わたしは何者かになりたかった。

茶々瀬 橙

1 最寄り駅:電車に乗るところ

 自分が首つり自殺をする、その過程を、その瞬間を、そしてその後を想像することは楽しい。

 前もって頑丈なロープを買っておく。吊す場所は庭の桜でいいだろう。わたしが産まれたのと前後して植えられたらしい、樹齢二十年にも満たない桜。それでも幹は太いし、枝はしっかりしているし、背も見上げるほどに高い。わたしの体を吊すには十分だ。

 家を早朝に抜け出して、朝靄も晴れないうちに枝へロープを掛ける。首つりのロープの結び方、あの、輪っかの根元がぐるぐるしているやつ、やり方は知らないけどきっとネットに書いてあるだろう。あれをやって、準備は万端。わたしの頭の少し上で輪っかが朝の冷たい風にゆらゆらと揺れている。家の中から椅子でも持ってきて、その上に乗って。輪っかの向こうに見えるのはわたしが死んだあとの世界だ。

 でもちょっと待てよ。首つり自殺は死体が悲惨なことになる、って聞いたことがある。糞尿は垂れ流し、体の穴という穴から液体が流れ出る、なんて嘘か誠か知れない話があった。もし誰か、母親か弟かはたまた全くの通りすがりか、ともかくも誰かがわたしを見つけたとき、そんなきちゃない姿だったらどうだろう。どうせ死んでしまうのだから変わらない、と正論をふっかけて来る人もあるだろうけど、わたしはいやだ。

 どうしよう。おむつでも履いて自殺しようか。履いているのがばれたときはとっても間抜けだけど、少なくとも、ぱっと見はそっちの方が綺麗だよね。べつに綺麗に死にたいわけでもないけど、だからといって汚く死にたいわけでもない。腐っているわけでもないのに、臭いのっていやでしょう。

 まあいいや、その辺りの、リアリティを詰めるのはそれが得意な人に任せておいて。

 死んだあとの想像だ。死後の世界の話じゃなくて、わたしが死んだら、誰がどんな顔をするのだろう、という、そんな想像。

 両親はどうかな。まあ、普通に悲しんでくれそう。なんだかんだ、両親ともにわたしたち姉弟のことは愛してくれているようだし。葬式って準備とか大変みたいだけど、泣きながらやってくれるんだろう。

 弟は……あの子が泣く姿はあんまり想像したくない。胸が痛い。自殺をする想像は好きだけれど、弟を残して死んでしまうのだ、と考えると、楽しいはずの想像が途端に色褪せる。あの子を置いて死ぬわけにはいかない、と冷静になってしまう。だからこれは、ただの想像だ。自殺なんて本当にしたりしない。

 友人たちはどうだろう。若宮や須永は泣いてくれるかな。若宮はわんわん泣いてくれそう。須永はむしろ怒るんじゃないかな。どうして死んだんだ、なんの相談もしないで。他に解決方法はあっただろうに、って。わたしのために怒ってくれる気がする。ありがたいことだ。わたしはよい友人を持ったのだろう。彼女たちを悲しませてしまうことも、ちょっと気が引けるけれど、それはそれ。友人たちはきっと一週間くらいで気を取り直して、他の友人と笑い合えるようになっている気がする。特別彼女たちが薄情と言いたいわけじゃなくって、友達、ってそういうもののような気がするから。もしも、例えば若宮が事故か何かで死んじゃって、突然居なくなっちゃっても、わたしはそんなに悲しめない気がする。友人、ってそういうものなんじゃないかなって感じがする。

 そしてわたしが自殺したことが、やっぱり一週間くらい、クラスの話題になって、もしかしたらイジメがあったのかもしれない、なんて話になって、クラスで話し合いがもたれるんだ。もしそうなったら若宮や須永が矢面に立たされるかも知れない。それはちょっとかわいそう。

 そうだ、遺書を残しておくのも大切だ。わたしは誰にいじめられていたわけでもありません、って書いておけばいい。ただ、なんとなく、生きていることがつまらなくなっただけなんですよ、って。そんな理由で自殺するのか、なんて言われちゃいそうだけど、実際、わたしはべつに何かに困っている訳じゃあないし。

 ただ、生きていることが、つまらないだけ。

 何かに苦労したことは、ほとんどない。両親は健在で、それなりに裕福な生活を送ってきた。空気を読んで話題を選び、周囲に合わせて笑うことをそれほど苦だと思ったことがなかったから、友達もまあそれなりにいた。いじめられたこともなかった。勉強も、ちょっとやればまあまあ出来た。中学校時代の定期考査のときも、高校受験のときも、周りが必死に机へかじりついているのを横目に、浮かないようになんとなく机に向かっていた記憶がある。体育は苦手だったが、それが致命的に学業に支障を来すわけでもない。

 だから、これまで、何かに苦労した記憶がなかった。それはきっと幸せな人生なのだろうし、あえて言うならばわたしは世渡り上手だったのかも知れないけど、それは熱情との乖離と表裏一体だった。何かが出来ないから、それでもやり遂げて見せたいから、きっと人間は努力する。その努力が実を結んだとき初めて、人は達成感を味わえるのだと思う。

 わたしは、いまひとつその感覚が掴めなかった。やらなければならないことは最低限の努力で大抵できたが、翻って、やりたいことも別段持ち合わせていなかった。何をしても、充実感を味わえたことがなかった。思い出深いのは中学時代、最後の合唱コンクール。うちのクラスがなんと優勝を果たした。あのときは喜びに沸くクラスメイトと一緒になって笑いながらも、彼らの抱いている感情とは厚い隔たりがあるように感じていた。彼らが抱いた喜びや達成感が、わたしには半分も理解できなかった。それどころか、あの奇妙な、そして束の間の一体感を、気味悪く感じてさえいた。その中で一緒に喜ぶ振りをする自分にも嫌悪感を抱いていた。

 このままではいけない、という漠然とした危機感や焦燥感はあった。元彼と距離を置きたい、というおあつらえ向きの言い訳も時機よくできた。だから何か、環境の変化を求めて、高校は地元から少しだけ離れたところを受験した。最寄り駅から電車で十五分。そこから歩いてさらに十分。家から駅までの時間を考えれば四十分以上が掛かる、住宅街の中にある、年季の入った学校。成績が特別に良いわけでもなければ、部活動で秀でた成績を残しているわけでもなかったが、土地柄なのか、穏やかな生徒の集まる高校だった。なんとなく気に入ってその高校、市立亜祭高校を受験し、なんとなく合格して、今に至る。

 やっぱり努力して何を成し遂げたわけでもなかったけど、自分で学校を選んだことは、ひとつ進歩なんじゃないかと言い聞かせてる。生きていることがつまらない、ということそのものには、大きな変化はないけど。それは贅沢な悩みなのだろうと、そんなふうに思うことも、出来るようになっていた。

 高校に入学して、もう既に半年と少しが経っていた。十一月。猛暑がようやく引いたと思ったら、秋を忘れて途端に肌寒くなった。何か見つかるかも知れないと微かな期待を抱いた高校生活の滑り出しは、なだらかに、順調に、これといって障害もなく進んでいる。しかしそれは、順風満帆とは言い難い。中学までのわたし自身となんら変化がない。やりたいことも見つからないし、周囲とはどことなく距離を感じるし、生きていることにさしたる充実感もない。友人の笑顔が疑わしく思われ、教師の言葉は偽善に聞こえ、むしろ、わたし自身がここに居る、という現実味は薄れているような気さえした。

 わたしは、わたしでなくてもいいような。

 例えばわたしの代わりに、もっと人の良い誰かを配役してくれれば。

 それで何一つ支障なく、平穏に、この世界は回っていくような気がするのだ。

 線路の脇に立っている、黄色い回転灯が光り始めた。カンカン、と聞き慣れた警報音と、頭上からはホームへ電車が進入する旨のアナウンスが流れる。間もなく、電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください。

 そう、例えば今、わたしが黄色い線を踏み越えたところで、そして駅のホームから線路へ躍り出たところで、きっと世界は順調に進む。電車に乗っている人と、乗る予定だった人は、とっても迷惑するだろうけど、そんなことさえも大きな口で飲み込んで、日常という奔流は現実を押し流していくのだろう。

 簡単だし、痛みもなく死ねるのかも知れない。だけど線路への飛び込み自殺は、遺族が大変な思いをするらしい。損害賠償だのなんだのと、お金が随分と掛かるのだとか。それを考えると尻込みしてしまう。弟を除けば、愛しているなんて冗談でも言えない家族だけど、べつに迷惑を掛けて憂さ晴らしをしたいわけでじゃない。それに、飛び込み自殺のニュースをテレビやスマホで見れば、どうしてもっと穏当な方法をとらなかったのかと、自分の都合で人様に迷惑を掛けるなよと、そんな偽善的な憤りを覚えるのも事実だった。

 まあ、そんなことはどうでもいい。本当に自殺をするわけじゃあ、ないし。自殺をしたいと思うほど切羽詰まってもいなければ、実行する度胸もない。わたしは今日も、なんとなく学校へ行って、なんとなく授業を受けて、なんとなく一日を終えるのさ。

 そのためには、ひとまず電車に乗らなければならない。小さく溜息。空想に煙った脳みそに冷たい空気を送る。首から冷気が這い上がってきて、ちょっと首をすくめた。

 ちょうど電車が目の前を走り抜けた。押しのけられた空気に煽られて、髪がびゅおうと舞う。顔に掛かる横髪を押さえつけながら、止まりかけの電車へ一歩寄った。止まるに合わせて、ドアの前に立つ。いつもこの駅で降りる人、いないし、わざわざ横へ避けて待つ必要もないでしょう。

 と、そこで顔を上げて気づく。眼前のドアにあいた窓に、たくさんの人間が内側から肩や手を押しつけている。視線を横へずらし、車窓にも目を向ければ、そっちにもすし詰めにされた人間が見える。高校に通い始めて、この時間にこの電車に乗り始めて半年経つけど、こんなに乗客がいたの初めてだぞ。

 ぼんやりしていた意識が鮮明になるにつれて、ホームの喧噪も耳に入ってくるようになる。いつもなら駅の利用者すら疎らなのに、わたしの後ろに何人も並んでる。なんで?

 後で知ったけど、他の線路で人身事故があってこの電車が迂回路になっていたらしい。それだけなら駅で乗る人は増えなかっただろうに、よりにもよってこの駅から出ている路線バスまで主要道路の事故とかで遅れていたらしい。電車に乗っている人も、乗る人も多いわけだ。

 そのときはそんなことを調べる余裕もなく、ひとまずドア前から身を躱した。一本電車を見送る手もあったのかもしれないけど、このときはただ戸惑うばっかりで、そんなことは考えもしなかった。突発的なことへの対処はいまいち苦手だ、というのがひとつの反省。乗る直前でリュックを体の前に抱え直す程度の気は回ったことを褒めてほしい。

 もともと降車する乗客のいない駅なのだから、迂回路で乗客が増えたところで降りる客などいるはずもなく、ドアが開くと同時、わたしは後ろに並ぶ人に電車内へ押し込まれる。後ろのおっさんが、通勤用の鞄でわたしの背中をぐいぐい押してくる。そんなに押されたって進めないっつの!

 なんとか人を押しやって奥へ進む。座席の前まで行ければよかったけど、そううまくはいかず、前後左右に大人が立つ、その間に挟まれる位置で落ち着いてしまった。外の景色を見る余裕もない。ぷしゅう、とドアの閉まる音がした。ぐらりと足下が揺れて、進行方向に立っていたたばこ臭い会社員がわたしに遠慮なしによりかかる。これだけ満員なら、どれだけ押されようとかえって転ぶ心配もない。鞄を抱え込んで、揺られるままに身を任せた。十五分、もしかしたらちょっと遅れて二十分くらい。辿り着くまでの数駅を我慢しよう。

 スマホもいじれないし、音楽を聴こうにもイヤホンを鞄から出せない、隣はたばこ臭くていらいらする。たばこの臭いが他人に不快感を与える、という単純な事実にも無頓着な喫煙者は嫌い。

 目を瞑ると臭いをきつく感じる気がして、視線をふらふら動かす。平均にも遙かに届かない自分の身長を久しぶりに呪った。どこに顔を向けても、見えるのは人間の背中とかお腹とかだけ。時々、一瞬だけ人垣の隙間から窓の外が見えるけど、今居るのがどの辺りなのか確認する間もない。暇だ。死ぬほど暇だ。いつもだったら空とか街とか見て過ごしているのに。

 そういえば、女性専用車両ってこの電車にあったのかな。そんなことを思ったのは、たばこ臭いおっさんとは反対側に立っていた若めの会社員が持っていた鞄に、わたしのスカートが引っかかって少し持ち上がっちゃったからだ。慌てて直したら、頭上で会社員が小さく頭を下げたのを感じた。満員電車なのだ、多少は仕方ない。だけど途端に、周囲にいるのが大人の男なのだと意識してしまって、ちょっと怖くなった。見える範囲に女の人の姿がない。逃げ場がないのだと思ってしまった。

 どうしよう、何かあったら、叫べば誰か助けてくれるのか。不安のやり場がなく、リュックにぶら下がったクマのキーホルダーを握りしめた。

 もしかしたら、そんなこと考えなければ良かったのかも知れない。不安な表情が、男性特有の嗜虐心を刺激してしまったのかも知れない。満員電車に乗ったわたしがいけなかったのかも知れない。冷静に考えればわたしに非などありはしないけど、そのときのわたしは、そうやって縮こまることしかできなかった。

 はじめは、後ろに立ってる誰かの鞄が当たってるんだな、くらいにしか思わなかった。

 どうやらそうじゃないらしいと気づいたのは、大きな掌が、ぎゅうと押し当てられたからだった。

 鳥肌が立った。偶然だよね。そう思い込もうとしたのに、掌がゆっくりと左右に動き始めた。勘違いじゃない、触られてる。

 叫ぼうとしたのに、喉の奥が詰まって呼吸もうまくできなかった。誰かに気づいてもらおうにも、体もがちがちに固まっていた。手首を掴み上げて、ただ叫べばいい。どこかの駅で見た、勇敢な女性を描いたポスターが頭をよぎる。だけどなんの役にも立たなかった。

 怖い、怖い。

 気持ち悪い。

 何で誰も気づいてくれないの。

 涙が滲んだ。悔しかった。こんなにも嫌なのに、震えることしかできない自分が悔しかった。早く終わってほしい、次の駅にはいつ着くの、次の駅で降りればいい、だけどこんなにたくさん人が居て降りられるの?

 どうしたらいいか分からなくて、目を瞑った。声を漏らすと何をされるかわからないから、ひたすら唇を噛んでいた。大丈夫、スカートもタイツも履いてる。直接触られているわけじゃない。

 電車が不意に大きく揺れる。多分線路がカーブに差し掛かったのだ。それをいいことに、掌が強く押しつけられて、それどころかぞっとするような動きで指に力を込めてきた。

 堪えきれずに、小さく声が漏れた。咄嗟に口を押さえる。声を出せば助けてもらえるかも知れない、なんて可能性に気づく余裕もなかった。

 どうしようどうしようどうしよう。

 公共の場だ、という事実すら忘れてあるはずのない想像が頭の中から溢れ出てくる。おねがい、そのままでもいいからそれ以上はやめて。わたし、我慢するから。もう声出さないから。

 目の端から、涙がこぼれた。誰かに見られたらいけない気がして、鞄に顔を埋めた。

 そのときだった。

「すみません」

 前の方で、男の声がした。誰かが座席を立つ気配が人越しに伝わってくる。

 間を置かず、人をかき分けて眼前に男が現れた。筋肉質の、背の高い男。びっくりして首をすくめる。この男もわたしに何かをする気なんじゃないかと、そう思った。だけど、小声でその男は言う。

「大丈夫か」

 はじめ、わたしに言っているものとは思えなかった。

「大丈夫か」

 男は同じ言葉を繰り返した。気づいたときには、男の顔を見上げていた。自分がどんな顔をしているかも分からない。男は真っ直ぐにわたしを見て、それから周囲へさっと視線を巡らせる。

「誰がやったのか、分かるか」

 膝が崩れてしまいそうになった。いつの間にかあの気持ち悪い掌の感触が消えている。この男は気づいてくれたのだ。

 口を開けば泣いてしまいそうで、わたしは黙ったまま首を横に振った。そんなこと分からない。後ろを振り向きたくもない。誰がやったかなんてどうでもよかった。ただ、早くこの場を離れたい、その一心だった。

 男は、「そうか」とひとつ頷く。また周囲へ厳しい視線を向けたが、それらしい人は見つからなかったらしい。ちらっと窓の外へ目を向け、また視線がわたしに戻ってきた。それだけで、なんだか安心できるようだった。

「いったん、降りるか」

 わたしの心を察したみたいに男は訊く。頷くのに寸分の間さえいらなかった。

 そのときちょうど、次の駅へ到着するアナウンスが流れる。電車が徐々に減速、停車する。ガコン、とドアが開く。人垣を押しのけて、男はわたしをホームまで導いてくれた。

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