第五話 落ちた先にいた少女
少しの間、気を失っていたようだ。
目を開けると薄暗くなった空と、青色の標識が康之を見下ろしていた。
ぼうっとした頭のまま、とりあえず起き上がろうとすると、何故か上手く起きられなかった。
どうやら車に埋まっているようだ。中々斬新な表現だが事実だからしょうがない。
あのハルクモドキに殴り飛ばされた後、大分長い距離を飛んで渋谷まで来たらしい。しかも着地地点は車の上。恐らく走行中だったのだろう。首を傾げるとボンネットが建物の角に減り込んでいる。もっとスピードが出ていたら下半身とお別れするところだった。
どうにかして脱出しようとしていると、自分がいる所が丁度運転席になることに気付いた。本来の半分以下の高さになった車の窓から赤い液体がゆっくりと流れ出ている。
「あー、ごめんね。お仕事中。せめてブラック企業勤めだったことを祈るよ」
この御時世、個人で車を持つことは滅多にない。
というのも、かつて一般的だったガソリン車は石油の入手が困難であるため作れても動かせないのだ。
現在の車の燃料はクラミツハ。企業や富裕層がクラミツハの油田を所有しており、到底一般市民が手を出せる額ではない。せいぜいが発電された電気ぐらいだ。ガスコンロなど化石に等しい。
その代わり電車、バスといった公共交通機関は充実しており、事故でも起きない限り乗り遅れた程度では大きな支障にはならない。
だから車を所持しているのはそれなりに大きい企業か金持ちということになる。
最近は企業のブラック化も深刻との噂だ。彼もきっとその例に漏れないだろう。何せ人が飛んでくる道路を運転させられているのだから。うん。不可抗力だが謝っておこう。
「天涯孤独の方だとなおありがたいね。不謹慎だけど」
なんとか車から脱出し、身体に不調がないか確認する。
簡単なストレッチをしてみても痛みはない。欠損部分もないからアドレナリンで痛みが消えているわけでもなさそうだ。
周りと見ると野次馬がたむろしていた。そこまで長く気絶していたわけではないのか、警察はまだ来ていない。
これは好都合だ。やたらと拘束されるのは好きじゃない。今の内にとんずらしよう。
そうして一歩踏み出した時だ。何かを軽く蹴った。
最初は車の破片かと思った。だが気になり見てみると、予想もつかなかったものが目に入る。
「――――」
白。
インスマスや康之の持つ白よりも、ずっと綺麗な純白が、開花していた。
例えるなら高嶺の花。あるいは天使の羽根。作り物では表せない、天然の美しさ。
ミケランジェロの絵をただの絵としか思えない感性でさえ、感動を呼び起こす姿を最初は人だと認識出来なかった。
「子供?」
十三、四ぐらいか。もしかしたら小学生かもしれない。幼さの残る少女が車のすぐ横で倒れていた。恐らく事故の拍子で後部座席から出てきたのだろう。微かに肩が上下しているのを見ると、先程の康之と同じく気絶しているだけのようだ。
この子を見ていると、何故か不思議な気分になる。同じ髪の色だからなのか、他人とは思えないのだ。それに既視感と言うべきか。一度見たら忘れそうにないのに、過去にも見たことがあるような気がする。
「これは……」
しかしその格好に急に現実に引き戻される。なぜなら、まだ若い彼女には不釣合いな、ましてや車に乗るには不相応な姿だからだ。
病院の患者服だ。彼女の
そして何より重大なのは、少女が拘束されていることだ。全身を縛り上げるようなものではないが、両腕を後ろで縛られ、口はガムテープで閉じられていた。
十中八九、どこからか拉致されたに違いない。
面倒事は嫌いだ。だが子供を無視出来るほど無情にはなれない。
色々な疑問は横に置き、少女を抱き上げる。
「はいはいどいて。危ないよー。どけって」
クラミツハは可燃性だ。引火して爆発でも起きたら洒落にならない。
野次馬を掻き分け、近くのバス停の長イスに少女を寝かせる。腕の拘束は結束バンドによる簡易的なものだ。小型ナイフを取り出して切り外し、仰向けに楽な体勢にさせる。ガムテームはゆっくりと痛みを与えないようにして外した。
綺麗な小顔だ。苦痛に歪めてなければ天使の寝顔に違いない。
……蹴ったせいじゃないよな?
その後は傷の様子や脈を測り、問題がないか確認する。所々にかすり傷はあるものの、大きな怪我はない。脈も呼吸も正常だ。少なくとも致命傷の類は受けていない。
ふと気付けば野次馬達が今度は康之達を取り囲んでいた。
「お前らスマホ弄ってる暇あったら警察なり救急車なり呼べ! SNSに上げても炎上するだけだぞ!」
「ぅ、ぁ……いたい……」
まさか今の騒ぎで起きたわけじゃないだろう。少女が目を覚まし痛みを訴える。
「大丈夫か? どこが痛い?」
「ぜんぶ……」
「そうか、全部か」
どうしろと。正直医者じゃないからどうすればいいか分からん。応急手当をしようにも全部が痛いんじゃ手当をしようがない。
とにかく救急車が来るまでは下手に動かさない方がいい。病院に行けば自然と彼女の身元も分かるだろう。
「大丈夫だ。もうじき警察も救急車も来る。そうすれば元の場所に帰れるよ」
「かえる……?」
薄紅色の瞳が控えめに顔を出す。
帰れるという言葉に反応したようだが、それにしては喜色は見られない。
ぼんやりとした目が康之から外れ、空を見る。赤が過ぎ、黒に染まりつつある黄昏の空。物寂しさを覚える光景を見上げ、彼女は呟く。
「かえりたくない」
どういう意味か、聞き返そうとする声が急ブレーキにかき消される。
一つや二つじゃない。振り向けば五台の黒塗りの車から男達がライフルやサブマシンガンを片手にぞろぞろと出てくる。
それに気付いた野次馬から悲鳴を上げ逃げ去り、伝播する。
男達が康之と少女を扇状に囲む頃には野次馬は一人もいなくなっていた。
「この子の保護者さん……には見えないね」
「使用人みたいなもんさ。ガキを渡しな」
「口の利き方がなってない使用人だな」
ちらりと少女を見る。
まだ寝そべったままだが、表情には明らかに苦痛以外のものが混ざっていた。
恐怖、不安、緊張……。
震えた視線が康之を捕らえた。
――康之には数少ない信条がある。
見た目以上に長く生きている康之にとって信条とは己の価値そのものだ。ふざけた口調もその一つ。他にも、そう――
少女の手を優しく握ると、力なく握り返した。
「俺な、便利屋ってのをやってるんだ」
「便利や……?」
「ああ、依頼さえあればなんでもする。例えば……」
男達を指差し、
「悪い大人退治とか」
「てめえ……」
獰猛な視線を背中で防ぐ。
「どうする? 家に帰りたくないなら、帰らせないよ」
「……かえりたく、ない……!」
迷いながらも出した声は、確かに彼女の意思だった。
頷き、立ち上がる。
「交渉成立だ」
――子供を見捨てないのも信条の一つだ。
二丁の銃を抜くと同時に振り向く。
安全装置を外し標準を定め
「殺せ。ガキに当てるなよ」
相手の方が速かった。
包囲された状況から隙間なく乱射された殺意は、少女を避け康之の上半身を隈なく穿ち貫く。一発命中する毎に、その威力に身体は意に反して踊るように激しく揺れる。
腕が、頭が、目玉が、肺が、心臓が、魚群が如く暴れ狂う銃弾の餌食となった。
時間にして、一分も経っていない。しかし銃声が止む頃には、康之は最早原型が留めていないほど無残な姿と成り果てていた。穴空きだらけのコートに肉は抉れ骨は見え隠れし、足元には血の湖が出来上がっていた。
最後の意地か、銃口を男達に向ける姿勢が奇跡的に保たれている。
何時倒れてもおかしくない姿を尻目に、男の一人が顎で指示する。
集団の内二人が少女を捕らえようと近づいた、
刹那
「――――」
死体の銃口が二人の頭へ咆哮した。
男達の動揺が広がる。
当然だ。死んだと思った――死んだとしか考えられない状態の男がいきなり発砲したのだ。死んだ振りなどというレベルじゃない。確実に死んだ相手からだ。
仮に、もし万が一死んでいなかったとしても虫の息、風前の灯だったはずだ。そんな男が反撃など出来るはずがない。
そんな男達など意に介さず、両の銃を連射に切り替え、腕を広げ端から横薙ぎに撃つ。
やれたことをそのままやり返された男達は、多くが戸惑いのまま命を落とす。
「う、撃てえ!」
中央の、まだ凶弾の届かぬ男達はまだ余裕があったのか反撃に出る。
双方の銃弾が交差する。それは互いに命中するも、結果はまるで異なる。
康之は、密度こそ下がったものの嵐の中を微動だにせず腕の間を細めていく。
男達は、一人また一人と左右から倒れ、残った者も引きつりながら引き金を硬く握る。一部は恐怖からか命令無視で車両の影に隠れようとするが、むしろ優先的に狙われた。
やがて左右の二丁拳銃が中央で合流し、同時にスライドが引かれたまま戻らなくなる。
二十連装填マガジンが二つ、合計四十発の弾丸を打ち切った。
立っているのはただ一人。康之のみ。
男達は一人余さず、倒れ伏して命を落とした。
脅威を排除し、安全を確保した肉体は不思議なことにほとんど治りかけていた。
潰れた眼球は砕け散った眼窩ごと再生し、脳ですら細胞の一つ一つが編み物のように治っていく。傍から見れば、ある意味撃たれて無残になった姿のままの方が見られる光景だ。
決して少女には見せないようにしながら、映像の巻き戻しのような光景は続いていく。
完全に元に戻るのを待つ間にリロードし、安全装置をかけてホルスターに戻す。二つとも終わる頃には肉体は完全に回復し、衣服だけが不自然に穴が空いていた。
――完全なる不死と圧倒的な治癒速度。それが康之のミュータントとしての能力だ。
例え心臓を潰されようと、脳味噌を叩き潰されようと、寿命でさえ上村康之を殺すことは出来ない。単純に強力とは言えない能力だが、敵対者にとっては限りなく厄介な能力だ。
現にこの男達はパニック映画のやられ役のように活躍もなく死んでいった。
「あーちょっと待って。まだ顔がR指定だから」
顔を揉み解して、一度叩く。痛みがジンジンと伝わってきた。
不死と言っても痛覚はある。叩いた痛み以上の痛み――つまり神経が外に出ていないことを確認して己の顔が元に戻ったと確信する。
鏡でもあれば楽なのだが、あったところで既に砕け散っている。
「怪我ないか?」
「え? あ、うん」
単純に理解が追いつかないのか肝が据わっているのか、少女はぽけっとした顔で見返した。
「……すごいね」
「当然。皆待望のスーパーヒーローだからな」
その時だった。
まるでツッコミを入れるように轟音。続いて局所的な暴風が巻き起こる。
恐る恐る振り返る。
周囲に舞い上がる塵やゴミ。中心には緑色の巨体。ポーズはスーパーヒーロー着地。
本当にヒーローが空からやってきたらこんな感じなんだろうなと思わせる光景が目の前にあった。
ただ当の本人がヴィランサイドなのはどうなんだろうか。
「ハルクだって一応ヒーローなんだぞ」
康之を殴り飛ばした張本人が現れた。
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