第2話

 目が覚めた俺はベッドで眠っていた。

 なんだ夢だったか……と安心したのも束の間、どう見ても部屋の内装が自室じゃない。

 アンティーク風の部屋は『光と闇のカンタービレ』のスチルに出てくる貴族のお屋敷にそっくりで、これが夢の続き――もしくは新しい現実だと思い知らされる。


「目が覚めたようですね」


 穏やかな声に話しかけられて、俺は初めて部屋に女性がいることに気付く。俺はあの痴女に捕まったのかと飛び起きるが、ベッドサイドにいたのはメイドさんだった。


「……えっと、ここは?」

「ここはとある貴族のお屋敷です。覚えていますか? 貴方は馬車の前に飛び出してきて、そのまま意識を失ったんですよ?」

「……馬車の前」


 そう言えば、スラム街で変態お姉さんに貞操を奪われ掛けたんだったな。そう思いだして自分を見下ろせば、破かれたシャツを着替えさせられている。


「ご心配なく、貴方の着替えをおこなったのは男の使用人です」

「え、あ……はい、ご配慮に感謝します」


 俺が女性に貞操を奪われそうになったことを知っているのだろうかと、少しだけ引っかかりを覚えた。だがいまはそれよりも現状把握と感謝が先だ。


「遅くなりましたが、助けてくださってありがとうございます」

「すべては貴方に興味を抱かれたお嬢様のご意志です」

「そうですか。では、そのお嬢様に感謝しているとお伝えいただけますか?」

「分かりました、間違いなくお伝えいたします」


 そんなやりとりを経て、俺は少しだけ安堵した。立て続けに変な女性と出会って焦ったが、ようやくまともな人間に出会えたからだ。

 話が通じるって素晴らしい。


「ところで、貴方にいくつか質問があります」

「はい、なんでしょう? 俺――いえ、私に答えられることならなんでも」

「では、まずはお名前を伺ってもよろしいでしょうか? 破れてしまってはいましたが、ずいぶんと上質なお召し物を身に着けておりましたが……」

「あぁ……いえ、私はただの平民です。シオンと呼んでください」


 やんごとなき身分かと問われていることに気付いた俺は、一瞬だけ迷って平民を名乗る。

 ここが『光と闇のカンタービレ』の世界なら、貴族を騙るのは重罪だ。苗字を名乗ったからといって貴族を名乗ることにはならないが、よけいなリスクは避けるべきだろう。


「分かりました。ではシオンさん。貴方は病気や怪我をしていますか?」

「病気はしてないです。怪我は……擦り傷くらいですかね」

「なるほど、健康体である、と。報告通り、問題なさそうですね」

「……あの?」


 どうしてそんな質問をするのかと首を傾げる。もっとこう、おまえは何者だ? とか不審者的な扱いで尋問されると思っていた。


「単刀直入にお伺いします。執事としてお嬢様にお仕えするつもりはありますか?」

「……雇って、もらえるのですか?」

「最初に申しましたが、この家のご令嬢が、貴方に興味を示しておいでです。それを踏まえた上で、貴方にその覚悟があれば、ですが」

「覚悟……?」


 俺が異世界から飛ばされてきた――なんて知ってるとは思えない。だとすれば、家を出て働く覚悟とか、守秘義務とかその辺りの覚悟、ということだろうか?


 だけど、俺にとってそれらは問題になり得ない。

 なぜなら、このままなら俺は野垂れ死にするのが関の山だからだ――と俺はベッドから降り立ってメイドのお姉さんと向き合い、それから深々と頭を下げた。


「お願いします。私をそのお嬢様に仕えさせてください」

「……良いのですね? 年頃のお嬢様が、貴方を執事として雇うと言っているのですよ。それ相応の苦労があることを覚悟の上、なのですね?」

「はい、身の程はわきまえているつもりです。ですから、よろしくお願いします」


 頭を下げたまま希(こいねが)う。

 しばらくの沈黙の後、メイドさんは小さく息を吐いた。


「分かりました。貴方にその覚悟があるのならもうなにも申しません」

「それじゃあ……?」

「はい、採用です。ただ、平民にしてはしっかりしているようですが、執事としては言葉遣いや立ち居振る舞いに不安があります。最初は見習いとして勉強していただきます。お嬢様にお仕えするのは、それからとなります」

「わかり――いえ、かしこまりました。よろしくお願いします」

「よろしい。では最初に――お風呂に入っていただきます」

「……あ、そうですね、すみません」


 いまは部屋着のようなものを着せられているが、一日中走り回って汗まみれ。俺自身がかなり汚れているはずだ。

 ということで、メイドさんに案内されて、俺はお屋敷の浴槽へと連れて行かれた。


「ここが使用人の風呂場です。着替えは貴方がお風呂に入っているあいだに用意するので、しっかりと身体を洗ってきてください。……出来ますね?」

「はい、なにからなにまですみません。えっと……」

「これは、名乗るのが遅くなりました。私はクラリッサと申します」

「分かりました。ありがとうございます、クラリッサさん」

「いいえ、お気になさらず。では、後ほど」


 クラリッサさんは踵を返して脱衣所を後にした。

 それを見送った俺は服を脱いで風呂場へと向かう。使用人用の風呂場という話だったが、わりと大きな作りをしている。複数人が同時に入れるようになっているみたいだ。


 元の世界と違ってこの世界に魔術はない。よって魔導具もなく、お湯の出る仕組みもあるはずがない――と思っていたのだが、壁には手押しポンプが設置されている。

 それを操作すると、驚くことにお湯が出てきた。温度を調整することは不可能なようだが、思ったよりも技術が発達しているようだ。


「まぁ……考えてみたら当然か」


 ここが乙女ゲームの世界なら、女性が好むような華やかな設定になっているはずだ。史実の貴族社会があった頃の文明と比べると、それなりに暮らしやすい環境だろう。

 魔術がないことは凄く不便だけど、な。


「そういや……魔術は本当に使えないのか?」


 俺は石鹸を使って身体を洗いながら、魔術について考えを巡らせる。

 魔術というのは、魔力によって構成を編み、その構成に魔力を流すことで物理現象を引き起こす術のことである。

 俺はあのとき、その魔術を発動させようと構成を編んだ。つまり、構成を編むために必要な魔力は存在しているし、俺の魔術の才能がなくなったわけでもない。


 ……いや、正確には違うな。

 構成を編む魔力は自分の体内に宿る魔力を使うが、構成に流し込むのは魔力素子(マナ)、つまりは大気中に存在する魔力の素となる力を使っている。

 魔術が発動しないのは、大気中の魔力素子が存在していないから、か?


 もしそうなら、発動に自分の魔力を使えば解決するかもしれない。大規模な魔術を扱うのは難しいかもしれないが、自分だけが魔術を使えるのならアドバンテージになり得る。

 実験してみる価値はあるだろう。


 ――とはいえ、いまは執事としての振る舞いを身に付けるのが最優先だ。魔術師としての教育を受けてきた俺にとって、執事としての教養は未知の世界、だからな。


 見習いとして雇ってはもらえたようだが、お嬢様の機嫌を損ねたら簡単に解雇されるだろう。そうなったら、俺には生きていく術がない。野垂れ死にコースまっしぐらだ。

 なんとしてもお嬢様の執事として認められる必要がある。


 とはいえ、それなりに勝算もある。ここが本当に乙女ゲームの世界なら、俺はいくつかの未来を知っていることになる。それを利用すれば成り上がることも可能だろう。


 というわけで、風呂から上がって用意された服に着替えた俺は、さっそくメイドのクラリッサから執事としての心得を学ぶこととなった。



 執事としての訓練は厳しいものだった。

 だがこの世界の一般的な平民と比べ、中等部に通っていた俺の教養はそれなりに高かったようで、一般教養は早々に合格。おかげで執事としての教養に集中することが出来た。

 そんなわけで、俺は三ヶ月で見習いから下級執事に昇格することとなった。


 そうして今日、俺はついにお嬢様と面会することになった。

 お嬢様はどんな方だろうと俺はドキドキしていた。実は今日まで、俺はお嬢様の名前はもちろん、この家の家名も教えてもらっていない。その辺りの情報が伏せられていたのだ。


 情報管理がしっかりしている。

 それだけ身分の高いお貴族様、ということなのだろう。


 そんなわけで応接間でお嬢様を待っていると、ほどなく少女が部屋に姿を現した。

 年の頃は俺より二つ三つ年下だろうか? ゆるふわなピンクゴールドのロングヘヤーに、吸い込まれそうなエメラルドブルーの瞳。

 どこか気の強そうな顔立ちをしているが、そこに浮かぶ表情は柔らかい。ちょっと現実ではお目にかかれないようなお嬢様だが……はて、何処かで見たことがあるような気がする。


「わたくしはリディア。ローズフィールド公爵家の娘です」

「お初にお目にかかります、お嬢様。私はシオン。馬車の前で倒れた私を、お嬢様が助けてくださったとうかがっています。その節はありがとうございました」


 感謝の言葉を伝えながら、まさかという思いが沸き上がる。

 リディア・ローズフィールド。その名前を見たのはもう三ヶ月ほど前になるが、さすがにまだ覚えている。それは、光と闇のカンタービレに登場する悪役令嬢と同じ名前だ。


 ……え、悪役令嬢? ってことは……なんだ? 目の前のお嬢様が、将来ヒロインに数々の悪事を働いて破滅するお嬢様、なのか?


 え、ちょっと待って。俺は彼女の執事として雇われたんだよな? でも彼女の執事って、悪事の実行役として処刑されるんじゃなかったか……?

 ……え、あれ、まずくないか?


「す、すみません。ローズフィールド公爵家のリディア様とおっしゃいましたか?」

「ええ、そうよ」

「アデライト国の……?」

「そうだと言っているでしょう。あなた、まさかわたくしの名に不満でもあるのかしら?」

「い、いえ、そのようなことは決してございません。ただ、自分のお仕えするお嬢様が公爵家のお方とは思いもよりせんでしたので、少々驚いてしまいました」

「ふふ、そうよね。このわたくしに不満を抱くなんてあるはずがないわよね」

「え、ええ、もちろんでございます」


 落ち着け、俺。大丈夫、大丈夫だ。

 彼女と共に執事が処刑されると言っても、それは名もなき実行役の執事というモブなので、それが俺だと決まったわけじゃない。

 俺が彼女の執事になっても、悪事に加担しなければ問題ないはずだ。


 もちろん、俺が処刑から逃れる一番の安全策はお嬢様の執事にならないことだ。

 ただ、既に引き受けた仕事を断ることで別の問題が発生するかもしれないし、そもそも俺はここを出たとしても一人で生活するあてがない。

 処刑はされない代わりに、野垂れ死にする可能性が高いと言えるだろう。


 つまり、俺が生き延びる可能性が最も高いのは、彼女に執事として仕えた上で、なんとかして破滅する未来を回避することだ。

 そしてそのためには、ここでお嬢様の不況を買うわけにはいかない。俺は事前に教えられていたとおり、お嬢様の前に膝をついた。


「シオン、わたくしの執事として仕え、その身を捧げることを誓いますか?」

「――はい。この身の持てる全てを捧げます」


 彼女の差し出した手の取って、その甲に額を押し当てる。


「……良いでしょう。では、貴方はこれよりわたくしの執事です」

「ありがとう存じます」


 一呼吸置いて顔を上げると、彼女はふわりと微笑んでいた。

 悪役令嬢らしからぬ優しい顔に、俺は思わず見惚れてしまった。あらゆる手を使ってヒロインを貶めようとする悪女のはずなのに……不思議だな。


 そういえば、原作には彼女の闇堕ちには理由があると示唆する描写があった。結局その理由について語られることはなかったが、探せばそれが見つかるかもしれない。


 それに、リディアは原作よりも幼く、もうすぐ十六歳の俺よりも少し年下くらいに見える。

 つまり、彼女はまだ王子と婚約していない。

 破滅する原因である、パーティーで異性に抱きつかれるという事件が発生するのもまださきの話で、俺が注意すれば防ぐことも可能だろう。


 つまり、お嬢様を闇堕ちから救う道も少なからず残っている。これから上手く立ち回れば、お嬢様を破滅させずに済む未来もある。

 その未来を勝ち取れたのなら、必然的に俺の未来も安泰となるだろう。


 そもそも、彼女の容姿はヒロインを上回るほど愛らしい。性格さえ悪くなければ、王子をヒロインに奪われることもない。

 どうせなら彼女の王子役になりたかったが……それはさすがに不相応な願いかな。ひとまず彼女と自分の破滅を避けつつ、自分がこの世界で生きていけるように頑張ろう。

 

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