第37話 そして始まりへ

 翌日暁明がお見舞いにやってくることになっていた。そろそろ僕の授業が再開されるということで、屋外での授業を再開させられるかどうか見極めるという理由もあるようだった。

 暁明先生が来るまでの間、僕は窓の外をなんとはなしに眺めていた。朝の日差しの中でもやっぱり桃の花は霞がかかったように美しかった。柔らかく温かな日差しの中で、名も知らない小鳥たちの囀りが遠く近く聞こえてきて、庭師たちが仕事用の道具を抱えながら歩き回っている。当たり前の光景なのに、どうしてこんなにも特別のもののように見えるのだろう。

 働く人々の中に去年見たあの庭師のおじいさんが庭の世話をしている姿が見えた。楽しそうに、忙し気に、でも歳のためにゆったりと動き回っている。若い人が一人、彼の後をついてまわるのは、様々なことを教わっているからだろうか。僕はその姿を目で追ってみた。

 しゃがみこみ、立ち上がり、上を指さし、足元を指し示し、道具を構え、頭を横に振り、頷く。ゆったりした足取りの後をきびきびとした動作がついてまわる。

 一度二人が窓のすぐ近くを通りかかり、僕に気付いて帽子を取って軽く会釈をして立ち去っていった。一度転びそうになったおじいさんを若い人が支えた。足を捻ったのかおじいさんはその人に連れられて一緒にどこかへと歩み去っていった。

 それから約束の時間まで庭を眺めて過ごした。



 時間通りに暁明先生はやってきた。

 久しぶりに顔を会わせた先生は、目に見えて安心したという表情をして見せた。とても心配させてしまったことが申し訳なくもあり、嬉しくもあった。

 雲嵐が淹れてくれたお茶を飲みながら三人で他愛のない会話をした。雪がなくなって嬉しいということ、春になって新人教育が始まること、一歳になった若い馬の調教をすること、天祐が元気に成長していること、雪の中の訓練から解放されて嬉しいこと、お世辞だろうけれど雪が寂しそうにしていること、主上や侠舜のお許しが得られれば、雪の世話をすぐにでも開始できるだろうこと。雲嵐も乗馬の授業に参加するようになるという話には驚かされた。

 久しぶりの会話は弾んだ。途中で雲嵐が席を外したけれど、長く楽しい会話が続いた。


 時間が来て、暁明が入口に立つ警護の一人に雲嵐を呼ぶように声を掛けた。戻ってくるのを待っている間の手持無沙汰な空気にごまかして僕は知りたかったことを訊いてみた。

「慈蓉はどうなりましたか?見つかりましたか?」

 この日初めて暁明が困ったような表情を見せた。

「侠舜も雲嵐も誰も教えてはくれないのです。知っている様子なのに。」

「あなたの体調を慮ってのことなのですよ。」

「ということは、先生は知っているのですね。知っていて教えてはくれないのですね。」

 苦笑が浮かぶ。

「主上はあなたのことを大事になさっているのです。」

「子ども扱いということですか?僕があのとき主上を拒んだからですか?主上が僕に手を出さないのは、そういうことなんですよね。」

 暁明がえ、とかあ、とか言葉にならない声を発しながらうろたえる。

「あの主上が?まさか……。嘘ぉ……。」

 僕はそんな暁明を無視して続ける。

「雲嵐は教えてもらったのに。どうしたら僕は本当のことを話してもらえるのでしょうか?」

「時期を見計らっているのですよ。」

「体調が万全になってからだというのは分かります。でも僕は今知りたい。雲嵐は知っているのに。」

 驚いたような目をして暁明が僕を見る。

「あの子は賢い子だ。今の状況と自分がやろうとしていることを理解している。」

「僕は賢くないからだめだというのですか?」

「そうではなくて。それに、私自身はあなたが真実を知るには早いとは考えていない。まだ幼い部分は多いけれど、あなたは自分で考えることができる人だと思っている。」

「だったら。」

 暁明が少し考える風に眉根を寄せる。

「人は変化を恐れるものです。あなたが色々なことを知ってしまったあと、知ったという事実があなたと、自分たちにどのような影響を及ぼすのかが分かりません。それは大きいかもしれないし、もしかしたら全然ないのかもしれません。誰にもわかりません。」

「はい。」

「人は失敗を恐れるものです。特に取り返しのつかない失敗を経験した人は。」

「はい。」

「抱えるものが多い人ほど失うことを恐れるものです。それが大切なものであればあるほど。持つものが少ない人は不幸ですが、その点においては幸せです。どんなことでもできるからです。」

「……。」

「そして、責任の重さを知っている人ほど一歩を踏み出すことに慎重になるものです。ですが、どうしてそれを責められるでしょうか?」

 扉が叩かれた。

「私から言えることは一つだけです。主上のあなたに対するこれまでの見方や印象を覆さなければ、もうしばらくはこのままだろうということです。」

 雲嵐が入ってくる。

「ただ、思うに、主上はあなたのことを認めていらっしゃると思いますよ。ただ、踏ん切りがつかないだけで。待っているだけでは何も変わらないこともあります。」

 そう言って暁明先生は帰っていった。



 夜一人で布団に入ったあとも僕は考えていた。

 主上は言った。幸せな未来を想像することが苦手だと。

 僕はどんな明日を想像できるだろうか?

 次の日も僕は窓辺に腰かけて一日を過ごした。

 昨日のおじいさんが今日も仕事に精を出している。その姿を見つめながら僕は、さほど近所のおじいさんに似ていなかったことに気が付いた。



 日が沈み侠舜がやってきて、夕食の準備が整えられる。僕はそれを横目に息を整える。

「今夜、主上はどちらにいらっしゃるか分かりますか?」



 胸がどきどきしている。少し、いや、とても緊張している。

 侠舜に聞いたら今日はこの宮にいることが分かった。

 侠舜に連れられて主上の執務室の前まで来たけれど、中に居なければいいという気持ちが湧いて来る。

 しばらく扉の前に立ちすくむ僕に侠舜は何も言わない。深呼吸だ。

 軽く扉を叩くと少し遅れて扉が開かれた。知らない顔だった。その人が僕に入室を促し、そのまま入った。侠舜はこなかった。


 卓に着いて仕事をしていたらしい主上は不思議そうな顔で僕を見た。普段僕は仕事の邪魔をしないよう、ここへは来ないからなおさらだろう。

 僕を招き入れた人が飲み物を尋ねてきたので、大丈夫だと伝えると、分かりましたと言って自分の仕事に戻っていこうとするところに、主上が席を外すよう声をかけた。その人が隣室に消えるのを目で追ってしまう。

 ええい。男は度胸。

「主上、申し上げるのが遅れてしまったのですが、実は私は先日十五になりました。」

 訝し気な顔をされる。そりゃあそうだ。

「それはめでたい。そういえば来たばかりの頃に十四だと話していたな。気づかなくてすまなかった。遅くなってしまうが、祝いの品を何か考えよう。」

 主上が合点が行ったというように笑って答えた。

「いえ、そういうことではないのです。」

「と、いうと?」

「もう主上が思っているほど私は子供ではない、ということを申し上げたかったのです。」

 眉根が寄せられる。

 何と言ったらいいのか……。

「こんなことを言っても、行動が伴わなくては意味がないことはわかっています。それでもやっぱりお伝えしなくてはいけないと思いました。」

 深く息を吸ってゆっくりと吐き出す。

「私は主上から見たらまだまだ子供であると思います。私が子供でないと胸を張って言えるような何かもありません。だから認めて欲しいとも言えません。ですが、私にその機会をください。私が大人だと認めてもらえる機会を。わがままを言っているという自覚も、あなたを困らせるだけの発言であることも、こういうことを言うこと自体が子供であることの証左だということも承知しています。それでも。」

 主上の目が閉じられた。

「あのときの僕の言葉は本心です。」

 両目が開かれると、その顔は先ほどとはうってかわって酷く真剣な表情をしていた。

「別にそんなことを言わなくても、私はお前を子供だとは思っていないつもりだった。」

「ですが、私はいろいろなことから遠ざけられています。」

「そうか。」

「何も知らなければ、何もできない、と、思います……。」

 主上の反応が思っていたものと違うために、戸惑ってしまう。

「確かに、お前の言う通りなのだと思う。私はお前を危険から遠ざけるつもりで、その実、ただ子ども扱いしていたのかもしれない。先生からも侠舜からも指摘を受けてはいたのだ。」

 また。主上の目が、遠くを見るように細められた。

「私には何の後ろ盾もない。両親はおらず、使える駒も多くない。それに、私は何かに秀でているところがあるわけでもない。王としての器ではないとずっと思ってきた。」

 音もなく主上が立ち上がって僕の側までくる。

「私はお前を守れないかもしれない。事実、一度失敗してしまった。」

 そう言いながら優しく僕の頬に触れる。感触を確かめるように。

「そうと知りながら、お前を手元に置いておきたいと思うのは愚かなことだろうか。」

 隣の部屋で何か作業する音がかすかに聞こえてきた。

「信じることは難しい。人も未来も自分自身さえも。」

 僕は首を横に振る。

「主上は僕に何ができると思いますか?」

 主上が困惑した顔をした。

「僕自身、大したことができるとは思っておりません。人に誇れるなにかを持つような人間ではないからです。それでも、できることがあるのならやりたいと思います。そして、何も知らなければ何もできません。何も持っていない者は不幸ではあるけれど、どんなこともできるという点で幸せだと、暁明先生はおっしゃいました。ならば、持たない私たちに何ができるかを考えてみませんか?自分だけのためではなくて、僕と主上のために。」

 主上に手を伸ばしてその頬に触れる。

「主上はおっしゃいました。幸せな未来を想像することが不得手だと。なら、二人で、幸せな明日を探しませんか?僕は根が単純で楽天的な人間なので、そういうのはきっと得意ですよ。」

 主上が僕の手をとる。

「お前の手は、こんなに大きな手だったのだと、ついこの間私は気づいた。」

 しげしげと。

「どうして私は不用意に昨日お前にあんな話をしてしまったのだろうと、ずっと考えていた。今まで隠し続けてきたことなのに……。そして、今初めて気付いたことがある。たぶん私の心は、もうあの時ほとんど決まったようなものなのだろうな。」

 主上がうつむく。

「私も変わっていかねばならないのだろうな……。」

 再び顔があげられた。

「だが、本当にいいのか?」

 打って変わって硬質な声が降ってきた。甘さも優しさも混じらない冷たい声。

「はい。なんとかなりますよ。」

 心の奥まで覗き込もうとするように視線が合わされた。

「それに、信じてくれるんですよね。僕のこと。」

「ああ……。そうだな。」

 それから強く抱きしめられた。強く強く。その強さの分だけ、主上が葛藤しているのだと思った。しばらくの後、両腕に込められた力が徐々に弱まっていった。口づけが唇に一つ落ちて、主上の体が離れた。

 僕が上向くと、にやりと笑った顔が見えた。


 鼓動が跳ねた。


 それは卑怯だよ。

 恥ずかしくて顔をうつむける。

「えっと、その。それから……。」

 こちらに耳を傾ける気配。

「今夜はまだ仕事は終わりそうにないですか?」

 語尾はかすれて消えた。

「えーっと、主上は昨日いつもどおりでしたので……。」

 怪訝そうな顔。

「僕はもう十五になりました。」

 耳が熱い。

 主上が何かを悟ったように驚愕に目を見開いた。

 すると。

「泰然。」

 主上が大きな声で呼ぶと、すぐに隣室から先ほどの男が顔を見せた。

「今日の仕事は終わりだ。私には今緊急かつ非常に重要な仕事が舞い込んだ。私はすぐにでもそれを、ここにいる賢英となさなくてはならない。故に、お前は今日はもうお役御免だ。ここしばらく遅くまで仕事をさせたからな。今日はもう帰って良い。」

 それを聞いた泰然は両手を上げて喜ぶと、僕の方を拝むように見てから、隣室に引っ込んでなにかがさごそと音を立てたかと思うと、すぐに退室して行った。その足取りは非常に軽やかでしかも信じられないほど速かった。主上の気が変わるのを恐れたからかもしれない。


 二人きりになった部屋。

 なんてことを言ってしまったのだと思った。けれど、不満であったことは事実だった。けれど、なぜ今このときに口をついて出たのか。

 あんな顔をされたら……。

 耳まで赤くなっているだろう僕がどうしていいか逡巡しているところに、すかさず腰に手が回された。僕の顔を覗き込みながら主上がほほ笑む。その表情は何だ。そして徐々に手が腰から下へ移動していく。支えるところとしてそこはおかしいのではないだろうか。

「少し切り替えが早すぎるのではないですか?」

「何事にも契機というものがある。それを逃すことは敗北を意味するのだ。」

「そうなんですか。」

 うむ、と大仰に頷かれた。

「僕、主上のそういう欲望に忠実なところ、嫌いじゃないです。」

「悲しいかな、男とは誰しも助平なものなのだ。」

「そうなんですか。」

「そういうものだ。」

「僕もそうですか?」

「それをこれから確かめるとしよう。」

 まぶしいほどの笑みだった。

「あの、主上。僕はその、殆ど初めてのようなものなので……一応授業では習ったのですが……。」

「案ずることはない。なに、私も三度目だ。心得ている。私は学習する男なのだ。お前を天国に連れて行ってやろう。」

「天国に、ですか……。」

「一回目と二回目はいかせてやれなかったからな。今度こそ。」

「えっと……その、いくというのが僕にはよく分からなくて。どういう感じなのでしょうか?」

 主上の動きが止まる。信じられないものを見たと言うようにこちらを穴が開くほど見つめてきた。

「お前……自分を慰めることくらいあるだろう……?」

「えっと。」

「まさか、いや、そんなことがあり得るのか?」

 見たことのない顔をされた。

「あの、主上?大丈夫ですか?そんなにおかしなことを言ってしまいましたか?」

 急に不安になる。常識を持ち合わせていないことが急に恥ずかしく感じられた。

「いや、気にするな。」

 主上が機嫌良く言う。

 その変わり身早さに訝しさを覚えた。

「何事においても初めての男になれると言うのは、誉高いものだな。」

 そう言って主上はいつも以上に優しく僕を導く。

「お前の初めては全て私がいただくとしよう。」

「そうなんですか。」

「当たり前だ。」

 気付くとあのときと同じ、最初の日と同じ部屋の前まできていた。

「僕は今とてもどきどきしています。」

「私もだ。」

「そうなんですか?」

「おかしいか?」

「いえ。同じですね。」

 くすくすと二人で笑った。

 主上が扉を開いた。

 僕の腰を抱く腕に力が籠められるのが分かった。僕はそれに答えるように主上の手の甲に自分の手の平を重ねた。

 そうして扉は閉じられた。



※これにて前半が終了です。ちょっと強引な話展開じゃないかと戦々恐々としています。

※思えば第一話を書いたときからここを落ちにすることを決めていたのですが、紆余曲折あって、登場人物たちが勝手に動き出して、通過点となってしまいました。本編はもう少し続きます。

※当初は誰も読んではくれないだろうと思って、十話とか十五話くらいで終わらせるつもりでした。色々設定は考えていたのですが、それは使わないだろうなぁって。

※ですが、別サイトで深いところまで読んでいるのだとわかるコメントをいただいて、ちゃんと書かないといけないのだと思いました。それがなければこの話はなかったと思います。ありがとうございます。

※後半もお付き合いいただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。

※それとおくれました。あけましておめでとうございます!

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