第17話 あぶり出された事実

 門脇が総務部に戻ると、部長の山瀬が意味ありげな顔で待っていた。

「こんな時間までどこに行っていたんだ? 話がある」

 と山瀬は言って小会議室に向かった。

「おめでとう。栄転だぞ」

 門脇がドアを閉めるなり、山瀬は満面の笑みを浮かべた。

「熊本原料加工工場の次長にお前が行くことになった」

「熊本? 私が?」

「そうだ。九州の熊本だ。あの工場は原料加工専門で他の工場に比べて小さい。だから、工場長の下は事務系と技術系の次長で、部長は置いていない。その事務系の次長の方だ。部下も三十名ほどいるぞ。本社の基準で言えば、チームリーダーの上の部次長にあたる。こんないい話はそうはないぞ。どうだ」

 門脇は寝耳に水とはこういう時の言葉なのかと思った。自分の異動については、来年組織編制が予定されているというから、その時に横滑り程度で本社の中で動くのだろうと勝手に想像していた。目下の関心は一連の不可解な出来事にあり、異動のことなどまったく考えてはいなかった。門脇が言葉を次げずに聞いていると、山瀬は上機嫌で話を続けた。

「先ほど菅崎専務に呼ばれたんだが、何の話だと思ったら、これだった。何でも、そこの事務系次長が病気で入院したそうなのだが、工場では次長に昇格させるいい人材が急には見つからなかったということらしい。そこで専務はお前に目をつけた。さすが専務だ。目のつけどころがいい。日頃から、専務にはおれがお前を褒めていたかいがあったよ。ついにお前も出世コースに乗ったな。自分の部下が出世するのは気持がいいもんだよ。一年か二年で本社に返すと専務も言っている。本社に帰って来たら、間違いなく部長だ。それは、おれが保証する。1年か二年だから、単身赴任がいいだろう。先方の急病の次長は検査入院が終わって、三日後に本格的に入院する。で、先方は事務引継ぎに二,三日の内に来て欲しいと言っているらしい。面倒だからそのまま赴任してもかまわんぞ。どうだ。いい話だろう?」

 チームリーダーの上、つまり部次長級以上の執行役員を除く管理職の人事は、コーポレートガバナンスの総括担当である菅崎専務の専決事項だった。通常は人事企画部長が、各部門で作成されている人事評価表を基に、それぞれの本部長やそれに類する立場の者の意見を参考にして異動の素案を作る。それを専務に上げ、そこで専務が決定するという経緯を経ると聞いている。それがこの人事については、専務が直々に決めたということらしい。

「何だ? 熊本に行くのが嫌なのか?」

 門脇が返事を躊躇していると、山瀬は不満そうな声を出した。

「九州に行くのが嫌だというわけではないのですが、……」

「単身赴任で無駄な出費が出るんじゃないかと心配しているのか? それなら、専務が、家具、ベッド付きの借り上げ社宅を用意させたとおっしゃっている。身一つで赴任できるように配慮して下さっている。給料も上がる。単身赴任手当も出る。今の五割増しぐらいの収入になるぞ」

「それはありがたいのですが、しかし、あまりに急な話なんで……」

「そうか。確かに、急な話だ。一生懸命やっているお前の仕事を誰に引き継がせるのかという問題もある。それを心配する気持はよく分かる。しかしな、会社の仕事なんてものは誰がやっても、大した差はないんだ。それなりのやる気のある奴に引き継がせれば、何とかなる。それは心配しないで、是非行ってこい。チャンスは逃しちゃいかん」 

「いや、そのことではなくて、例の一連の出来事の件です」

「一連の出来事? そうか、監物の件か?」

「そうです。いくつか分かったことがありまして、部長に報告しようとして思っていたところです」

「おぅ、そうか。それを早く言え。数日前に、社長からあれはどうしたと訊かれて、答えられずに困ったよ。社長も忘れてはいなかったようだ」

「あの件はすべて監物さんの自殺から始まるように見えます。しかし、その前から事は起きていました。監物さんの自殺は単に過労だけが原因ではなく、交際していた女性との問題が絡んでいました。その女性がわが社の社員であり、何と菅崎専務と不倫関係にあったことが、自殺の要因に潜んでいたと考えられます」

「専務の不倫だと? 本当なのか?」

 山瀬は身を乗りだした。

「そうです。二人の密会を盗撮している動画があります。それが、わが社のコンピュータシステムの中に隠されていたのです」

「何だ? どういうことだ?」

 門脇はこれまでに分かったことを順を追って説明した。山瀬は「俄かには信じられんな」と初めは疑り深く聞いていたが、門脇がなぜそれが分かったのか、また、何がまだ分かっていないのかを詳しく説明すると、納得したかのように大きく頷いた。

「うーんそうか。お前の話は一応筋が通っている。信用しても良さそうだな。霧久保のパソコンを壊した早坂が仕組んだことだと考えると辻褄が合うということか。分からないのは、何でそんなことをしたのかということだな?」

「そうです。ところで、部長は早坂部長がどういう人物かご存じですか?」

「ご存じ、というほどよくは知らんが、また聞きでは話は伝わってくる。部下の評判があまりよろしくないとか、上司にあたる本部長の評価も高くはないとかだ。全体として、いい話は聞いていない」

「部下の女性社員も、どちらかと言えば嫌っているようでした」

「そうだろうな」と山瀬は頷いて、「早坂だとすると、思い当たることがある」と続けた。

「人事企画部長の畠山が先日言っていたんだが、専務が早坂を買っていると言うんだよ」

「専務が買っている?」

「そうだ。一年前に早坂が部長に昇格したのは、専務の押しがあったからなんだ」

「詳しく聞かせてください」

 早坂は女性社員との不倫をネタに菅崎専務を脅し、部長昇格を要求したという門脇の推理は間違いなかった。門脇は色めきたった。 

「事業本部の部長人事の場合、人事企画部長が各事業本部の意向を聞いて部長の候補リストを作る。そのリストはABCのランク順になっているのは知っているか?」

「そこまでは知りません」

「そうか。そのリストは公平を期するため、昇格候補者の勤務評価が直属の上司から事業本部長まで各段階の評価者の意見が記されている。そして、事業本部長が総合的に判断し、ABCのランク付けをする。それを人事担当役員である菅崎専務に上げるんだ。専務はリストを見ていくつかの質問をしたり、意見を言うが、大抵はAランクに挙げられた者が部長に昇格するそうだ。しかしな、リストでは早坂はCランクだった。AとBではあまり差はないので、Bが昇格する場合はたまにあるそうだが、Cはめったにないらしい。それを専務が、潜在的な能力は高いと聞いていると言って早坂を押したそうだ。役員以外の人事の最終決裁権限は菅崎専務にあるから、そう言われれば、事業本部側も文句は言えない。人事企画部長の畠山もそのとおりの異動起案書を書いて専務に上げるしかない。それにな、今度の異動でも確か……」

 と山瀬は言いながら、常に持ち歩いている鞄から使い古した黒い手帳と老眼鏡を取り出し、手帳の真ん中にに挟まれた小さく折られた紙切れを広げた。そこには手書きで、上に役職名、下に氏名が小さな文字でびっしりと並んでいた。その氏名は矢印で縦横に繋がっている。つまり、誰がどの役職に異動するのか、その後任には誰が就くのか、玉突きのような人事異動を一目で分かるようにしたものだった。

「畠山が七月の定期異動起案書を書く前に、コピーをくれたんだ。えーと、やはり、あったぞ。次期定期異動でも早坂は動くことになっている。ポリエチレン事業部長からポリマー事業部長にだ。両方とも石油化学事業本部の中だから、一見横滑りに見える。だが内の会社ではポリマー事業の方が規模がでかいから、明らかに栄転だ」

「早坂部長の目的は、出世コースの部長の椅子ということになりますね」

「そのようだな」

と山瀬は言って、大きくため息をついた。

 早坂は出世の道筋を手に入れた。しかし、早坂にはセキュリティシステムの知識のある協力者がいるはずだ。その人物の狙いも人事がらみではないのか?

「セキュリティセンターで主任をしている菊池という男がいるんですが、この男についての何か人事情報はありますか?」

「早坂に手を貸した者がいるとさっき言っていたが、それが菊池という男ではないかと疑っているのか? しかし、セキュリティセンターは関連の別会社だから、そんな情報は入ってこんよ」

「ひょっとしたらと、ふと思ったんですが……」

「待てよ。D化学総合サービスというのがセキュリティセンターの会社名だよな。そこに出向してるのが一人、戻ってくるのがいたな」

 山瀬はもう一度紙切れを広げた。門脇もそれを覗こうと身を乗り出したが、山瀬は「悪いが、まだ丸秘情報なので直接見せるわけにはいかん」と、見られないように門脇の視線を掌で遮った。

「出向先から戻ってくる人事など、最近はほとんどないのだが……。ええと、これだ。紺野晴男、基礎化学事業本部営業企画第二部長で戻ってくることになっているな」

「紺野晴男、セキュリティセンター長です」

 早坂の協力者は菊池ではなく、紺野の方だったのか? 紺野にセキュリティシステムに詳しい知識があるとは思えなかった。紺野は、その役職から考えてシステム担当者を使えばいいのであって、システムそれ自体に詳しい必要はないのだ。だから、紺野を疑うということはなかった。菊池の方はその律儀な性格から不正なことを仕出かすようには見えなかったが、人間、餌を目の前にぶら下げられれば、何をするか分からない。壊れた霧久保のノートパソコンを預かったのは菊池だった。最も工作しやすい立場にいたのだ。そう考えて、菊池を疑っていたのだが……。

 そう言えば、紺野自身がコンピュータについて少しは知識があるとは言っていた。紺野は存外に努力家で、セキュリティシステムついても色々と調べたのかもしれない。電源はどこにあり、そしてどの電源を切ればセキュリティがどのように作動しなくなるか知っていたのだ。

 勿論、霧久保のノートパソコンに遺書の文面を落としこんだのも紺野ということになる。紺野が、早坂がノートパソコンを破損させて修理に出させることを知っていれば、菊池が預かり、一時的セキュリティセンターに保管されていたノートパソコンに工作することは充分に可能だ。

 紺野がなぜ出向先に出されたのか分からないが、D化学本体に戻りたいという思いはよく分かる。賃金だけをを考えても出向先では本体より低い。ほとんどの出向は三年間だけD化学の人事企画部に籍を置いているが、その間だけ本体にいた時の賃金をD化学側で補償することになっている。三年後以降は人事企画部の籍も末梢することになっており、完全に行った先の社員と同等なものとなる。だから大抵は賃金は下がっていく傾向にある。以前は出向先から戻るという人事交流はよくあったのだが、最近はD化学本体の人員とポストの削減のために、ほぼ一方通行になっている。紺野が、どんな手段を使ってでも本体に戻りたいと思ったとしてもそれほど不思議ではないのだ。

「セキュリティセンターにいれば、早坂に手をすことは可能なのは分かる。しかし、二人でつるんで悪さをしたとすると、早坂と紺野はかなり親しい間柄ということにならんか? 単に同じ会社にいるという関係なら、二人でこんな悪巧みをするとは思えんぞ」

 と山瀬は自然に思い浮かぶ疑問を口にした。

「そうですね……。例えば、二人は出身が同郷で友人同士だったとか、過去に同じ勤務場所で親しい関係になったとか。趣味が同じで交遊関係にあるとか。あるいは、家族が、例えば子供が同じ学校で親しい関係にあるとか……」

 門脇は思いついたままを言ってみた。

「そいつで調べるか」と山瀬は部屋の隅のパソコン端末に目をやった。「人事情報検索とやらを使うんだ。何か分かるかもしれん」

「人事情報検索?」

「最近、情報統括部が作ったんだ。社員不祥事を予防するためとか言ってな」

 ミーティングルームにも端末が置かれていることに、門脇は今まで気づかなかった。最近になって、その情報統括部が置いたのかもしれない。門脇が電源を入れると、山瀬は「アクセス権限は執行役員以上だ。これを使え」と自分の社員カードと差し出した。門脇がそれを画面下部の識別装置に入れると、すぐにパスワード入力画面が開いた。それを見て山瀬が横から、自分の手帳を開いて数字を入力した。

 人事情報のメニューを開けると門脇が見たことのない画面が現れた。そこには社員の社歴、賞罰、勤務成績、家族の状況など、およそ社員情報のすべてが閲覧できる項目があった。一番上に検索語の入力欄があった。

「そこに早坂と紺野の名前を入力し、社歴、学歴、出身、家族、ついでに趣味の項目にチェックを入れ、それにイコールの記号を入力してみろ。情報統括部が言うのには、二人のデータに共通性があれば、そこの部分が赤字で表示されるらしい」

 門脇は山瀬の言うとおりに入力すると、結果は瞬時に表示された。左に早坂、右に紺野のデータが一覧で並んでいる。社歴や学歴などは会社が把握しているのは当然だとしても、子供の学校などもデータ化されているのは驚きだった。扶養手当の申請に、配偶者の職業や子供の学校を記入する欄がある。そこは任意であるはずなのだが、みんな何気なく記入しているのだろう。何から何まで情報統括部は情報をデータ化しているのかもしれない。

 しかし、そのデータの上から下までどこを見ても赤字で表示されるところは無かった。勤務部署から趣味まで何も一致するところはない。

「早坂は一九七〇年神奈川生まれ、大学は東京の技術系、紺野は一九七三年大阪出身の事務系か。入社年次も早坂が三年早い。今までの勤務場所もまったく違うし、子供の学校も早坂は私立、紺野は公立一本だな」

「趣味も一致するところはないですね」

「そうだな。じゃあ、二人の人事評価を一応、見てみるか……」

 山瀬は二人の人事評価履歴画面を開けた。そこには、入社から現在までの人事評価が順に記載されていた。

「早坂は、課長になるまでは評価が高いのに、課長になった途端に最低レベルに落とされているな。課長失格と言われているのに等しいな。直属の上司にかなり嫌われたようだな。こんな評価はその後も引きずることになるから、早坂としては、不満に思うだろうなあ」

 と山瀬は言って、今度は紺野の方を見た。

「やはり、紺野も同じようなものだ。早坂ほどではないが、課長職で評価が落ちている。その後、セキュリティセンター長に異動している。本人は飛ばされたと思っただろう」

「二人とも、管理職としての能力がないということですかね?」

「まあ、そうとも言えるが、その部門の業績が上がらないのを部下のせいだと思い込む奴がいる。特に、部長、次長クラスは部門業績が自分自身の評価に直結するから、業績が上がらないと、自分の方針は間違っていない、部下である課長の能力がないからだと決めつける奴がいる。早坂も紺野もそうだったのかもしれない」

「そういうものですか……」

「そうだ。早坂も紺野も個性が強そうだから、周りに馬が合わない、そりが合わないという者がいてもおかしくない。それが上司だったらどうなるか。二人の上司は業績が上がらないのを、自分と合わない二人のせいだと考えたのかもしれない」

「二人とも犠牲者なんですかね?」

「いやあ、そうとも言い切れない。特に、早坂の評判は他からもいいことは聞こえてこない。逆恨み、のようなものかもしれんしな」

「それもあり得ますね……」

「まあ、人事というものは、人が人を評価するのだから、難しいものだ。しかし、人事評価に共通点はあるが、それだけで、二人が結びつくということにはならないぞ。他に何か思いつくことはないか?」

「考えてみれば、昇格という共通の利益のためと言いながらも、不正行為に手を貸す間柄とは、かなり親しいというか、よく言えば同士というか、戦友というか、そんな間柄でないとやらないことですよね?」

「同士、戦友か。時代錯誤した言葉だな。しかし、どっかでそんな言葉を聞いたことがあるな。そう、あれだ。同じ釜のメシを喰った戦友のような軍団をあなたの会社にも作り上げる、とかいう触れ込みだった。そこに社外研修と入れてみろ」

 門脇は言われたとおりに入力した。

「二〇〇六年八月、地獄の特訓。これですか? 二人とも受講しています」

「それだ。その頃、会社の業績が振るわなかったんだが、社員の根性を叩きなおして業績を改善させるという研修専門業者からの提案があった。中身といえば、朝っぱらから海に向かって大声を上げるとか、駅前の人ごみの中で右手と左手のどちらがより役に立つかを議論するとか、馬鹿馬鹿しいものだった。勿論、おれは反対したよ。根性で業績が改善するほど仕事は単純なものではないからな。しかしその時の総務部長は根性も時には必要だと言ってその提案を採用し、課長職を中心に二十数名を選抜して行かせたんだ。結果は業績の改善に結びついたとは思えんが、研修を受けたの者の絆は強まったのは確からしい。」

「これで、二人の関係が分かりましたね」

「この研修を受けた者は、その後、部署を別にしていても連絡を取り合って、関係を蜜にしているというのは聞いたことがある。この二人もそういう関係だったようだな」

「二人が共謀して、専務の浮気をネタに昇格ポストをまんまと手に入れたことに間違いないと思います」

「共謀してと言っても、早坂が先輩にあたるから早坂が言わば主導的役割を担ったに違いない。こいつが紺野に話を持ちかけたんだろうな。会社のシステムに盗撮動画を仕込んで専務に脅しを掛けたのも、セキュリティセンター長の紺野ならできるからな。確かに辻褄が合っている。それに、監物の自殺した夜、早坂が女宛ての遺書を隠したのも、紺野の知恵を借りて研究開発部に忍び込み、その遺書の痕跡を消したのも理解できる。公になったら、脅すことができないし、専務も今の地位を失いかねない。専務が人事権をなくしたら、二人に有利な人事も行うことができないからな」

 と山瀬は言って下を向き、暫く考えた末に首を傾げながら言葉を続けた。

「そもそもこの一連の出来事は妙な噂から始まったんだが、あの噂は何だったんだろうな? おれは噂など、実際には聞いたことがない。お前も聞いたことはないだろう?」

「ええ、そうです。関係する部署の者も聞いたことがないようでした」

「結局のところ、コンプライアンスメールと外部からの投書に噂が広まっていると書いてあっただけだった。これはどういうことなんだろうな?」

そう言われてみれば、山瀬の疑問はもっともだった。メールと投書以外に、そのような噂が広まっていると考えられる兆候は何一つなかった。

「ひょっとして……」と門脇は、ふと思いついたことを口にした。「噂など元からなかった。メールと投書は偽者で、その後の工作のためにありもしないものを作り上げたんじゃないですかね?」

「うん。そうとも考えられるな。他殺ではないかという噂があるという前提で、霧久保のパソコンに遺書の文面が見つかったと聞いていたからな。社長が霧久保の取締役に入れるのを止めたのも、噂があるということからだろう。出来事の真相は分からないが、妙な噂が鎮まるのを待つという判断になったんだろうと思う」

「そういう計算が初めからあったいうことですよ」

「ということはこれもあの二人の仕業か?」

 と山瀬は言って、傍らに置いた鞄に手を入れた。

「株主からの投書だ」

 山瀬は封筒と便箋を目の前に置いた。改めて見ると、封筒の宛名も便箋に連なる文章も美しいと言ってよいほどの文字で書かれていた。門脇は封筒を手に取り、仔細に眺めた。

「封筒に郵便局の消印がありませんね」

 切手は貼ってあるのだが、その上に押すべき郵便局名と日付がなかった。

「そうだな。差出人は正門警備員室の横の郵便受けに直接入れたということか。その辺も妙だが、それにしても、達筆だよな。どっかで見たような気もするが、こんな字なら同じ人物が書いたものかどうか分かるだろう。こんな綺麗な字が書ける人間はそうはいないからな」

「二人の書いたものと比べれば、特定できますね」

「そうだ。おれもそう思って、投書を改めて出してみたんだよ」

「しかし、二人の直筆なんてありますか?」

「うーん、そうだな。何かないか……」

「履歴書はどうでしょう? あれなら直筆ですよね」

 門脇はすぐに思いついた。

「おお、そうだ。最近はパソコンで書いてくるが、以前は違う。履歴書と入社時の労働契約書、誓約書の三点セットはすべて保管してある。二人の入社年度のものを持って来させよう」

 山瀬は小会議室のドアを開け、文書係の新入社員を呼んだ。

 若い文書係は早かった。数分後には息を切らせて二つのダンボールを抱えて戻ってきた。恐らく、走って取りに行ったのだろう。

「あいつは気が利く。見どころがあるな。おれの意向を察して、大急ぎで取って来てくれたよ」

 山瀬は文書係を褒めた。

 履歴書は入社年度ごとにアイウエオ順に保管されていたので、たやすく探し出せた。ところが、目論みは外れた。

「二人とも、まったく筆跡が違いますね」

 早坂の履歴書の字は太くいくらか乱暴で、紺野のものは定規で引かれたように四角張っていた。二人ともお世辞でも綺麗な字とは言えないものだった。

「別人の字だな。この二人がいくら繕っても、投書のような綺麗な字は書けないだろう。この投書は二人の仕業ではないな。コンプライアンスメールの方は発信者は分からんということだしな。くやしいが、二人がありもしない噂をでっちあげたと決めつけるわけにはいかないな」

 山瀬は渋面を見せた。ここで投書の筆跡が二人のどちらかに酷似していれば、山瀬は門脇の話を完全に納得したのかもしれない。傾きかけていた心が元に戻ったかように、山瀬は強い口調で言った。

「お前の話には大きな疑問は残る。仮に、投書が二人の内のどちらかのものだとしても、何のためにそんなことをする必要があったのか、ということだ。霧久保のパソコンにわざわざ遺書の文面を入れ込んだのはなぜなんだ? 紺野は霧久保のパソコンに監物の遺書を落としこんでおいて、こんなものが出てきたと騒ぎをおこす必要がどこにあるんだ? 霧久保はそのおかげで役員入りをふいにした。だが、それが二人にとって何の得になるんだ?」 

 山瀬の疑問は、門脇今も抱えている最大の謎だった。

「それが、分からないんです。早坂部長の方に霧久保部長に対する個人的怨みがあるのかと思っていましたが、それもないようです。監物さんが自殺した夜に遺書をコピーしていますから、強い動機が、その時既にあったと考えられるんですが、それがまったく思い当たりません。霧久保さんの役員入りが、二人にとっては何か不利益をもたらすことだったのでしょうけど……」

「そこが分からんと、二人がやったことの半分しか説明できないぞ」

「そうですね」

 門脇は言葉を失って下を向いた。

「あ、それからな」と山瀬は思い出したように付け加えた。「紺野が就くポスト、企画第二部長は野依俊一だが、今度は彼がD化学総合サービスに出向することになっている。お前は、野依にはだいぶ世話になったと言っていたよな」

「えっ、野依さんが追い出されるわけですか」

「まるで、入れ替え人事だよ」

 門脇は、ロケット打ち上げで大会議室に集まった時の、野依の苦労が染み出てくるような猫背ぎみの後ろ姿を思い出し、怒りがこみ上げてきた。

「不倫をネタにして、出世の椅子を手に入れたということになれば、不正行為ですよね」

「専務は弱みを握られて、仕方なく早坂を昇格させたようだな。確かに、不正行為には違いないが、問題はそれをどうするかだ」

 山瀬は腕組みをして、天井を見詰めた。

「とりあえず、社長にお話されてはいかがでしょうか?」

 と門脇が言うと、山瀬は首を横に振った。

「お前の今の話だけでは無理だ。おれはまず間違いないとは思うが、想像に過ぎないと言われれば、それまでだ。霧久保に対する工作の理由も分かっていないし、第一、二人がやったと断定する確たる証拠のようなものがない」

 門脇は黙って頷いた。

 今のところ「物証」といえば、菅崎専務の密会動画のコピー、転落死直後に早坂が構内に出ていたというセキュリティシステムの記録、監物の母からの手紙、研究開発部のプリンターに残された消えてしまった献物の遺書の一行目、それから、専務の上海出張と同時期の早坂の休暇記録がある。しかし、それらは早坂が工作したという直接的な証拠とは言えない。それに、紺野の場合はその結果である人事昇格だけだ。確かに、勝手な想像だと言われれば一言もない。

「証拠を探すしかないですね」

「そうだ。それも早急にだ。お前には転勤命令が出ている」

「明後日に、熊本工場に行ってこようと思います。明日中に何か物証を見つけたいと思います」

「うん。そうしてくれ。いずれ、社長に報告することになるだろうが、やはり、はっきりとした証拠が欲しい」

 明らかな証拠を見つけられる見通しが、門脇にあったわけではなかったが、兎に角やれるだけのことはやってみよう、そんな気分だった。

「下手をすれば専務は失脚しかねないが、それもやむを得まい」

 山瀬は帰り際に低い声でそう言った。

山瀬は菅崎専務とはうまくやっているようだ。山瀬は唯一部長クラスでありながら執行役員という待遇を得ているが、事業本部長や常務以上という肩書きが必要な執行役員の中で、総務部長はコーポレートガバナンスの要だからという理由で執行役員にすべきだと主張したのは菅崎だったという。それは人事から財務までのコーポレートガバナンスの責任者である菅崎を山瀬が巧妙に補佐してきたことによるのだろう。そその菅崎がこのまま行けば社長にまで進むところだが、それが頓挫すれば、山瀬もこ影響を受けることになるのは目に見えている。山瀬はその辺を見据えて、今後の身の振り方を考えたに違いない。といっても、誰にでも合わせられると言う山瀬のことだから、どの人物が上になろうがうまくやっていくだろうが……。



 翌日、門脇は瑪瑠理伊からの電話で起こされた。時計の針は、まだ六時前を指していた。

「朝早くから電話してごめんね。早坂部長の協力者が分かった」

「こっちも調べてみたら、紺野センター長という線が出てきたんだけど、同じかな?」

「そう。ちょっとショックだけど……。セキュリティセンター宛ての社内メールを見てたら、不自然に消去されているものがあって、不当な手段だってあなたに怒られるかもしれないけど、復元してみたら二人のやりとりが分かったの」

 何か工作をすればどこかに足跡は残り、いずれ発見されるということか。

「で、そこには、これでおれたちも安泰でいられると書いてあった。どんな意味?」

「それは、会った時に詳しく話すけど、専務に二人の昇進を約束をさせたということだと思う」

「そうか、専務を脅して、えらくなろうという魂胆だったんだ。それから話はもうひとつ、こっちの方が重要なんだけど……。情報統括室の室長から呼び出しがあったの」

「何だって、鳥井から?」

「そう。鳥井室長から。私、きょうは朝晩だったから、会社にいるんだけど、突然、電話があって、話があるから、情報統括室に来て欲しいって」

「何なんだろう?」

「分からないけど、私の個人の携帯に電話があったの。個人のものだから、番号を知ってるはずないのに。何だか、こわい……」

 瑪瑠理伊にしては珍しく弱気な声だった。

「よし分かった。これからすぐに出社する。一緒に行ってあげる」

「ありがとう、ミスターK。一緒に行ってくれれば安心」



 門脇が会社敷地に入るゲートを通過すると、顔見知りの警備員が「おはようございます」と眠そうな目をこすりながら挨拶した。時刻は六時を少し過ぎたところで、始業時刻には三時間近くもあった。瑪瑠理伊は中央棟のエントランスホールで待っている。門脇は人の姿が見られない広い敷地内を足早に歩いた。すると、中央棟の左の奥、ゴミ集積場所付近から白い煙が上がっているのが見えた。プレハブの物置に隠れて人の姿は見えないが、誰かが喫煙しているらしい。

 そのまま進んで姿が見える位置まで行くと、後ろを向き、たばこを吸っていた人物がふと振り向いた。

「門脇さんじゃねえか。こんな早くから出社かい?」

 研究開発部の睦月だった。門脇が足を止めると、「ちょうど良かった。話したいことがある」とたばこを消して睦月の方から近づいてきた。

 瑪瑠理伊と落ち合い、鳥井のところへ行かなければならないが、少しの時間ならかまわないだろうと思った。

「たばこを吸いながら思い出したことがあるんだ」

 睦月は中央棟の斜め前に植えられた常緑樹の下まで門脇を呼び寄せ、いくらか声を潜めながら話し出した。

「おれもたばこが止められねえ情けねえ人間で、朝早く来て、あの喫煙場所で二本吸ってから、職場に入るのがおれの日課になっている。あの日、監物が飛び降りた朝も、おれはたばこを吸おうとあそこに行ったんだ」

「何か、見たんですか?」

「そうなんだ。あの日は夜明けと同時に家を出て……、あっ、おれの家はすぐ近くだ。いつもは多摩川沿いをを散歩するんだが、あの日は虫の知らせってわけじゃねえが、何となく、会社にまっすぐに行ったんだ。だから会社に着いたのは夜が明けてすぐ、四時四十分頃だろうな。そうしたら、守衛が大変なことが起きてるって言うんだよ。急ぎ足で研究開発棟の前まで行くと、パトカーが止まっていた。その近くに警察官二人と社員が二人突っ立っていて、遠巻きに数人の社員が様子を眺めていた。その真ん中奥に灰色のシートに覆われた物体が見えたんだ。勿論、物体というのは遺体なんだが、初めは横長の物体、つまり物に見えたんだよ。近づくと、物体の端の方が少しシートから出ていた。それが人間の頭で、見たことのある人物だということがすぐに分かった。顔はよく見えなかったが、不思議なことに監物だといういうことがすぐに分かったんだ。頭の形だけで分かるというのは本当に不思議だが、分かるものなんだね。しばらく、おれは現場を遠くから眺めていたんだが、たばこを吸いたくなって、あの喫煙場所に行った」

 睦月の話は前置きが長かったが、門脇は我慢して聞くことにした。

「おれがスタンド灰皿に近づくと、先に背を向けた格好でたばこを吸っていた奴がいた。さらに、近づくとそいつの携帯が鳴ったんだ。そいつは何やら慌てたようにたばこを捨てて、携帯に出ると、ひそひそと小さな声で話しだしたんだ。そいつは、ポリエチレン事業部の早坂っていう部長だった」

「早坂が?……」

 思わず出た門脇の声は大きかった。

「そう、早坂だ。だいぶ前になるが、あの事業部に話があって行ったんだが、野郎ががこっちを見下して、やたら横柄な態度だったんで、覚えている。奴は背を向けていたんで、おれが近づいたのに気づかなかったようだ」

「早坂は誰と話をしていたんですか?」

「それなんだが、話の中身はよくわからねえが、やたら敬語を使っていた。どうすればよろしいのでしょうか、とか、分かりました、お任せします、とか、そんな具合だった。上司と話しているらしいと思ったが、電話の相手を専務と呼んだんだ。そう、専務と言えば、わが社では菅崎専務しかいない。その時は、そりゃあ敬語を使うわなと納得したよ。朝っぱらから、一介の部長が専務と携帯電話で話をするんだから、何か特別の命令でも受けていたんだろうと思ったよ」

 電話の相手は菅崎専務だった。しかし、話し方は妙だった。早坂は菅崎を脅しているはずだった。脅している相手が遥か上の上席者だったとしても、「よろしいのでしょうか」などと、そんな敬語を使うのは腑に落ちない。まして、「どうすれば」とは、相手から指示を受けていることを意味している。

「聞かれちゃまずいことだったんだろうな。早坂は背後のおれの存在に気がつくと、おれを睨むように見て、すぐに携帯を切った。怪しい電話だろう? そう思ったから、おれは聞いてる途中で、ちょうどその時ポケットに入れていたボイスレコーダを取り出してスイッチを入れた」

「録音したんですね。是非、それを聞かせてもらえませんか?」

「おお、いいよ。ボイスレコーダはデスクのひきだしに入れてある。録音したまま、おれもまだ聞いていねえんだが、歳のせいか、耳が遠くなったんで、集音できる最新式の奴を使ってるから、小さな声でも完璧に録音できたはずだ。それにしても、監物の死と早坂、菅崎専務はどういうつながりがあるんだ? 門脇さん、何か知ってるんだろう? それを教えてくれよ」

 睦月は興味津津という顔をして訊いて来た。しかし、門脇はそれを説明していると長くなる、と思った。録音したものも聞きたかったが、瑪瑠理伊が待っている。躊躇していると、睦月がさらに続けた。

「先日も研究開発部にやってきて、べっぴんの娘さんと二人で、色々と調べていたよな。監物の使っていたパソコンやプリンターをとか、念入りに何かやっていた。かなり調べは進んでいるんじゃないか? 少しは教えてくれてもいいだろう?」

 あの時、睦月は門脇に気づいていたようだ。

「そう言えば、あの日睦月さんはパソコンに向かって必死に何か作業をしてましたよね」

「ああ、あれか。実はあれも、監物のことなんだよ。以前、監物宛の郵便物があった話をしたよな」 

そのことは大会議室でロケット打ち上げの様子を見ている時に、睦月から聞いた。「覚えています。自殺の一週間ほど前に来た郵便物を、監物さんは中を見るなり、顔色を変え、すぐさま廃棄したとか……」

「そうだ。監物はシュレッターにかけたんだ。だから、紙の資源ゴミ回収業者に渡っているだろうと思っていた。が、そうじゃなかったんだ。以前は毎日、裁断された紙を業者に出していたが、最近は紙の資料は少ないので、シュレッターが満杯になるまで出さないそうだ。数日前に、たまたまシュレッターの中を覗いたら、まだあったんだよ。そこで、ビニール袋から取り出して復元を試みたんだ」

「そんなことができますか?」

「コンピュータを使うことを思いついた。裁断された紙を全部スキャンして、文章が通じるようにコンピュータで並べ直す」

「うまく、いったんですか?」

「いや、できなかった。そういうソフトも世の中にはあると聞いて、それを探すのに一苦労。結局、いいのが見つからず、自分なりに必死でやってみたが駄目だった」

「そうですか。それを先日やっていたんですね?」

「そうだ。ひどい肩こりと異常に疲れた目に悩まされただけで終わったよ」

「残念でしたね」

 確かに、その郵便物は自殺に関係した可能性があった。しかし、シュレッターにかけられては調べようがないと思い、門脇はそのことを失念していた。それが復元できれば、何か分かるかもしれないが、それはもはや無理なようだ。睦月も色々と努力しているようだった。

「おれの話はこれぐらいだ。今度はあんたの知っていることを教えてくれてもいいだろう?」

 睦月は門脇に立ち塞がるような姿勢で言った。門脇も、もう少し睦月といれば、何か前に進める話を聞けるような気はしたが、瑪瑠理伊が待っている。

「すみません。実は人と待ち合わせをしてまして、行かなければなりません。後日、詳しくお話します」

「おお、そうか。こんなに早い時間に待ち合わせとは、ご苦労なこった。じゃあ、ひとつだけ教えてくれ。先日、研究開発で一緒に調べていたべっぴんの娘さんの名前は?」

「セキュリティセンターの鈴木瑪瑠理伊といいます」

「そうか、鈴木さんね。分かった。じゃあな」

 睦月は不服そうな顔を見せながらもそう言うと、もう一本、たばこを吸うためなのだろう、喫煙場所に戻って行った。これから瑪瑠理伊に会うとは、言いづらかった。

 門脇は瑪瑠理伊に会う前に、頭の中を少し整理する時間が欲しかった。睦月との会話を相手の意向を無視して切り上げたのも、そのためだった。門脇は広葉樹を背もたれにして腕を組んだ。

 睦月の話は脇道に逸れ、長くなるものが多かったが、早坂の電話の話は収穫だった。門脇は、一連の出来事は早坂が考え、紺野を誘い実行したものだと思っていた。早坂は誰に聞いても評判が良くなかったし、紺野の先輩にもあたる。その早坂に不倫をネタに脅された菅崎は、単なる被害者のように考えていた。しかし、どうやらそうではないらしい。

 この一連の工作を主導したのは、菅崎だったのではないか。考えてみれば、菅崎は脅迫を受けているだけのヤワな人間ではない。菅崎主導だとすると、早坂が電話で菅崎に敬語を使い、あたかも指示を仰いでいたような話ぶりも理解できる。

 霧久保のノートパソコンに遺書の文面を落としこんだ理由。これも人事がらみだったのだ。なぜ今まで、霧久保と早坂、紺野の関係ばかりに目を囚われていて、菅崎との関係を考えなかったのか。菅崎は霧久保の役員入りを嫌ったのだ。菅崎が霧久保の役員入りを阻止したのはなぜか? 霧久保は菅崎にとって何なのか? 

 菅崎はこのまま行けば、確実に中目黒の後の社長に就任する。今の中目黒は言わばワンマンで、それに逆らえるような実力者は誰ひとりいない。菅崎にしても、中目黒の有能な補佐役に過ぎず、重要な決定はすべて中目黒だけが行っている。そういった体制を菅崎も作り上げたかったのだ。

 まだ四十六歳の菅崎は、できる限り長期にわたって社長の椅子に座り続けたいと考える。社長の在籍期間が長すぎるという批判が起これば、今は制度的にない会長職をつくり、トップに居続けるということもワンマン体制ならば可能だ。

 そこに霧久保が取締役員に入ってこられては困るのだ。菅崎は若くしてその能力を上層部に認められ、役員入りを果たした。その時にいた年齢が上の役員たちは、菅崎がいなければ就けたはずの役職をふいにしたに違いない。その者たちは菅崎に先を越され、言わば蹴落とされたのだ。

 それと同じことが起きるかもしれないと菅崎は考えたのだ。霧久保は現社長の中目黒を含め、多くの会社幹部たちがその能力を認めている。菅崎は、霧久保に過去の自分自身の姿を見出したのだ。若い霧久保が役員入りを果たせば、いずれ、菅崎もその地位が危うくなるかもしれない。それを菅崎は恐れたのだ。

 早坂と紺野に脅迫され、二人を昇進させる。しかし、菅崎はむしろ二人を自分の将来の体制固めのために利用し、霧久保の役員入りを阻止したのだ。二人にとっても菅崎が社内の地位を保証してくれるので、菅崎が長く地位に止まれば、その間は安泰なのだ。不当な行為で昇進した二人は、菅崎に従わざるをえないのだ。

 一連の不可解な出来事は、監物の死が殺人ではないかという噂があり、それを聞いたという会社宛ての投書とコンプライアンス委員会へのメールから始まった。本当はそんな噂などなかったのではないか。菅崎は会社宛ての投書を見せたが、その投書は菅崎本人が書いたか、早坂か紺野に書かせたものではないのか。同様にコンプライアンス委員会へのメールも彼らの仕業ではないのか。霧久保への疑惑を醸しだすために、彼らは噂を捏造したのではないか。だから、門脇は噂について訊きまわったが、誰も聞いたことがなかったのだ。

 紺野は霧久保のパソコンから監物の遺書の文面が発見されたと、セキュリティセンターの地下室に菅崎、山瀬、門脇を呼んだ、あれも彼らの仕組んだ、言わばパフォーマンスだったのだ。あの席で門脇は警察の再調査を主張したが、菅崎は即座に拒否した。監物の死の直後、菅崎から徹底した調査を要望された警察は自殺という結論を出したが、彼らはそれに疑問を抱いているわけではなかった。彼らの目的は、霧久保に疑わしいことがあるというを見せかけることにあったのだ。菅崎は門脇にそのやりとりを文章に起こすよう命じ、それは山瀬を通して社長の中目黒に上がった。そこには、その方が菅崎が霧久保の疑惑を直接伝えるより、中目黒はより信憑性のあるものと考えるだろうという計算があったのだ。

 そのような筋書きを書いたのも菅崎だったのではないか。菅崎が監物の死を警察に徹底調査を依頼し、司法解剖までさせたのは、あくまでも社外には疑いようのない自殺とし、社内だけに限り疑惑が浮かぶように仕組んだに違いない。菅崎には始めから監物の自殺を利用しようという魂胆があったのだ。

 こんな不正行為は糾弾されなければならない。しかし、糾弾するためには証拠がなければならないが、証拠として出せるものがが今のところはないのだ。

門脇は自分の胸にくすぶり続けている怒りが、灰の中から吹き上げる火の粉のように一段と燃え上がるのが分かった。



 瑪瑠理伊は中央棟エントランスホールの隅で待っていた。始業時刻までだいぶ時間もあったので、周りには人はいなかった。

「なぜ呼びだされたのか、何か思い当たることはない?」

 門脇は瑪瑠理伊に訊いた。そのことは、鳥井に会う前に目星をつけておきたかった。

「前に、コンピュータシステムの中で情報を収集しているプログラムが動いている話をしたでしょ。システムをあっちこっち探索していたら分かったんだけど、そのプログラムの発信端末が情報統括室のものだった。同じように情報統括室の側でも、こっちが探索している端末が私が使っているセキュリティセンターのものだと分かったんだと思う」

 瑪瑠理伊は、早朝の電話の時よりしっかりした声で答えた。

「お互い様ということか。そうだとすると、鳥井はきっと何か企んでいて、きみがシステム内を探索するのをやめろと言うつもりなんだろうか?」

「そうかもしれない。でも、それよりどうやって私の個人の携帯電話番号が分かったのか、それが疑問なんだけど。勿論、私たちはD化学の社員じゃないから、貸与されている携帯は持っていない。だから、セキュリティセンターの内線にかけてくるのが自然なのに……」

「携帯にかけた方が話しやすかったんだろうけど、番号が分かるはずはないのにね」

「考えられるとすれば、これしかないんだけど……」瑪瑠理伊は目つきを鋭くして言った。「会社から貸与されている携帯の発信履歴は、正式に電話会社から明細をもらえるよね」

「うん、電話会社は通話に課金するから、着信履歴は出さないけど、発信履歴は開示するよね」

「ミスターK。あなたは会社の携帯で私に電話してくるでしょ?」

「まあね。いちいち自分の携帯を取り出すのが面倒だし、自分の業務に少しは関係しているからね。でも、送信履歴に電話番号があっても、その番号が誰のものだか分からないだろう?」

「そう。履歴だけじゃ、分からない。問題はその後なんだけど、携帯のアドレス帖に私を乗せているでしょ?」

「そりぁ、そうだよ。その都度、番号を押してられないから」

「そのアドレス帖のデータを盗み取っていたら……」

「ウイルス付きのメールを送って、携帯のデータを盗み取っているのか……」

「それは以前にたくさんあったけど、最近はメールは警戒されていて、不審なメールは開けずに削除する人がほとんどだから、それはないと思う」

「ほかにも、やり方があるの?」

「これは私の推測の域を出ないんだけど……」と瑪瑠理伊は前置きして、携帯電話のデータを盗み取る方法を説明した。

 それによれば、携帯電話、会社貸与のものはスマートホンだが、それに出荷時に搭載されているアプリには、製造メーカーのものもあるという。それには音楽ソフトを初め様々で、取扱説明書がアプリになっていることもあるという。当然それは、電話会社が認めた公式なものなので、アプリをやり取りするプレイストアにも登録されている。

 D化学が貸与しているものはすべてF電機製であるが、F電機は電話会社に大量にスマホを納入している。F電機と電話会社のシステムエンジニアはお互いに情報を共有しなければならないので、密接な関係にある。だから、F電機の中のシステムエンジニアは、自社製品のインターネットの住所にあたるIPアドレスを電話会社から取得することは容易だと思われる。自社製品の機能をチェックするためとかいう口実を用いればいいからだ。勿論、このF電機のシステムエンジニアとは、鳥井室長の協力者である。そこで、このシステムエンジニアは会社貸与スマートホンの内、情報を得る必要があると狙いを定めたものに、データを盗み出すプログラムつきのアプリの更新通知を送る。スマートホン利用者は疑いもせず、更新を許可する。そうやって、スマートホン内のデータをすべて盗み出すことができるというのだった。勿論、アプリの更新通知を含めて自動で痕跡を削除することは可能なことらしい。

 実際に瑪瑠理伊の推測した方法で携帯電話のデータを盗み出したかどうかは分からないが、鳥井がF電機の社員の力を借り、情報を収集していることは間違いない。事実、前回情報統括室で門脇はF電機の社員の姿を見ている。また、社長が取締役会で渋沢副社長の解任動議を出した時、その前に鳥井は社長室に出入りしていた。社長がそこで本人に見せつけたものは、渋沢のスマートホンの通信履歴だったのではないか。通話、送受信履歴や添付したD化学の技術的データも含まれていたのかもしれない。そこには相手方の総合薬品メーカーの経営幹部の名もあったのだろう。それを見せられた渋沢は独断行為を認めざるを得なかったのだ。

 渋沢副社長は、まさか会社からの貸与だといえ、携帯電話の中身まで社長に素通しになっているとは思わなかっただろう。会社の固定電話やファックス、パソコンは他の社員に見透かされそうで、用心して内密の通信には使わない。しかし、携帯電話は大丈夫だろうと安易に思いこむ。会社は電話料金は把握していても、まさか通信通話記録まで調べるとは想像しない。会社と自己の携帯電話を二台使い分けるのは面倒なので、多くの社員は会社のものを私用にも使っている。恐らく、渋沢副社長もそんなところだったのだろう。

 そう考えると、鳥井はやはり社長の中目黒の命令で動いていることになる。鳥井の直属の上司である菅崎専務も、渋沢副社長に見せたペーパーが何かは知らなかったらしい。鳥井が専務を飛び越えて、社長の特命で情報収集にあたっているのは間違いない。

 やはり鳥井は、会社のシステム内で情報収集を行っていることを知られないために、瑪瑠理伊に圧力をかけてシステム内の探索をやめさせるつもりなのだろう。しかし、こちらとしては、不当な行為はやめろと言う以外にはない。役員から社員まで、すべてを監視するような情報収集はやめさせなければならない。

「とにかく、鳥井に会おう。こちらとしては毅然とした態度で臨むことにする」

「何だか脅迫されるみたいだけど、あなたがいるから心強い……」

瑪瑠理伊は笑顔見せて、門脇の腕を両手で掴んだ。



 エレベータを十四階で降り、情報統括室の前まで行くと、二人が着いたのを見透かしたかようにドアが開いた。そして、ドアの向こうに鳥井が立っていた。

鳥井は二人を見据えると、すぐに部屋の奥に向かった。二人はそれに続いた。始業時刻の前のせいか、部屋には鳥井ひとりだった。コンピュータ機器がびっしりと並んだ間を抜け、鳥井は席にどっしりと腰を下ろすと、立ったままの二人に言った。

「やはり、門脇くん、きみも一緒に来ましたね」

 門脇は、なぜ自分がついて来たのかを問われると、どう答えたらいいか答えに窮すると思っていた。だが、意外にも鳥井は一緒に来るかもしれないと予期していたようだった。

「お二人の関係はおおよそ見当がついている」

 鳥井はそう言いながら、両隣の席の椅子二つを曳き寄せ、座るようにすすめた。

「なぜ、見当がついているのかは、システムに通じているきみにはお分かりでしょ? 鈴木瑪瑠理伊さん」

 鳥井は口元を歪めて笑い、瑪瑠理伊に向かって言った。瑪瑠理伊は門脇に寄り添うように座り、答えなかった。代わりに門脇が口を開いた。

「携帯電話やメールに不当に浸入しているからでしょう。いや、不当というより違法行為と言ってもいいぐらいだ。鳥井さん」

「不当? 違法行為? その言い方は心外だな。個人の携帯電話やメールには何もしていませんよ。あくまで、社内の通信システムや会社貸与の携帯電話の情報を見ているだけですよ。社内通信システムは当然だが、携帯電話も会社は業務で必要だから、貸与している。仕事で使われるものだから、その情報はすべて業務上のものでしょう。業務上の情報はすべて会社のものです。つまり、個人情報のカテゴリーには入らないから、違法でも、不当でもない」

「しかし、携帯電話は会社の備品とはいえ、あなたはその情報をすべて収集している。そうですよね? それは情報統括の業務を逸脱しているし、そんな業務は社内規則の理念上あり得ない」

「社内規則の理念ときましたか。そのあたりのことは、ぼくは素人だから分からないが、情報統括の業務書には、その他、上司の指示に従う、という文面がある。だから、逸脱にはならないと思いますよ」

「上司の指示? やはり、ね。あなたは渋沢副社長の携帯電話の通話、通信履歴を盗み出した。違いますか? それも、F電機社員の力を借りて。社長の指示があったからやったと言いたいのでしょうが、社長はそのようなことが可能だとは、分からないはずだ。実際には、あなたの方から、渋沢副社長の携帯電話の情報を盗み出すことを申し出たんじゃないですか?」

 門脇が自分でも声が大きくなるのは意識しながら詰問すると、鳥井は「ちっちっ」と口を鳴らし、アメリカ映画に出てくるようなしぐさで両手を大きく広げ、首を横に振った。

「きみも知っていると思うが、渋沢副社長のやったことは明らかに会社への背任行為だった。独断で総合薬品メーカーのY社と合併の下準備をしていたんだからね。削除したスマホのメールをすべて復元したが、その中には渋沢氏が合併後にも副社長になる密約が記されていた。副社長といっても、会社規模で言えばD化学の三倍の大きさの会社の副社長で、現在のD化学の事業をすべて統括する担当役員ということだ。それに、Y社幹部への忠誠の証しとして提示したのだろうが、社内機密データも添付されていた。ぼくはこれを見た時は、すぐには信じられず、手伝ってもらっているF電機の社員の捏造ではないかと疑ったほどだよ」

「しかし、それが分かったのも、あなたの不当な方法によるものでしょう?」

「不当かどうかは、言わば見解の相違だよ。渋沢氏の行為が見抜けなければ、会社は彼の意のままに進んでいたのかもしれないからね。それを防げたのだから、ぼくのした行為は正当だったと言える、とぼくは考える。それにね、最も肝心なことは、ぼくは当初からすぐに社長に報告し、指示命令を受けている。社長は、徹底して調べてくれと言ったんだ」

「しかし、あなたのしたことは……」

 と、なおも門脇が食い下がると、鳥井はそれを制した。

「スマホ内の情報をすべて盗み取るのは、やりすぎだと言いたいのだろうが、この場合はしかたなかった。電話の発信履歴は電話会社から正規なルートで取得できる。そこから渋沢氏がY社の社長、副社長と連絡を取っているのが分かった。が、それだけではどこまで交渉が進んでいるのか分からなかった。そこでやむなく荒っぽい方法だが、スマホにプログラムを送り、メールのデータを取得した。ぼくにも節度というものがあり、そんなことまでしたくなかったが、渋沢氏の行為を暴くためにはしかたなかったんだ」

 確かに、結果としては会社のためになったのかもしれない。しかし、組織には、そういう不正な行為を防止するための、それなりの適切なルールが必要だ。門脇は、そう考えたが、これ以上ここで論争してもあまり意味がないので、口をつぐんだ。すると鳥井は意外なことを言った。

「兎に角、お二人がかなりのことを知っているのが分かりました。それはそれとして、ここで手を結びませんか?」

「手を結ぶ?」

「そう。社内には、表には出てこないが不正な行為が時として行われている。門脇くん、きみはそれが正義感から許せない。その立位置から色々と刑事か探偵のように調べている。きみは総務部長とも仲がいいし、仕事柄人的な情報網を持っている。ぼくの方は社内のコンピュータシステムを使って内部の情報を知ることができる。ぼくだってきみほどではないが、愛社精神は持っているつもりだし、不正な行為を許さない正義感はある。そこで、手を結んで両方の情報を合体させれば、会社のためにならない妙な動きを阻止できる。そう思うんだが、どうだろう?」

 鳥井は会社のため、という言葉を使ったが俄かには信用できなかった。鳥井はきっと何か別のことをたくらんでいるのではないか。門脇が鳥井を見据えたまま、固い表情を崩さないでいると、鳥井は笑みを浮かべて話を続けた。

「ぼくの方の手の内をもう少し話すことにしよう。情報統括室ではセキュリティの向上のため、コンピュータシステムの脆弱性を見つけ出す作業をしているのはご存じだと思うが、一ヶ月ほど前にその作業をしていると、妙なものが見つかっった。見つけたのはF電機の社員、小松というんだが、非常に優秀でね。それをこっそりと、ぼくだけに伝えた。他の室員には知られてはまずいのではないかと勘が働いたというんだが、その判断は実に正しかった」

「システムプログラムの中に紛れ込んだ動画ファイル……。でしょう?」

 それまで黙っていた瑪瑠理伊が口をはさんだ。

「そう、そのとおり。そうかやはり、そっちでも見つけ出したんだね。それならむしろ、話がしやすい。それは菅崎専務の不倫現場の隠し撮り。だから、部下の室員たちに見られなかったのは、実に幸いだった。部下たちに知られれば、すぐに公になりかねないからね。公になれば菅崎専務の失脚に繋がる。恐らく密会だと想像される不倫の相手は社員だし、役員で次期社長の候補である立場では道義上許されないからね。そこでまず削除し、誰がこんなことをしたのか調べなければならないと思った。こんなものをシステムに落とし込むのは、嫌がらせ、というより脅迫に違いない。その社員を割り出すために、これを落とし込んだ痕跡のある社内のパソコン端末番号を調べようとした。しかし、これはさすがにF電機の小松でも不可能だった。落とし込まれたのはかなり前、動画が撮影されたのは一年前だから、その直後に行われたんだろうが、その後から大量のデータが覆いかぶさって、前のデータも変化してしまう。つまり、痕跡を辿るのはやはり無理だった」

「そうでしょうね。それで、誰がやったのか、私たちに訊きたいということ?」

「いや、いや、そうじゃない。誰がやったのかは、既に分かっている。その状況で、ぼくは考えた。実行した人間は、一年もの間に、そこにまだあるのか気になって、存在するのを確認するのではないかと。そこで小松に、動画があるプログラムに誰かがアクセスしている痕跡があるかどうか、調べさせたんだ。システムにアクセスするパスワードは、情報統括部が社員に割り当てているから、該当するプログラムにアクセスした者は分かる。調べたら案の定、数ヶ月に一度ぐらいアクセスしている者がいた。それは、紺野というセキュリティセンター長に出向した社員だった」

「さすがね。優秀なF電機の社員とこれだけのコンピュータ設備があれば、できないことはないというわけね。こっちは一台のパソコン端末だけだけだから、限界があって色々苦労したけど……。ある意味、うらやましい」

 瑪瑠理伊にさっきまでの怯えた表情は消えていた。ハッカーまがいのことをしていた過去が蘇ったのかもしれない。

「その後、紺野の携帯電話の通信記録をすべて調べたら、ポリエチレン事業部長の早坂という男と頻繁に連絡を取り合っているのが分かった。この二人は数回社内メールも使用していた。だから、すぐに分かった。メールの送受信の度に必ず消去していたらしいが、簡単に復元できるのを知らなかったんだろう。セキュリティセンターとポリエチレン事業部との間に業務上の関連性はないから、二人の通信は私的な連絡だというのが分かる。そして、早坂は時々菅崎専務の携帯に電話をかけている。勿論、会社の備品である携帯から、同じく会社の備品である携帯へ、だ。一介の部長が、専務の執務室の固定電話ならいざしらず、携帯に電話をかけるなどあり得ないので、そこで、紺野と早坂が菅崎専務を脅迫しているという図式が判明したわけだ」

「それで、二人の脅迫の目的は何だと?」

 門脇は訊いた。

「それは鈴木瑪瑠理伊さん、あなたも二人のメールを復元させているから、そっちでも分かっていると思うが、目的は二人の昇進だった」

 鳥井は瑪瑠理伊が復元したことまで知っていた。そのメールに、これでおれたちも安泰だ、という言葉があり、鳥井はそこから二人が菅崎専務に昇進を約束させことを見抜いている。

 鳥井は自慢するかのように笑みを浮かべ。門脇は三人の関係を調べあげるのに苦労したが、鳥井は社内のコンピュータシステムに浸入することで難なく暴きだした。しかし、それ以上のことはどこまで知っているのだろうか? 

「そのことと監物さんの自殺との関係については、どう思っているんですか?」 

「そう、三人は監物くんの自殺と関係しているとは思っている。早坂は、自殺した夜紺野に電話し、朝になって、今度は菅崎専務に電話をかけているしね。しかし、ぼくには詳しいことは分からない。そのあたりのことは、きみたちの方が知っているんじゃないか? ぜひ、教えて欲しい」

 門脇は迷った。鳥井は手を結んで、会社のためにならない動きを阻止しようと言った。しかし、それを額面どおり受け取っていいのか? 鳥井は自分たちを利用して、何かたくらんでいるのではないか?

 躊躇している門脇に瑪瑠理伊が「迷っていても前に進めないよ。とにかく、ここは話に乗るしかないんじゃない?」と耳元で言った。

 鳥井は社長の命を受けて渋沢副社長の配信行為の証拠を見つけ出した。言ってみれば、社長に忠誠心を持っているということだ。ということは、菅崎専務以下三人の不正な行為を暴くことは、それに反することではない。とにかく、協力して前に進む。やはり、そうするしかないか。

「いいでしょう。今までで分かったことをお教えします」

 門脇は今まで掴んだ出来事のあらましを鳥井に話した。早坂と紺野は、菅崎の不倫をネタに昇進を果たした。早坂は偶然、監物の遺体を発見し、紺野の力を借りて監物の遺書の文面を記録した。それを後日、霧久保のノートパソコンに落とし込み、霧久保の疑惑を捏造した。霧久保の役員入りを阻止し、次期社長の菅崎の体制を磐石なものとするためだ。このことは総務部長と相談しているが、どうも確たる証拠に乏しいと言われていることなどだ。

 鳥井はいちいち頷きながら門脇の話を聞いていた。そして、話を聞き終えると即座に言った。

「よろしい。確たる証拠をぼくが出しましょう」

「確たる証拠とは?」

「ぼくが調べ上げた情報をメモリーに納めて渡しますよ。それを総務部長を通じて、取締役員会に出せばいい。情報統括室が責任をもって出す証拠です。社長も信頼できるものだと判断すると思いますよ」

 鳥井は渋沢副社長を事実上の解任に追い込んだやり方をもう一度使おうと言っているのだ。鳥井の情報収集のやり方は、違法とまでは言えないとしても、不当な行為で、門脇は好ましくないと考えている。しかし、それ以外に一連の不正な行為を糾弾する方法がなければ、やはり、やむを得ないのかもしれない。それに、渋沢副社長の時と同じで、社長は問題ないと判断するだろう。そうすれば、一気に解決する。

「お願いします」

 門脇は頭を下げた。

「半日もあれば、USBメモリーに電子データをまとめることができると思う。専務以下三人の悪事を暴く確たる証拠だ。できあがりしだい、部下に届けさせることにしよう」

 鳥井はきっぱりと言った。

 門脇は、鳥井が言った、愛社精神は持っているつもりだし、不正な行為を許さない正義感はある、という言葉を信じていいと思った。鳥井はその不遜な態度から、人にはあまり好かれない。また、あいつは何を考えているか分からない奴だと陰口も多く聞かれる。門脇にも、同年にもかかわらず、おれの方が上席者だという言葉使いを変えようとはしない。しかし、それはうわべだけのことで、内面を見ていないのかもしれない。

「協力して、会社のために不正行為を糾しましょう」

 鳥井は、門脇と瑪瑠理伊が礼を言って立ち去ろうとすると、そう言った。



 総務部長の山瀬は昂奮していた。

「うーん、これは確たる証拠だ。これで三人の悪事を暴けるな」

午後になって鳥井から届いたUSBメモリーの中を門脇と一緒に見た山瀬はそう言った。山瀬の自席のパソコンで開いた電子データには、菅崎以下三人が連絡をとった携帯電話の通話記録と社内メールの送受信が時系列で記録されており、メールの文面、楢沢響子との不倫の動画までコピーされていた。紺野が早坂に宛てたメールの文面には「Sさんから、邪魔な海外営のKを何とかならないかと言われた」というものまであった。Sさんとは菅崎専務であり、海外営のKとは海外営業本部の霧久保部長のことだ。これは監物の自殺の三日前のメールだった。

「菅崎専務は、初めは脅迫されていたが、その後主導権を握り、長期に安定した社長体制のために霧久保部長失脚の機会を窺っていた。そこに監物さんの自殺があり、それを利用した。そういうことになりますね」

 と門脇は、息づかいの荒い山瀬に言った。

「そうだ。間違いない。よし、すぐに社長に話し、取締役を招集してもらおう」

「そうして下さい」

「しかし、それにしても鳥井はよくもこんなものを収集したなあ。あいつが、会社の中を全部素通しで見ているようで、気にいらんなあ。まるで、すべてあいつに監視されているようじゃないか」

「そうですね。その問題は残りますね」

 山瀬も、不正を暴くためとはいえ、鳥井のやり方には憤っているようだ。

「社員は業務を進めるために携帯電話やコンピュータを使っているが、それを全部監視するなど、鳥井の暴走だ」

「今回はやむを得ず、ということで、今回限りにさせないといけませんね」

「そのとおりだ。今回は仕方がない。だが、今後は止めさせる。恐らく、社長もそう考えるはずだ。もし、社長が止めさせなければ、おれが断固として止めさせるよう、直談判しよう」

「部長、是非お願いします」

 門脇は山瀬の下で働いて六年になるが、山瀬がこれほど頼もしく見えるのは初めてではないかと思った。山瀬は自分の主張を強く押し出すタイプではなく、対立する意見を調整してうまくまとめることで、ここまでやってきた。必要なら、上に適度にゴマをすり、会社幹部たちの争いを擦り抜けてきた。きょうは役員Aの側に立ち、明日は役員Bの側に立つ、という具合にだ。六年の間、門脇にはそう見えた。しかし、意外に芯は硬いものがあるのではないか。そう感じられたのも、今が始めてかもしれない。

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