第15話 瑪瑠理伊の推理

 研究開発部のエントランスホールから坂本に電話をすると、監物の使用していたパソコンには業務上の機密のデータはないはずなので見てもかまわない、と快くに承諾した。サブからリーダーへの昇格が決まっている坂本は機嫌が良かった。瑪瑠理伊がすぐにやって来て二人で待っていると、奥の鋼鉄製のドアが開き坂本が顔を出した。

 坂本の後に続き、セキュリティ装置に社員カードをかざしながらドアを通過すると、巨大なエレベーターの扉があった。人だけでなく機械類を運ぶため、一辺が十メートルほどの立方体になっていた。

「まだ、調べることがあるとは、門脇さんも大変ですね」

 エレベーターに乗り込むと、坂本は六階のボタンを押しながら言った。

「みっともない話しですが、報告した書類に不備あることが分かって、念のためもう一度、監物さんのパソコンをチェックしておこうと思いまして……。私はコンピュータがあまり得意ではないので、システム担当の彼女に来てもらいました」

 門脇はとっさに取ってつけたような言葉を口にした。

「そうですか。それはご苦労なことです」

 坂本は門脇の後ろにいる瑪瑠理伊の胸のあたりに、ちらちらと視線をやりながら言った。坂本が、門脇の言葉をどこまで信じているか分からなかった。暇な時間を持て余し、必ずしもやらなくともいい仕事をわざわざやりにきた、と思っているのかもしれない。瑪瑠理伊は坂本の視線を無視して、剥き出しの金属でできた巨大な箱の天井を見上げていた。

 靴底から響くような鈍いモーター音とともに六階の扉が開くと、両脇に天井に届くほどの機械類を配置した洞窟のような空間が現れた。人の姿はまばらで、ところどころに灰色のシートですっぽり覆われたトラックほどの大きさの工作物があった。坂本は、機器にはさわらないようにと言って先頭に立ち、建物の奥へ進んでいった。

 奥の壁際に、透明な強化樹脂で作られた敷居で囲まれ、いくつもの事務机が並んだスペースがあった。中に入ると、隅の方で研究員が二人見えた。手前のひとりは腕組みをしながら二台の液晶モニター画面を交互に睨んでいた。もうひとり、奥にいるのが睦月三郎だった。作業帽をかぶっているが、帽子の脇から白髪がかなりはみ出していた。睦月はパソコン画面を食い入るように見つめていた。何やらぶつぶつ言いながら、夢中で作業をしているようで、門脇には気づかない様子だった。

 監物が使用していたパソコンは、端の方の机の上にぽつんと置かれていた。事件当日、警察官とともに門脇がパソコンを操作した時には、真ん中に近い場所にあったのだが、坂本がこの研究チームの責任者になってから、机の配置を変えたようだ。

「今は、このパソコンはチームの共用として使ってます。業務上重要なものは指定された端末で行うように徹底させていますので、この端末は気の済むまで見てください。終わったら、彼に声をかけて、そのまま退出されて結構です」

 坂本はそう言い残すと、その場を去った。研究員がモニター画面から目を離し、門脇たちに目礼した。坂本は黒々とした機械類の間に消えていた。

「では、スタートします。ゴーゴー」

 瑪瑠理伊はパソコンの前に座り電源を入れると、まるでゲーム機で遊ぶようにキーボードを両手で素早く連打し始めた。画面には、黒地に白の、数字やアルファベット、その他見慣れない記号が激しく踊りだした。

 坂本がこの場を離れてくれたのは好都合だった。パソコンデータの何を探しているのかは見られたくない。パソコンのデータは「ゴミ箱」から完全消去しても、後からハードディスクにかぶせたデータがそれほど多くなければ、復元が可能だという。監物は交際していた女性への遺書を残していたに違いない。それが、どこに行ったのか分からないが、ここで復元できるかもしれない。そうすれば、相手が誰なのかわかるだろう。そのことが、監物の転落死から始まった、一連の不可解な出来事のこんがらかった糸玉をほぐす一本の糸になるのではないか。横から画面を覗いていた門脇には、監物が残した遺書はもう一通あるはずだという想像に過ぎないものが、確信に近いものになり始めていた。

「これも違うなあ」

 二十分が経過した。瑪瑠理伊はキーボードを打つ手を時おり止めながら、画面を凝視している。

「これは業務日誌のコピー。それから何これ、エッチな画像まで捨ててある。仕事中に何やってんだろ。しょうがないわね。うーん、これも、これも、違うなあ」

 瑪瑠理伊はさらに二〇分ほど作業を続けたが、疲れたのか、首の後ろに両手を回し、胸を反らして天井を見上げた。

「やっぱり、復元は難しい?」

「復元できたファイルの中にはないみたい。あれから一ヶ月近くになるから、そのあたりのデータは完全に壊れてる」

 瑪瑠理伊ならなんとか復元してくれると思ったが、やはり無理だった。交際していた女性への遺書はなかったということにはならないが、これでは先に進めない。

「しかたがない。終わりにしよう」

 門脇が立ち上がって帰ろうとすると、瑪瑠理伊は窓際に据えられたプリンターの前に行った。

「こっちの記憶を呼び戻してやる」

 瑪瑠理伊はプリンターの脇にあるいくつものボタンを押し始めた。

「このプリンターは直前二百個の印刷データのタイトルまたは初めの一行を記録するようになっているの。使用頻度が低ければ、残っているかもしれない」

 なおもボタンを押し続けていると、プリンターはウィーンと唸って、印刷を始めた。門脇はプリンターに近寄り、用紙に印字される文字を目で追った。

「あった。これだ」

 用紙が五枚目の印刷を始めた時、門脇は声をあげた。印刷が終わり切るのを待ちきれずに用紙を引き抜くと、そこにはパソコン端末番号、印刷時刻と印刷内容の冒頭データの羅列の中に、監物の遺書と思われるものが三通記録されていた。印刷記録百六十七研究グループの皆さまへ《百六十八かあさん、ぼくはもう疲れたよ》《百六十九楢沢響子さま。あなたと知り合えて嬉しかった》

「楢沢響子って、専務の……」

 と瑪瑠理伊が言いかけたので、門脇は彼女の口を手で塞いだ。事務スペースの手前の方に座っていた研究員がこちらを見ていたからだ。

 パソコン端末番号は監物の使用していたもので、時刻は転落死当日の一時十二分から十八分の間だった。印刷番号は数字の若い方が後に印刷されたものだから、監物は交際していた女性の楢沢響子、母親、そして職場の同僚という順番で遺書を書き残したのだ。監物にとって、より大事に思う順番に遺書を書いたというということの表れなのだろうが、考えてみればそれは自然なものかもしれない。しかし、またしても楢沢響子だ。どういうことだ? なぜ、専務の浮気相手の名がここで出てくるのだ? 

「話は、後にしよう」

 門脇は印刷された用紙を手にしてパソコンの電源を落とした。去り際に、目が合った研究員には頭を下げたが、奥に座りパソコンを凝視している睦月は、こちらにはまだ気づかないようだった。

「私の推理を言ってもいい?」

 機械類の間を通りながら戻る時に、瑪瑠理伊が耳元で囁いた。

「ここでは、まずい。どこか人のいないところがいい」

「分かった。セキュリティセンターの二階なら、大丈夫だと思う」

 瑪瑠理伊は何か閃いたようだ。想像したとおり、監物は三通の遺書を残していた。その内、二通しか見つかっていないのが謎ということになる。瑪瑠理伊と二人で話を整理しながら謎解きにかかるのが、やはり良さそうだ。



「私の推理はね、こうなの」

 瑪瑠理伊はセキュリティセンター二階の休憩室に入るなり、堰を切ったように話し始めた。

「遺書は三通あった。自殺した時に二通見つかっているのだから、やはりもう一通も上着の内ポケットに入っていたはず。やはり、誰かが抜き取ったとしか考えられない。第一発見者とされているのは、菊池主任と制服の警備員。でも、その二人が抜き取ることはあり得ない。発見した後も警察がすぐに来ているから、誰も抜き取ることはできない。ということは、二人が第一発見者ではなく、その前に誰かが先に遺体を発見したということよ」

「そうか。あの夜は落雷があって、霧雨のような細かい雨が降っていたという。そんな時に薄暗い構内を歩いて、監物の遺体を先に発見した。そんな人間がいるとは思わなかったけど、それがいたとすれば、その人間が遺書を見つけ、一通抜き取ったということか」

「そう。その人は遺体を発見して、おそるおそる近寄り、様子を見た。何気なく上着の内ポケットを見たら、遺書が三通入っていた。遺体が落ちた拍子に上着がめくれて、遺書の白い紙の端が覗いていたのかもしれない。その内の一通が楢沢さん宛のものだった。それを読んで、これが公になったら困ると思い、抜き取った」

「うーん。そうすると、なぜ、公になったら困るのかが問題だ」

「監物さんのお母さんによれば、付き合っていた人がいたということよね。それが楢沢さんだったのね」

「そうゆうことになる」

「監物さんは楢沢さんと交際を始めた。ところが、過去に楢沢さんは専務と関係を持っていた。過去にというのは、マカオで盗撮されているのが二年前だから、既に専務との関係は終わっていたと考えられるということ。そして、監物さんと交際を始めた。でも、なぜか分からないけど、監物さんは専務との関係を知ることになった。そのショックが引きがねになって監物さんは自殺した」

「そのことが遺書に書いてあったんだろうね。それが公になると困る人物が第一発見者で、その遺書だけ抜き取ったんだな。専務との関係が公になると困る人物とは、まず、専務自身、それから、交際していた楢沢響子も公にはしたくないだろう。それに、専務の不倫現場の映像をコンピュータシステムに保存した奴だ。もし、それをネタに恐喝していたら、公になれば恐喝のネタとして使えなくなるからね」

「そうすると怪しいのは、その映像を保存した何とかっていう部長ね」

「早坂昭。この男が遺体を発見して、遺書を一通抜き取った。そう考えると、ここまでは辻褄が合う」

「それを確認できるかもしれない。取りあえず、システムダウンの前のデータは残っているので、それを見てみるね」

 瑪瑠理伊は、休憩室に置かれているモニターの前のキーボードを叩いた。門脇は、モニターは単なるテレビだと思っていたが、コンピュータシステムにも繋がっているらしい。

「システムダウンの時刻が、二時十一分十五秒。その一時間前からダウンまで、構内の建物から外に出た人がいるかどうかが分かればいいのよね。その時間の敷地内の建物の出入りの記録は全部残っているはず」

 モニター画面には、自殺した当日の社屋の名前と出入り口番号、インとアウト、時刻、社員番号の羅列が写しだされた。

「早坂部長の社員番号は51662だよ」

 門脇は人事情報にアクセスした時の、早坂の社員番号を覚えていた。

「どんぴしゃ、あたり。51662が中央棟の二番出口、一時四一分三十九秒に出ている。それもダウンの一時間前からだと、構内の建物から外に出たのはひとりだけ」

 これで早坂が構内に出て、遺体を先に発見したのは間違いなさそうだ。

「でも、何で夜中に、それも暗くて霧雨が降っているのに構内を歩き回ったのかな?監物さんが転落死したのを知っていたとは思えないし……」

「それがね。早坂部長はたばこを吸うんだ。たばこを吸う人間は、吸いたくなったら、雨の中でも吸いに行くもんだよ。構内の喫煙場所は、ゴミ集積場所にあるんだけど、そこから研究開発棟はさほど遠くない。夜中は静かだから、監物が地面に転落した音を聞いたのかもしれない。しかし、監物のパソコン内にあったワードの遺書も、彼女宛のものが削除されていた。遺書はプリントされていたから、パソコンで作られたものだと気づいて、、監物のパソコンデータも消す必要があると思った。そこまでは想像がつく。しかし、早坂部長がデータ削除までやったのか?」

「そこなんだけど、あの時間帯には、セキュリティシステムがダウンしていたから、研究開発棟に勝手に入りこんで、監物さんのパソコンを操作する。それは確かに可能なんだけど、その人物は、システムがダウンしていることを知っていなければならないのよ。早坂部長にしろ、システムとは関係のない部署の人間が知っているはずはないと思う」

「なるほどねえ。言われてみれば、システムダウンの話は後から聞いたことだね。研究開発棟はセキュリティが厳しいことはみんな知っているから、通常は入れないと考えるのが自然だね。そこに入りこんで、監物のパソコンを操作しようとは思いつかないだろうね。それを実行したのは、そいつがシステムダウンを知っていたとしか考えられないわけだ」

「システムに詳しい別の人間が関わっているということね。たとえば、早坂部長がシステムダウンがあったことを詳しい人間から電話で聞いたとしたら、どう? 研究開発棟に入ることを思いつくかもしれない」

「そうか、携帯電話か。システム詳しい人間に電話で聞いた。それなら、その後のことは早坂部長ひとりでもできそうだ」

「そう、誰かから聞いたのよ。でもね。システムがダウンしていることを聞いたというよりも、ダウンさせるやり方を聞いたんじゃないかな」

「どういうこと?」

「前にも話したことなんだけど、誰かが電源を切ったのよ」

 瑪瑠理伊によれば、あの夜システムダウンが起きたのは、やはり人為的な原因、つまり故意に電源を落としたとしか考えられないということだった。セキュリティのシステムダウンが起きた時、塀の外からの侵入者はいなかった。システム担当者も屋内にいて、構内を巡回している者はいなかった。そのことは、監視カメラの映像で間違いないという。それ以外の者がロックされた配電室に入り込むことはありえないので、疑問が解けなかったというのだ。

「配電室のロックは暗証番号で開く。それを電話で聞けば誰でも開けられる。その後のセキュリティシステムの電源の落とし方も電話で聞けば可能なのよ」

「そうか、そういう方法があったか。早坂部長は同じ方法で、つまり電源スイッチを入れてシステムも復旧させたっていうわけか。システムダウンさせたままほっておくと、電源スイッチを切ってダウンさせたことが後から分かってしまうから、自分でスイッチを入れたんだ。そうすれば、人為的にシステムダウンさせたことがばれないからね。でも、システムの復旧は五時頃だったよね。ダウンしてから三時間近くたっている。研究開発棟に忍びこんで工作したとして、そんなに時間はかからない。その後すぐに電源を入れて、その場を離れてもよさそうなものだけど、五時まで待ったのはなぜだろう?」

「それはね、セキュリティシステムを復活させれば、どこかの監視カメラに写るかもしれないし、中央棟に戻るにしてもその記録が残ってしまうから。中央棟から出た記録は消せないけど、システムが復旧した直後に、敷地内を歩いていることや中央棟に戻る記録は残したくないと考えたんじゃないかな」

「そうか。五時といえば、遺体が発見されて何人かが集まっている頃だから、その後の行動が記録されていても、おかしくないからね」

 瑪瑠理伊の話を繋ぎ合わせて、早坂の行動を推理するとこうなる。早坂は監物の遺体を発見し、その遺書の中に公にしたくない一通があった。そして、遺書がパソコンで作られたものだと気づいた。完全にその遺書を消し去るためにはパソコン内の楢沢響子宛の文書も消去しなければならないと考えた。そこで電話でセキュリティ担当者の指示を仰ぎ、配電室に入る。該当する電源を切り、セキュリティシステムをダウンさせて、研究開発棟に入り込んだ。あの夜、監物は仕事をしていたので、監物の机のあたりの電気だけは点いていたのだろう。研究開発棟のエレベーター付近には座席表もあった。監物のパソコンを探す出すのに時間はかからない。パソコンの起動にはアカウント、つまり監物の社員コードが必要だが、監物は直前までそれを使用していたのだから、パソコンも起動していた可能性が高い。早坂はその後の工作も容易にできたのだ。

 ここで重要なのは、警察が調べる前に監物のパソコンに触れた者が本人以外にもいたことだ。それがいないと決めつけたのは、研究開発棟に忍び込む者など想像しなかったからだ。早坂はそこで母親宛の遺書をUSBメモリーなどの記憶媒体にコピーしたのだ。そうすれば、後で霧久保のノートパソコンに落とし込むこともできる。今まで遺書の文面が流出することはないと考えていたが、出所はここだったのだ。しかし、早坂はなぜそのようなことをしたのだろうか? 後で何かに使えそうだとでも考えたのか? それともその時に、とっさに霧久保のノートパソコンに落とし込むことを思いつたのか? 

 霧久保はそのせいで、結果的に役員入りを逃すことになった。早坂の狙いがそこにあるとしたら、早坂はそれで何かの利益を得なければならないだろう。しかし、霧久保の処遇が早坂に何か影響を及ぼすことがあるとは考えられない。部長の早坂が切り久保の替わりに役員入りするなどということはあり得ないからだ。出世を長距離走にたとえれば、霧久保に比べ早坂は周回遅れであり、追いつくはずもない。無論、門脇も何周も周回遅れであり、それは皆、理解している。ということはやはり、霧久保に対して個人的怨みがあり、嫌がらせをしたかっただけなのかもしれない。

「システムに詳しい人が早坂部長の協力者だとして、その人は部長と親しいというか、共通する何か目的を持っている人。そして、楢沢さんと専務の映像を会社のシステムに落としこんだのも二人の仕業。きっと、そうよ」

 と瑪瑠理伊は自信ありげに言った。門脇もそう思った。すべて早坂とその協力者の二人の工作に違いないのだ。霧久保のノートパソコンに遺書の文章を落としこんだのも二人の合作なのだ。だから、早坂がノートパソコンを壊した時には、怪しいそぶりはなかったの。

「セキュリティセンターのシステムの担当者は、五人だったよね?」

「そう、菊池主任、私、その他に二人」

 菊池はそんなことをする人物には到底思えない。彼はD化学子会社の関東総合サービスで定期採用され、その一部門であるセキュリティセンターには八年前に異動になった。それまでコンピュータの知識などまったくなかったのだが、異動を知らされたと同時に自分で関係書籍を買って猛勉強を始め、かなりの知識を身につけたと聞いている。異動させた方は、制服警備員のまとめ係程度の仕事させると考えていたのだが、コンピュータシステムの知識も得たので、警備の総括と同時にシステムメンテナンスもこなすというセンター長に次ぐ立場になったのだという。本人も行く行くはセンター長になるという夢を持っており、仕事に対する意欲は並外れたものがある。ただ、いくらか杓子定規のところがあり、それが唯一の欠点だと周りには思われていた。そんな菊池が早坂の犯罪めいた手伝いをするとは考えられないのだ。

 すると、残りの二人のうちどちらかか? この二人はセキュリティセンターで採用されて一,二年で、二人とも二十代。給料は決して高いとは言えない。早坂に金でつられて協力するということは充分あり得る。

「二十代の二人は、最近金遣いが荒いなんてことある?」

 門脇はありふれた質問をした。

「何言ってんのよ。二人が関わっているなんてあるわけない。二人の教育係は私よ。二人ともまじめだけが取り柄なんだから。それに、早坂部長は偶然監物さんの遺体を発見したと考えると、その前からかなり親しい人間が協力したってことじゃない? こっちは別会社だから、人事も関係ないし、早坂部長と親しい人物なんていないと思う」

 瑪瑠理伊は門脇を睨んだ。よく考えてみれば、早坂は偶然監物の遺体を発見し、その後の工作に及んだのだ。金でつるとしたら、その前から遺体発見を予期して話をつけておかなければならない。それはあり得ないことだ。

「済まない。疑って」

 門脇が素直に謝ると、瑪瑠理伊はそれには応じず、急にふふっと笑い声をあげ、意味深長な目付きで門脇を見た。

「会社の規定に、部長級以上の管理職は会社貸与の携帯電話を常時携行しなければならないというものがあったでしょ?」

「そんなことまで、よく知っているなあ。確かに、そうなっているけど……」

 瑪瑠理伊は、もう一度、ふふっと笑って横を向いた。

「早坂部長の個人的なつきあいを知る方法がある……」

 瑪瑠理伊のITに関する知識と技術はかなりのものだ。門脇の頭にハッキングという言葉がすぐに浮かんだ。

 D化学では業務上必要と見なされる社員には携帯電話を貸与している。それには外回りの営業関係など固定電話では連絡が取りづらい業務にある社員と、すべての管理職が該当する。その内、部長級以上の役員、管理職にはどこにいても連絡ができるよう、その携帯電話を常に携行することを義務として課している。自然災害や火災、事故といった緊急時や、業務上、即座に連絡を取る必要がある場合に、会社貸与のものなら電話番号もメールアドレスも把握しているので連絡しやすいからである。そのため、本来私用のためには個人の携帯電話を使用しなければならないが、部長級以上のかなりの者が二台持つのは面倒なので個人所有のものを持っていない。携帯電話は数年前に所謂ガラケーからスマートホンに変わったが、部長級以上の中高年齢には、スマートホンの操作はいくらか厄介なものだ。会社のスマートホンの操作は部下が教えてくれるが、個人所有の場合は操作方法が異なるものもあり、若い者にいちいちそれを教わるのも気がひける。それに、そもそも会社の携帯電話は、料金はすべて会社持ちである。そのような理由から、携帯電話は会社貸与の一台しか持たないという者が多いのだ。門脇ですら、一応個人所有のものを勤務中以外は使用しているが、勤務中は、やはり二台の携帯電話を持ち歩くのは面倒なので、私用にも会社のものを使っている。

 会社貸与の携帯電話ならそのメールアドレスにウイルス付きメールを送信し、データを盗み取れば交遊関係も掴めるかもしれない。しかし、その電話番号とメールアドレスは、業務上関係があり、連絡が必要なその周りの社員しか知らない。その一覧表は情報統括室で管理しているが、それを見るのにはアクセス権限が必要だ。いくら瑪瑠理伊でも、アクセス権限を突破できるとは思えない。

 しかし、瑪瑠理伊の能力がどの程度なのか明確に分かっているわけではないので、絶対に不可能とは断言できない。それに、それは不正行為であることを明言しておく必要がある。ここはやはり、釘を挿しておいた方がいいだろう。

「不当な手段によって、他人の個人情報を盗むのは犯罪だよ」

「厳密に言えば、そうかな?」

 瑪瑠理伊の口元にゆがんだ笑いが見えた。

「厳密に言わなくても、犯罪だよ」

「でもね、社内情報を集約しているプログラムが動いていて、それにはきっと個人情報が含まれていると思うんだけど、それはどうなるの?」

「どういうこと?」

「最近、社内情報システムの中で、変な動きをしているプログラムがあるの。初めは、バックアップデータを作っているんだと思っていたけど、そうじゃないみたい。バックアップなら、サーバの中の決まった専門のところに集約されるはずだけど、そうじゃなくて、情報をコピーして、どこか別のところに集めてるみたいな動きをしているの。で、そのプログラムは、急に現れたり消えたりする」

「よく分からないけど、確かに変だね。ひょっとして、外部からハッキングされているということ?」

「正確にはクラッキングというんだけど、その可能性はかなり低いと思う。インターネットからのセキュリティは完璧だし、ウイルス系のプログラムじゃないから。社内のローカルネット内で、どこからか操作されているのよ、きっと。社内情報には個人情報もあるから、誰かがやっているとすれば、個人情報を集めているってことになる」

「ふーん、そうか」

 門脇にはコンピュータシステム内部のことは想像がつかなかった。瑪瑠理伊が言うのなら、そうなのかもしれないと思ったが、彼女がやろうとしている個人情報への浸入の言い訳をしているのだと感じた。それによって早坂の協力者が分かったとしても、不当な手段を用いることを許すわけにはいかない。

「いずれにしても、犯罪に問われるようなことはしては駄目だよ」

 瑪瑠理伊は下を向いて、こくんと頷いた。

 別の方法で早坂の協力者を割り出さなければならないが、門脇にはこれといってどうすればいいのか思いつくことはなかった。

「楢沢さんはどうしているんだろう?」

 門脇が考えあぐねていると、瑪瑠理伊がぽつりと言った。門脇は、はっとして言葉を呑んだ。

 そうだ。その後、楢沢響子はどうしているのだろう。門脇は犯人探しに夢中になり、彼女の置かれた状況を察するのを忘れていた。十日ほど前に楢沢響子が中央棟の屋上のパラボラアンテナの台座に昇ったのは、仕事に疲れたための気分転換ぐらいに考えていた。だから、彼女の上司にもそのことは伝えなかった。しかしそうでなく、理由は監物の自殺にあり、そのため情緒不安定に陥っていたのだ。最悪、彼の後を追って自殺するつもりだったかもしれないのだ。

 早坂に抜き取られた楢沢響子宛の遺書は、彼女に届いてはいないだろう。しかし監物の自殺の原因が業務の多忙が一因であるとしても、楢沢響子には自分自身の行いが引きがねになったのは充分理解しているはずだ。

「会社に来てるのかなあ?」

 瑪瑠理伊が呟いた。

 門脇よりも女の瑪瑠理伊の方が、楢沢響子の心理状態を鋭く理解しているのかもしれない。社員が自殺したら、門脇に一報が入る。今のところ、それはまだない。しかし、もし長期に休暇を取っていたとしたら、危険な状態になっていることを否定することができない。 

 出勤しているかどうかは社員情報にアクセスすれば分かることだが、上司である霧久保部長に会って、どんな様子なのか訊いた方が手っ取り早い。霧久保とは先日直接会って話をしているので、いくらか遠慮なく話すこともできるだろう。それに霧久保には、早坂と個人的に何か関係があるのか訊く必要があるのだ。

 ふと時計を見ると五時近くになっていた。終業時刻が迫っている。早く帰れる者は帰り支度を始める頃だ。部長職はそうはいかないだろうが、きょうやるべき重要な仕事は終わらせているだろうから、今がちょうどいい時間帯かもしれない。

門脇は勢いよく立ち上がり、瑪瑠理伊に「話が進展したら、教えるよ」と言い残してセキュリティセンターを後にした。

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