第18話 いざ、決戦へ
翌日、朝から門脇と山瀬は役員会議室にいた。二週間ほど前に、霧久保を菅崎が問い詰めた場所だった。しかし、今度は菅崎が問い詰められる側に回るのだ。
十メートルもあるテーブルの中央正面に社長の中目黒が座っているのも前回同様だった。違うのは、顔を合わせている者たちとその座っている位置だった。今回は、社外を除く取締役が全員招集されていた。副社長の森川が社長の隣に座り、山瀬、門脇は正面の右斜め横、その向い側に問い詰められる菅崎専務と早坂、紺野が座っていた。前回は、そこには霧久保が座っていたのだった。
それ以外の取締役である常務たち六人は、事前に何も説明を受けてなかったのか、テーブルの端の方に集まり、何が始まるのかとひそひそと囁き合いながら、演劇を見るかのようにじっと中央正面を見据えていた。
「忙しいところを急に集まってもらって済まないが、それだけ重要な話があるので了承して欲しい。これは正式な取締役会ではないが、いずれ、それも開かなければならないだろう」
中目黒の低く重い声が会議室に響いた。門脇は菅崎とあとの二人の様子を見た。菅崎はやや上に視線を上げ、じっと腕を組んでいた。早坂と紺野は背を丸め、下を見詰めていた。
「総務部長の山瀬から話をしてもらう」
と中目黒が言うと、山瀬は立ち上がり、まず、おっほんと咳払いをした。
「役員の皆さま方にお集まりいただいて恐縮ではありますが、今回の要件は、皆さま方のご判断を仰がなければならないので、お集まりいただいた次第でございます。実は、社内で極めて不適切、極めて不当、明らかに正義に反する行為が行われたことを報告しなければなりません」
山瀬の声は、いつもの声より高かったが、話しぶりは抑制のとれた穏やかなものだった。
「話は、ひとりの取締役員のわが社女性社員との不倫から始まります」
一瞬、中央正面を凝視していた常務たちからざわめく声が聞こえたが、当の菅崎は、腕を組んだまま身動きせず、表情も変えなかった。
「不倫は文字どおり倫理に反する行為ですが、それ自体は違法とも不正行為とは言えないでしょう。しかし、その取締役員の不倫現場を録画し、脅迫した社内の人物が二人いました。その取締役員は一般社員の人事の最高責任者でした。そこで、その二人は自分たちの昇進を取締役員に約束させたのです」
「とんでもない奴らだ」
常務の誰かが大きな声を出したが、山瀬は話を続けた。
「それだけではありません。その後、この取締役員以下三名は共謀し、社員の自殺を他殺ではないかという疑惑を捏造しました。そして、その疑惑がある有能な管理職に向かうように工作したのです。それは、その管理職の役員入りを阻むためでした。その管理職が将来自分たちの邪魔になる恐れがあると考えたのです。違いますか、菅崎専務?」
会議室全員の視線が菅崎に集中した。すると、菅崎はすっくと立ち上がって、山瀬と門脇に向かい、いくぶん笑顔を浮かべて言った。
「山瀬さん、あなたは、そこにいる門脇くんの妄想につき合わされているだけです。こんな馬鹿な話は事実ではなく、妄想ですよ。門脇くん、きみは疲れているんじゃないか?」
門脇は、はったりだと思った。無理に笑顔をつくりながら否定すれば、ごまかし通せると思っているのだ。じっくりと事実を提示していけば、やがて観念するだろう。
しかし、菅崎の言葉に山瀬の方は激怒したようだ。うーと唸りながら立ち上がり、テーブルの上に身を乗りだして向い側に座っている菅崎に向って言った。。
「何を言うか。よし、それなら洗いざらいぶちまけてやる。菅崎専務、あなたは海外営業本部の女性社員に手を出し、二人の旅行中にその様子をそこの早坂に隠し撮りされた。早坂はそれをネタに、以前に同一の研修で親しくなった紺野と結託し、人事権のあるあなたを脅迫して昇進した。それだけではものたらず、三人はつるんで、いづれ経営幹部を担う逸材だと誉れ高い海外営業本部の部長、霧久保拓也を陥れようと企んだ。将来、霧久保が、専務、あなたの地位を脅かすのではないかと恐れ、今のうちに芽を摘んでしまおうと考えたのだ。あなたの地位が安泰ならば、あなたの力で昇進したそこの二人も安泰でいられるからだ。そこで、手を出した女性と後に交際した研究開発部の監物チームリーダーの自殺を利用した。早坂、きさまはわざと霧久保にぶつかり、監物のノートパソコンを壊した。その際に監物の遺書のコピーをそこに落としこんだんだ。セキュリティセンターの紺野はそれを、さも霧久保に疑惑があるかように見せかけた。そもそも、監物の自殺が他殺だなどという噂を流したのもお前たちだ。これも霧久保への疑惑をかきたてようと仕組んだもので、そんな噂など元々なかったのだ。どうだ、事実だろう? 間違っているなら、言ってみろ」
山瀬は一挙にまくしたてた。その激しい言葉に、早坂と紺野は小刻みに身体を震わせ、どう答えていいか縋るような顔で菅崎を見たが、菅崎は動じていなかった。
「では、真実をお話ししましょう。海外営業本部の女性社員と交際というか、何回か二人で会ったことは事実です。しかしそれは過去のことで、現在はそういう関係はありません。女子社員には謝罪し、軽率な行為だったと大いに反省しています。だが、それ以外のことは何ひとつ事実ではありません。恐らく、妄想だろうと言う他はありません」
菅崎は通常の会議の発言のように、言い淀むことなく平然と答えた。
「分かった。そこまで言うのなら、情報統括室が作った確たる証拠を見せよう。門脇、見せてやれ」
山瀬はそう言って、腰を降ろした。門脇は持ち込んだノートパソコンと会議室の奥に設置された大型モニターをケーブルで繋いだ。USBメモリーをノートパソコンに挿しこみ、キーを押した。
大型モニターに映像が映し出された。会議室の全員が押し黙った。門脇は、この電子データを出さなくても、菅崎専務は山瀬の話だけで非を認め、謝罪するのではないかと薄々思っていた。その方が、いくらかは菅崎が弁解できる余地が残るからだ。電子データを役員たち全員が見れば、こと細かに三人の工作が裏づけされてしまう。また門脇自身、盗撮された動画までは、見せたくはなかった。だが、門脇の妄想とまで言われては、こうするしかない。
大型モニターは、初めに情報統括室作成という文字を映し出した。おやっ、と門脇は思った。山瀬とともにデータを確認のため見た時に、こんな文字は出てきただろうか。その記憶がなかった。そして次の画面に移行した時、門脇は声を失った。
画面には、情報統括室員の勤務記録が映し出されたからだ。こんなものを、鳥井に要求した覚えはない。
「どうなっているんだ」
と山瀬が大声をあげ、門脇を見た。どうなっているんだ、と門脇も叫びたい気分だった。山瀬と確認したものとまったく違うものになっている。画面は勤務記録が三ページ映し出され後、白く変わり、他のデータはないことを示した。
「情報統括室の勤務記録に何か問題でも?」
菅崎が笑いながら言った。
「いや、違います。情報統括の鳥井室長から預かったメモリーには、こんなものは……」
門脇は、か細い声で言った。
「門脇くん、きっとそれは夢を見たんだよ」
菅崎はいつの間にか腰を降ろしていて、背をそらしながら細めで門脇を見詰めた。
「山瀬部長、話がまったく分からんぞ」
と、やりとりを黙って聞いていた中目黒が厳しい口調で言った。
「え、その、私にも、どうなっているのか分かりませんが、情報統括室の鳥井を外に待たせています。直接聞けば事情が分かると思います。今呼んでまいります」
山瀬は会議室の外に出て行った。門脇の目に、向い側の早坂と紺野の下卑た笑い顔が突き刺さった。
開いたままのドアから山瀬に促されて現れた鳥井は、役員たちに一礼するとテーブルの脇に立った。
「鳥井さん、昨日、あなたからUSBメモリーをいただきましたよね」
門脇は席を立ち、鳥井に詰め寄った。
「ええ、きみから頼まれたので渡しました。それが何か?」
「その中のデータが変わっているんです。いただいた菅崎専務たちの通信、通話記録が、消えているんです」
「門脇くんには申し訳ないが、私には彼の言っていることの意味が分かりません。昨日、彼は情報統括室の勤務記録を出してくれと言いに来ました。そこで、メモリーに落として午後に部下に持たせました。それだけです」
鳥井は、険しい表情の門脇には直接答えず、役員たちの方を向いたままゆっくりと言った。
「いや、門脇の言うとおりだ。私もメモリーの中を見た。そこには、確かに電話やメールの記録があった。とぼけたことを言わないでくれ」
と山瀬も鳥井に向って言った。
「とぼけてはいませんよ。私はそんな記録を渡した覚えはありません」
「情報統括の室員が門脇にメモリーを届けに来たのを私は見ている。それを、私のデスクのパソコンで中身を確認したんだ。間違いはない」
山瀬は、役員たちの方を向いたままの鳥井の肩を掴んだ。
「パソコンで見たんですか。そうですか。だとしたら、それは門脇くんが作成したものじゃないですか? きっと、私の部下のUSBメモリーと差し替えたんじゃないですか?」
鳥井は山瀬の手を振りほどき、悠然とした態度で言い放った。
「何を、馬鹿なことを言うか」
山瀬の怒声が会議室全体に響いた。少し間を置いて、中目黒が口を開いた。
「山瀬くん、少し冷静になったらどうかね」
怒りで身体を震わせていた山瀬は、中目黒の声に黙るしかなかった。そして小さく「済みません」と言って、下を向いた。
「どうも分からんな。鳥井くん、きみが出したのは本当に勤務記録だったんだね?」
中目黒は念を押した。
「そのとおりです」
鳥井は表情も変えずに言った。
「そうか……」
中目黒は、考えこむ素振りを見せた。
昨日、山瀬は社長の中目黒に事の一部始終を話した。山瀬の話では、もともと中目黒は監物の自殺以降の不可解な出来事の真相を知りたがっていて、山瀬は何か分かったら知らせてくれと指示されていたので、中目黒は山瀬の話を興味深そうに聞いた。しかし、菅崎専務以下三人の工作の話になると、急に不機嫌そうになり、「そんな話は信じられん」と一蹴したという。
中目黒は菅崎の実力を認め、次期社長と決めていたが、それが完全に覆ることになる。安易に信じないのは当然かもしれない。そこで、それを裏付ける証拠として情報統括室の鳥井が集めた記録データがあると伝えると、中目黒は急に態度を変え、「それなら本当かもしれんな」と言ったというのだ。
中目黒は、渋沢副社長を解任した際に、鳥井の情報を使った。そのことから、鳥井の情報なら信用してもいいと考えたのだろう。
その後は、中目黒は山瀬の話を疑うことなく、時々頷きながら聞いたという。
「残念な話だな。とても残念だ。だが、証拠があるのなら、しかたがあるまい」
山瀬によれば、中目黒は最後にそう言って、山瀬が要請した役員召集を承諾したというのだった。
証拠を集めたはずの鳥井は、「では、失礼します」と言って、自分には関係ないという顔を見せ、会議室を出て行った。
門脇は席に戻らざるを得なかった。
「一体どうなっているんだ」
山瀬が両方のこぶしを握り締め、机を叩きながら門脇に訊いた。門脇にも答えられなかった。
どうして、USBメモリーのデータは変わったのか? 誰かにすり替えられたのか?
門脇と山瀬は、USBメモリーを山瀬のデスクのパソコンで開いた。その後、門脇はそこから外し、スーツの内ポケット入れた状態で、先ほど取り出した。社内でスーツを脱いだことはないので、すり替えられることはない。また、山瀬のデスクに差しこんだUSBメモリーを抜いたのは、データを見終わって、二十分ほど山瀬と話しこんだ後だったが、その場にいたので、誰かにすり替えられることもない。だから、USBメモリーは同じものなのだ。
可能性があるとしたらあの時だ、と門脇は思った。山瀬のデスクのパソコンは当然、社内システムに繋がっている。データを見終わった後の二十分間に、システムを通じて情報統括室から操作されたのだ。鳥井は、門脇が渡したUSBメモリーのデータを確認するだろうと考えた。情報統括室側で、システムと接続したパソコンにUSBメモリーが挿入されたことを探知し、何分か後に遠隔操作で元のデータを消し、勤務記録のデータと差し替える。そんなことが可能なのか分からないが、それ以外には考えられない。
「社長、鳥井室長も否定しています。やはり、門脇くんの妄想と言うしかないと思いますが」
と菅崎は考えあぐねている中目黒に言った。
「副社長はどう思うかね?」
判断をしかねていた中目黒は、森川に訊いた。すると、他の役員たちは意外そうな顔つきをした。中目黒が副社長に限らず、会議中に他人に意見を訊くことは稀で、常に独断で決めていたからだろう。門脇は、昨日の山瀬の話を思いだした。中目黒は、山瀬の話を聞き終わると唐突に「きみは、森川副社長をどう思うかね?」と訊いたというのだ。山瀬が中目黒が後継者を森川にしようと考えていると咄嗟に判断し、「わが社をまとめていただくのにふさわしい方かと思います」と答えると、中目黒は笑みを見せたらしい。そして、山瀬は社長室を退出する際、中目黒が森川を呼ぶよう秘書に命ずる声が聞こえたという。
「昨日、社長からこの話を聞いた時は、正直に申し上げると半信半疑でした。そして、私は先ほどから客観的立場から聞いておりましたが、何よりも大事なのは、やはり客観的事実です。それを裏付けるデータ、証拠です。何事もそれがないと合理的な判断はできません。それがない以上、山瀬部長の話は信用するわけにはいかないと私は思います」
と森川は答えて、中目黒の顔を窺った。
「それはそうなのだが……」
中目黒は、まだ考えあぐねていた。
すると、菅崎は門脇に向って言った。
「門脇くん。きみは疲れているんだよ。きみの仕事ぶりが一生懸命だというのは分かっている。骨休みと言っては何だが、北九州工場への転勤命令を出したのも、本社業務から暫くの間離れて、気分を変えたらどうかと思ったからだ。この際、一月ほど休暇を取ったらどうかね。特別休暇を私が認めよう。それに今度のことは、本来、懲戒処分の対象になるが、それも特別に処分の対象にはしないことにする。異常な行動に出たのも、熱心さのあまりだと思う。そうだろう? 門脇くん」
門脇は答えず、上を向いて虚空を睨んだ。鳥井が手を結びましょうと言ったのは、罠だったのだ。初めからこうなることを計算していたのだ。それは、鳥井は菅崎専務の側についたということだ。
鳥井が渋沢副社長の背信行為の証拠を集めていたのを、直属の上司にあたる菅崎専務は知らなかった。鳥井も社長の指示命令を受けてしたことだと言った。てっきり、その後も鳥井は菅崎専務を無視して動いていると思っていたが、そうではなかった。いつの間にか、菅崎とも繋がっていたのだ。恐らく鳥井は、それが自分が自由に動くのに有利だと判断したのだろう。
これで次期社長目前の菅崎に大きな借りを作ったことになる。菅崎は、鳥井を軽んじることなどできないばかりか、むしろ鳥井の意向を無視できない立場に置かれるだろう。鳥井はそれが狙いだったのだ。
「第三者委員会を立ち上げたらいかがでしょう?」
ざわついた雰囲気の中で、常務の中のひとりが言った。すると、森川副社長がそれを「いや、そんなことまでする必要はないと私は思います」とすぐに否定した。
「そんなことをしたら、社外に知れ渡り、マスコミの餌食になりかねない。ここに社外取締役を呼んでいないのも、社外にこんな話が漏れたら困るからです。ここは、社長の判断にお任せしたいと思います」
森川がそう言うと、常務たちの間からそれがいいという声が聞こえた。
「分かった。副社長の言うとおり、社外への対面上、第三者委員会など立ち上げることはできない。そこで、この件は私ひとりで判断せず、副社長と相談して結論を出したいと思う。どうだろう?」
と中目黒は言った。異議ありません、という声があちこちから漏れた。
菅崎が「私もそうしていただくことに賛成です。お二人で相談された結果にすべて従います」と、神妙な顔つきをしながら言って頭を下げたが、口元に笑みが浮かんでいるのを、門脇は見逃さなかった。森川副社長は争いごとを好まず、何事も穏便に済ませるといった性格だと周りから見られている。その森川と相談して決めるのだから、今回の件は不問に付すはずだと、菅崎は考えているに違いない。何しろ、裏づけ証拠がないのだから、こっちの言い分は通らない。きょうは、完敗かもしれない、門脇はそう思った。
隣に座っている山瀬を見ると、放心したようにうなだれていた。この件がうやむやに終われば、菅崎以下三人を追及した山瀬はただではすまない。これまで菅崎専務には調子を合わせ、うまくやってきた。しかし、今度の件で敵にまわったと思われるだろう。相手は次期社長なのだ。もはや、おれの居場所はなくなる。山瀬がそう考えてもおかしくない。
「では、これにて散会する」
中目黒の低い声が、門脇には重く頑丈な扉を閉じるような音に聞こえた。
その時、ドアの外から何事が言い争う声がした。声はだんだん大きくなり、「よせ、会議中だ」という声とともに、ドアが蹴破られるほどの勢いで開いた。するとグレーの作業服を着た男が、外で待機していた役員秘書室長の大塚に羽交い絞めされたま現れた。男は大塚の腕を振りほどくと、右手を突き出し、三つ折りにした紙をかざした。そこには墨字で直訴と大きく書かれていた。男は研究開発部の睦月だった。
睦月も監物の死の真相を彼なりに探っていた。昨日の早朝に会った時も、死の当日の早坂と菅崎の通話を録音したと言っていた。それを持って乗りこんで来たのか。
「馬鹿なまねはやめろ」
大塚はなおも制止しようと腕を掴んだが、睦月はそれを振り払った。
「直訴する」
睦月は言葉でも大声でそう言った。
ここまで乗りこんで来るのだから、睦月は彼のやり方で、早坂と菅崎の通話の録音以上のものを掴んだに違いないと門脇は思った。それにしても、きょうの役員召集は一般社員には知らされいない。睦月は誰から知らされたのか。昨日、睦月は別れ際に鈴木瑪瑠理伊の名を訊いた。その後に瑪瑠理伊を訪ねに違いない。瑪瑠理伊にはすべて話してある。瑪瑠理伊から話を聞くと、いかにも睦月らしく、この場に「直訴」しに乗りこんできたのだ。
「何なんだ? あいつは……」
と山瀬が門脇の耳元で言った。
「我々の助っ人です。逆転満塁ホームランが出るかもしれません」
と門脇が答えると、山瀬は「おう、そうか」と言って、目を輝かせた。
「何のつもりだね?」
全員が唖然としている中で、中目黒が低く諭すような口調で言った。
「社長、会議中申し訳ありませんが、直訴いたします。自殺した監物くんの真相を、是非皆さまにお聞きいただきたく参上しました」
と睦月は言って、真顔で深々と頭を下げた。すると菅崎は、監物という言葉に反応したのか、急に立ち上がり、
「直訴だと? 何を馬鹿なことを……」
と言った。
睦月はそれには目もくれず、
「研究開発部の睦月が、社内での影に隠れた悪行を、社長はじめ役員の皆様方に暴露するため、参上しました」
とゆっくり言って、また頭を下げた。
「いつの時代の話だ。追い出せ」
菅崎が大声をあげた。すぐに早坂と紺野が立ち上がり、睦月の前まで行った。早坂が睦月の肩を押し、紺野がグレーの作業服の襟を掴んだ。
「ええい、触るな。お前たちが、監物を殺したんだろう」
睦月は声を張り上げた。
「大塚くん、警備員を呼びなさい」
菅崎が役員秘書室長に命じた。それまであっけにとられ、口を開けて見ていた常務の数人も睦月を追い出そうと駆け寄ってきた。大塚が携帯電話で警備員を呼ぼうとすると、中目黒がそれを制して言った。
「話を聞こうじゃないか」
早坂と紺野が手を離した。睦月は作業服の襟をただした。
「しかし、社長、こんな馬鹿げたことをする男の話を聞いても仕方がないでしょう」
菅崎は抵抗した。
「いや、それは聞いてみないと分からない。監物くんに関わることのようだが、私は話を聞きたい。それとも、専務、きみに都合が悪いことでもあるのかね?」
「いや、そんなことは……」
中目黒に言われると、菅崎は引き下がるしかなかった。早坂と紺野もすごすごとテーブルに戻り、睦月を取り囲んでいた常務たちも席に着いた。役員秘書室長の大塚が外に出てドアを閉めた。会議室が静かになったのを見計らい、睦月は話し始めた。
「一月ほど前に、私の所属する研究開発部の監物秀明が自殺しました。彼はあまりに過酷な業務のため、鬱症状に陥っていました。しかしその後、皆さんご存知のHM法の開発に成功し、さらに交際する女性もいました。ということは鬱症状は改善していたはずで、私は、彼の自殺が腑に落ちませんでした。何か裏があるんじゃないか、そんな気がしたのです。そこで私なりに色々考え、調べてみました。それに、そのあたりのことに疑問を持ったのは私だけではなかったようです。総務部の門脇さん、あなたもそうですよね?」
門脇は大きく頷いた。睦月は門脇と目が合うと口元に笑みを浮かべ、さらに続けた。
「色々調べた結果、分かりました。監物秀明は自殺に追いこまれたのです」
自殺に追いこまれたという言葉に反応して、会議室全体に驚きの声があがった。山瀬は三人が監物の自殺を利用したと言ったが、自殺に追いこんだとまでは言っていなかったし、門脇もそこまでは思っていなかった。
「その証拠を披露しましょう。まずこれをお聞き願いたい」
睦月は胸のポケットからボイスレコーダを取り出した。
「これは、彼が転落死した日の朝、録音したものです」
ボイスレコーダから一分程度の二人の会話音が流れた。雑音に紛れた部分もあったが、「こんなにうまくいくとは思いませんでした」「狙いどおりだな」「専務、これからどういたしましょう?」という言葉は鮮明に聞き取れた。
昨日、睦月が話していたものだが、こんなにはっきりとした音質で録音されているとは思わなかった。「狙いどおりだな」は、電話の相手の声で、誰の声かは明らかだった。
菅崎の顔色が変わった。何か言おうとしたのか、口を開いたが、唇を噛んだだけで一言も発しなかった。早坂を見ると、頬をぴくぴくとひきつらせ、口元が小刻みに震えているのが分かった。紺野は下を向いたまま、泣きそうな顔をしていた。
「録音した時刻は、六時十七分二十三秒から十八分十九秒、場所は中央棟の東南にある喫煙場所です。誰の声だかお分かりになると思います。そう、この録音は、そこにお出での菅崎専務と早坂部長の携帯電話での会話です」
と睦月が言うと、すぐに菅崎が
「それがどうしたのかね? 部長と電話をしてはいけないのかね」
と言い返した。
「では、お聞きしますが、朝も早くから、ポリエチレン事業部の早坂部長と総務担当、ガバナンス担当の菅崎専務と電話でやりとりする何の話があるって言うんですか?」
「何の話かなど、一ヶ月も前のことだ。覚えてはいない」
「監物秀明が自殺した日に、こんなにうまくいくとは思いませんでした、狙いどおりだ、というのは、自殺に追いこんだのが、うまくいった、狙いどおりだ、ということでしょう? 違いますか?」
と睦月は叫ぶように言った。
「何だと、馬鹿なことを言うな。証拠があるなら見せてみろ」
と菅崎が怒鳴り声をあげた。すると、睦月はにこっと笑った。
「証拠を見せろというご要望なので、お見せしましょう」
睦月は懐から紙袋を取り出し、中から封筒と一枚の写真を出して、テーブルに置いた。写真は男女が向かい合ってテーブル越しに座っているものだった。写真も封筒も細い網目のような線の跡があるが、遠目にはそれはよく見えなかった。しかし、門脇にはシュレッターで裁断された紙を復元したものだというのが分かった。睦月は先日、裁断されたものをコンピュータを使って復元しようとしたが、無理だったと言っていた。驚くべきことに、恐らくそれを手作業で貼り合わせ復元したのだ。
「これでは小さく見えづらいので、大きく引き伸ばしました」
と睦月は言って、B4サイズの紙を取り出し、テーブルに並べた。紙は封筒と写真の拡大コピーだった。
「これは、監物秀明が自殺する一週間ほど前に、彼宛に届いたものです。監物はこれを見るなり、顔色を変え、すぐさまシュレッターにかけました」
山瀬は身を乗り出しそれを覗き込んだ。
「おう、これは、……。細かく裁断された後が残っているが、丁寧に貼り合わせ、元の写真がはっきりと分かる状態になっている。見事なアナログ的職人技だ」
山瀬は感嘆の声をあげた。
「監物には真剣に交際している女性がいました。これがその交際相手の写真です。この写真には、隣で手を握っている男の顔はモザイクがかけられていますが、男は監物ではありません」
睦月は写真を頭上に掲げた。見せたのは菅崎と楢沢響子の密会場面の写真だったが、菅崎の顔はモザイク処理されていた。コンピュータシステムに落とし込まれた動画の一部分を静止画にして写真にしたものに違いなかった。
「男の顔をモザイクで隠したのは、誰だか知らせたくはなかったからだと思われるますが、監物にとっては、真剣に考えていた相手が別の男と交際していたことになります。これを見て顔色を変えたのは、それがとてつもなくショックだったからでしょう。そして、監物は一週間後に自殺しました」
睦月はそこまで言い終えると、一度深呼吸をした。そして、身体の向きを変えると早坂を睨みつけた。
「こんなものを送りつけ、自殺に追いこんだのは、早坂、お前だろう? 監物の自殺、それが、こんなにうまくいくとは思わなかったという電話の言葉の意味だ。狙いどおり、というのもそのことだ。この人殺し。どうでい、間違ってたら言ってみやがれ」
睦月は江戸っ子のように啖呵をきった。
「いや、そんなものを送った覚えはない。どこに、証拠が?……」
と早坂は言い返したが、身体は震えていた。
「何だと、この野郎。この封筒の研究開発部監物秀明様という宛名の文字を見てみろ。ひどく特徴のあるものだ。こんな定規で引いたような筆跡は、早坂、てめえの字だろう」
「私はこんな字は書かない。いいがりは、やめてくれ」
「しらばっくれるんじゃねえ。こんなことをやるのは、てめえに決まってる。この人でなし」
と睦月は譲らなかった。
門脇はその筆跡に見覚えがあった。確かに、早坂のものではなさそうだ。社長宛ての株主からの投書の筆跡を、山瀬と調べた時だった。早坂と紺野の仕業ではないかと疑い、二人の履歴書の文字を見た。定規で真っすぐに引いたような癖のある文字、そうだ、これは早坂のものではなく、紺野の方だ。門脇は紺野を指さした。
「その字は、早坂部長のものではなく、紺野さん、あなたの字だ」
紺野は一度顔を上げたが、すぐ下を向きうなだれて、黙って答えなかった。
「そうだ。そのとおりだ。この筆跡と同じだ」
山瀬も思い出したらしい。山瀬は鞄から何種類かの書類を取り出した。
「こんなこともあろうかと、鞄に入れておいた。紺野、これはお前の入社時の履歴書だ。どうだ、字がそっくりじゃないか」
と山瀬が言うと、副社長の森川がすっと立ち上がり、近くまでやって来た。
「私は筆跡鑑定を趣味でやっている。私が見よう」
森川はルーペを取り出し、封筒のコピーと履歴書を手に取って見比べた。
「縦と横の文字が真っすぐで、ほぼ直角に交差している。こんなに特徴のはっきりとした筆跡は珍しい。九分九厘、同一人物が書いたと言っていいと思う」
と森川は言って、紺野に視線を向けた。
「申し訳ありません。私が出したものです」
紺野は泣きそうな声を出し、テーブルに突っ伏した。
「そうか、お前の方か。まあ、どっちでも同じことだ」と睦月は言うと、テーブルの反対側に回り、菅崎たち三人に近づいた。
「監物は日頃の積み重なる過労のせいで、実は二,三年前から、鬱の症状があった。しかし、ここ半年前頃から回復してきたんだ。理由は、皆さんご存知の新技術、炭素繊維強化炭素複合材の画期的製造法であるハイパーマトリックス法の開発に成功したことと、もうひとつ、女性と付き合い始めたことだ。おれは監物と仕事をしながら、いつもじっくり観察していたから、よく分かる。その女性が過去に短期間交際していたのが、菅崎専務、あんただ。まあ、それについちゃあ、いいの悪いのと言っても、男女の仲だから仕方がない。しかし、その逢引の写真を門脇に送った。それが許せねえ」
と睦月は言いながら、腕をまくって振り上げ、殴りかかるそぶりを見せた。
「睦月さん、いけません」
門脇は咄嗟に大声をあげて、テーブルの上に上半身を乗り出し、両腕を伸ばして止めようとした。睦月は門脇に視線移し、腕の動きを止めた。
「いくらおれでも、暴力はふるわねえ。殴ってやりてぇという、気持を見せただけだ」
睦月はふふっと笑い、腕をゆっくりと降ろした。
「睦月くん。きみの気持は分かるが、ここは冷静に話をしよう。まあ、そこに腰を腰かけたまえ」
森川が壁際に据えられた椅子を指して、睦月を座らせた。
「そうです。冷静になりましょう」
と山瀬は森川に合わせて言った。
「それに、話はまだ終わっていません。もうひとつあります。副社長、この筆跡はいかかでしょうか?」
山瀬は先ほど鞄から履歴書と同時に取り出した封筒と手紙を森川の前に置いた。
「これは、以前届いた監物が殺されたという噂があるという投書です。差出人は一株主となっていますが、この筆跡にはどこかで見たような気がしましたが、ずっと、思い出せませんでした。しかし、この部屋に入って分かりました。この筆跡は、あれと同じではないですか?」
山瀬は会議室の壁に掛けられた四字の書に顔を向けた。横二メートルほどの額に入り、墨で書かれた文字は、熟慮断行とあった。
森川は投書を手にして壁に近づき、書を見上げた。顔を上下に動かし、両方を何度も見比べると、
「両方とも品格のある文字だ。筆文字とペン字の違いで、判断は難しい。しかし、よく見ると特徴が一致するところがある。最後のハネの部分の特徴が同じだ。これは同一人物の筆跡と考えられる」
と断言した。山瀬は森川に頭を下げた。
「あれは、若い頃から書道に通じている菅崎専務の書いたものです。専務は書道に秀でているのを自慢することがなかったが、十年ほど前、当時の社長がそれを知り、書くよう依頼して、ここに飾ったものです。そうですよね? 専務」
山瀬の指摘に、菅崎はむっとした表情で顔を上げたが、すぐに視線をそらすと押し黙った。
「これも、根も葉もない噂を故意に流そうとした証拠と言えるでしょう。どうですか? 社長」
山瀬は、中目黒に顔を向けた。この辺で社長の裁断を仰ぐ、という形だった。
「そのようだ」
と中目黒は答えたが、その後の言葉を発しなかった。するとすぐに、森川がその場を引き継いだ。
「菅崎専務は先ほど、この話は門脇くんの妄想だと言ったが、そうではないことがはっきりしてきた」
森川は会議室の真ん中に立ち、周りを見渡すようにそう言った。それはまるで、中目黒の後は任されているから、この場を仕切るのは自分だと言いたいようにも見えた。
「力関係が変わったぞ。流れは完全に森川副社長のものになっている。社長は、副社長にバトンを渡したんだ」
と山瀬が門脇に囁いた。中目黒は山瀬の話を聞いた直後、森川を呼んでいる。その時森川に、後は頼むと言ったのかもしれない。きょうの中目黒は、口数が異様に少ない。どこか、心、ここにあらず、というようにも見える。
「ここで、妄想だと言われた門脇くんの話を聞こう。言いたいことはあるだろう。どうだね?」
と森川は、会議室全体を睥睨するように見回し、目の合った門脇に言った。門脇は、言いたいことは山ほどあるという気持だった。門脇は立ち上がった。
「私の妄想などではありません。すべて真実です。先ほどの睦月さんのお話のとおり、私も監物さんの自殺に関連した不可解な出来事に疑問を持ちました。そして、何人もの人に話を聞きました。その結果分かったことは、概ね、山瀬部長がおっしゃったとおりのことでした。それを裏付ける証拠として、情報統括室の鳥井室長が収集した社内コンピュータシステムの電子データを出してもらうよう、鳥井室長に協力を依頼しました。しかし、なぜか鳥井室長は、真実を隠そうとしました。おそらく、菅崎専務が彼を篭絡したのでしょう。しかし、真実はどこかで明らかになるもので、そこに労力を費やしたのは私だけではなく、睦月さんも同様でした。睦月さんの持参した証拠で、鳥井室長の電子データがなくても真実は明らかだと思います。睦月さんは、監物氏が自殺に追いこまれたと言いました。そのことについては、私も知りませんでした。監物氏の交際女性、菅崎専務と不倫関係にあった女性社員ですが……、個人名を出す必要がありませんので、敢えて出しません。その女性にも話を聞きました。彼女の名誉のために申しますが、彼女は監物氏に専務との過去を隠すつもりはなく告白しています。それに対し監物氏は、終わったことなどどうってことはない、と答えたそうです。自殺した人間の心理状態の本当のところは分かりませんが、どうってことはない、と思いつつも、心のどこかで許せないという気持がくすぶり続けていたのではないでしょうか。彼女も自分の過去が自殺の大きな要因になったと自分を責めていました。仕事の重圧が鬱症状を惹き起こしたのですが、やはり、睦月さんが言うとおり、監物氏に不倫現場の映像を見せつけたことが、自殺の引きがねになったのだと思います。自殺に追いこんだという表現は、決してオーバーな言い方ではないでしょう。その意味では、人の命を弄んだ三人のしたことは断罪されるべきです」
門脇はそこまで言って、なぜか楢沢響子が中央棟屋上に昇ったことを、ふと思い出した。それは、楢崎響子という個人名を出したくないという気持から、返って逆に彼女の存在が強く意識された、ということかもしれない。彼女はパラボラアンテナの台座から降りる時に、赤い薔薇の花びらを宙に投げた。それは風に煽られ、小さな赤い鳥の群れのように大空を舞った。あれは、監物の魂ではなかったか?
門脇は、人間には魂があって、死んだらその魂が抜け出ていくというようなことを信じているわけではなかった。が、そういう合理的な判断とは別に、監物英明というひとりの人間の魂が大空を舞う、そんなイメージが突然心に湧いた。また、監物とは同じ会社の社員という以外に、個人的に親しいというわけでもなかった。だが、この時の門脇に、なぜか監物に対し、以前から親交のあったような親しみに似た感情も心に湧いた。
門脇は、その後の言葉を失った。
「門脇くん。きみの言いたいことは分かった。きみの調べたことをすべて報告書にあげてくれないか」
突っ立ったまま黙りこんだ門脇に、森川が助け舟を出すように言った。門脇は「はい」と小さな声で答えて腰を降ろした。
「菅崎専務。何か言い分はあるかね?」
森川は菅崎に尋ねた。
「それは……」
と菅崎は言いかけたが、きっと森川を睨んだまま絶句した。そして、ゆっくりと天井を仰ぎ、何か考えこむように目を閉じた。
森川は、社長の中目黒に顔を向けた。
「これで、何が起きていたのか、およそのことは分かった」中目黒は口を開いた。「みんなも同じ結論に達していると思うが、問題は、今後どうするのかだ。それについては、近々取締役会を開き、そこで決めたいと思う。それまで、三人には謹慎してもらう」
三人を除き、全員が大きく頷いた。すると、突然、早坂が叫ぶような大声をあげた。
「しかしね、言わせて貰うがね。会社組織の中で、下で埋もれているほど、つまらんものはない。少しでも上に行き、自分の思いどおりに人や組織を動かしたい。給料だって、桁違いだ。あんた方役員は、私の五倍以上の高級を貰っている。社員の平均からすれば、十倍ぐらいのカネを貰っている。本当に、十倍も仕事しているのか? 誰だって、組織に入れば上に行きたいと思う。あんた方もそう思って役員まで登ってきたんだろう。違うか? 役員になれたのは、優秀な社員だから? 能力が高いから? 笑わせるな。おれとそりが合わない上司がいた。おれは相手に調子を合わせて取り入ることができなかった。それで人事評価は最低ランクに落とされた。おれとは違い、上司にへつらいゴマをする。上司の前ではさも熱心に仕事をしているふりをする。そいつらはそれで、出世だ。ほとんどの奴がそうやって出世してきたんだろう。違うか?」
早坂の言葉に、会議室は暫しの間静まり返った。その場にいた者が早坂の言葉を完全には否定できなかったのだろう。常務の中には、にやりと笑いを浮かべる者もいた。そういうことも、おうおうにしてある。そう思った者もいたのかもしれない。
「おれが本当のことを言ったので、みんな静かになっちまったようだな」
と早坂がさらに言い続けると、意外にも菅崎がそれを止めた。
「早坂くん。見苦しいまねはやめなさい。人事に対する思いは人それぞれだ。しかし、たとえどんな思いがあるにせよ、私たちは、会社員としてしてはいけないことをした。いや、人間としてしてはいけないことをした。それは間違いないことだ。それを認めないわけにはいかないのだよ」
そう言った菅崎には先ほどまで見せていた抗う様子は消えていた。そして菅崎は門脇に顔を向け、「さっきは、妄想などと言って済まなかった」と詫び、おもむろに立ち上がった。
「今回のことは、この二人よりもむしろ私に責任がある。私はこの二人の上席者として、指示を与えてきた。そのことを私は認める。また、最後まで言い逃れようとしたことも、今、私はとてつもなく重く恥じている。二人には寛大な処置をお願いし、私は取締役会の下す処分に、すべて従おうと思う。申し訳なかった」
菅崎は深々と頭を下げた。早坂と紺野もおどおどしながらもつられて立ち上がり、「済みませんでした」と同じように頭を下げた。
「おれたちの勝ちだ」
と山瀬がはしゃいだような声で言って、門脇に笑顔を見せた。しかし、門脇は笑顔を返す気にはならなかった。門脇には目の前の三人が急に哀れに思えてきた。
早坂は昇進への欲望が異常に強いとはいえ、菅崎の不倫現場に遭遇しなかったら、脅迫することなど思いつかなかっただろう。そもそも早坂も紺野も、そりの合わない上司にめぐり合わなかったら、組織の人間としてもう少し順調な道を歩んでいたのかもしれない。菅崎もこの二人の脅迫がなければ、霧久保を無理にでも蹴落とすことなど思いつきもしなかっただろう。
といっても、この三人は菅崎が言ったように「人間としてしてはいけないことをした」のだ。他にも、選択肢は数多くあったはずだ。その中で、三人は最悪の選択をしたのだ。
「きょうはこれで解散する」
中目黒の声が、疲労感のような重い気分に陥っている門脇の耳に届いた。
ゆったりとしたリズムのアメリカンジャズが流れるバーカウンターで、門脇洋一郎と鈴木瑪瑠理伊はスコッチウイスキーを飲んでいた。ファミリーレストランで食事を手短に済ませ、六本木三丁目の門脇が知っている唯一のバーにやってきた。瑪瑠理伊がおとなの雰囲気のするところでお酒を飲みたいと言ったからだ。
その後、瑪瑠理伊は会社を辞めて大学に行くと言い始めた。彼女は高校を卒業すると電子工学の専門学校に通ったのだが、IT関係の知識は豊富でも、世の中の仕組みを知らないことに気づいたのだという。大学では社会学をやりたい、どうせやるなら東京の国立大学に行きたい、そのためにこれから猛勉強をすると彼女は言った。
「一回ぐらい、デートしよう」という瑪瑠理伊の誘いがあり、彼女の最後の勤務の後、六本木アマンド前で待ち合わせた。思えば、会社の外で彼女と会うのは初めてだった。
カウンターとテーブル席が二つのバーは、店を開けたばかりで客は二人以外にはいなかった。二人がカウンターに座ると、蝶ネクタイのバーテンが瑪瑠理伊にカクテルを薦めたのだが、彼女は断わり門脇と同じスコッチウイスキーを頼んだのだった。
「みんな、いなくなっちゃたね」
と瑪瑠理伊が呟くように言った。「みんな」とは、一連の出来事に関係した者たちのことだ。
元々D化学の大株主だった銀行からやってきた社長の中目黒は、以前の銀行の持ち株会社に役員として戻って行った。肩書きはMフィナンシャルグループ取締役兼M銀行副頭取執行役員というものだった。山瀬から聞いた話では、かなり前からその話は進んでいて、銀行側の役員の勇退を待っていたに過ぎないという。中目黒の後には森川が社長に就いた。二名の副社長の枠には二人の常務が昇格して、結局、役員人事は順繰りに上がるという形になった。
三人の処遇については、常務たちの間では刑事事件として警察の判断を仰ぐべきだという主張がなされたが、中目黒と森川は社外に話が伝わるのを嫌い、社内で決着するという方針を崩さなかった。結局、早坂と紺野は退職金の支払われない諭旨退職となり、取締役の菅崎は辞任ということになった。菅崎が解任でなく辞任という形をとったのは、解任の場合、理由を公表しなければならず、それを避けたためだった。渋沢副社長の辞任と同様に、健康不安による一身上の都合としたが、役員報酬と退職慰労金は自主返納ということで支払われなかった。しかし驚くべきことに、山瀬の情報によれば、中目黒は菅崎の手腕を高く買っており、暫くしてから銀行業界に菅崎を迎えるということだった。中目黒は、「一時の迷いによる不祥事で、能力のある者を使わないのは勿体ない。おれのコントロール下において、うまく使う」と言ったというのだ。
鳥井についても、社内規則に反する業務を行い、虚偽の発言をしたという理由で諭旨退職となった。情報統括室もそれ自体が密室性が強いと判断され、総務部内の情報統括担当グループとして組織変更された。
彼らに疑惑を作り上げられた方の霧久保は、D化学ヨーロッパの社長に転出、あるいは役員に抜擢という話も出たのだが、意外にも退職を申し出た。なぜなら霧久保は、それまで交渉していた相手側の、ロケットを製造しているEADSアストリウムスペーストランスポーテーション社に引き抜かれたのだった。それは睦月三郎のアリアンロケット打ち上げ時の話にあったとおり、霧久保がフランス留学時にESA欧州宇宙機関の次官と同じ下宿にいたというコネクションがあったからだった。ESA次官の強力な推しで、国策会社であるEADSの対外折衝部門に招かれたのだ。
「楢沢さんは元気なのかなあ?」
また、瑪瑠理伊が呟くように言った。楢沢響子は元気に違いない、門脇はそう思った。
楢沢響子がD化学ヨーロッパ本社のあるドイツデュッセルドルフに赴任してから二週間になる。彼女がD化学現地法人に転籍したのは海外営業本部が廃止されたからだが、それは、中目黒の後を任された森川が、自分は社長には向かないと公言していた穏健ぶりとは打って変わり、君子豹変すとばかりに次々と社内改革、特に社内組織のスリム化に乗り出したからだった。森川は、社長に就任することが事実上決まると、反対できる力のある役員は誰ひとりとしていないことをいいことに、自分の思うままに社内組織の改変を始めた。その一環として、海外営業本部は廃止されることになった。そのため、海外営業本部に所属していた社員の大半は海外現地法人に転籍することになったのだ。
もともと海外営業本部はD化学現地法人と業務が重なるので、主要な国の現地法人が設立された時に廃止されるはずだったのだが、D化学本社が直接海外販路を切り開く道は閉ざすべきではないという中目黒の考えで存続されていたのだ。
楢沢響子はデュッセルドルフに着任そうそう、門脇に「ドイツ語圏なので、言葉に不安がありましたが、業務はすべて英語なのでまったく不自由な思いはしていません。むしろ、今までよりやりやすい環境で仕事をさせていただいております」とメールを送ってきた。
「彼女は聡明な人だから、すべてリセットしていきいきと生活していると思う」
と門脇が言うと、瑪瑠理伊は
「きっとそうだよね。日本であった辛いことをすべて忘れて、遠い国でやり直す。楢沢さんにとっては、海外赴任はちょうど良かったんだよね」
と答えながら、スコッチウイスキーのグラスを揺らし、ころんころんと氷を鳴らした。
門脇は、変わらないのは自分だけかもしれないと思った。上司の山瀬も、総務部長からコーポレートガバナンスグループ総務・人事労政担当執行役員という肩書きに変わり、森川に歩調を合わせ、社内の無駄な組織を洗い出せと言い出している。森川とうまくやっているので、来年には常務取締役に昇格するかもしれない。
変わらずに今の仕事を続けることは、自分にとっては、むしろそれでいいのだと門脇は思った。労務担当とは会社側の都合を社員に押し付けるのではなく、会社と社員の関係を円滑にする仕事なのだと門脇は思っている。自分はみんなのために役立っている。それでいい。それ以上望むことはない。
「ねえ、あなたはコンピュータは好き?」
出しぬけに、瑪瑠理伊がカウンターの片隅にいたバーテンに訊いた。グラスをクロスで磨き上げていたバーテンが「さあ、どうでしょうか。好きかと訊かれても……」と答えに窮すると
「私、嫌いになったかも……」
と彼女は言った。その唐突なもの言いに門脇は口を噤んだ。
「生き物は自分で考えて動く。猫は猫なりに自分で考えて行動する。虫だって脳があって、虫として考えて空を飛んで、気に入った花に止まって蜜を吸っている。でも、コンピュータは自分ではものを考えられないんだ。AIといっても、人間がプログラムを作って、それで動いている。結局、コンピュータを動かしているのは人間で、単なる機械なんだよね。そう考えると、コンピュータは何かちっぽけな、つまんないものに思えてきた。だから今度は、人間の勉強をするんだ」
瑪瑠理伊はいくらかアルコールが回った口調で言った。それが、会社を辞め、大学に通う理由ということなのだろう。
「そうだね。何でも、使う人間次第ということだね」
と門脇は軽く相槌を打ったが、本心からそう思った。コンピュータが暴走をするのではない。人間がコンピュータに暴走させるのだ。
その後の瑪瑠理伊との会話はとりとめのないものに終始した。彼女の家族の話とか、子供の頃の話とかに、門脇は薄っすらと笑みを浮かべて相槌を打つ、そんな調子だった。
バーを出て、地下鉄の六本木三丁目駅に向う帰り路、瑪瑠理伊が
「ミスターK,また会えるよね」
と言った。門脇が頷くと、瑪瑠理伊は立ち止まり、突然門脇の両腕を掴み身体を密着させた。そして驚くほどの速さで顔を近づけ、力いっぱい門脇の唇を吸った。門脇は不意の出来事に息が止まり、数秒後に瑪瑠理伊を押し離した。
瑪瑠理伊はにこっと笑い、「じゃあね」と言うなりくるりと身体の向きを変えると、人ごみの中をずんずんと突き進んで行った。その場に立ち尽くした門脇は、意外に大きな背中をした瑪瑠理伊の後姿を見詰めるしかなかった。
真夜中のオフィースコンピュータは鈍色に輝く 夏原 想 @natuhara
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