第十四話 鷹の目
康之の事務所は一つだけしか存在しないが、東京にはいくつかの隠れ家がある
世田谷と品川の境に位置する廃棄されたマンションもその一つだった。
日当たりの良い東側を植物が覆い室内を幽霊屋敷のように変え、安全基準を無視した構造であるため廊下及び一部の部屋は崩れ落ち、ホームレスさえ近づこうとしない。
いつ倒壊するか分からないマンションに躊躇うことなく侵入した康之は、前回安全を確認した道を辿り、とある一室に向かう。
そこもまた崩壊しかけの部屋だった。
玄関は大小様々な靴が入り乱れ、居間の家具が倒れて穴を開けている。この部屋の主はある程度の大家族だったのだろう。食器棚の下には沢山の食器が砕け落ちており、当の昔に賞味期限の切れたお菓子が大量に散乱していた。
康之はそれらには一瞥もせず、居間より一つ手前の部屋の扉を開けた。
和室の寝室だった。真っ黒なのは日に当たってないからだけでなく単純に汚れで、爽快感が何一つない布団の群が床を隠している。
歩く度に埃が舞う中を進み、まっすぐに押入れへと向かう。押入れの襖を開けて上段にユキを乗せた。
「そこ、入れるだろ。行ってくれ」
指を刺したのは押入れ内の天井。
居間と同じように穴の空いた天井は上の階へと繋がっていた。
ユキが上っていった後に続く。
この部屋も下と同じ構造で、出たのは押入れの下段だ。
そこは先程の部屋と打って変わりかなり整理された部屋だった。
この部屋も最初は他と同じで酷い有様だった。康之がここを隠れ家にすると決めて、かろうじて人が住める程度に片付けたのだ。
とは言っても廃墟にしてはという話で、普段来ることはないので積み重なった汚れや蜘蛛の巣は隠しきれない。それでも崩れた跡や家具が倒れていないだけでも十分に綺麗に見える。
「しばらくはここが我が家だ。少し埃っぽいのは我慢してくれ」
「ヤスの家より綺麗だね」
「そんなことないだろ」
1LDKの部屋だ。大人一人と子供一人が住む分には問題ない広さだ。この御時世、角部屋を選べるなんてなんと贅沢だろう。難点としては近隣住宅にばれないようにしなければならないことだが。
日が暮れる前に掃除をしなければと、数年分の埃で隠れた畳を見て思う。
久方ぶりにやってきた隠れ家を一歩進み――気付いた。
「……ユキ、少しここにいろ」
「え?」
数年間の埃の層に、足跡があった。
先に入ったユキのものでも、過去に康之が来た時のものでもない。
真新しい足跡が康之達が来た場所から廊下に向かってまっすぐに進んでいる。
わざとらしく、扉を開けたままで。
それだけじゃない。コーヒーの強い香りがその先から漂ってきた。
愛銃を両手に取り廊下へと出る。足跡はリビングへと続き、これもまた扉は開いていた。
和室の扉を閉めて先へ進む。
すでに侵入者には気付かれているだろう。油断はしない。
やはりリビングと廊下を遮る扉も開けられたままで、足跡が見せ付けてあった。
一度リビングに入った後、左に行き、その後右へ行った痕跡だ。
左手はダイニングキッチン、右手はリビングルーム。コーヒーを入れに行ったのだとすぐに分かる。
……随分と悠長な野郎だ。
誰がいるのかなんとなく分かった康之だが、だからこそ警戒を緩めずに身構える。
突入。それは不死身の身体を利用した特攻だ。
敵がいるであろう銃を向けたその先。
古びたソファに座りながら、インスタントコーヒーを飲んでいる男がいた。
「招待した覚えはないぞ」
「なら今度は警備会社でも使うんだな」
男は康之とは対照的な男だった。
黒いスーツに黒いコート。たいして明るくもない部屋だというのにグラサンをかけ、短髪のくせにわざわざオールバックにしている。話を合わせているように見えてバッサリと切り捨てる姿勢はクールと言えば聞こえは良いが、康之と違って饒舌じゃないだけだ。
横に立て掛けられたギターケースがこの男を唯一目立たせるポイントだが、ジュリアと違って音楽趣味のバンドマンではないことを知っている。
わざとらしく舌打ちをしてから銃をしまい、ダイニングテーブルに備え付けられた椅子を持って向かいに座った。
「何しに来た小鳥遊」
「ホークアイだ。何度言ったら分かる」
「芸名だろ」
「本名当てのつもりか?」
「無駄に小洒落た名前付けると後で後悔するぜ。ナターシャって恋人がいるなら別だがな」
「そういう貴様は見た目と違って地味な名前だな」
「やめろ気にしてんだ」
ふん、とホークアイは鼻を鳴らしてコーヒーを啜る。
ホークアイは名の知れた傭兵だ。個人ながらその活躍は裏社会に大きく響いている。ちなみにこんな名前を名乗っているがれっきとした日本人だ。
便利屋を営む康之とは仕事で出会うことも少なくなく、敵と味方、両方を経験した間柄だ。
無口ではないが多くを語らない性格であり、正直あまり好きな相手じゃない。それでも実力は評価しており、仲間となった時には頼もしく思っている。
隠れ家を見つけられたのは気に食わないが、ホークアイの能力を考えればいずれ見つかるのは分かっていた。
だが問題は、見つかった上でこうして先回りされていることである。
この時点ですでに嫌な予感は立っていた。
「単刀直入に言うぞ」
お喋りにはもう付き合わないという意味を込めるように、ホークアイは強く言った。
「あの子を渡せ」
「断る」
即答だ。
ユキのことだということは言われずもと分かった。
ホークアイは分かっていたと言わんばかりにため息をつく。
「だろうな。貴様は頭がキレるくせに子供が関わると急に頑固になる」
「時と場合で主張を変えないんだ。常々政治家も俺を見習えばいいのにと思うよ」
「貴様が厄介なのはよく知っているつもりだ。だから俺もこうして交渉で済ませようと思っている」
康之がホークアイを敵にしたくないように、ホークアイも康之を敵に回したくないのだ。
だから隠れ家を見つけたにも関わらずこうして話し合いの場を作っている。
それは有り難い反面、交渉自体は受け入れられなかった。
「柴崎組もお前を雇うとは、相当本気らしい」
「あの子は貴様の手には負えない」
「そうか? 少しばかり……いやかなり無知だが素直でいい子だぜ」
「それはあの子の――エーデルワイスの能力を知った上でか?」
「……能力?」
その言葉が、ただ単純に個人のスペックのことを言っているのではないことは察した。
「アイツはミュータントじゃない」
「いや、ミュータントだ」
「俺はアイツをすぐに病院に連れて行った。だがクラミツハは見つからなかった」
ミュータントの体内にはクラミツハが流れている。それが常識だ。
「あの子は特殊だ」
グラサンを直す。
「エーデルワイスの能力は他者をミュータントにする能力だ」
「他者を?」
「それには条件がある。一つはエーデルワイスの細胞を移植すること。二つ目はクラミツハを注入することだ。貴様も知っての通りあの子の体内にクラミツハはない。だがあの子の血の一滴でも体内に入れた人間がクラミツハを摂取すればミュータントになる。
――貴様も気付いているだろ? 最近、白髪のミュータントが増えていることに」
「!」
思い出すのは、あのインスマスだ。インスマスだけじゃない。それより前に、白髪のミュータントと何度か交戦したこともある。
「エーデルワイスの能力でミュータント化した者は必ず白髪になり、体の色素も薄くなる」
「……奴らが全員、ユキによってミュータント化したってのか?」
「全員かどうかは知らん。が、金になるのは確かだ」
ミュータントはミュータントとして生まれる。アメコミのように後天的にミュータントなることはない。全て先天的だ。故に出産後すぐに調べられる。
時として危険な存在であるミュータントだ。病院で生まれたミュータントは全員が国に存在を管理されていると言っても過言ではない。
だから国に秘密でミュータントを扱うなら己の内側で生ませるしかない。だが今現在ミュータントを意図的に出産することは不可能だ。子が宿る前に男女を決められないように、ミュータントかどうかは生まれてからでないと分からない。
それが可能だとしたら、確かに誰も彼もが欲しがるに違いない。
「彼女は生まれたときから目をつけられていた。というのも本来奴らの目当ては母親の方でな。母親も同じ能力を持っていたらしく、拉致され身体の隅々まで研究の為に使われていたらしい。加えて女だ。子はどうなるか、研究熱心な奴らは気になるだろう。好都合にもその特異性からか能力まで受け継いだ。
分かるか? エーデルワイスと呼ばれる少女は、今回の一件がなければ空を見ることなく一生を終えていたのだ」
――ふざけやがって。
この男らしくない饒舌だが、内容に対すればどうでもよかった。
康之の腹の中は、己のコートのように真っ赤に煮えくり返っていた。
柴崎組がやっていることは完全に康之の逆鱗に触れている。
康之とて裏の世界に足を突っ込んだ人間だ。非合法的なやり方をごまんと知り、見過ごしてきた。関わるのは依頼があった時のみ。何処で誰がどんな犯罪に手を染め誰を貶めようが知ったことではない。善良な市民であれ、目を付けられたのが運の尽きというやつだ。
だが、だがそれでも、どうしても譲れない一線というものがある。
「その様子だとあの子から何も聞いていないようだな」
椅子を蹴り飛ばし立ち上がる。
ホークアイが再び口を付けようとしたカップを奪い取り、怒りに任せて壁に投げ捨てた。
比較的丈夫な磁器ではあるが、康之の全力の怒りには耐えられず衝突した瞬間に悲鳴のような音を立てて無残に割れ散る。
「聞けるわけないだろ! 今までどんなことをされてきたのかは知らないが、アイツは、過去に触れられるのを嫌がっていた! その度に悲しそうな目をするんだ。俺にはそれで十分だ。連中がどんなミュータントを量産していようが関係ない。二度とこんなことが起きないよう全部まとめて地獄にブチ込んでやる!」
二丁拳銃を再び取り出しホークアイへ向ける。
脳と心臓。必殺へ狙いを定め、顎で立ち上がるよう指示する。
「来いよ伊達男。あいつは渡さない」
「頼もしい限りだ」
だがホークアイは立ち上がらず、こう言った。
「ではまずは作戦を立てる」
「……あ?」
言葉の前後が繋がらない会話に、思わずすっとんきょうな声を上げる。
「貴様一人で行ったところでたかが知れている。そもそも研究所の場所も知らんだろ。安心しろ。大体のプランは考えてある」
「まてまてまてまて」
威勢よく怒鳴っただけにいまいち理解が追いついていない。
思わず銃を持ったまま掌を向ける。
「アンタ柴崎組に雇われたんだよな?」
「そうなるな」
「んで俺からユキを攫いに来たわけだ」
「そうだな」
「じゃあなんで俺が連中潰すのに協力的なんだよ」
「それが俺の仕事だからだ」
「……駄目だ意味分からん」
とうとう俺もボケが始まったか。不死身の身体というのも案外アテにならないらしい。
「順を追って話そう」
轟音と粉塵が続きを遮った。
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