温泉鬼行:尾根



 木の陰から、じっと様子を見続ける。


 岩の上に寝転ぶオーガがこちらに気付いた様子はない。


 遠目でよくわからないが、もぞもぞと動いている。あれは…… 尻でも掻いたのか?


 尻なのか、背中なのか、大事なのはそこではない。この距離で相手が油断している事が大事だ。

 まだ遠いとはいえ、ジデルル谷からゴブリンの騒乱会場と比べれば目と鼻の先だ。この距離で気付かれないって事は、オーガの警戒範囲からは外れているのか。一度目線を外し、木の陰に完全に潜り込んだ。


 泊まりも想定して、背負ってきた荷物はそれなりに多い。見つかった時の為に備えて、荷物を地面に降ろして身軽になった。


 再び木の陰から覗き込んでも、オーガの位置は変わっていなかった。陽当たりのいい岩の上は気持ち良さそうだ。良い御身分だな。


 

 オーガが夜行性という情報は無かった。相手の夜目が利かない可能性もある。こちらの暗視スキルを活かして夜襲をかける作戦も考えはした。

 だが、結局はその作戦は見送った。理由は剣や鎧がピカピカ光るからだ。相手の夜目が多少利かなくても、まったく優位に立てる気がしない。

 魔力を流さなければいいのだが、あの頑丈な身体、あの力だ。無理に夜襲をかけるよりも、日中に武具の力を引き出して戦った方がいいと判断した。



 引き続きオーガを観察し続ける。狙撃手でもない身には、今見えるこの距離がどれくらい離れているのか、見当もつかない。わかるのは『けっこう遠い』くらいだ。結局この距離では見続ける以外にできる事など何も無いのだ。


 ……そこで"ハッ"と気付いた。できる事がない? 本当にそうか?


 見える限り、オーガは一体しか見当たらない。ここで一体を挑発できれば一対一にもっていける可能性は十分にある。もう一匹はまだ見つけられていない。もうしばらく様子を見てもいいが、オーガの警戒範囲がはっきりしない以上、長時間の張り込みはリスクが高い。むしろ気付かれていない今がチャンスなんじゃないか?


 これがオークやゴブリンなら、この距離で挑発したところで仲間と一緒にやってくるだけだ。だけど、オーガのあの挑発への乗りやすさ。近くにいない仲間をわざわざ呼ぶだろうか。そんな面倒くさそうな事をするようには思えない。


 それでも、もし仲間を呼ばれたらその時は全力で逃げよう。まだ距離もある。荷物も置いて逃げればそれなりの距離はかせげるはずだ。


 

 背負い袋の口を開いて、中の荷物をごそごそと漁る。あれは確か底のほうに…… あった。

 挑発といっても、この距離で大声は出せない。『ヤッホー』と叫んでも、返ってくるのが山びこだけとはかぎらない。

 背負い袋から取り出したのは鏡だ。一人で山に入るのにそんな物が必要なのか、と問われれば必要だ。

 鏡を使うのはヒゲを剃る時だけではない。自分の身体や装備の目に見えない場所を確認したり、村や街に入る前に身だしなみを確認したりもする。

 マナーの問題ではない。返り血のべったり付いた顔でにこやかに挨拶しても、街には入れてもらえないのだ。

 

 

 幸いにも天気は晴れ。青空がしっかり見えている。さて、やるか。


 木の影から出て、尾根の日なたになっている場所へ入る。日光を鏡が反射する角度を確認して、それをオーガへと向けた。


 ……オーガからの反応は無い。うまく光が当たっていないのか、気付いていないだけなのか。


 微調整をしながら続けていると、しばらくしてオーガが<むくり>と身体を起こした。これは…… 当たっているのか? 


 気付くかと思われたのだが、岩の縁に座るとそのまま動かなくなった。これは気付いていないな。


 どうやら、オーガの警戒範囲からは外れているらしい。さすがにあれほどの索敵を広範囲には行えないか。相手の警戒範囲がわかった事に胸をなでおろす。


 少し手を止めて考えた。ここが相手の警戒範囲から外れているとわかったので、挑発を止める手もある。しかし、オーガがいつまであの岩の上に留まるなんて考えられない。活動を始めれば、いつ見つかるかとビクビクしながら見張りを続けなくちゃならない。

 先日は、茂みの中に隠れていても見つかった。……ここはチャンスにかけてみるか。再び鏡を向けて光を送った。


 しばらく続けると、ようやく気付いたのか、オーガは頭を起こしてキョロキョロと周囲を見渡した。


 そして、遠目でもわかるほどに、確かにこちらを見た。



 《ドクン》

 心臓が跳ねる。


 こちらから挑発しておきながら。


 四日の間、幻視し続けたあの目がこちらを見た。それだけでこの有様か。


 オーガは何か声を上げたようだが、ここまでは聞こえない。その後すぐに岩から降りて、こちらに駆けだしたのが見えた。


 ――びびってる場合じゃない。


 谷川を挟んだこちら側の斜面や崖は急峻で、いかにオーガといえどすぐにはたどり付けないはずだ。その間にこちらが有利な位置を確保しなければならない。


 尾根の上で待ち受ければ位置的な上が取れるかというと、そうではない。相手は斜面のどこを登ってくるか選べるからだ。だからこそ走る。


 尾根といっても、周囲は木が生える森だ。長い両手剣を振るうには開けている方がいい。そして尾根の中でも登っている位置、そこなら確実に上が取れる。


 来る途中の記憶をたどりながら、戦闘に適した場所へと走る。選んだ場所は、尾根の中でも小高くなった幅5mほどの広場。ところどころにゴツゴツした岩が点在しているが、足場は悪くない。


 ここならいいだろう。振り返って確認するが、まだオーガが接近してくる気配は感じられなかった。


 それでも来ている。そう信じている。アイツらは、獲物をやすやすと逃すような連中じゃない。たった一回の遭遇でそう思えるほどに、アイツらを信頼していた。



 場所はここでいいとしても、ぼんやりと待っている手はない。広場への入り口となっている木の根元に、持ってきたロープを張り渡す。

 狩人が罠に使うロープで、目立ちにくく黒く染めてある。足を引っかけるだけの簡単なトラップだ。

 こんなものに引っかかってくれるとも思わないが、少しでも勢いが落ちてくれればもうけものだ。


 ロープを縛る手が震える。落ち着け、まだ時間はあるはずだ。


 ロープを縛り終えると、広場の中へと戻る。あまり欲張っていろいろ仕掛けても、その途中に来られてはたまらない。

 そもそも正面から来てくれるとは限らない。後ろかもしれないし、横の斜面かもしれない。


 そのために慌てるよりも、余裕を持って待ち受けたい。


「ふぅ」


 深呼吸を一つ。


 背中の剣を抜いて、地面に突き刺した。


 尾根を吹き抜ける風が木々を揺らす。


 波のように繰り返すその音に、茂みを揺らす無作法な音が混じった。


 来たか。


「メー・ズロイ・タル・メズ・レー プロテクション」


 鎧を光が包む。木々の中に開けた広場には光が差し込み、森の中ほどの違和感はない。


 茂みを掻く音は恐ろしい速さで近づいて来る。方角は正面。


「ガァァァァー!!」


 吹き抜ける風さえも掻き消す咆哮が尾根に響いた。向こうもこちらを見つけたな。


 

 そして現れる茶色がかった肉体。


 その姿を見て目を見開いた。


 遠目ではわからなかったが、先日の個体よりやや小柄。頭部の角は一本で、そこから左右に別れている。


 隆々たる筋肉は変わらないものの、胸部はやや丸みを帯び、毛むくじゃらでわかりづらいが、股間には凹凸が無いように見える。



 メスか!


 一瞬の思考に、身体の反応が遅れた。



 そんなこちらの様子などおかまいなく、いや、隙有りとばかりに、オーガは地面を蹴って速度を上げたのだった。


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