第43話 日常

※悩みすぎて遅くなりました。すみません。文章力が欲しい今日この頃。

※今日は43話と44話の二話更新です。最近暗い話が多かったので、雰囲気を戻したいです。よろしくお願いします。



 授業の再開から少し遅れて、早朝の日課として馬の雪の世話が始まった。雲嵐も一緒だ。

 随分怠惰な日々を過ごしたせいで、思っていた以上に体力と筋肉が落ちてしまっていてびっくりした。特に鈍った体にいきなりの乗馬は無謀だった。すぐに背中や太ももをはじめとした全身の筋肉が悲鳴をあげた。初めて乗馬の授業に参加する雲嵐にいいところを見せられなかったのが残念だった。

 さらに、通常の授業ですら長く座っているのが辛い。体が慣れるまでの数日は、夜の自習もそこそこに、子供もびっくりの早い時間に床に着く有様だった。



 新しい生活では、今までよりも早く、といっても伯母の家で暮らしていた時と同じくらいの時間に起きて、雲嵐と一緒に厩舎に向かう。すると、もうそこには暁明がいて、馬の体調の確認や調教を始めている。僕らは雪の世話と馬たちの餌遣りを担当している。雪以外の馬房には入れない。気性の荒い子や繊細な性格の子も居り、何かのはずみに蹴られたりしたら大変なことになるからだそうだ。

 雪の馬房の掃除をして、体に刷子をかけてきれいにしたら、飼葉と水をみんなで協力して全ての、と言っても十にも満たないが、馬に与えるところまでが僕らの仕事だった。

 授業と雪の世話が始まって日も浅いので、まだまだ慣れないことは多いし力仕事は辛い。暁明は僕らから決して目を離さないようにしてくれている。毎日できることが少しずつ増えてきて、馬について新しいことを学んで、そういう些細なことが嬉しかった。



「雲嵐の顔合わせはいつだっけ?」

 僕は雪の体を刷子でこすりながら、足元に散らばる汚れた藁を片付ける雲嵐に向かって尋ねた。

「八日後とのことです。何分遠いところからいらっしゃるようで、数日ずれる可能性もあります」

「楽しみ?不安?」

「そうですね……。養子縁組をした後も私はここで働くことに変わりはないし、会う機会もほとんど無いでしょうから不安はあまりありません。それに顔合わせといっても、向こうは主上に会いにくるようなものでしょうし、私を引き取るのも主上から頼まれたという以上の意味は無いと思います。親子になると言っても形の上だけです。なので期待もありません。あちらも私に期待などしていないでしょう」

「そういうものかな?」

「当然です。誰が好き好んで私のような庶民の子を引き取るものですか」

「うーん……。そう言えば、何日間か向こうで暮らすことになっているんだよね?」

「はい。十日ほどお邪魔することになっています。理由はわかりませんが」

「いい人たちだと良いね。あー、でも主上や侠舜が選んだ人たちだから、その辺りのことは問題ないか」

「そうだといいです。ただ、この歳でまた家族ができるというのも不思議な感じがします。初対面の時くらいは父、母と呼ばないといけないのでしょうか?」

「そうだと思うけど……」

「向こうも呼ばれて困る気がしますけど」

「そんなことはないって。新しい家族と仲良くなれるよう頑張れ」

 雲嵐が曖昧に頷く。

「雲嵐が貴族になるのかあ」

「官吏になるのに一番手っ取り早いですから」


 雲嵐が以前言っていたやりたいこととは、官吏になって宮殿で働くことだった。もともとは科挙に受かって官吏になりたいからその勉強がしたいと侠舜に打診していたのだという。

 科挙に受かるまではたいていの場合、十年以上もかかるのが普通なくらいに難しい。けれど、主上の元で働く人材の不足からそんなに待つことはできないと言うことで、主上の計らいで養子の話が持ち上がったのだそうだ。

 そして、今年雲嵐が成人するのと同時に推薦を受けて官となり泰然の下につく手はずになっていると、あの日に説明されていた。僕にとっては寝耳に水のことだった。


「僕は雲嵐の今後がなんだか心配だよ」

「と言うと?」

「貴族の家の人間になってしまうと、僕みたいに命を狙われたりするんじゃないかなって」

 以前侠舜がそんなことを言っていた。雲嵐が死ぬのはいやだ。慈蓉のように……。

 雲嵐が少し難しい顔をする。

「慈蓉のことを考えてるんですか?」

「うん。死んでしまうなんてかわいそうで」

 あの後、侠舜から慈蓉が死んでいたことを聞かされた。僕が倒れた後で、事情を聴くために姿を消した慈蓉を探したが見つからないまま数日がたったそうだ。次に慈蓉が見つかった場所は都のそばを流れる川の下流。葦の茂みに引っかかっていたところを地元の漁師が見つけたらしい。目立った外傷はなく、溺死だろうとのことだった。

 胸が痛んだ。

 侠舜が言うには、慈蓉について手を尽くして調べたが、彼女に関する情報のほとんどが偽物だったそうだ。雇い入れる際に書類の確認と身元の照会もしていたのに、そうと見抜けなかったらしい。また、どの段階で彼女の経歴が偽装されていたのかも不明なのだそうだ。任用を担当した官吏は辞職していたり田舎に帰ったりで分からない点が多いのだと言われた。

 それから、みんなが僕に慈蓉の死を黙っていたのは、僕が中途半端な立ち位置におり、また僕をこの難しい事態に巻き込みたくなかったからだと謝られた。

 今なら、複雑な事情があることを理解しているし、あの時の僕は主上を支える覚悟が無かったから、説明されなくても当然だったと思う。僕がもし同じ立場だったら話さなかっただろうとすんなり納得できた。


 それでも慈蓉のことが可哀想だと思った。

 沈黙が落ちる。雲嵐が何事かを考える風。

「私は、仕方が無いと思います。侠舜さまもいっていましたよね。気に病む必要はないと」

「そうなんだけど」

「慈蓉は自分の意思であなたに害をなして、そして死にました。憐れむ気持ちは理解できるし、優しさはあなたの良いところですが、それ以上は不要です」

「でも、騙されていたかもしれない。僕が知っている慈蓉は、とても優しくて真面目で。悪い人には見えなかった」

 雲嵐が首を振った。

「違います」

 雲嵐がきっぱりと言い切った。

「慈蓉は大人でした。自分で考え自分で行動のできる人でした。子供ではありません。たしかに悪人ではなかったかもしれません。私もそう思います。ですが、彼女にはあなたを害する前に、何回かは思いとどまる機会があったはずです。よしんば慈蓉が誰かにそそのかされ騙されていたとしても、様々な偽装を成す者の言葉を普通の人が信じるでしょうか?論理だてて考えれば、その者の甘言があやしいと気づくものではないですか?慈蓉がそれに気づかなかったはずはありません。でも、彼女は実行した。私が思うに、彼女は気づかなかったのではなく、気づこうとしなかったのだと思います。人は自分の信じたいものを信じるものだと、私の先生が昔言っていました。あの頃は理解できませんでしたが、今なら分かります。彼女はあなたの危険よりも、自分の得を優先したのです。だから彼女のことを憐れんでも、気に病む必要はありません」

 雲嵐は続ける。

「人は自分が何をしているか常に知っています。ただ、人によってその行動の結果がどの程度見えているかの違いがあるだけなんだと思います。見える範囲が違うから人によって不合理な行動をとる。そして、全てを見通すことが出来ないから、人は誰しも過ちを犯すのです」


「けれど、だからこそ過ちを回避するために人は考え努力し準備をして、望む未来を目指すのです」

「未来……」

 雲嵐の言葉が僕の心に落ちる。

「雲嵐も?」

「そう思っています。主上をはじめあの宮にいる者はみなそうだと思います。私も、慈蓉のようにならないように気を付けます。まだ死にたくはないですから」

 そう言って苦笑する雲嵐がひどく大人びて見えた。

「そういえば、昨日侠舜さまから聞きました。後で詳しい報告があると思います」

「何の?」

「慈蓉のことです。やはり、慈蓉は以前主上の宮で下女として働いていた可能性があるようです」

 雲嵐が足元に散らばった汚れた藁を片付けながら話す。

「あなたの言った通りでした」

 雪の体を刷子で擦りながらそう、とだけ答えた。偶々慈蓉に初めて会ったときの印象を覚えていて、どんな情報でも欲しいと言う侠舜になんとなく話してみたのがどうやら当たったようだ。

「確認してみると、慈蓉らしい容貌の下女が過去にいたこと、そしてさらに何人か下男下女が最近入れ替わっていたことが判明したそうです。あの事件があった日の翌日、急に暇をもらいたいと言って。おそらく慈蓉と親しかった可能性のある人物も一緒に始末したのだろう、と侠舜さまが言っていました。下男下女にまでは誰も注意を向けたりしませんし、できませんから」

「そうなると、身近に危険な人がまぎれているかもしれないってこと?」

「わかりません。ただ、ますます人材の確保が難しくなります」

 そこで一向に作業が進まない僕らに、暁明が後ろから声を掛けてきた。知らず長く話し込んでいたらしい。僕らは会話を打ち切ると仕事の続きに取り掛かった。

 僕は雲嵐に言われたことを頭の中で繰り返し考えていた。



 馬の世話が終わると、僕たちは直接部屋に戻らず、一度中庭へ向かう。そこに主上がいるからだ。

 僕らが馬の世話をしている間、主上は中庭で体力作りや剣などの武器の訓練をしている。それを先に仕事が終わった僕と雲嵐の二人でぼんやり離れたところから眺める。そして、朝の訓練を終えた主上と合流し、少しおしゃべりをしてから宮に戻る。これがいつの間にか日課になっていた。

 中庭に着くと、今日も乾いた音が響いてきた。主上が子悠午を相手に木剣をふるっている。その様は勇猛で、真剣な表情の主上は別人のように見えた。

 主上の渾身の一撃を、相手の男が受け流すと同時に反撃に出る。華麗な剣裁きで一撃が繰り出され、主上がそれを辛くも躱して体勢を整えると、すぐに間合いを詰める。激しい打ち合いの後、主上が大きく腕を振った隙をついて、相手の木剣が主上の手の甲を打つのが見えた。主上の手から木剣が落ちて、訓練は終了となった。僕がこの朝の訓練を見学するようになってから、主上が勝つところを一度も見ていなかった。

 素人の僕から見ると、主上の激しい攻めは相手を圧倒しているように見えたが、そうでもなかったのだとわかる。その証拠に、主上は激しく肩で息をしているが、悠午のほうはそんな様子もない。最初に主上から軍でも一二を争う手練れだと紹介されたのは本当だった。

 そうして眺めていると、互いに礼をして歩き出す。かなり気心の知れた関係のようで楽しそうに何やらふざけ合っている。それから二人は別れて、大粒の汗をかいた主上が僕たちの方に大股でやって来る。

 汗の滴が朝日に輝いてなんだかいつもと違う風に見えるのが不思議だった。

 主上が僕を見て笑う。

「そんなに情熱的に見つめられるのは、悪い気はしないが場所柄を考えた方が良いだろうな。私は気持ちの上では歓迎だが、人の目というものもある」

 そう言って、いつの間にか目の前まで来ていた主上がくつくつと笑いながら話しかけてきた。僕はぼんやりしていたことに気づいて顔に血が昇るのが分かった。

 そして、何も言えないでいる僕の隣に当たり前のように主上が腰掛ける。

「揶揄わないでください」

「すまない。穴の開くほど見つめられたら、平常心を保つのは難しいと言いたかった」

 言い方が違うだけだと思う。

「あのように訓練をする姿は何度見ても飽きません。ここ最近毎日のように見ていますが、とても面白いです。子悠午さまもそうですが、主上の動きも本当にすごいですね」

「そうか」

「それに主上はあんなにお忙しいのに、こうして朝早くから毎日訓練をされているなんて存じ上げませんでした。素晴らしいことだと思います」

 くつくつと笑う声。

「いや、すまない。夢を壊すようで申し訳ないのだが、実はこの朝の訓練はお前の朝の日課同様に、最近始めたのだ。もう何年も武器の訓練などしていなかった。それにすごいとは言うが、私の腕は大したことはない。訓練とは名ばかりで、悠午には遊ばれているようなものなのだ」

「あんなに激しく打ち合いをしていたのに、ですか?」

「そのように見えるのは、あれの腕が優れているからだな。私にはあまり剣の才能はないようで、特に攻めが単調で分かりやすいのだそうだ。いつも注意されるのだが、とても難しい。ただ、目だけは良いようで守りは比較的得意なのだが、それだけでは勝てないからなあ」

「そうなんですね。でも、どうして最近になって武術の訓練を再開なさったのですか?」

「体が鈍りすぎていると思ってな。強い精神は強靭な肉体に宿るとも言う。それに国の上に立つ私が全く何の訓練もしていないというのは、些か外聞が悪いだろう」

「そうですか。人の上に立つというのは大変なものなのですね」

 僕は主上の軽く握られた両の手に自分の手を伸ばして、手のひらを検める。

「こんなになるくらい、頑張らないといけないなんて」

 皮が剥け、血豆ができ、それが潰れて瘡蓋ができ、そしてそれが剥がれ、また血豆ができて。そういう手だった。僕は無意識にそのぼろぼろの手のひらに指を這わせた。

「くすぐったいぞ」

 そう言われて、慌ててぼんやりとなぞっていた手を離す。

「大丈夫だ。見た目ほどには痛くはない」

「……主上もいつか剣を持って戦うようなことがありますか?」

「と言うと?」

「戦などで、主上が剣を振るうような場合があるのかなと」

「まさか。私が剣を握って前線に立つようなことはない。私が前にいてもみなの邪魔にしかならない。もし仮に、前線に立つような場合があるとしたら、それは最早勝負がついているような時だけだ」

「勝負がついている、とは?」

「勝つか負けるかだ。……そんな不安そうな顔をするな。今のところ何処の国にも怪しい動きは見られない。戦の心配などせず、国内問題にだけ集中できるのはありがたい」

「では、ただの訓練という意味以上のことはないのですね」

「ああ、もちろんだ」

 僕はじっと主上の瞳を覗き込んだ。真っ直ぐな視線があるだけだった。

「そうだ賢英」

「はい」

「今のうちに伝えておこう。お前の引っ越しが決まった」

「ええ?どういうことですか?どこへですか?」

「何処だと思う?」

 主上がにやにやしながら訊いてきた。

「わかりません」

「私の部屋の隣だ」

「え?だってあそこは執務室ですよね?それとも反対?いや、反対の部屋は応接室だし……」

「執務室のある方だ。実は少し前からお前が移ってこられるよう執務室を改装していたのだ。仕事の部屋は別の場所に移す。大急ぎで仕上げるよう指示を出した。最近職人が宮殿内をうろうろしていたのは知っているだろう?実は彼らはそのためにいたのだ。そして、その改装がやっと昨日完成したのだ。今は人手が足りない上に、もう少ししたらしばらく雲嵐もいなくなる。お前と私が近くにいたほうが世話係も少なくて済むだろう?」

 主上の考えが手に取るようにわかる。

「それは、決定事項ですか……?」

「当たり前だ。なんだ、嫌なのか?」

 主上が窺うように僕を見る。

「いえ、その……」

 これだけは確認しないと。

「寝室は別ですか……?」

「ああ、一応は別だ。なんだ、そんなことが気になっていたのか?」

 う……。

 主上がにやにや笑う。

「一人で眠るのは寂しいだろうと思って、寝室は一緒でもよかったのだがな。侠舜から却下されてしまった」

 助かった。

「それで、引っ越しはいつですか?」

「今日だ」

「今日……」

「まぁ、これから仲良くやろう。な?賢英」

 主上の悪戯っぽい笑顔がまぶしくて、僕は何も言えなかった。




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