第36話 夜
人が忙しなく外の廊下を行き交っている気配がする。僕の部屋の前には以前はいなかった警護が交代でつけられた。
あれから短くない時間を寝台で過ごして、今更ながらこの宮は主上がおわす場所としては人の数が少ないのかもしれないと思うようになった。その証拠に侠舜が僕の世話係として戻ってきた。その理由は慈蓉がいなくなったから。
それに、僕を一人にしないために、雲嵐や侠舜が部屋を出るときはまず、誰か人を呼びにやり、交代要員が来てから部屋から出ていくという手順を踏むせいで、何をするにもものすごく時間がかかる。人材が豊富ならこんなことにはなっていないはずだ。
雲嵐もたぶん僕の世話以外の仕事をこなしているのだろう。心なしか雲嵐の顔にも疲労の色が見える気がして、なんだか申し訳ない気持ちになる。しかも、倒れた僕に応急処置をしてくれたのは雲嵐なのだと聞かされた。雲嵐には感謝してもしきれないし、もう嫌というほどありがとうと伝えた。それから、今の僕には何もしてあげられることがないけれど、いつかこのお礼をしたいと言うと、困ったような顔をされただけだった。
僕は暇に飽かせて色々なことを考えた。主上のこと侠舜のこと雲嵐のこと。なんとなくではあるけれど、最近侠舜と雲嵐の間に何か僕の知らない変化があったらしいということには気が付いた。それから桂雨のこと茉莉さまのこと父のこと伯母夫婦のこと僕のこと、そしていなくなってしまった慈蓉のこと。
彼女はどうなったのだろう。
一度侠舜と雲嵐に慈蓉の行方を尋ねてみたけれど、今は体調を戻すことだけを考えるように言われてはぐらかされてしまった。
何もすることのない僕は仕方なく窓の外を眺めるしかなかった。あの庭師のおじいさんは戻ってくるだろうか。
体調がだいぶ良くなって、やっと起き上がることが許可された日の夜、僕は雲嵐に頼んで窓際に円卓を移動してもらうと、椅子に腰かけた。
ついで玻璃燈の明かりを消してもらう。
窓の外を仰ぎ見ると月が天頂に浮かんでいる。庭では桃の花が月の光の下でぼんやりと浮き上がって見えた。
窓を開けて欲しいと頼むと、雲嵐がためらう。雪は解けたとはいえ、まだ夜は冷える。僕の体調を気遣ってくれているのだ。僕は肩掛けとひざ掛けを身に着けることを約束し、持ってきてもらうと体に巻き付けた。
それを確認して雲嵐が窓をゆっくりと開け放つ。すぐにひんやりとした空気が室内に流れ込んできた。少し前はまだ肌を刺すような冷気を含んでいたが、今はもうそんなことはない。冷たい手がやさしく頬を撫でるように僕の身を包む。雲嵐が寒くないかと確認してきた。
僕は問題ないと答えながら明るい夜を眺める。雲嵐が退室し、しばらくしていつものようにお茶を持って戻ってきた。僕の前に茶碗が置かれる。
僕は雲嵐も一緒に座って飲むように頼むと、もう一脚の椅子に腰かけた。二つの茶碗から温かな白い湯気が立ち上る。その二本の湯気は微風にかき消された。
僕はその暗いお茶を覗き込みながら慈蓉のことを思い出す。いつもにこにこして困ったように笑う彼女を。丁寧で熱心でよく気が付く彼女の仕事ぶりを。彼女の淹れてくれたおいしいお茶を。
雲嵐が心配そうに僕の顔を覗き込む。僕はなんでもないように茶碗を取り上げると、ゆっくりと口元に運ぶ。爽やかな香りが鼻をくすぐる。それから一口、口に含んで慎重に飲みこむ。おいしい。
雲嵐が安堵したように茶碗に口をつけた。ほっと小さいため息が漏れた。
静かな夜だった。
「雲嵐はこの先どうしたい?」
僕は窓からゆっくりと背が伸びた雲嵐のほうに向きなおる。少しだけ顔付きが大人びたように見えるのは、光の加減のせいだろうか。
雲嵐は黒い瞳で僕の方をじっと見た。少し考える風に目が細められる。
「私はこのままここにいようと思います。あなたのお世話を侠舜さま一人に任せるわけにもいかないですし。これでも私は随分頼られるくらいに仕事ができるようになったのです。」
そう言ってまだ幼さの残る笑みを見せた。
「それで良いの?」
「ええ。ここを辞めても他にいくところはありませんし、少しやりたいことができましたから。」
「やりたいこと?」
「秘密です。」
そういって一つ息をつく。僕を見る視線に力がこもる。
「あなたは良いのですか?」
「僕はもうここに残ると決めたから。」
「そうですか。」
「雲嵐がいてくれると僕は心強い。」
「微力ではありますが。」
「ありがとう。よろしくね。」
「はい。」
それで十分だった。
窓から柔らかな光が流れ込んで、僕はその光に手をかざしてみた。黒い影が床に落ちる。その不思議に僕は手の形を変えながら、姿を変えていく影を飽きもせず眺めていた。雲嵐が一緒になって手をかざした。影が二つになった。
そうしていると、扉が叩かれた。すかさず雲嵐が席を立って扉を開けに行く。主上だった。
ゆったりとした足取りでやってくると先ほどまで雲嵐が座っていた席に主上が無造作に座った。すぐさま雲嵐がお茶の用意をする。僕と主上の前に茶碗を置き、用が済むと退出した。
雲嵐のときとは違う沈黙が落ちた。
窓の形の月光に照らされて、伸びる二つの影が僕らと同じように鎮座している。主上はだまって茶碗を覗いていた。僕は気づかれないように、少し茶碗の位置をずらしてみた。もう少し近くに。
そんな風にしていると主上が声をかけてきて、僕は慌てて声のした方に向き直った。
「寒くはないのか?体に障るぞ。」
「平気です。温かい恰好をしていますし、温かいお茶もあります。」
そう言って一口飲んでみせた。
「何をしていたのだ。」
「雲嵐と月を見ていました。それから、少し話をしました。これからのことを。」
「そうか。」
「今日はわざわざお越しいただいてとても嬉しいのですが、お仕事は大丈夫なのですか?」
「ああ問題ない。泰然に後を任せてきたからな。」
誰かは知らないけれどかわいそうに……。
「予期しないことは楽しいものですね。僕はもうすっかり暇に飽いていて。」
「内容によりけりだと思うが。」
「主上のお越しはいつでも嬉しいものです。」
「そうか。」
こうして二人きりで話をするのはあの日以来初めてだった。だからだろうか、何を話したらいいのか思いつかなかった。会話とはこんなに難しいものだっただろうか。
触れたら壊れる静寂があった。
主上がやっとお茶に口をつけた。
「今夜は月が綺麗だな。」
夜空を見上げながら囁くように話しかけられた。
「そうですね。まだ満月には足りませんが、とても綺麗です。それに、ほら見てください。桃の花が満開です。梅を見る約束は果たせませんでしたが、こうして一緒に花を見ることはできました。」
窓の向こうに幾本かの桃の木が植わっていて、それが霞のように庭を彩っているのが見える。
「私のせいでお前には迷惑をかけてしまったな。すまなかった。それに、また痩せてしまったようだ。」
「ええ、手足も細くなった上に胸も薄くなりました。折角主上の期待に応えようと肉を付けるべく頑張っていたのに、台無しです。」
僕がささやかな力こぶを作って見せると、主上が一瞬目を丸くして、それからくつくつと笑う。つられて僕も笑う。
「主上、ご自身がおっしゃったこと、忘れていませんよね?」
「なんだ?」
「僕の行きたいところどこへでも連れていくという話です。僕はちゃんと覚えていますよ。」
「ああ。そのことか。もちろんだ。私に二言はない。」
「それじゃあ、来年こそ一緒に離宮へ行きましょう。」
「ああ。」
「それから、夏には青海湖に避暑に行きましょう。」
「ああ。」
「秋にはまた紅葉を見に遠出をして。」
「ああ。」
「冬は……。」
「そんなにか。」
「ええ。何でもとおっしゃいましたので。冬は……、思い浮かばないので思いついたら言いますね。」
「なんでもとはいったが、いくらでもとは言わなかったような気がするが。」
「そうでしたか?どんなわがままでも聞いてくれるとおっしゃっていましたよ。」
「お前、ちょっと変わったな?」
「ふふふ。人間は環境に適応していくのですよ。」
僕がにやりとしてみせると主上が苦笑いをした。この表情は初めて見た。
「僕が変わっていくことはお嫌ではないですか?」
「もちろんだ。変わらない人間の方が珍しいだろう。」
「主上の望まない方向への変化でもですか?」
「他人の顔色を窺って生きるような真似はしてはいけない。」
「……はい。」
「それに私はお前のことを信じている。」
「ありがとうございます。」
一年前の自分のことを思い出す。
「僕はここにきてこんなにじっくりと花や月を見るようになりました。以前もきれいだなと思ったし、時々足を止めて眺めて見るということはもちろんありましたが、こうして無心に眺めながら時を過ごすということは、以前の自分にはないことでした。同じように、自分で詩を作ったり楽器を演奏したりも、以前は考えられませんでした。きっと伯母さんが今の僕を見ても、すぐには僕だとわからないかもしれません。それくらい僕は変わったと思います。見た目だけではなくて。たくさんのことを学んで、僕の考え方もあのころとは大きく違うでしょう。そう思うと、なんだか一年前が遠い日々になってしまったような気がします。」
あの頃の自分よりも知識が増え、ここでの生活様式を学び、立ち居振る舞いや言葉遣い、書く文字も綺麗になった。体も大人になったし、きっと中身も大人に近づいていると思う。
主上はどうだろうか?優しいところは変わらない。
「主上は何か変わったと思いますか?」
ただの思いつきでふいに口をついただけの、他愛のない質問だった。笑って返されると思ったはずの答は、長い沈黙に置き換えられた。
僕が見つめる先で、主上は遠い目をして月を見ていた。
「私はただの仕組みなのだ。」
思いもよらない言葉が耳に届いた。
「この国をうまく動かすためだけの仕組みの一つでしかない。その道から外れることもできない。いや、もしかしたらそれは私の思い込みなのかもしれないが。」
主上がぽつりぽつりと話し始めて、僕はだまって聞くことのほかに何もできなかった。
「私が子供の頃、三年ほどこの皇都ではなく南の離宮で過ごした時期があった。」
主上が視線を手元の茶碗へと移した。もう温くなっているだろうそれへと。
「あのころのことはほとんど記憶にない。いや、記憶に残るような出来事がほぼなかったと言ったほうが正確だろうか。当時私は、この日々が変わらず続いていき、何もしないまま死んでいくのだと思っていた。けれど、ある時転機があって、私はあそこから連れ出された。私が何かをしたというわけではなくて、私の預かり知らぬところで運命は決して、それに流されて私は天子となった。」
緩慢にこちらを見つめ返してきたその瞳は、何の感情も宿してはいないようにみえた。
「そのとき思ったのだ。あぁ、こうして私は、私の意思とは別のところで何もかもが決められていくのだと。もしかしたら自分の死さえも。ならばこそ、次期皇帝候補として、期限付きではあったが、私は手に入れたこの地位を利用してやろうと思った。私はこれまでの不自由を清算すべく、傲慢にふるまった。好き勝手にふるまって、私は誰の話も聞かず、自分を顧みることもなく、そうしてたくさんの間違いを犯した。気付くと父が死んで、私はそのまま皇帝となった。それからの毎日は、ただ私に、私がただの歯車でしかないことを知らしめるだけだった。」
何か言わなければと思ったけれど、僕は何も言えなかった。
「そして、気付いたのだ。私が、三年近く見上げ続けた月と同じなのだということに。月は毎日東から上り西に沈み、日々満ちていきそして欠けていく。規則正しく時を刻む。それをただ繰り返すように、私もまたそういうものなのだと気付いた。私は私の役割を背負ったまま死んでいくのだと思った。」
ふいに瞳が揺れた。
「私は幸せな未来というものをうまく想像することができない。いつも先のことを考えると、最悪の事態が真っ先に思い浮かぶことが多い。私の心はずっとあの塔の奥にある。ただ月齢を数えるだけの日々はあまりに長すぎたのかもしれない。いつしか私は自分が何をしたいのか考えなくなった。あの時、お前に言われるまでは。」
一陣の風が窓から吹き込んできて、僕はその寒さに身震いをした。それを見て、主上が立ち上がると窓を閉めた。振り返ったときにはいつもと変わらない顔をしていた。
「つまらない話を聞かせてしまった。」
「いえ。つまらなくは……。」
「さぁもう遅い。休むとしよう。」
そういって主上は僕を立ち上がらせると、僕の手を引いて寝室へと促した。
残された二つの茶碗の影が長く伸びていた。
※12月に遅れました。申し訳ないです。またぼちぼち再開していきたいです。
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