八三 日本三大悪妖怪から神様へ 祟徳天皇~後編~

【絶望の末に妖怪になった】

 保元の乱は祟徳天皇が負けるのですが、ここから彼が妖怪へと変わっていきます!


「祟徳天皇は反乱を起こした戦犯だ!」という事で、讃岐(香川)に流刑となりました。

そしてこの後祟徳天皇が讃岐うどんを作り、後の丸亀製麺になった……という歴史的事実はありませんw


 祟徳天皇は仏教を心の拠り所とし、争いを起こしてしまった反省と犠牲者への供養の意味で、五部大乗経(法華経、華巌経、涅槃経、大集経、大品般若経)のお経を書き写す、写経を行います。


 そして写経を終えた祟徳天皇は……

祟徳天皇「写経を犠牲者の供養の為に、都に置いてほしい」

 という事で、京都にいる後白河天皇の元に送るのですが……


後白河天皇「なんか呪いとかかかってそうでヤダ! 怖いから送り返しといて」

と言って、祟徳天皇の写経を突っぱねてしまいました。


 自責の念、そして供養の為に折角書いた写経が受け入れなれなかった、祟徳天皇の無念は計りきれないものだった事でしょう。

 この事で激怒した祟徳天皇は舌を噛みちぎります。そして、自分の血で送り返された写経に

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん。この経を魔道に回向えこうす」と書きます。

その意味というのは……

「日本の大魔王となって、天皇を民衆の地位に落とし、民衆を天皇の地位につけてやる! この写経は呪いの書だ!」という意味ですね。


 心を込めて書いた写経に、祟徳天皇の失意と血で書かれた呪いの言葉は確かに怨念が強そうです。

 その後、祟徳天皇は髪や爪を切らず伸び放題となり、生きたまま天狗になったという伝説もあります。

 そして46歳という若さで亡くなるのですが、祟徳天皇の遺体を納めた棺から血が溢れ出てきたという恐ろしい伝説があります。



【祟徳天皇の死後】

 祟徳天皇が血で書いた呪いの写経ですが、海に捨てられたとか、燃やされたとかで、様々な憶測が流れているものの、どうなったのかわかりません。

 

 さて、祟徳天皇を罪人扱いした朝廷ですが、供養を行わず、葬儀は周囲の人だけで行われた質素なものでした。

 そして祟徳天皇の遺体は香川県にある白峰山に埋葬されます。


 祟徳天皇の死後、都では不吉な事が起こります。

 

 安元の大火という火事で、平安京のほとんどが燃えてしまい、朝廷関係者が相次いで亡くなりました。 

 貴族の間でも「祟徳天皇の祟りでは?」と囁かれ始め、後白河天皇も祟徳天皇の呪いを意識しはじめたのか、その怒れる御霊を静めるために、祟徳天皇が眠る場所に白峯寺しろみねじを建てるのですが効果はありませんでした。


 祟徳天皇を倒すための保元の乱でしたが、この争で活躍した平家、源家などのサムライ達が力を着け、天皇家より権威が大きくなり、次第に政権が奪われていきます

 

 そして1177年に平家と源家が争う、源平合戦が起きます。


 これによって天皇家の権威の象徴である三種の神器は、平家によって持ち出されました。しかも草薙の剣は消失してしまいます。

 このお話はこちらに詳しく書いてあります↓

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893517248/episodes/1177354054893698696



 源平合戦後は源家によって実権は奪われてしまい、祟徳天皇の呪いの言葉通り、天皇家の地位は落ちてしまったのです。


 時は流れて明治元年、明治天皇によって香川県の白峰山から祟徳天皇を祭る神像を京都に移し、その神像をご神体とした白峯神宮が建設されたのです。

 祟徳天皇は長い長い時を経て、念願叶い、やっと京の都へ帰る事の出来たんですね。


 このように明治天皇は祟徳天皇は退治するのではなく、神様として祭る事で怨念を沈めたのです。


 また明治天皇が祟徳天皇の御霊を静める事が出来たから、徳川家から明治天皇へと政権を返上される、大政奉還と王政復古の大号令が成功したと言われています。


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