのが、ちょっと上方修正される。

 真鍋は肩をすくめてから立ち上がった。トートバッグを手に取る。ベンチのすぐ前にあった乗車位置に立つと、わたしをちらりと振り返った。わたしはその背に隠れるように後ろへ並ぶ。

 電車の進入を知らせる警告音と、黄色い回転灯、アナウンス。どこの駅でもさほど変わらないそれらを聞きながら、わたしと真鍋は電車を待つ。

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