25. 悪戯シュアー
「響ちゃん、時間だよ」
小鳥の小さいながらもよく通る声が図書室の静寂に馴染んでいく。
時間? 何のことだ、と思って時計を見る。壁掛け時計の短針は六時を過ぎようとしていた。
「ああ、この後、買い物行くんだったな」
「うん。新しいマフラー欲しいなーって思って」
そこで小鳥の服装を見る。なんてことはない学校指定のブレザー。まあ、小鳥の着こなしは他の女子とは違い、リボンをしっかり着けているし、スカートの丈も長く、地味ではあるのだが。
学校に行けば嫌でも目に入るそれだが、小鳥が着るとまた違った感慨深さがある。
小鳥は約一ヶ月ほどの不登校期間を抜けて、やっといつもの学校生活に復帰した。
もちろんまだ、鎌谷先生がストーカー行為をやめるか決まった訳ではないが、こうして一度学校に来てみないことにはやめてるかどうかすら分からない。つまり今はお試し期間。けど特にそういう行為をしてくることはないらしいので、一応安心といった所か。
「ってことで細江、そろそろ図書当番抜けていいか?」
学校図書館の閉館時間は十八時なので、仕事を切り上げても文句は言われないだろうが、一応確認で。
「もうこんな時間か。お好きにどうぞー」
「おう、悪いな」
そう断りを入れて、小鳥と共に図書室を出ようとする。その時背中に声がかかる。図書室に響き渡る大きな声で。
「まさか、彼女かい!?」
多分、俺はその時、千葉昴という男を本気で睨み付けていたかもしれない。いや、確実に睨み付けていた、まるでデリカシーの欠片もない発言に。
小鳥というと一瞬で顔が真っ赤に染まっている。こういうイジリは馴れていないらしい。細江は新たな話題に興味津々なのか、目がキラキラと輝いているように見える。
「えっ、えっ。彼女って?」
「それは本人らから言ってもらわないとねー」
ちらと好奇の入り交じった目でこちらを見てくる。正確には俺だけを。隣の小鳥は恥ずかしさでもはや動かない。……俺が答えるしかなさそうだ。
「はあ……。少し前から俺は卯坂小鳥さんとお付き合いさせてもらってる。……これで十分か?」
二人共、意地悪そうに口元に笑みを湛える。揃いも揃って腹の立つ奴らだ。一生、お前らはそうやって付き合ってればいいよ。
とはいえこれ以上、好奇の目に曝されるのは嫌なので、さっさと小鳥を連れて図書室を出ていく。そんな中、昴の面白がる声が明瞭に聞こえた。
「……まったく響太郎も抜け目がないねぇ」
*
学校図書館から生徒玄関に行くまでの間、小鳥が声をかけてくる。
「ねぇ、大丈夫かな?」
「何が?」
「その……私たちが付き合ってるって、広められたりしない?」
なるほど。そういうことを気にする娘なのか、小鳥は。なるべく心配させないよう「ははは」と快活に笑い飛ばす。
「大丈夫だよ。あいつは絶対に情報は流さない」
「本当に?」
「情報屋は一番、情報の価値を知ってる。享楽だけで情報を流したりは絶対にしない。俺が保証する」
中学以来の付き合いの昴だが、少なくとも理由なくあいつが情報を垂れ流したことはない。垂れ流すとすれば……彼女の細江だけだな。
とにかく俺には理解できないが、昴には情報屋としての戒律みたいなものがあるらしく、その一つに『情報は安売りしない』というのがある。しかもそれの適用範囲は、例えどんな情報であっても、だ。
「そっかあ」
そして小鳥は胸を撫で下ろしている。それを見ると、ついちょっとした悪戯したくなってきた。
「あとそんなに俺と付き合ってるっていう情報、流されるの、嫌?」
「えっ、それは……うーんと」
「俺は全然平気だけどな」
小鳥の返答を遮って、さらりとそういう言葉をかけてやる。贔屓目なしに小鳥は可愛い。それに性格もいいときた。どこに出しても恥ずかしくない彼女だと、個人的に思っている。
「……そういうトコ、ズルい」
ボソリと小鳥の呟く声が聞こえる。そっぽを向いていて、表情までは見えないが、まあ、なんとなく分かる。
それから小鳥が玄関まで喋ることはなかった。けどその空気感を全く息苦しいとは思わなかった。むしろ心地良かったかもしれない。
「あ、用事忘れてた」
生徒玄関まで来た頃、急用を思い出す。しまった。忘れてた。しかも今日は金曜日だから、明日って訳にもいかない。
「ちょっとだけ、ここで待っててくれるか。すぐ戻る」
「あ、うん」
悪い、といった風に軽く会釈をして、小走りで目的の場所へ行く。あまり待たせても悪いからな。
目的の場所とは化学教員室。三階の本当に奥の方に部屋があるため、ここからだとかなり遠い。……ホントに遠いな。階段昇るだけでもヘトヘトなんですが……。
ダッシュで行くのを早々に諦め、歩きに移行する。許せ、小鳥。
それでも化学教員室には辿り着く。一応ドアを二回ノックするが、遠慮なく入る。
「失礼しまーす」
化学教員室には鎌谷先生しかいなかった。そもそも化学教員室自体狭いので、あまり先生がいる部屋ではないのだが。
「……ああ、春宮か。どうした」
鎌谷先生はあくまで自然に応答する。何も事情を知らない人から見たら、異常どころか些細な違いも感じないだろう。だが関係者の俺はその不自然を見破った。
微妙に鎌谷先生の唇の端がピクリと動いている。笑みは笑みでもおかしな笑み……に俺は見える。考えすぎかもしれない。
「いや、宿題を出し忘れたので」
そう言って、ごそごそとリュックの中から取り出したワークを手渡す。
「おお、お前にしては遅かったな」
「すみません……」
『お前にしては』と買いかぶられるのは、少々困る。化学のテストは毎回平均くらいは取っているが、優等生という訳ではない。宿題を忘れたことには素直に謝る。
だがちょっと反応が見てみたくなった。
「先週金曜日の帰りのホームルーム、出てなかったので……宿題の連絡、把握できてませんでした」
「ああ……、そうだったな……」
『先週金曜日』という言葉で、鎌谷先生の黒い瞳孔が揺らぐ。動揺を見せんとするためか、視線を机に戻している。
「……先週のことはもう大丈夫か?」
「俺はもう大丈夫ですよ。病院でも異常なしでしたし」
「そうか。それは良かったな」
鎌谷先生は軽く口元を緩めている。その緩んだ表情と俺に対する気遣いの言葉で、あることを確信する。
鎌谷先生は、『鷹瀬カンナ大外刈事件』での俺のことを庇っている、ということだ。
その疑惑は学校で今回の件の後始末をする中で、膨らんでいった。主な例を挙げるなら、俺と鷹瀬の処遇の違い。俺は反省文だけだったのに対し、鷹瀬は反省文に加えて、説教もあったらしい。
処遇について言えば、鷹瀬の方が重いのではなく、俺の方が軽すぎるのだ。鷹瀬は俺を病院送りにしたので、反省文+説教はまだ納得できそうだ。けどそこに至る過程を考えるなら、俺の方が圧倒的に悪いはずだ。俺の処遇の軽さは、そこまでの過程が全く考慮されていない。
俺は最悪、停学くらいは覚悟していた。もちろんそうならないために手は打ったつもりだが。けれど蓋を開けてみれば、覚悟していた、いや予想していた処遇より、全然軽いもので拍子抜けしたくらいだ。
そうなると誰が俺の処遇を軽くしたのか。鷹瀬カンナ? ……NO。説教の中で、俺を庇う暇はなかったはずだ。だとしたら聞き取りをした生徒指導部の教師? ……NO。俺の処遇を軽くする理由がない。最終的な判断をするお偉い教師? ……NO。この事件を隠蔽できればメリットはあるかもしれないが、それ以上に隠したデメリットが大きすぎる。
となると消去法で鎌谷先生しかいないのだ。もちろん積極的な理由がない訳ではない。
例えば良心の呵責に堪えかねて、とか。自分も同じようなストーカー行為を行いながらも、俺は正に断罪されんとし、自分はのうのうと日常生活を送る。その差を辛く思い、俺の処遇を軽くした説。
他にも自分のクラスの生徒が起こした問題なので、なるべく処遇は軽くした方が自分の評価が下がらない。つまり鎌谷先生のエゴだった説。
推測できる理由を挙げればキリがない。まあ、俺にはどうだっていい。少なくともにっくき鎌谷先生に助けられたのは事実なのだ。助けられた時、人はどうするか。そんなことはとっくの昔から決まっている。
「先生」
「んあ?」
「本当にありがとうございました」
恭しく頭を下げる。演技っぽくならないように、下げる角度には細心の注意を払って。
鎌谷先生がこちらを向いたまま、ピタリと動かなくなる。元々の不摂生そうな顔も幾分か青ざめている。
唇がわなわなと震えている。けれどその口から出てくる言葉はない。それを見るや、俺は化学教員室の扉に手をかける。
「失礼しました」
そう言って廊下へ出ていく。もうここに用はない。
*
「小鳥。悪い、待たせた」
「あ、響ちゃん」
だいたい所要時間十五分くらいだっただろうか。小鳥は生徒玄関で健気に待っていてくれたみたいだ。逆にこっちが悪い気がしてくる。
「寒いんだから、中で待ってても良かったのに」
「すぐ終わると思って……。じゃあお詫びに手、繋いでもらおうかな」
「はいはい。分かったよ」
それがお詫びというなら仕方がない。俺は小鳥が差し出して来た小さな手を、ぎゅっと握る。十二月、日は落ち、既に冷たい夜風が肌を刺す。けれどその手の暖かさが、そこに確かにあった。
えらく上機嫌な小鳥が話しかけてくる。
「それで用事ってなんだったの?」
「ああ、忘れ物だよ」
「ふーん?」
この話題に小鳥は興味を失ったようで、代わりに学校であった愉快な話をしてくれる。俺はそれを穏やかな気分で聞ける。
そこでふと過るは最後、俺の「失礼しました」の後に吐いた「ああ……」という鎌谷先生のため息ともつかない一言。そこには困惑とか疲れとか絶望とか、とにかく良くないものを含蓄した一言だったように思う。
それに俺はある確信めいた予感がしていた。
とどのつまり、もう鎌谷先生はストーカー行為なんて絶対にしないな、なんていう予感が。
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