第12話 仲直り

 僕はその日一日を考え事に費やし、翌日侠舜に主上に会えるよう取り計らってもらえないかと頼んだ。

 彼は微笑んで、執務室にいらっしゃると思います、と言った。先触れは不要です。いますぐ会いに行ってあげてください。お喜びになられるでしょうと送り出された。全くそんな気はしなかったけれど。

 僕は以前教えてもらった執務室の場所を思い出しながら部屋をでると、まっすぐ主上のもとへと向かった。何度か通路を曲がり、あまり来たことのない区画へと足を踏み入れる。僕の宮殿内での行動範囲は、人間関係同様にさほど広くはないのだ。

 大きな扉をたたくのはひどく勇気がいった。何度も深呼吸をしてから、意を決して叩いた。

 中から不機嫌そうな誰何の声がして、僕は大きく名乗った。

 遅れて入れと言う声がして、僕はゆっくり扉をあけた。とても重い扉だった。

 室内に目を向けると、大きな暗い色の机の向こうに主上が座っているのが視界に入ってきた。

 僕の視線の先にいる人の、その目は何の感情も宿してはいなかった。怒っているだろうか。

 僕は扉を閉めてゆっくり近づいた。

 勇気を出せ。

「何用だ。」

 無感動な声がした。

「はい。」

 心が萎えそうになる。

「謝罪を申し上げようと思い参上しました。先日の数々のご無礼をお許しください。私は……。」

 言葉を探す。

「私は、あまりに子供でした。自分のことばかりで、あなたの気持ちを推し量るということができませんでした。こんなに近くにいるのに。」

 呼吸を一つ。

「許して欲しいとはいいません。ただ、聞いてほしいのです。」

 そういうと、主上は話を聞く姿勢をとった。良かった。一応話だけは聞いてもらえるのだ。

「私は、自分が幼いことを知っていたつもりでした。でも十分に理解しているとはいえませんでした。なぜなら、私のこの主上への気持ちがなんであるかを、うまく言葉にすることができないからです。お恥ずかしい話ですが、私は初恋もよく知りません。好きという気持ちが、どういうものなのかを僕はまだよくわかっていないのです。私はあなたに甘えていたのだと、この数日で思い至りました。愚かなことだったと思います。あなたは私の家族でもないのに。そんな愚かな私ですが、家族に対する愛情は理解しているつもりです。記憶の中の両親は優しかったし、伯母夫婦もとても親切にしてくださいました。ですから、家族に対する愛についてだけは、私でも間違いません。私は、主上に対して、その家族に対する愛情を感じてはいません。」

 彼がいぶかし気な顔をしている。

「もしかしたら少しは感じているかもしれませんが……。だからといいますか、けれど私はあなたのことを考えると、何か、こう……。」

 上手く言葉が出てこない。主上はこちらに耳を傾けてくれている。

「侠舜に言われました。主上の気持ちを考えてくださいと。先日の行動は、劉先生に対する嫉妬だったと教えられました。」

 主上がふんと鼻を鳴らして、苦虫をかみつぶしたような顔をした。

「どうか彼を叱らないでください。彼の言葉がなければ、私は今ここに立っていなかったでしょう。その嫉妬という言葉を聞いたとき、私はひどくうれしいと思ったのです。」

 主上が目を見開いて僕を見た。

「それと同時に、ええと、失礼ながら、その……。」

 話を促すように頷く。

「それと同時に、可愛いなと思ってしまったのです。」

 僕は恥ずかしくて視線を逸らす。

「どうか怒らないで聞いてください。僕はもっと主上のことを知りたいと思いました。知って、できることなら……。」

 視線で言葉を促しているのがわかる。

「できることなら、あなたに応えらるようになりたいと思ったんです。」

 急激に恥ずかしさが押し寄せてきて、耐え切れずに顔をうつむけてしまった。

「もしお許しをいただけるのなら、もう少しおそばにおいていただけないでしょうか。私は、あなたを…。」

 突然抱きすくめられて驚く。気づくと主上がすぐそばまできていたのだ。

「本当か?」

 僕は何も言わない。

「賢英」

 久しぶりに名前を呼ばれた気がして、つい顔を挙げた。目の前にはものすごい笑顔があった。

「大丈夫だ。お前は必ず私のことが好きになる。初めから決まっている。」

 なんでわかるんだ。

「そうでしょうか。」

「そういうものだ。」

 くつくつといつものように主上が笑う。そのおかげできまずい雰囲気がなくなった気がする。

「僕はあまり頭がよくないので、この気持ちがよくわからないのですが、知りたいのです。その、もっといろんなことが知りたいです。」

 即座に口をふさがれた。

 胸の奥にじんわり温かいものが広がった気がした。


 その夜、久しぶりに主上が部屋にやってきた。びっくりするから先触れを出して欲しい。

 以前のように僕を膝抱きにして椅子に座り、勉強の様子を見ている。僕がうんうん唸りながら手引書と竹簡と教科書を並べて見比べていると、主上が興味深そうに覗いていた。

「私も幼いころは勉強が大変だった。」

「主上もですか?何を勉強されていたのですか?」

「お前と同じだ。それに政治と外国語と剣術もあった。」

「そうなんですか?僕より多いですね……。辛くはありませんでしたか?」

 子供の頃の主上がどういう風に感じていたのか聞いてみた。

「辛かったに決まっている。毎日が地獄のようだった。私は特に女のするような舞や詩や歌が苦手だった。あとは歴史か。過去の知りもしない先祖の失敗など聞いても楽しくはない。現実にいて虎視眈々と私に付け入ろうとする輩の顔と名前を覚えるほうが重要だったからな。」

 主上でも苦労していたのだとわかって、肩の荷がおりたような気がした。

「興味もない科目に全力を傾けることなどできるわけがない。適当にごまかしごまかしやればいいんだ。私は詩を担当する教師がさじを投げるほどの生徒だったぞ。」

 憮然とした顔で昔を思い出すような響きでもって言葉を紡ぐ。

「全てを完璧になんて無理に決まっている。やりたくないことは最低限でいいんだ。お前は授業から逃げ出さないだけ、私より随分優秀だと思うぞ。どうせ侠舜あたりが余計なことを言ったのだろう。なんでもかんでもうのみにするのは良くないぞ。あいつは理想が高すぎる。」

 僕は驚いてその整った顔を振り返った。

 子供の主上が頭に思い浮かんだ。それほどやんちゃな子供だったのか。それと同時に、大人の主上が侠舜を困らせている姿を思い浮かべた。

「子供の頃は教師の揚げ足取りばかりして留飲を下げていた。そうでもしなければあんなつまらない授業に耐えられるわけがないのだ。」

 僕がくすくすと笑うとつられたように主上も笑った。その声が穏やかで安心した。



 何日かして、久しぶりの馬術の授業のためにいつものように中庭へ行くと、予想もしていなかった人が待っていた。

「暁明先生!何故ここにいらっしゃるのですか?新しい先生が今日からいらっしゃると聞いていたのですが。」

 僕の声は驚きで少し裏返ってしまった。

「賢英さま、お久しぶりです。体調を崩していたと聞きました。快復されたようで何よりです。」

 僕は体調不良の原因を思い出して難しい顔になる。

「はい、ありがとうございます。ご心配をおかけしました。ところで、あの、先生。先生は教師役をおやめになったのではなかったのですか?私は侠舜先生からそのように窺っていたのですが。新しい先生はどちらにいらっしゃいるかご存じでしょうか。」

 それを聞いて暁明先生がなんとも言えない顔をした。

「私も前はそのように聞かされていたんです。以前お話ししたもう一人の教師候補だった方が怪我から復帰されたからと。ですが先日、突然主上から直々に間違いであったからこれからもあなたの指導を続けるようにと、お声がけをいただきまして、本日教師役として参上した次第です。」

 僕は主上の心変わりを不思議に思ったが、暁明先生の授業が変わらず受けられることを喜んだ。少し不安ではあったけれど。彼に先生との仲でいらぬ誤解を与えないかという点で。

「くれぐれも君のことを頼むと念を押されたよ。なんというか、その、勘違いをしないように、と。」

 厳しい顔で言われて、生きた心地がしなかったと先生は零した。

 僕は吹き出しそうになった。僕のために主上が譲歩してくださったのだとわかると、とても嬉しかった。けれど、あの人は同時にしっかりと釘を刺すのを忘れなかったのだ。しかもわざわざ直接会って。

 仏頂面で要件を伝えただろう主上の姿を思い浮かべると、自然と笑顔になる。僕は表情を取り繕いながら、またよろしくお願いしますと頭を下げた。

 頑張りましょうと先生が言った。

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