第45話 情事の後

 次に目覚めたとき、知らない女性が部屋にいて、僕は大いに驚いた。

 その人は僕がここにいることに気付いているのかいないのか、ここが誰の部屋なのかを分かっているのかいないのか、当たり前のように薄暗い部屋の中を歩いて窓の方へ進むと、一気に布簾を開け放つ。その後ろ姿はそれなりに高齢のようだ。灰色が混じる髪が窓からの光を受けて白く輝くのが見えた。

 僕はその窓から差し込む光のまぶしさから、すっかり寝坊してしまっていることに気付いて慌てた。それなのに、この原因を作った当の本人は僕の横で気持ちよさそうに眠りこけているのだから始末が悪い。

 その人が振り向く。想像したよりも年が上の女性のようで、その顔には深いしわが刻まれ、恐らく五十前後だと思う。若い頃は相当の美人だっただろうと想像できる容貌だった。よく見ると、知っている顔だと思った。直接話したことはないけれど、宮殿の中で何度か遠目に見たことがある人のようだ。

 名も知らない女性は僕が起きたことに気づくと柔らかく微笑んで見せた。そして、その人は隣でだらしなく眠る主上には目もくれなかった。

「賢英さまですね?お初にお目にかかります。子潤と申します。主上の身の回りのお世話をしております。今日からはあなたのお世話も担当することになります。どうぞよろしくお願いしますね」

 そう言って頭を下げるのに釣られて僕も頭を下げた。それを見て満足そうに頷くと、面白がるような光を宿した目で、僕のことをさり気なく観察するふうに見てから言葉を続けた。

「お召し物はこちらで勝手に選ばせていただきましたが宜しいでしょうか?」

 そう言いながら一式を広い寝台の上に広げて見せてくれた。

 僕は普段から着る物にはさほど頓着しないので、否やは無かった。だからいわれるがままに頷いた。薄青く染め抜かれた布地に青竹と雲の模様が描かれた上下に、濃い緑の帯と、色味を揃えた明るい石のついた、耳飾りや帯留めをはじめとした装身具が女性らしい気の利いた選択だと思う。

「それはようございました。僭越ながら、賢英さまはお召し物の数が些か少ないと思います。後で私の方から主上にお服を買い足していただくよう頼んでおきます。それから、朝食の時刻はもう過ぎてしまっておりますが、先に湯殿へ参りましょう。そのままでは困るでしょうから」

 僕はお風呂と聞き無意識に起きあがろうとして、自分が全裸であったことを思い出した。よくよく自分の状態を確認すると、辛うじて下は布団の中だが、剥き出しの上半身が、露わになっていた。しかも体のあちこちに薄赤い痕がついている。これは……。僕は顔が熱くなるのがわかった。そして、それと同時に居た堪れなくて消えてしまいたくなった。

 それなのに隣では、全ての元凶の主が、これまた全裸で呑気に寝ている。布団はとんでもなく乱れ、どう見ても男二人でただ寝ていたと言えるような状態では無かった。布団の端から主上の剥き出しの足が飛び出している。

 僕は絶望的な気持ちになった。言い訳をするべきか、知らんぷりをして平静を装うべきか。主上が光のまぶしさに寝返りを打つ。一糸まとわぬ主上のほうにその女性の視線が向いたが、一向に気にした様子もないのがせめてもの救いだった。

 そうこうしていると隣の主上が大きく伸びをして僕の腰に両腕を巻き付け布団に引き込もうとする。これ以上勘違いを、いや勘違いではなくて見たままの通りなのだけれど、目の前の女性に変な印象を持たれるような真似をするのはやめて欲しい……。

「しゅじょ——」

「主上。そろそろ起きませんと朝食の時間がなくなりますよ。本日朝議はございませんが、仕事は山積みだと泰然から聞いています。あまり待たせて、あの子が私に泣きついてきても困ります。さぁさぁ、もう起きてください。あなたが起きませんと、賢英さまの食事も遅れることになりますよ」

 そう、柔らかいけれどはっきりとした声が投げかけられた。

 それを聞いた主上が欠伸をしながら再度寝返りを打つ。いや、主上。女性に見せてはいけないものが見えそうですよ。

 眠そうに目を擦りながら、起き上がるように見えて、けれど起き上がらずに横になったまま僕を抱きしめる。そのままだらだらうだうだしているのを見かねた子潤が布団を一息に剥ぎ取った。まさかのことに僕はびっくりして動けなかった。大事なところはかろうじて主上の腕の下に隠れていたと思いたい。まぁ、もう隠れるほど小さくはないのだけど、見られていないと信じたい。

 それから彼女は床に散らばっている僕らの夜着を拾い上げると、そのまま僕に手渡してきた。僕はもう恥ずかしくて恥ずかしくて、片手で下を隠しながらもう片方の手で受け取ると、慌てて下履きに足を通した。僕の動きでやっと目を開けた主上が口を開く。

「あぁ、潤か。湯は用意できているか?」

「はい、出来ております」

「分かった」

「朝食は食堂ではなく、隣のお部屋にお運びしましょうか?」

「ああ頼む」

「かしこまりました」

 主上がむくりと起き上がると僕を見た。

「賢英、朝食は一緒に食べよう」

 そう言うなり僕に口づけを一つして、全裸のまま主上が寝台から降りた。子潤が差し出した夜着を掴むと、肩にかけて扉へ向かう。その背中に情事の痕がついているのを発見して、僕は子潤が気づきませんようにと心の中で祈った。

「主上。いつも申し上げておりますが、宮の中を裸で歩き回るのはお控えください!」

「分かった。次からはそうしよう」

 まだ眠そうな声でそう言いながら主上が裸で部屋を後にした。それを見送ると、一人残った僕が上着に袖を通すのを見届けてから子潤が湯殿へと誘ってくれた。

「主上お一人で行かせても大丈夫だったのですか?」

「問題ありません。見かねた衛兵がついていくでしょう」

「そうですか……。あの、雲嵐は……?」

 廊下を歩きながら先を行く子潤に向かって恐る恐る声をかける。

「雲嵐は今侠舜の手伝いをしております。朝食が済む頃には戻ると思います」

「そうですか。あの、僕は、えっと、自己紹介が遅れました。祥賢英と申します。初めて言葉を交わすのがこのような形になってしまったこと、心苦しく思っています。あの、どうか、その、悪い風に受け取らないでいただけると、心が休まります。それから、まだ分からないことも多くご迷惑をおかけすることもあるかとは思いますが、どうぞよろしくお願いします」

「まあまあご丁寧にありがとうございます。主上の小さい頃にそっくり。礼儀正しくて素直で可愛らしくて。さぁつきました。湯あみはお一人でできると伺っております」

「はい、大丈夫です」

 そう答えると、子潤が先ほどの服を僕に渡してきた。

「でしたら、私はこちらでお待ちいたしております。どうぞごゆっくり。あ、でも朝食の時間が押しておりますので、長湯が過ぎますと主上をお待たせすることになってしまいます。お気をつけくださいませ」

「わかりました。気を付けます」

 そう言ってぺこりと頭を下げると、子潤が柔らかく微笑んだ。


 湯殿に入ると、すぐに全身を隈なく洗う。赤い痕があちこちにあって、子潤はなんと思っただろうかと憂鬱になった。それから――。昨夜と今朝の主上の痕跡に慄く。さすがに量が多すぎます、奏凱さま……。そうして、やっと湯舟に浸かって人心地ついた気がした。腰のだるさが少し軽くなった気がする。僕は言われた通り長湯にならないよう、体が温まるとすぐに上がった。


 用意された服に着替えて扉から出ると、言っていた通り子潤が入口で待っていてくれた。僕を見ると、優しく微笑みながら部屋へと促す。僕は言われるままに彼女の後について再び廊下を進む。

 部屋に戻ると、すでに主上が服をしっかり着込んで卓に着いていた。雲嵐が食事を卓に所狭しと並べていく。僕は主上の向かいの席に着いた。

 それを見て主上が合図をすると、雲嵐の手で食事が供される。主上の方をなんとなく見ていると子潤が主上の長い髪の毛を掴む。

「時間が無いので食事中に失礼します」

「ああ、頼む」

 そう言うと子潤が櫛を持ってゆっくりと髪を梳かし始めた。

 そんなことにはまったく頓着せず、主上がもくもくと口に食べ物を放り込んでいく。いつも主上は朝からたくさん食べる。嫌いなものは無いと言っていた通り、どの料理も満遍なく箸を付けていく。その様子だけで僕はもうお腹いっぱいになる気がした。僕の見ている横で、雲嵐が料理をちょっとずつ盛り付けた皿を僕の前においてくれたので、それに少しずつ箸をつける。

「潤。悠午に今朝のことを謝っておいてくれないか。この埋め合わせは後でするとも」

「ご自分で伝えてくださいませ。私は忙しいのです。今日から賢英さまのお世話もしていくのですから、賢英さまについて色々知らないといけません。知るためにはしっかりお世話をしてたくさんおしゃべりをしませんと」

 僕の名前が会話に上ったのに気づいて僕はそっちを見た。すると、子潤が僕を見ながら口を開いた。

「賢英さま」

「は、はい」

「と、いうことでございます。今日のご予定はどうなっておりますか?」

「えっと」

「本日は、午前中に二つ授業があります。それから昼食を挟んで、午後すぐに一つ授業があります。これは歴史の授業ですので、長引くということはありません。また、それ以降、つまり昼八つ半からは予定は入っていません」

「わかりました。ありがとう、雲嵐。それではその前後の時間を空けておいてくださるかしら?賢英さま。よろしければ、一緒にお茶をいただきませんこと?」

 初対面の女性からお茶に誘われてしまった。

「賢英、潤は少し強引なところもあるが、頼りにできる。私との付き合いも長い。お互いに仲を深めるのも、今後のために良いだろう。付き合ってやってくれ」

「はい。わかりました。よろしくお願いします」

 僕が軽く頭を下げると、子潤が満足そうに頷くのが見えた。

「雲嵐、あなたも一緒よ。お茶とお茶菓子の準備は私がします。席の準備だけお願いしても良いかしら」

「わかりました。よろしくお願いします」

 子潤は鼻歌でも口ずさみそうな雰囲気だった。主上の方を見ると、苦笑しながら、残りの料理を口に放り込むところだった。


※のちの展開に関係のない話はさくさく書けるんだよね~

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