no,4
『ちょっと酔い過ぎたかもしれないわね。そろそろ眠るわ』と言って服を身に付けた彼女は店の奥へと消えて行った。
そんな相手の背中に掛ける言葉を見つけられず……自室に戻ったアオイはドアに背を預けて蹲った。
分かっている。自分が何をするべきなのかぐらいは。
だが過去の恐怖が……トラウマと言っても良いそれが彼の心を締め上げる。
『逃げたい。もう逃げ出したい』と、その言葉が彼の心を支配する。
チャプン
その音に顔を上げる。
ゆっくりと重たい体を動かし立ち上がると……音を奏でる場所へと足を動かす。
足と言うか、尾びれを湯船の外にまで伸ばして弛緩した表情で眠る人魚が居た。
外の視線から守るために取り付けられているカーテンは閉じられていない。
本当に危機管理がなっていない。もし誰かに覗かれたらどうする気なのか?
そっとカーテンに手を伸ばしかけ……彼はその手を湯船の中に入れた。
少し冷たく感じる水だ。彼が入れば震えながら飛び出すことだろう。
そんな水の中で幸せそうな顔をして眠れるのは人魚だからだ。
手を動かし水を掻き混ぜる。
水面に出来る波紋が綺麗な形を幾重に作っては消える。
静かに息を吐いて、アオイは彼女の顔にかかる前髪を静かに払ってやった。
カーテンを閉めてベッドに向かおうと足を動かし、
「今度はエスーナさんを助けるのですか?」
「……俺がそんなお人好しに見えるか?」
「はい。見えます」
迷うことの無い即答に、彼は面食らって体を動かした。
湯船の中で座る様に佇む相手は……真っ直ぐな目を向けていた。
「アオイは優しいですから。お人好しで困った人を見捨てられない。口ではどんなに悪く言ってもその体はいつでも困った人に手を差し伸べる。本当に神官の鏡みたいな人です」
「止めろ」
「どうしてですか? アオイは神の御声を聞いて生まれたからこそ神官になれたんですよね? それは神に選ばれたってことじゃ」
「止めろ!」
投げつけられた厳しい言葉にサラは身を竦ませた。
こんなにも荒々しい声を聴いたのは初めてだった。
「……俺は信じていない物が二つある。一つは人間。そしてもう一つが神だ」
「えっ?」
「俺は神を信じない。むしろ心の奥底から憎んですらいる。それを知っててあれは俺を神官にしたんだ」
「何の話ですか?」
「……なあサラ? お前は一度死んだ人間が生き返るって話を聞いて信じられるか?」
「生き返る? そんな話は初めて聞きました。気絶とかしてたのではなくて?」
「ああ。高い所から落ちてぐちゃぐちゃになった人間が生き返ったんだ」
「……絶対に無いです。もうそれはどんな奇蹟ですか?」
相手の言葉……"奇蹟"と言う単語にアオイは顔をしかめた。
「でもそんな奇蹟が実際に起きた。だから俺は今ここに居る」
「何のことですか?」
つまらなそうに、気怠そうに……アオイはため息交じりで言った。
「俺は一度死んで生き返った。その時に神に会って神官にさせられた。それは心底神を恨んでいる俺に対しての罰なんだとさ」
「えっえっえっ?」
「だから俺は神なんて全く信じていない。この世界がもし災難に見舞われたらそれすら打ち破るスキルを持っていても使うことは無い。奇蹟なんて最初から無い方が良いんだ」
もう会話などしたくないと言いたげに彼はベッドに向かって行ってしまった。
追い駆けて詳しい内容を……と思ったサラだったが、湯船から出ることが出来なかった。
あんなに辛そうで悲しそうな彼を見たのは初めてだった。
いつも漂々として自分のことを良いように弄んでいる相手が見せたもう一つの表情。
チクチクと傷む胸にサラは自分の頬を涙が転がり落ちていることに気づいた。
悲しかった。とてもとても悲しかった。
相手のことなど何一つ知ろうとはせず、日々甘えていた事実にようやく気付いた。
彼がどれほどの苦しみと悲しみを抱いているのかなんて考えたことも無かった。
水の中に身を沈め口元を水面より下げる。
クプクプと息を吐き出しサラは気づいた。
どんなに悲しみを抱えていても相手はアオイだ。
今だって真面目に話しているのにその視線は自分の胸を確りと見ていた。
アオイは変わらない。
ならその悲しみや苦しみを取り除くことが出来るなら……彼はきっと神を信じる神官へと戻るのかもしれない。
何があって彼が一度死んだというのか?
それをまず知ることが謎を解くための鍵なのだ。
う~んと湯船の中で首を捻り無い知恵を絞り出して考えるサラだったが、何一つ思い浮かぶことは無かった。
「やあ初めまして人間」
「ここは?」
「難しい質問をするね。ここは……君が住んでいた世界の言葉を借りて言えば"異世界"かな」
「偉そうに踏ん反り返っているお前は?」
「あはは。中々正直だね。私は"神"だよ。君が最も憎み恨んでやまない存在さ」
「冗談はおしめが取れてからにしろ。お嬢ちゃん」
「愉快愉快。ここまで私を愚弄するその精神……暇潰しに拾い上げたぐらいの価値はありそうだ」
真っ白のワンピース。白い手足。
その華奢な体の上に乗るのは……神々しいまでに愛くるしい形で作られた顔。
美少女と呼ぶのが正しいはずの相手なのだが、葵はその少女に対して冷たい視線を向けていた。
(C) 甲斐八雲
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