温泉鬼行:湯煙
それから三日、オーガをイメージして剣を振り続けた。
たった三日で剣の腕は上がらない。スキルが上がる事もなかった。
三日というのは、考え事が頭から消え、いつもの稽古を同じように剣を振れるようになるのにかかった時間だ。
村の広場でひたすら剣を振る様子に、楽観ムードだった村の人々も再び緊張感を取り戻していく。別に不安にさせたかったわけではないが、安心できる状況ではないと思い直してもらえたのは良かったと思う。
四日目には出発しようと思ったのだが、雨が降ったので休養に充てた。
そして五日目の朝。
前日の雨は夕方には上がり、地面はすでに乾きだしている。朝靄が周囲を包んでいるので、おそらくこの後は晴れるだろう。
「いよいよ行きますか」
「ええ、待たせてしまいました」
「半年も待ったんです。五日くらい」
村長は軽く肩をすくめた。
「一日では終わらない可能性もあります。もし一週間帰らなければ死んだと思って下さい」
「……」
緊張感に、見送りに来てくれた村人たちも息をのむ。冗談でもなんでもない。その時は依頼の失敗をデロスロのギルドまで報告してもらわなければならない。
「ア、アジフさんなら大丈夫ですよ!」
「そ、そうです! あんなに訓練したんですし」
ウルゾンとメットの二人は自分の勝利を信じてくれている。稽古といってもたった三日。支えになるほどではない。それでも何かにすがりたい気持ちは痛いほどわかった。
「そうだといい……、いや、そうだな。必ず勝って帰ってくるさ」
「もちろん!」「あたりまえですぜ!」
二人とも、見よう見まねで胸に手を当てて騎士の礼をしてきた。いや、別に騎士じゃないから。あとそれ、剣を持ってやるやつ。
剣を抜いて目の間に立て、同じく騎士の礼で<ジャキッ>と返礼してみた。
「「「おおっ」」」
いや、『おおっ』って言われても初めてなんだよなぁ。街や王都で見た事があるだけで。言わぬが花なんだろうけど。
「では行ってきます」
「行ってらっしゃい!」「無事のお戻りを」「勝ってきて下さい!」
村人たちの声援に手を挙げて応える。その挙げた手は震えていた。村人たちにバレないように、前を向いて拳を握って抑え込む。
そう、恐いんだ。
目を閉じるたびに、あのオーガの赤い目がまぶたに浮かぶ。風がそよぐたびに蹴りや拳の風圧が思い出される。
せっかく生き延びたのに、またアレと戦いに行かなくちゃならないのか、と身体が拒否反応を起こしている。
だけど、いや、だからこそ行かなくちゃならない。ここで逃げたらまた壁を作ってしまう。それではゴブリンを倒せなかったあの頃と変わらない。
恐いものは恐い。いくら否定してもそれは変わらない。けれど、覚悟は決めた。
振り返らずに進む森の道に、ロワルとネンレコの背中が思い出された。まっすぐ前だけを見ていた背中が。
そうだよ、あの日の、あの背中を追いかけてここまで来たんじゃないか。
眩しいと思えたのなら、たとえ年下でも関係ない。あの二人の師匠(仮)として、こんなところで負けられるものか!
「よしっ!」
両手で顔を<バシッ>と叩く。顔を上げて前を向けば、朝靄は徐々に晴れて森は瑞々しい空気に満ちていた。視界は良好だ。
記憶をたどりながら足を進めると、つい五日前に通ったはずの森の道がずいぶんと懐かしく感じた。念の為に書いてもらった地図を確認しながら、オーガが待つはずのジデルル谷へと歩みを進める。
「水よ、ウォーター」
コップに水を出して、歩きながら昼食を済ませた。先日立ち寄った湧き水には寄らなかったのは、やや遠回りになるからだ。
時間を節約してでも先を急ぎたいのには訳があった。あの日メットが指差したジデルル谷。そこへは向かわずに少し方向の違う、登りやすそうな山へと足を向けた。
二人から聞いたジデルル谷の塩場の位置は、谷の奥。谷川から上がり斜面にさしかかった辺り。おそらくその近辺にオーガがいるんじゃないかと見込んでいる。
けれど、塩場そのものにはいないと思っていた。塩場にくる獲物を狙っているとしたら、そんなところにオーガがいたら獲物が来ない。おそらく、その周辺で塩場に集まる獲物を狙っているのではないか。
そんなところに直接向かえば、ソースのかかったアジフライだ。美味しくいただかれてしまう。
「よっ、しょっ」
急な斜面をよじ登っていく。目指すのは頂上。ジデルル谷は谷だ。谷であるからにはその両側は山だ。平地にも谷はあるが、それはこの際はいい。
肝心なのは、今登っている山が尾根に沿ってジデルル谷までつながっている事だ。
オーガの警戒は確かに恐るべきものだ。だが、この四日の間いろいろ考えていた。
そのうちの一つが、あれほどの鋭い警戒の割には、ゴブリンたちが騒ぎ出してからオーガが到着するまでずいぶん時間がかかったんじゃないか? という点だ。
たまたまどこかに出かけていた、という可能性ももちろんある。だけど、あの鋭い警戒の範囲はそれほど広くないんじゃないか、という可能性の方がより高い気がする。
もちろん、推測でしかないので、決めつけてかかるのは危険だ。それでも、高い位置からならこちらが先に発見できる可能性は高い。もし見つかったとしても、尾根沿いなら位置的に上を取られる心配もない。
そんな訳で、尾根沿いにジデルル谷へ向かう事にしたのだ。
「おお!」
尾根にたどり着くと、そこから続く山並みと、その向こう、遙か彼方に高く白い山が見えた。
この世界にまだ多くある前人未踏の秘境の一つ。ゼッケウム山だ。
村で聞いた話では、何人をも寄せ付けない険しい道のりと、厳しい自然に生きる強力な魔物が行く手を阻む難攻不落の未踏峰だとか。
が、それは自分の冒険ではない。どこかの登山家兼冒険者……が、いればまかせよう。
何しろ今はそれどころではない。谷まではまだ距離があるとしても、すでにオーガの縄張りには入っているのだ。
山の上から眼下に見えるのは、森が広がるばかり。これではたとえオーガがいたとしても見つけられそうにはない。
ともかく動く物を探しつつ、自分が見つからないように身を潜めながら先へと進んだ。
山から見ても、森に魔物の気配は感じられなかった。オーガのあの性格では無理もない。尾根に沿って歩くうちに、反対側の尾根が近づいてきた。いよいよジデルル谷が近い。
こちら側の尾根を選んだのは、塩場のある地点への見通しがいいからだ。それに谷川を挟んで崖が所々ある。たとえオーガでも容易には接近できないだろうし、獲物を狙うなら反対側にいるはずだ。
ただ、崖になっていない所も斜度がきつく、こちら側からも降りられそうにない。まずは相手の居場所を掴むのが先決だ。
もし居場所が知れたのなら、無理に川を渡らなくても、今日は引き返したっていい。徐々に狭まる谷間に、反対側までは見える様になってきた。そして、その先に聞いていた通りの景色が見えてくる。
山の木々が開け、石が転がる一帯。谷川から少し離れて、地面から湯気が上がっているように見える。
あれが温泉か!
尾根の上から見る源泉までは、たいして離れていないようにも見えた。確かに湯の溜まりは見られない。それどころか、流れ出すお湯も上からでは確認できない。湯量が少ないのかもしれない。
石が転がる一帯の数カ所から湯気がでているようだが、範囲は狭い。木々も割と近くまでは来ている。有毒ガスはなさそうだ。
所々白くなっているのは塩だろうか。黄色は見られないので、硫黄は無いのかもしれない。もう少し近づいて匂いをかぎたいところだが、あそこに行くにはオーガを倒さなければならない。近いのにたどり着けない。くぅ、もどかしい。
上から見る限り、周囲にオーガの姿は見られなかった。森に紛れているのか、死角に入っているのか。いずれにせよ、まだ尾根から下りるのは危険だろう。
森の様子を眺めつつも、周囲にも気を配る。幸いここまで動物以外の気配は感じられていない。
もうすでにジデルル谷のかなり奥まで来ている。やっぱりオーガの警戒範囲は狭いのだろうか。いや、まだオーガを見つけていない。決めつけるのは早いか。
考えながらさらにもう少し進んでみると、反対側の斜面が一部崖になって小さな滝が出来ているのが見えた。
そしてその下の大きな岩。
陽の当たる岩の上に何かが張り付いているように見えた。
あれは……生き物じゃないか?
木の幹の陰に隠れてじっとのぞき込む。かなり距離はあるが、油断はできない。息を潜めてじっと様子を見る。
しばらくすると、岩の上の物体はゴロリと身を反した。
太い足に手、頭……人の形……
そして頭部には角。
間違いない、オーガだ。
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