第16話 海外営業本部で
終業時刻間際の海外営業本部は話し声も少なく、落ち着いた雰囲気につつまれていた。霧久保は部屋の中ほどで机に向かい、書類に目を通していた。門脇は部長席に歩み寄る前に部屋の中を見回した。五十人ほどいる社員たちもたいてい机に着いてパソコンで日報を作ったり、一日の仕事の整理を始めていた。中央棟の屋上に上がった楢沢響子を追いかけてきた二人の女性社員も、隅の方で並んで机の上を片付けていた。監物の事件以来、残業を減らすのが全社の方針になっているが、この海外営業本部でもそれは徹底しているようだ。その中に、楢沢響子の姿はなかった。
門脇がつかつかと部長席に歩み寄ると、霧久保は顔を上げた。
「おや、何か?」
「お話があります」
一瞬笑顔を見せた霧久保は門脇の硬い顔つきを見るとすぐに真顔に戻り、四人ほど座れる近くのミーティングルームに案内した。そこはガラスのドア越しに外は見えるが、外部からの音は遮断されていた。
「ひとつお訊きしたいことがあるんですが、霧久保部長は早坂ポリエチレン事業部長とは特別に何かありますか?」
門脇は単刀直入に切り出した。
「早坂さんですか? ああ、私とぶつかって、ノートパソコンを破損した部長ですね。あのこと以外に、何か特別なことがあるかという質問ですか?」
「そうです。例えば、仕事上で軋轢があったとか?」
「軋轢ですか。仕事上で軋轢といっても、ポリエチレン事業部とは業務上、ほとんど関係がありません。ですから、そのようなことは思いつかないですね」
「心当たりはありませんか? 早坂部長に何か恨まれるようなことが過去にあったのではないかと思ったんですが……」
門脇は、早坂の行動について、今話せる可能な範囲では霧久保に伝えるつもりだった。
「あの時、早坂部長はあなたに故意にぶつかったのです」
「故意に? ぶつかったのは特別に不自然なような様子はなく、部下を叱責していて私が近くを歩いているのに気づくのが遅れただけだと思っていましたが、故意に、ということですか。なぜ、そのようなことを?」
門脇は「これはまだ、私の推測の域をでません。そして、ことの重大さから今の段階ではすべて話すことはできませんが」と前置きして、監物の自殺の当日からの早坂の奇異な行動について話し始めた。自殺の当日のシステムエラー、それに伴う自殺を疑う噂、そして早坂が行ったであろう工作について、分かっている事柄を時系列を追って順に話した。しかしその中で、早坂が監物の楢沢響子宛の遺書を抜き取った理由を「三通の遺書のうち、何らかの理由で一通を抜き取り」として、誰宛の遺書なのか、またなぜそうしたのかは話さなかった。それを言えば、菅崎専務の社内での愛人問題に触れることになるからだ。専務の名誉のためにも、そういった醜聞は最後にすべてが明らかになった段階でごく限られた範囲の者に話す方がいい。
「いずれにしても、早坂部長は、監物くんの母親宛の遺書を彼のパソコンからコピーし、あなたのノートパソコンに落としこんだのです。どうやってそのようなことができたのかまだ分かりませんが、恐らく協力者がいたのだろうと考えています。それが発見されて、あなたはなぜそういうことが起きたのか説明できなかった。自死を疑う噂もあり、奇妙なことが起きたことから、あなたは結果的に取締役員になれなかった。そのことで一介の部長に過ぎない早坂さんに利益があったとは考えられない。ということは、あなたに恨みを持っていると考えるのが自然ではないですか?」
霧久保は門脇をまっすぐ見据えながら、時々頷き、黙って聞いていた。そして、静かな口調で答えた。
「門脇さん。あなたのおっしゃることは、とても論理的で整合性があります。あなたの推測はひととおり理にかなっていると思います。私の方に、早坂さんに恨みをかうようなことはまったく思い当たりません。しかし、こちらになくとも、相手側にはそれなりの理由があるのかもしれません。人間とは、得てしてそういうものです。好意でおこなったことを、相手は悪意として受け取る。そういうことがないとは言い切れないからです。しかし、仮に早坂さんが本当に私に悪意を抱いていたとして、その目論見は成功したとは言えないですね。私が役員入りを逃したことを、私自身は不利益だと思っていないのですよ」
「えっ?」
「強がりで言っているのではないのです。確かに、私が取締役にまで出世すれば妻は喜ぶでしょう。何といっても、収入は三倍以上増えるのですから。しかし、今でも普通に暮らせるだけの収入はいただいています。私はまだ三十八です。役員入りは若すぎます。これは能力だけの問題ではないというのが私の考えです。私の知る範囲で言えば、欧米、特にフランスでは、組織の上位に位置づけられる者を選ぶのに年齢は無関係と言ってもいいくらいで、すべてその能力によって決まります。それが自然なことだと考えられているようです。勿論フランスでも、年長者は敬われます。しかしその理由は、ただ単に年長であるがゆえではありません。年長者は、多くの経験と知識、それに伴う技量を身につけている、そう考えられているからです。それがなければ、年長者というだけで敬意を表されることはないでしょう。しかし、ここはフランスではありません。日本では、年長者は年長であるがゆえに尊ばれるべきだという考えが支配的です。考え、というよりもっと感情的なものかもしれません。日本では、年長者に対する言葉遣いと年少、あるいは同年者に対する言葉遣いは異なりますが、フランス語ではそのような違いはありません。この違いは、どちらか正しいかというものではないと思います。それぞれの培ってきた文化に根ざしているからです。日本では年少者が組織の上位に就くことそれ自体に、反発を感じる人は少なくありません」
門脇が言葉を遮らずに聞いていると、霧久保はいくらか早口になり、なおも続けた。
「会社に入りたての頃、きみの言うことは正しい、しかし不愉快だ、と言われたことがあります。またある解剖学者は、脳の内部では理性を司る部分より、感性を司る部分の方が奥深くにある、人間にとっては感性の方が核心的なのではないか、と言っています。それが日本人の場合、文化と重なり合って意識を作りだしているのではないでしょうか。もちろん、文化もそういった意識も時代によって変化していきます。しかし、まだ変化は大きくはないと思います。近年、年功序列という言葉が否定的に使われ、能力だけで人事を決定することが合理的だと主張されることが主流になっています。また、そういった人事によって発展を遂げている会社も数多くあります。しかし、実際には多くの日本人の心の中では年功序列はまだまだ活き続けていると考えるべきです。会社であれ、何であれ、組織の中で上位者が若年の場合、心の中では必ず反発があります。たいていの場合、組織における絶対的な服従を強制する統治によってそれが表面に出てこないだけです。そういった組織の中で、人間は満足が得られるのでしょうか? 組織は発展しているが、そこで働く人間は不満を抱えている。それでいいといえるのでしょうか? 私はノンと言わざるを得ません」
霧久保はそこまで一方的にしゃべると、急に慌てた表情を浮かべた。
「申し訳ない。つい、ながながと余計なおしゃべりをしてしまった。役員就任は、私にはまだ荷が重過ぎるとひとこと言えばよかっただけでした。つまらない講釈を聞かせてしまって本当に申し訳ない」
霧久保はこくりと頭を下げた。
「いやいや、つまらないどころか、立派な意見です。おっしゃることはよく分かります」
と門脇は応じたが、それはお世辞ではなかった。門脇には霧久保の言うことは意外なものだった。フランス留学経験のある霧久保は、欧米流にその人間の能力だけで評価し、人事もそれに基づいて行うのが合理的だと主張するかと思っていた。しかし、そうではなかったのだ。霧久保の話を聞くと、彼の主張は欧米とは異なる日本の精神的風土を理解した上での考えで、むしろ優れて合理的なのではないかと思えた。どだい、上司に自分より年少者が来たら、その人物がたとえどんなに優秀であっても愉快なはずはないのだ。
「私が脱線してつい余計なおしゃべりをしてしまいましたが、本題に戻って早坂部長が私に悪意をもっていたのではないかという推測について、私の意見を言ってもよろしいでしょうか?」
「勿論です。お願いします」
それは、門脇が是非聞きたいところだった。
「その推測は一応理屈は通っていると思います。しかし、もう少し深く考えると、
腑に落ちないところがあるように思えるのですよ。あなたの話しによれば、早坂部長はふたつの工作をしています。ひとつは監物さん遺書の内、一通を隠し去ったこと。もうひとつは私のパソコンに遺書の文面を落としこんだこと。初めの方の動機については、今は明らかにできないとおっしゃる。ふたつめの方は私に恨みがあったのではないかと。動機という言葉はあまりに犯罪めいていて、この場合適切かどうか分かりませんが、それはともかくとして、このふたつの行為は、偶然に監物さんの遺体を発見したことから行われたということですね?」
「そのとおりです」
「そうすると、その動機は常に早坂部長の心に強くあったものと考えるのが自然でしょう。そうでないと、遺体を前にして咄嗟にそのような工作をしようなどとは思わないでしょうから。私に対して快く思わないことががあったとしても、それほど強く早坂部長の心に残っていると考えるのはいささか不自然な感じがしませんか? 私が彼を貶めたようなことがあれば別ですが、それほど深く憎まれるというようなことはあり得ないと思いますよ」
「言われてみれば、そうかもしれません」
「さらに言えば、遺体の発見という非常時に、二つの工作を思いついたとしても、やはり、その目的は同じものと考えるべきでしょう。あれもこれもと別の目的のためにやってやろうとは、普通の人間は思いつかないでしょう。目的が同じだから、連続するふたつの行為を咄嗟に思いついたのですよ」
門脇は唸った。霧久保の言うことはもっともだ。早坂は偶然コンクリートの地面に横になっている人間を発見した。よく見たら死んでいた。楢沢響子宛の遺書を見つけたとしても、その時は、かなり驚いたに違いない。やはりすぐにでも、警察に知らせなければならないと思っただろう。しかしそのような心理の中で咄嗟に何か工作を思いつくのは、早坂が常日頃から考えていたことがあるからだというのは納得がいく。そしてそれは、いくつもあるとは考えづらい。二つの工作は同じ思い、同じ目的からくるのではないかという霧久保の指摘は、まさにそのとおりだと思える。
そうすると、霧久保のノートパソコンに施した工作の目的は、楢沢響子宛の遺書を隠したことと同一といことになる。遺書を隠したのは、菅崎専務への脅迫行為が意味を失うことになってしまうと考えたからなのだろう。それは早坂が専務の力で部長に昇進した後も脅迫を続け、今後もさらにいいポストを手に入れるためだと考えられる。それと霧久保への工作も同じ目的、つまり、人事ということになる。しかしそれが、分からないのだ。霧久保の役員入りを阻止することが、なぜ、早坂の昇進に役立つのか?
「部長は、どんな目的があったと思いますか?」
門脇は霧久保なら何か思いつくことがあるのかもしれないと思い訊いてみた。
「いや、そこまでは私には分かりません」
霧久保は笑いながら答えた。たとえ霧久保でも、門脇の説明では判断する材料が少なくて分からないというのは当然かもしれない。
霧久保は腕時計にちらりと目をやった。話がだいぶ長くなったが、門脇が肝心な部分は隠しているので、その割には話が分かりづらいのは門脇も理解していた。しかし、門脇にはもうひとつどうしても尋ねなければならないことがあった
「そうですか。ところで、楢沢響子さんの姿が見えないようですが、彼女は出勤していますか?」
「は? 楢沢ですか? ええ、出勤していますよ。今、会議室にいるはずです。先ほど、英文の提案書の作成を頼んだのですが、会議室の方が集中できるそうです」
唐突な質問に、霧久保は顔にいくらか呆れた表情を浮かべた。
「そうですか。それは良かった。で、最近の様子はどうですか?」
「どうと言いますと? 彼女に何か?」
霧久保は逆に問い返してきた。門脇はどこまで話していいか決めかねていた。専務とのことも監物とのことも、あまりにプライベートなことなので話すべきではないとは思う。しかし彼女の上司には、彼女が情緒不安定に陥っている可能性が大きいこと、それにともなう危険性については知らせておくべきだとも思う。どう説明するのが適切なのか、門脇は判断に迷っていた。
門脇が言葉に詰まっていると、霧久保の方から口を開いた。
「やはり、何かあるんですね。実のところ、ここ二、三週間前から何か不安なことがあるのか、落ち着きがありません。仕事はきちんとこなしているのですが、どこか気持ちが別の世界にあるかのように、視線が定まらないような顔を時々見せています。今までにそんなことはなかったんですが、……」
「楢沢さんに何があったのか、何分差し障りがありまして、……。後日詳しくお話したいと思います。今は精神的にショックを受けているとだけひとつご理解を……」
門脇は言い淀んだ。
「言いづらいことなんですね。恐らくそれは恋愛に関係することではないですか?」
「まあ、そんなところです」
「分かりました。その辺に関しては、プライバシーの問題もありますから、むしろおっしゃらなくて結構ですよ。精神的にショックを受けているというだけで充分です。とにかく、普段と違った行動をとった時は注意深く見守る、そういうふうにしたいと思います」
「ありがとうございます。楢沢さんについては、そのようにお願いします」
霧久保は物分りが良かった。霧久保も一連の不可解な出来事で、本人は否定しているが不利益をこうむった一人だと言っていい。いずれ、すべてが解明した時には話さなければならないだろう。
「長々と時間をとらせて申し訳ありませんでした」
門脇が礼を言って立ち上がると、霧久保は先にミーティングルームの外に出た。
門脇も外に出て辞去しようとしたが、霧久保は「ちょっと、お待ちください」と言って、数メートル先の小会議室の前まで行った。楢沢響子の様子を見に行ったのはすぐに分かった。ドアを開け、中を覗き、近くにいた部下に二言三言何事か囁いた。そして部下の返事を聞くと、硬い表情で戻ってきた。
「楢沢ですが、少し前に小会議室を出たようです。出て行くところを見ていた部下は、少し疲れた様子だったのでコーヒーブレイクでもしに行ったのではないかと言ってます。しかし、やりかけの書類やノートパソコンが開いたままでした。以前の彼女は、席を外す時は他人に簡単に見られないように、必ず書類をふせ、ノートパソコンも閉じるというふうにきちんとしていました。やはり、どこか精神的に不安定になっているのかもしれません。コーヒーブレイクなら、じきに戻って来るとは思いますが……。それにしても、私の部下のことで、ご心配をおかけして申し訳ありません」
霧久保は深々と頭を下げた。
「いずれにしても、よろしくお願いします。何か変わったことがあったらご連絡ください」
門脇はそう言って海外営業本部を後にしたが、エレベーターに向かう途中に、楢沢響子はまた屋上に登ったのではないかと思いが浮かんだ。しかし、屋上に出ればドアセンサーが感知し、前回のようにセキュリティセンターから連絡が入る。門脇の携帯電話は黙ったままなのだから、それはない。
門脇はエレベーターに乗ろうとして、ふと反対側にある資材運搬用の大型エレベーターに目がいった。屋上に行くには一般用ではなく、これに乗る必要がある。その上部に現在の止まり階を表す液晶パネルがあった。門脇が見上げると、そこにはR、つまり屋上階を表す文字が点滅していた。業者が資材を屋上に運ぶのは何らかの工事がある時だけだが、屋上の工事など聞いていない。ということは、社員が屋上に上がるために利用し、そこに止まっているということだ。
急いでエレベーターで屋上階に上がると、門脇が予想したとおりだった。扉が開くと、そこに楢沢響子の姿が見えた。屋上に出るドアの前に三メートル四方のスペースがあった。センサーはドアに設置されているので、反応しないのは当然だった。
楢沢響子は壁に右側の体側を凭せかけた不自然な姿勢で、傍らの小さな窓から外を眺めていた。
「楢沢さん……」
門脇の声に、楢沢響子は反応を見せなかった。
門脇は傍らに寄った。彼女が見つめていた小さな窓の外には、社内の敷地が広がり、手前に研究開発棟の鈍色の屋根が見えた。
「楢沢さん……」
門脇が二度声をかけると、至近距離からの声に楢沢響子はようやく黙って振り向いた。
「だいぶ、お疲れのようですね」
門脇は当たり障りのない言葉を選んだつもりだったが、振り向いた顔は思っていた以上に青白く、本当に疲れた様子だった。
「総務の門脇さんですよね。また、屋上に上がったと思って、私を探しにいらしたんですね」
楢沢響子は下を向いたまま、細い声で言った。
「屋上階にエレベーターが止まっていたので、来てみたんです。屋上に出ては危険ですから」
「その節は済みませんでした。でも、きょうは屋上には出ません。そこのドアを開けると、警備員さんが飛んできますので」
楢沢響子は小さく笑った。無理に笑顔を繕おうとしているように見えた。
「こんなところで、何をしているのだろうと思ってらっしゃるのでしょう? 馬鹿な女だと……」
「いえ、そんなふうには思っていません。辛い気持は、充分理解していますから」
門脇がそう言うと、楢沢響子は「えっ」という声をあげ、門脇を不思議そうに見詰めた。
「プライバシーに立ち入る気はなかったのですが、会社内部での不可解な出来事を調べているうちに、楢沢さんの事情を知ることとなりました」
楢沢響子は目を見開いたまま、言葉を発しなかった。
「監物さんのお母さんから、あなたにことづてがあります。ご迷惑をおかけして申し訳なかったと伝えて欲しいということです」
楢沢響子は身体から力を失い、一瞬、崩れ落ちそうになった。門脇は両肩に手を伸ばし身体を支えた。門脇を見詰める眼は充血し、濡れていた。
周りを見渡すと、壁の隅に何かの機械類を収納する長椅子ほどの大きさの箱があった。門脇はその上にハンカチを敷いた。
「何もかも、ご存知なんですね」
楢沢響子はゆっくりと箱に腰を降ろし、呟くように言って、顔を伏せた。涙を見られたくなかったのかもしれない。
門脇は隣に少し距離をおいて座った。向かい合わせで話すのを避け、顔を見ないようにした。
「ひと一人、自殺させた悪い女だと思っているでしょうね?」
楢沢響子は下を向いたまま言った。
「いえ、そんなふうには思っていません。あなたを責めているのではないのです」
と門脇はきっぱりと否定し、自分の立場を説明した。
「社内で奇妙なことが続けて起きました。そのことを調べているうちに、あなたが交際していた二人の人物を知ることとなったというだけで、詳しい事情知っているわけではありません。あなたにお話するのは、私が知っていることをお伝えした方があなたにとって良いのではないか、と考えたからです。それにむしろ、知っていながらそれを隠しているのは不誠実だと思うからです」
楢沢響子は何も言わずに、背をかがめ下を向いていた。門脇は盗撮された動画のことを話す気はなく、また、彼女を非難する気はないのは本心からだった。彼女はきっと有能な社員であり、「ふしだらな」と表現されるような男女間の倫理的にふさわしくない行動を採るような女性では決してないだろう。二人の人物と交際があったのは事実だが、それぞれに真剣で誠実なものであったに違いない。
「監物さんの母上は、監物くんが女性と交際していたことは知っていたけれど誰だかは知らなかったそうです。相手が分かったら、迷惑をかけたことの謝罪を伝えて欲しいと、私宛の手紙に書いてありました。交際相手、つまりあなたを恨んではいません。それから、監物さんがあなた宛に遺書を残していたことは知っていますか?」
楢沢響子は黙って首を横に振った。
「そうですよね。監物くんの遺体の内ポケットから母上と同僚に宛てた遺書が発見されたのはご存知だと思いますが、実はあなた宛の遺書もあったのです。色々と調べていくと、あなた宛の遺書だけが何者かに奪われててしまったということが分かりました。おそらく、シュレッターにでもかけられているでしょう。だから、あなたには届いていない。しかし、遺書はパソコンで作られたものなので、冒頭の部分だけ電子データで残っていました。そこには、あなたと知り合えて嬉しかった、と書いてありました」
「そうですか。嬉しかったと……。あの人は、私に何も言わずに死んでしまったと思っていました」
楢沢響子はようやく顔を上げた。
「冒頭の部分だけしか分からなかったのはとても残念です。全部、復元できれば良かったのですが」
「いえ、遺書があったというだけで充分です。嬉しかった、という言葉だけで充分です」
と楢沢響子は言って、持っていた化粧ポーチからクレンジングクロスを取り出し、目元と口元を拭った。そして、それまでの細く千切れたような声から一転して、歯切れの言い落ち着いた声で言葉を続けた。
「門脇さん、不思議ですね。今まで他人に知られまいと誰にも言わずに隠してきました。罪悪感でいっぱいでした。でも、あなたがご存じだと聞いて、何だかすっきりとした気分になりました。とても不思議な気分です。長い間、逃亡中の犯罪者が捕まった時もこんな気分なんでしょうか」
門脇は、楢沢響子の急に息を吹き返したような態度に戸惑い、顔を覗きこんだが、それがどこまで彼女の本心から来ているのかは分からなかった。門脇には、強気を装っているように思えた。
「門脇さん、私の話を聞いて頂けますか?」
楢沢響子はやや唐突に言った。
「えっ、まあ、いいですよ」
この時間にこの屋上階にやって来る者はいないだろうから、恋愛に関係する話を聞くにはここは適した場所だと言える。彼女は他人に話すことによって落ち着きを取り戻そうとしているようだ。それで彼女の精神状態が少しでも良くなるものなら、それに越したことはないと門脇は思った。
「菅崎専務とお付き合いが始まったのは、海外旅行で偶然にお会いしたことがきっかけでした」
楢沢響子はやや下を向いて、抑揚のあるしっかりとした口ぶりで話し始めた。
「二年前の夏休み、私がロンドンに行った時、専務は奥様とご旅行中でした。その時、専務は高級ブティックで奥様のロングコートをお買物されていました。私は偶然その店先に飾られたセンスのいい品物を眺めていて、ふと店の奥を覗くと、お二人が言葉が通じず、お困りになっているのを見てしまったのです。奥様のお好みの色とデザインを店員に伝えられず、困ったなあ、という専務の日本語が聞こえました。そこで私は店の中に入り、通訳してさしあげたのです。その時は、私は専務だとは気づきませんでした。専務のお顔は会社の広報で写真でしか拝見したことがなく、実際に社内でお会いしたことがないからです。専務の方もその時は、自社の社員だとはお気づきにならなかったようです。奥様は自分のお好みのコートが買えてとても喜ばれました。その店で品物を日本に送る手続きもしてさしあげたことも、お二人は喜ばれました。それでお二人はお礼に夕食をご馳走するとおっしゃったのです。菅崎専務だと分かったのは、ディナーの際に専務が名詞を差し出したからです」
楢沢響子が名詞を見て自分もD化学の社員であると名乗ると、菅崎専務はあまりの寄寓に、これも何かの縁だと言ったそうだ。夜になって遠くにビッグベンが垣間見えるレストランでの食事中に、専務の妻は英語に堪能で如才なく振舞う彼女に感心し、帰国してから彼女に何かプレゼントをするよう専務に促したという。それが菅崎と楢沢響子が携帯電話の番号とアドレスを交換したきっかけだった。
ロンドンでの偶然の出会いの後、二人は食事を共にするようになった。当初、菅崎は自分の娘に食事をご馳走するのを楽しむ父親のような接し方だったという。その窮めて紳士的な身のこなしに、かえって楢沢響子は魅力を感じたというのだ。
その後二人はいつからか判然とはしないが恋愛関係に陥り、旅先で密会を重ねるようになった。しかし、楢沢響子は恋愛感情が昂れば昂るほど、罪悪感に苛まれるようになった。同様に菅崎の方も続けていてはいつか指弾されることは重々承知しており、一年ほど前には二人は逢うことをやめたという。つまり、盗撮された動画は、二人の最後の密会だったということになる。
半年前から楢沢響子の所属する海外営業本部営業第三部は、研究開発部の監物秀明がリーダーとなって開発した炭素繊維強化炭素複合材の新製造法を共同でヨーロッパへの売り込みに着手した。営業第三部の部長である霧久保拓也が率先して欧州宇宙機関に接触し、契約成立までこぎつけたのだが、特にビジネス英語に秀でていた楢沢響子はその能力を買われ、研究開発部との売り込みの共同作業に欠かせない存在となり、出張にも度々同行することとなった。
楢沢響子は、監物と仕事を始めた時から、彼の研究技術員としての真っすぐな姿勢に僅かながらも好感を抱いていた。初めに恋心を抱いたのは監物の方だったが、失意にあった楢沢響子はその思いを次第に浮け入れるようになったのだ。仕事に立ち向かう監物は硬い表情を崩さないが、私的に会うとふんわりと雲の上に浮かぶような優しい笑顔を見せるのだという。
楢沢響子は相手が望むのなら結婚してもいいと思った。菅崎にもそのことを手紙で伝えると、「おめでとう。ご多幸を祈ります」と返事がきたという。しかし、菅崎との恋愛関係を、既に終わったことだといえ心に隠したまま、監物とそれ以上進むのは許されないことだと考えたというのだ。
「そんなことを告白すれば監物さんは怒り、すべて終わってしまうかもしれないとは思いました。でも、本当のことを話さなければ卑怯なこと、監物さんの心からの愛情を得られないと思いました。それに後から明るみなれば、もっと彼を傷つけることになるのだとも思いました。それで、告白することにしたのです。告げた直後は、監物さんは僅かに笑顔を見せてくれて、終わったことならどうってことはない、と言ってくれました。でも、三日後に彼は……」
監物は菅崎専務との関係を聞いた時には許すつもりだったのかもしれない。しかし、彼は過労による鬱状態にあった。そのような精神状態でなければ、何事もなく、二人の交際は円満に進んだのではないか。
「監物さんの実家の住所を教えていただけますか? お母様にお会いしてお詫びしたいと思います」
「いいですよ、後で住所をお教えします。監物くんのお母さんの方もあなたにお詫びの気持を伝えたいと言っています。あなたが訪ねてあげれば、お母さんの気持も安らぐんじゃないでしょうか。是非、そうして下さい」
楢沢響子は聡明な女性なのだと、門脇は思った。不幸な恋愛から立ち直る道を歩もうとしているのだ。彼女がどんなにうち沈み悩んだとしても、監物が生き返るわけでも、終わってしまった恋愛を取り戻せるわけでもない。門脇に菅崎と監物の二人との出来事を語ったのも、他人に話すことで自分を客観的に見つめ、冷静さを取り戻すためだろう。監物の母親に謝罪することで、それで心の中の区切りをひとつ、つけることができるかもしれない。そうであって欲しい。
専務との密会を盗撮されたことは、話さないことにした。話せば落ち着きを取り戻しかけている彼女を動揺させるだけだ。
「書類を出しっ放にしたまま、ここに来たことを思い出しました。私は部に戻ります。色々とありがとうございました」
楢沢響子はそう言うと、すくっと立ち上がった。以前のような自分自身を取り戻したように見えた。
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