第35話 告白

 目が覚めた。目を開いた意識はなかったけれど、視界がはっきりしていくのが分かった。眠った記憶はなかったけれど、眠りから覚める時のあの浮遊感があった。

 暗闇の中に小さな明かりがあって、そのそばに人影があることに気づく。徐々に目が光に慣れていって、それが主上であることが分かった。

 瞬間胸が苦しくなった。

 そうして僕は思い出す。お茶会での一連の出来事を。

 同時に、あの時と同じだと思った。僕が熱を出した時と。あの時は暗闇で主上の顔は見えなかったけれど。

 僕は主上が何故だか泣いているような気がした。

 理由はわからない。目を閉じて身じろぎもせずに椅子に腰掛けているだけだったのに。

 起きあがろうとして体が言うことを聞かないことに気づく。重い。今すぐ主上に触れたいのに、そうしなければいけないような気がするのに、全身が鉛のように重くて上手く体が動かせない。

 僕は起き上がることを諦め、焦る心に任せて主上に声をかけようと思った。

 けれど声は掠れ、言葉が上手く出てこない。喉がすごく渇いていた。僕は掠れた声で再度呼び掛けようとした。

 その時、影が俯けていた顔を持ち上げてこちらを見た。

 目が合う。

 驚愕に両目が見開かれた。恐る恐るという風にこちらに手を伸ばす。僕は重い腕に力を込めて持ち上げると、すかさず主上が手を握ってくれた。

 泣きそうな顔だった。

 胸が痛い。僕は全身に苦い後悔の念が満ちるのを感じた。こんな顔をさせたくはなかった。

 掠れた声でごめんなさいと言うと、主上が横になる僕の首に両腕を差し込んで抱きしめた。今までで一番優しくて強い抱擁だった。

 暫くそうして、僕はごめんなさいを言い続けた。聞き取れる声音では無かっただろうけれど、主上は繰り返し頷いてくれた。主上は一言すまないとだけ言った。


 それから主上はすぐに隣室に声をかけた。隣に人が詰めていたらしく、幾人も入ってきた。知らない人の中に侠舜と雲嵐を認めた。雲嵐は泣きそうな顔をしていた。侠舜が普段感情を見せないのが嘘のように、安堵を面に浮かべていた。僕はとても心配をさせてしまったようだった。

 入ってきた者は医官のようで、診察のために主上が場所を代わろうとした。僕はとっさに腕を伸ばして、主上の上着のすそを掴んだ。ここで主上を行かせてはいけない気がした。

 主上は驚いたように僕を見ると、安心させるように微笑んで側にいるからと言った。僕は主上の目を覗き込む。その奥には偽りはないように見えた。

 それから医官たちに薬を飲まされ、いくつかの体調についての質問を受けた。雲嵐や侠舜の世話を受けながら僕はいつの間にかまた寝てしまった。



 次に目覚めたとき、外は白み始めていた。窓の布簾越しにかすかに光が見える。体は最初に目覚めたときよりも軽かった。腕を持ち上げると難なく動く。良かったと思っていると目が薄暗がりに慣れ室内が見えるようになった。寝台の脇には言った通り主上が座っていた。

 眠っていると思う。それでは辛いだろうに、椅子に腰かけたままの体勢で身じろぎもせずに行儀良く。

 僕は起こさないようにゆっくりと起き上がって主上の顔を覗き込もうと思った。少し眩暈がするような気がしたけれど、ちゃんと起き直ることができた。僕は一つ安心して、ゆっくり近づく。

 泣いていないだろうか。

 なぜだかそればかりが気になった。

 そっと手を伸ばして頬に触れる。わずかにざらついた感触。温かい。目元から頬を伝っておとがいまでなでた。

 僕はほっと一息ついた。良かった。

「何をしている?」

 突然声を掛けられた。僕は驚いて顔を上げると目の前にいぶかし気な顔があった。起こしてしまったらしかった。

「主上が元気かと思って確かめていました。」

「それはこちらの言うことだ。お前こそ、もう起き上がって大丈夫なのか?」

「はい。もう平気です。」

 そう言って僕は腕を回して見せる。

「さあ、もう一度寝ておけ。体調が恢復したとは言えまだ危険なことには変わらないのだから。」

「はい。」

 布団の中に入る。

「主上は寒くないですか?」

「大丈夫だ。」

「一緒に寝ますか?」

 優しい表情で主上が笑う。

「心惹かれる提案だが、今回ばかりは遠慮しておこう。」

「そうですか。」

 沈黙。

 主上が僕の上に布団を引き上げる。

「主上、ご迷惑をおかけしました。侠舜や雲嵐にも。あとで謝らないといけません。」

「お前が無事だっただけで十分だ。今は気にすることはない。」

「ですが。」

「気にする必要はないと私が言っている。」

「はい。」

 目を閉じる前に思い出した。

「そうだ、茉莉さまにも謝らないと。大変なご迷惑をおかけしてしまったので。」

「それも気にするな。かなり取り乱してはいたが今は落ち着いている。問題はない。ほら、目を閉じてもう少し眠れ。そうしたらもっと元気になる。」

 今までで一番優しい声音だった。聞いたことのないほど。

「数日後の遠出の件、行けるでしょうか?」

「眠れと言っているのに、仕方のないやつだ。まあ、無理だろうな。しばらくはこの部屋から出ることもできないだろう。」

「そうですか。楽しみにしていたのに残念です。」

「今は体を治すことだけ考えろ。」

「また誘ってくださいますか?」

 沈黙。

「僕、とても楽しみにしていました。主上と出かけるの。」

「そうか。」

 沈黙。

「また誘ってくださいますか?」

「あぁもちろんだ。どこへでも行こう。もっといい場所を探しておく。そのためにも今は元気になることだけを考えろ。」

 とても気遣わしげな声。

「主上はどこか行きたいところはありますか?」

「私はどこでも構わない。お前の行きたいところへ連れて行こう。」

「時期はいつが良いでしょうか。主上はお忙しいから、予定を空けるのが大変ですよね。だいぶ後になってしまうでしょうね。秋ごろでしょうか。」

 沈黙。

「来年には行けるでしょうか。」

「どうだろう。私にもまだわからない。さぁ、もうしゃべるな。ゆっくり休まなくてはいけない。」

「僕が起きるまでこのまま、傍にいてくれますか?」

 沈黙。

「もしかしてお忙しいですか?」

「大丈夫だ。お前が目覚めるまでここにいると約束しよう。」

 そう言ってもう一度僕の布団を直す。

「辛いところや、気持ち悪さはないか?喉の渇きは?」

「大丈夫です。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。」

「気にしなくて良い。お前のせいではないのだから……。今は迷惑など考えず、治すことだけ考えるんだ。そうして良い子にしていたら、何か贈ろう。私からの快気祝いに。何か欲しいものはないか?何でも良い。やりたいことでも。どんなわがままでも聞いてやろう。あぁそうだ、暁明が会いたがるはずだ。元通り動けるようになったら一番に会いに行ってやると良い。それに、一度お前の実家に帰るのも許可しよう。帰りたがっていただろう?一年ぶりに会いに行ってこい。それから――。」

 主上が次から次へと話をする。こんなに喋るところを初めて見た。

 優しい。

 僕に気を使ってくれているのが分かる。僕の好きなことや喜びそうなことを並べ立てる。

 僕のために。

 目の前の主上はどこまでも優しくて。

 だから僕には分かった。

 柔らかく心地よい響きが耳から胸へと転がり落ちて、僕は泣きたい気がする。


 僕はこの優しさを知っていた。

「ねぇ主上。」

 自分でもおどろくほど優しい声が出た。

 主上が口を閉じてこちらを見る。


「主上はもう、僕が居なくても大丈夫ですか?」


 息を飲むかすかな音。

 僕は主上から視線を外して続ける。

「父さんのことを思い出しました。」

 声は震えていないだろうか。

「もう何歳のころだったのかはっきりとは覚えてないのですけれど、七歳か八歳の頃だったかもしれません。」

 久しく思い出したことのない記憶を頭の片隅からひっぱりだす。

「あの日、父さんは僕を伯母さんの家に連れて行きました。前日に突然、出かけようと言って。それを聞いて僕は久しぶりに伯母さんに会えるのだと無邪気に喜びました。父さんは優しい顔をして、優しい声で僕に荷物をまとめるように言いました。僕は言われるままに少ない着替えを袋に詰めました。伯母さんの家に行くときはいつも泊りがけだったので、その時もそうだと思いました。」

 布簾の隙間から白い光がか細く差し込んでいる。

「そうしたら、これも持っていきなさいと、母さんの形見の簪を僕の袋に入れました。普段は持ち歩いたりはしないのに。そんなものを持っていく理由もないのに。僕はいつまで向こうに滞在するのかと聞きました。父さんはしばらくの間だよと言いました。僕は楽しみだなと言ったのを覚えています。」

 沈黙。

「二人で伯母夫婦の家にいきました。その日は伯母さんも伯父さんも優しくて、みんないつにもなく陽気で、とても楽しい一日でした。普段はしない夜更かしもしました。次の日、僕が偶然いつもより早起きすると、伯母夫婦と父さんが家の入口で話をしていました。僕が何も考えずに声をかけると三人は驚いた風に僕を振り返りました。一瞬世界から音が消えたと思うほど静かになりました。それから父が僕を呼んで、僕の頭を撫で抱きしめました。僕はどうしたのか聞いたけど、誰も答えてはくれなくて。そうしていると父が少しの間遠くへ行くことになったと言いました。僕はただ遠出をするだけで、夜には帰ってくるのだと思いました。だから気を付けて行ってらっしゃいと言いました。父さんは僕に、必ず戻るから良い子でいるんだぞと言いました。今まで聞いたことのないくらい優しい声でした。」

 沈黙。

「今の主上みたいに。」

 僕は絞り出すようにゆっくりとこの言葉を吐き出した。

「それから、父は二度ともどりませんでした。」

 僕はゆっくりと主上へ顔を向ける。

「主上も僕を遠くへやるのですか?主上も僕の前から消えるのですか?」

 主上は何も言わなかった。

「僕はもう必要ありませんか?」

「要不要の話ではない。」

「僕が側にいてはお邪魔ですか?」

「お前が死にそうになったのは私のせいなのだ。私はお前に死んでほしくない。お前はここを出たほうが良い。自由になりたがっていただろう?」

 無感動な声が残酷な決定事項を僕に知らせた。

「僕が主上と離れたくないと言ってもだめですか?」

「私はお前を死なせたくないのだ。」

 ここで会話を終わらせてはいけないと思った。

「僕は普通に暮らしていれば主上と出会えるような人間ではありません。あの日出会わなければ、こうして主上と暮らすことも、言葉を交わすことさえもできませんでした。」

 沈黙。

「あなたから離れて、それで、もうあなたに会うことができなくて、それで僕に生きていけというのですか?」

 沈黙。

「主上は僕に不自由はさせないとおっしゃいました。主上は僕に帰れないと言いました。僕は主上の気持ち一つで、主上の考え一つで何もかもを決められてしまうのですか?」

 沈黙。

「僕の願いは聞いてはもらえませんか?」

 沈黙。ずるいと思った。

「僕をここにおいてください。」

「何故。」

 僕は心を決める。

「主上のことが好きだからです。」

 沈黙。

「知っている。」

「そうでした。主上は僕の気持ちをご存知でしたね。」

 以前の会話が思い出される。

「ですが、僕も本当は随分前から自分の気持ちに気付いていました。」

 主上が僕と視線を合わせた。

「けれど、それが特別な気持ちなのかがわかりませんでした。」


「例えばどこか街を歩いていて、素敵な誰かとすれ違ったとして、その人のことを好きだと思うことと、僕が主上を好きだという気持ちに違いがあるのかが分からなかったんです。」

 ずっと考えていた。

「もし同じであるのだというのなら、僕のこの気持ちはどこにでもありふれた一つの好意と同じということになってしまう。それではだめだと思ったんです。この気持ちが特別でなければ、僕はあなたの側にはいられないと思いました。僕はあなたを他の誰とも置き換えの利かない、特別な人だと思いたかった。特別な人だと証明したいと、そう思うようになりました。はっきりとは意識していなかったけれど。」

 言葉を必死で紡ぐ。僕の言葉は主上には届かないのだろうか。

「茉莉さまから聞きました。後宮での主上の様子を。茉莉さまは主上がいつも一人ぼっちのように見えると仰いました。」

 主上の口から苦笑気味の笑いが漏れた

「そうだな。」

「ごめんなさい。主上は僕に知られたく無かったんじゃないかと途中で気付きました。」

「よい。どうせそのうち知られていた。」

 主上が何かを吐き出すようにため息をついた。

「幻滅したか?私は天子とは名ばかりの何の力もない男なのだ。」

「いいえ。僕が主上を好きになったのは、権力とかお金とかそういうことではありませんから。」

 主上が視線で先を促す。

「僕はあなたがあなただから好きになりました。茉莉さまに言われて気付きました。何の前触れもなくやってきて、僕のつまらない話に笑ってくれて、それが普通のことではなかったのだと。僕はあなたと過ごすそういう些細な時間がとても好きでした。穏やかな気持ちになります。なのに、一緒にいたのに、僕はあなたのことを何も知らなかった。知ろうとしなかった。すごく後悔しました。一か月前の天祐の名づけの際、主上は時々いつもとご様子が違いました。けれど僕は深く考えていませんでした。あの時、思ったことを伝えていたら違ったでしょうか。」


「僕は毒で気を失う時、あなたのことを考えました。このまま、あなたのことを何も知らないまま死ぬのが恐ろしかった。そして、死ぬことよりもなお、あなたを一人にしてしまうことが怖かった。」

 なんとか言葉を紡ぐ。

「だから教えてください。主上の気持ちを。」

 沈黙。

 沈黙。

 沈黙。

 泣きたくなる。

「こんなに近くにいるのに、心は離れたままですか?あなたの孤独に気づいてあげられなかったこと。それは僕の罪です。どうしたらこの罪をあがなうことができますか?」

 涙が一つ零れた。

「私はお前を利用していた。それだけだった。」

「そのおかげで僕はあなたに会うことができました。こうして話をすることも、まして本来なら出会うことさえ叶わない人なのに。だから僕は主上が僕を利用していてもいいと思います。」

 重いため息が聞こえた。

「いや違う。最初はただの気晴らしだった。周りにいないお前のような者がいたら少しは気が紛れるだろうと。けれど、お前と暮らして、話をして、過ごす時間が長くなればなるほど、私はお前を離したくないと思ってしまった。なのにあのような目に遭わせてしまった。全ては私の愚かさが招いたのだ。」

「僕はあの時、毒で気を失いそうになる時、一番に主上のことを考えました。死ぬことよりも主上を一人にしたくないと思いました。父や母のことは思い出しもしなくて、ただあなたと過ごした時間のことを思いました。そうして思ったんです。僕はあなたのことをもっと知りたかったって。だから僕にあなたのことをもっと教えてください。」

 ここに来て僕はやっと思い至る。

 ああ、そうか。

「この気持ちが、僕にとって主上が特別だという証拠だと思います。」


「僕は今正直に話をしました。とても勇気がいりました。だから、今度は主上の番です。」

 沈黙。

「主上は僕が居なくても平気ですか?」

「主上はなんでも良いと仰いました。先程、どんなわがままでも聞いてくださると仰いました。僕はあなたのわがままを聞きたいです。教えてください。」

「僕も今わがままを言いました。だから、教えてください。」

「お相子ですよ。」

 駄目だろうか……。僕の言葉は届かないだろうか。


「またこんな目にあうかもしれない。」

 間を置かずに答える。

「はい。」

「次は死んでしまうかもしれない。」

「はい。」

「冗談ではないのだ。」

「それでもです。僕をここにおいてください。生きていても、あなたに会えないのなら、意味がありません。」

 沈黙。

「だから、代わりに主上の気持ちを聞かせてください。僕はあなたの願いを叶えたい。」

 主上の辛そうな顔を覗き込む。

「わがままを聞かせて。」

 目が見開かれる。

 口が何度か開かれ、けれど言葉は紡がれないまま閉じられを繰り返した。

 幾度か逡巡するのが見て分かった。

 僕は主上にいざり近づき、その手を握った。

 もうこれしかできることは残されていなかった。 

 僕は祈るような気持ちでその言葉を待った。


 そして。


「……欲しい。」

 気の遠くなるような時間が経ったかのように思われたあと、掠れた声が落ちた。

 僕がはっとして顔を上げる。主上の視線と出会う。

「ここに居てほしい。」

 息が止まる。


「俺を、一人にしないで欲しい。」


 瞬間僕の胸の奥に満ちていくものがあった。

 この気持ちを何と呼ぶのだろう。たぶん……。

 僕は無意識に主上の頭を抱き込む。

「はい。これからも一緒です。」

 主上が僕を抱きしめる。きつくきつく。胸のあたりに感じた温かさに胸がいっぱいになって僕は泣いてしまった。



※またしばらく更新できないと思います。もしかしたら12月になるかもしれません。

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