六九 魔王から神様になった!? 織田信長~前編~

 織田信長は歴史が苦手な人でも知っているくらい、有名な戦国武将です。信長は現在、京都の建勲神社たけいさおじんじゃにて神様として祭られています。


 神社の創建は、1869年(明治2年)と比較的新しい神社で、「信長は戦乱の世を治め、日本を一つまとめたから」という事で神社が建てられました。

 

 このように神様に昇格した信長ですが、彼のあだ名は『第六天魔王』で、勇者に倒されてもおかしくない、異名がついてるのに、神社で祭られる事になりました。


 それでは信長の活躍を見ていきましょう!



【そもそも、なんで戦国時代になったの?】

 戦国時代とは、1467年に発生した室町幕府の後継者争いから始まり、1615年に徳川家康が『大阪夏の陣』で、豊臣家を滅ぼすまでの約140年間、国内で内戦が相次いだ期間を指します。


 140年間も国内で戦争が相次いでいたなんて、平和ボケしている現代日本人からすれば考えられませんねw

 スマホを見ていようものなら、弓矢に当たってしまうかもしれませんw


 全ての始まりは、室町幕府8代目将軍がポンコツだったからだと言われていますw


 室町時代は比較的大きな争いはなく、農民、商人など庶民の文化が花開いた時代でもありました。

 繁栄と豊かさの象徴とも言えるのが、金色で有名な京都の『金閣寺』です。


 しかし平和な時代も長く続きませんでした。


 8代目将軍、足利義政あしかがよしまさはあまり政治に興味がなく、しかも優柔不断で八方美人だったようです。なんで、こいつを将軍にしたんだ! ってツッコミたくなるような人物でしたw


 彼には日野富子ひのとみこという妻がいたのですが、2人には子供がおらず、跡継ぎがいませんでした。

 そこで、義政の弟である足利義視あしかがよしみが将軍を継ぐ事になっていました。

 しかし、跡継ぎが決まっているのにタイミング悪く、富子と義政の間に男の子が生まれたのです。


義政「男の子が産まれたね。でも、跡継ぎは義視に決まってるからね」

富子「やだ! 私は、この子を将軍にしたいの! 義視じゃやだー!」

 

 富子は騒ぎ、息子の足利義尚あしかがよしひさを将軍にしようとしますが、面白くないのは跡継ぎに決まっていた義視です。


義視「うるさい! 富子! 俺が将軍になるって決まってるんだ!」

富子「いやよ! この子が将軍になるのよ」

 

 母の愛がやがてお家騒動に発展します。


 しかし現将軍の義政は八方美人の優柔不断なので、どちらにも良い顔をしていた結果……富子と義視のケンカは、国中を巻き込んでいき、1467年『応仁の乱』へと発展します。

 この争いが切っ掛けで室町幕府の権力は衰退していき、日本は140年も続く戦国時代へと突入していきます。



【魔王登場】

 お笑い芸人で現在YouTubeで活躍してる、中田敦彦さんの動画『エクストリーム日本史』で、敦彦さんは「信長を一言で例えるなら“バイオレンス&イノベーション!”だ」と語っていました。

(中田敦彦さんのエクストリーム日本史は、とてもわかりやすくて楽しいので、是非視てみてください。オススメです)


 敦彦さんの言葉通り信長は、新しい技術や政策を行い、力と暴力で戦国の世を押さえつけた常識にとらわれない破天荒な人物と言われています。


 そんな信長ですが若い頃には変な格好をして、城下町のヤンキーグループと遊んでいたそうです。

 また父である織田信秀おだのぶひでの葬式にて、家臣や親族が喪に服しているなか、信長は変な格好で現れて、焼香の時、抹香をつかんで仏前に投げつけるという奇行に出ました。


 さてヤンチャな織田信長ですが、1560年の桶狭間おけはざまの戦い今川義元いまがわよしもとを倒し、一躍有力な戦国武将になります。

 そして、「同じ愛知県民どうし、頑張ろうじゃないか!」と三河の領主である徳川家康と同盟を結び、織田&徳川の連合軍が完成しました。


 現代で例えるなら、別会社どうしが業務提携を結ぶみたいなものですね。


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