第13話 勉強

 僕の勉強が始まって二か月ほど過ぎて、秋になった。

 相変わらず僕は狭い世界で生きているけれど、時間に比例するように数少なな僕の知り合いとの関係は深まっていった。


 子供のころの主上も勉強では苦労していたという話を聞いて、僕は少し肩の力が抜けたのだと思う。以前よりも前向きに講義を受けることができるようになった。相変わらず暗記は苦手だし、長時間の授業で集中力が続かなくて怒られるし、勉強の内容は少しずつ難しいものになってきているしで、辛くはあるけれど、以前の辛さとは何か違うような気がした。


 前向きな気持ちになると自然と勉強も頑張ってみようと思うようになった。

 僕は、皇都の小学と私塾で使われる初学者用の手引書を侠舜にお願いして取り寄せてもらった。各教師が用意してくれた教材は、書かれている言葉からすでに難しい場合があり、逐一先生に説明してもらうのでは授業が全く進まないことになってしまうのだ。

 一度、宮殿にある書庫に勉強の役に立つ書物はないのかと侠舜に聞いてみたけれど、あるのは古文書や各種行政資料、過去の議事録や法律書などの専門書ばかりで、僕の勉強に役に立つ書物はおいていないのだそうだ。

 僕は相変わらず物覚えが悪かったけれど、気付いたこともあった。

 それは、歴史の授業で、歴史上の大きな出来事とそれに関連する興味深いことを一緒に教えてもらうと不思議なことに比較的楽に覚えられたことだった。

 ほかにも、時の皇帝が女性を喜ばせるためだけにいくつもの庭園や離宮を作って失脚したことを、歴史書では無計画な公共事業で国家財政が傾いたために失脚と書かれているとか、庶民の間で女の側から男を相手取って子供の認知を求める裁判が多発したために一夫一妻制が法律で定められ、それをきっかけとして民法が成立した、というようなことだ。

 そのせいで覚書の竹簡が恐ろしい勢いで増えていったけれど、僕の夜の自習ははかどった。

 手は一日中墨汁で汚かった。


 あれほど厳しいと感じていた先生たちを、違う角度から見る余裕が生まれてきた。

 歴史と法律の先生は今のところ一度も褒めてくれたことがないけれど、授業の内容は僕が興味を持てるように工夫されていることを発見した。

 侠舜先生は厳しいけれど、きちんとできれば褒めるところはしっかりと褒めてくれることに今更ながら気づいた。ただ、主上が言っていたように褒めてくれる基準が厳しいのだけれど。

 ほかにも、色々な先生が、僕の理解を助けるための工夫をしてくれていることに、今になってやっと気づいた。主上と侠舜は本当に良い教師をみつけてくれていたのだ。

 伯母夫婦からの手紙にも、最近の僕の字は驚くほどきれいになっていると書かれていて、自分の小さな成長を実感した。

 だから、少しずつ勉強に対して、やらされているという感覚を持つ頻度が減ってきたように感じる。今でも時々嫌々やらされていると思うときがあるのは許して欲しい。


 主上は今、七日に一度僕の部屋で眠るのが習慣になった。

 朝食の席で顔を会わせるし、勉強の合間にふらりと立ち寄ってくれたりするので、それほど寂しくはない。侠舜が気を使って一緒にご飯を食べてくれるようになったおかげもあるし、暁明先生とのんびりおしゃべりできるおかげでもあった。


 ある日の侠舜先生の授業のことだった。その日の授業の内容は貴族の立ち居振る舞いと矜持についてだった。

 この二か月の間で僕はそれなりに儀礼や立ち居振る舞い、貴族の心のよりどころといった庶民にはなじみのないことがらを、飲み込んできた。貴族の基礎的な思考についてはぼんやりとした認識ができあがってきたころだった。

「では賢英さま、今まで私はあなたに貴族の基本的な思考の様式や心構えについてお教えしてきました。ここで一つ実践的な思考実験をいたしましょう。」

 それは初めてのことだった。今まで先生が僕に意見を求めることはあまりなかった。

「どういったものですか?」

「あなたの立場は何ですか?」

 この質問はあまり好きではない。

「主上の愛人です。」

「では、家格の異なる二者が狭い道、あるいはそうですね、ここ宮殿のような狭い通路で鉢合わせした場合、誰がどのように振る舞うべきですか。」

「はい。家格の低い者が道の端へ退いて壁を背にして立ち、家格の高い者へ立礼して道を譲ります。」

「そうですね。では家格が同じ場合は?」

「はい。家格つまり爵位または禄位が同じ場合は、土地の面積の大小、或いは役職と皇帝との職務的な距離の遠近で比較し、それでも同じ場合は勤続年数の高低で判断し、下位の者が道を譲ります。」

「正解です。では、後宮に住まう妃たちが道を譲る相手はどなたですか?」

「一つに皇帝であらせられる主上です。さらに妃同士でそれぞれ上下がありますので、それに則って道を譲ります。」

「そこまでは良いでしょう。では、ここからが本番です。あなたは誰に道を譲るのですか?」

 これは難しいと思った。恐らく正解を期待しているのではなくてどういう道筋を立てて問題を理解しようとしているのかを見ているのだと思った。なぜなら僕はただの平民でしかないから、普通はほぼすべての人に譲るのが正解だからだ。

「まずは妃たち同様主上です。さらに、私がもし女であると想定した場合、私はただの庶民でしかありませんので、よくて女官にしかなることが叶いません。よって私を主上から寵愛を受けた女官と考えると今現在の後宮にいる全ての妃に道を譲ることになります。また、正五品の女性までは妃として後宮入りをした貴族や他国の姫君であらせるので、同様に道を譲ることになります。正六品以下は女官の扱いとなりますので、立場としては同じになります。だたし側室としての一面を考慮すると、私は正五品の一番下、あるいは正六品の一番上と同様の立ち位置になるのではないでしょうか。」

「悪くない考え方だと思います。ですが実際にはあなたは男であり女ではありません。故に女官にもなることはできません。男性が官となるためには二つの試験のうちどちらかを受け合格する必要があります。ですがあなたは合格していないため、宮の中ではただの下男にしかなれないのです。するとほぼ全ての官に道を譲ることになってしまいます。」

「わかります。ですが、そうなると、以前先生がおっしゃっていた、私を軽んじるということは主上を軽んじることと同義であるという言葉に反してしまうことになります。」

「そうですね。」

 よく覚えていましたという顔をされた。ということは今の発言は正しいのだ。

「私が主上の寵愛を受けているというのは、恥ずかしながら、周知の事実です。」

「そこは胸を張るところです。」

「すみません。つまり、私は例外として官に道を譲る必要がないということになってしまいませんか?」

「そうです。ですがあなたはここで働いているわけではないので下男ですらありません。しいて言うなら客人、あるいは食客でしょうか。そのため、誰もあなたが道を譲らなかったといって非難はできても処罰することはできません。なぜなら宮殿にいるものは下男下女を除いてみな官であり、官は法によっていろいろなことが決められているからです。普通上の位の者は下の位の者を処罰できますが、それは法によって官同士の上下が決められているからです。官は官以外の者を罰することはできません。罰することができるのは刑法に違反したときのみです。客人のあなたを罰することはできない。主上の客人であるあなたをね。」

 さらさらと流れるような論理に流されそうになっていることに気付いた。何を言わんとしているのか。

「さらに、過去に皇帝が男性を今のようにはっきりと目に見える形で囲ったことはございませんでしたので、前例もないのです。」

 雲行きが怪しい。

「よって、誰からも罰せられる謂れはないのです。なぜなら前例もなく法もないからです。あるのは主上という後ろ盾だけです。しかも、後宮の妃たちはご実家の後ろ盾をよりどころとして後宮に入り、その家格に合わせた妃の位に入りました。しかしあなたは違います。貴族でもなんでもない地位にいながら、あなたは皇帝直々に召し上げられ、専用の部屋まで与えられました。」

 話の規模が大きくなってきていないだろうか。

「そして皇帝はこの国と周辺国の頂点におわします。」

 嫌な予感がする。

「つまり、あなたを非難するということは皇帝を非難するということ。よってあなたは主上以外の誰にも道を譲る必要はないのです。正確に言うなら、譲らなくても誰からも非難も処罰もされないのです。」

「……それって屁理屈っていいませんか?」

「よくできました。」

 そういって侠舜がにっこりとほほ笑んだ。

「あなたは本来ここにいるほとんど全ての人に道を譲らなくてはならず、しかし例外的に主上以外の誰にも道を譲らなくてもいいのです。よって論理は帰結します。」

 侠舜が呼吸を整える。

「つまり毅然としていればよいのです。道で誰かと出会ったら、そのまま待つのです。相手が譲ってきたらそのまま進み、相手から非難を受けたらにっこり笑って譲られるのを待てばいいのです。恐らく表立ってあなたを非難する人はいませんし、向こうが先に手を出して来たら処罰できます。」

「でも僕には何の力もありません。」

「そうです。今私がお話したように、あなたは誰からも敬われる立場にはございません。故に誰をも動かすことはできないのです。それは権力をもっていないということです。それは身を守るすべをもっていないということではありますが、同時に、誰とも利を奪い合うことになりえないために、逆説的にあなたは安全なのです。あなたを害する意味を誰ももたないからです。」

 ふぅと美しい唇からため息がこぼれた。

「もしあなたを害することを願うものがいれば、それは完全に個人的な理由からです。そしてあなたは自分から他人の不興を買いに行くような方ではありません。だからこの宮にいる間は安全です。常に毅然としていてください。そうすれば主上はお喜びになります。それでもあなたを害そうとするものがいれば、主上がなんとかしてくれます。そして私はあなたを守るために付けられているということも、忘れないでください。」

 僕は頭がぐるぐるしてしまい、後半は主上を頼りなさいというところ以外よくわからなかった。

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