第13話 盗撮の犯人

 門脇は自席に戻り、パソコンを起動した。何通か社内メールが来ていたので目を通すと、その中に研究開発部の睦月三郎のものがあった。睦月とはロケット打ち上げの時に話をしたが、それ以来音沙汰はない。メールには「監物の件で何か目新しいことが分かりましたか? こっちもできる限りやってみます」とあった。睦月も気になってはいるようだ。何を「できる限りやってみる」のか見当もつかないが、とりあえず、「何か進展があったら、お知らせします。そちらも何かありましたら教えてください」と返信しておいた。

 時計を見ると、お昼の休憩時間に入っていた。周りは階下の食堂に行ったようで、人はまばらだった。こういう時の方が、社内人事情報にアクセスするには適している。人事秘密もあるので、周りに人がいると気になってしまう。人事情報の中で門脇にアクセス権限がないのは、個人の上司による能力評価欄などの人事異動を行う際の資料関係、つまり人事秘と呼ばれるものだが、それは今回は関係なかった。門脇は何回かキーボードをたたき、社員の社内履歴に辿りついた。そこには休暇の取得日や出張の履歴なども載っている。これらは労務管理上必要で、門脇にもアクセスできるものだった。

 まず、菅崎専務の休暇を見てみることにした。当然のことだが専務は役員なので、一般社員の休暇とは扱いが異なり、有給休暇などというものはない。言ってみれば、業務を勘案しながら好き勝手に休めるのだが、どこに行っているのか分からないというのでは困るので、役員秘書が出張や休暇を入力することになっていた。その中の昨年の九月の部分を見ると、門脇は、やはりそうかと思った。

 菅崎は、九月十二日から十七日、休暇ではなく、中国の上海に基礎化学事業本部の二人の部長と課長クラスを四人引き連れて出張していた。上海からマカオはさほど遠くない。業務は中国企業との事業提携の交渉となっているが、専務ともなれば、二人の部長に「専門的なことはきみらで頼むよ」と言って、私的な時間をつくることは充分可能だ。

 楢沢響子の方を見ると、やはり九月十五日から十七日の三日間、年次有給休暇を取得していた。これで辻褄が合う。二人は別々にマカオに行き、落ち合ったということだ。

 問題は、二人を撮影した者は誰か、ということだが、先ず考えられるのが、専務に同行した部下が専務の私的な行動を尾行し、密かに撮影したということだ。しかし、それは実際には考えづらい。専務が自分を尾行するような、自分にとって都合の悪い行動をとるような部下を出張に連れて行くことはあり得ないからだ。それ以前に、自分に反感を持っている部課長クラスなら、本社からどこか地方か海外へ飛ばしてしまえばいい。菅崎専務は人事担当役員でもある。社員、つまり取締役以外の人事は、彼の専決事項なのだ。

 二人を撮影した者がわが社の社員ならば、その時期に休暇を取得しているに違いない。門脇はとりあえず、本社社員三千五百名のうち、昨年の九月十六日に休暇を取得していた社員を検索してみた。結果は十八名だった。しかし、この中でマカオに行っていた者がいるかどうかはまったく見当がつかない。門脇は腕を組み何か方法はないか考え込み、ふと気がついた。管理職は休暇の申請時に、海外旅行に行く予定があればその予定を申告する規則になっている。これは、会社の緊急事態の際に管理職の連絡網を確保するためのもので、海外に行っていれば、非常時でもすぐには会社に呼び寄せることができないことを予め知っておく必要があるからだ。といっても、実際に予定どおりに行動していたかどうかを確認しているわけではないので、申告したとおりではない者もいるのかもしれない。

 該当する管理職は二人いた。ひとりは資材部第二調達課長山野薫、行き先は北欧三カ国となっていた。九月だから月遅れの夏休みなのだろうが、優雅な者がいるものだと門脇は思った。そして次に画面を大きく下にスクロールして、もうひとりの該当者の名前を見た時、門脇は当たりくじを引いたような感覚を覚えた。勤務記録を調べたのは正しかった。そこに、石油化学事業本部ポリエチレン事業部長早坂昭の名前が現れたからだ。それも行き先が香港となっている。香港ならマカオのすぐ隣だ。早坂は切久保のノートパソコンを壊した人物だ。そのノートパソコンと会社のコンピュータシステムのプログラムファイルに、あり得ないものが発見された。こんなことは偶然ではない。

 早坂は香港旅行のついでにマカオに寄った。そこで、偶然にも菅崎専務と楢沢響子の密会を目撃し、撮影した。そしてその動画を何らかの目的で会社のシステムのプログラムファイルに紛れこませた。おそらく、そういうことだろう。同じ発想から、霧久保のノートパソコンにも監物の遺書と同一の文面を紛れ込ませた。そのために、そのノートパソコンを霧久保の手元から離す必要があったのだ。F電機の田中によれば、ぶつかって床に落ちたノートパソコンは、電源を入れれば何とか起動する状態だったという。早坂がノートパソコンにワードで作成された遺書の文面を忍び込ませることもできたのではないか。そして第三者に、この場合F電機の田中だが、プログラムファイルに紛れ込んだものを発見させるために修理を依頼した。

 分からないのは、早坂がどうやってワードのデータを手に入れたのかだ。母親宛の紙の遺書は、門脇が直接母親に渡した。監物のパソコンのデータは警察の立会いの下で、門脇が消去した。早坂がそのデータを持っているはずはないのだ。

それにしても、早坂とはどんな人物なのか? 

 人事情報を見ると、石油化学事業本部ポリエチレン事業部長、早坂昭、四十八歳とある。最終学歴は東京の私立大学の工学部、元々技術系の社員だ。顔写真を見ると、見かけたことはあるかもしれないという程度で、門脇に確かな記憶はなかった。黒ぶち眼鏡をかけた、どこにでもいそうなこれといって特徴のないサラリーマンといった顔つきだった。

 部長に昇格したのは昨年の十月になっていた。その前は、この事業部の製品第二課長を二年間務めている。第二課長の前もポリマー事業部の製品課長を五年間、さらにその前は、浜松工場で原料加工課長を五年。トータルで課長職を十二年も務めたことになる。課長に昇進したのが三十六歳だから、いくらか早い昇進だったかもしれない。しかし、課長職を長く務めた者が、部長に昇格する例は珍しい。課長に任用されたのはいいが、その上の部長などから課長止まりの能力しかないと判断された場合が多い。これには、たまたま人間的相性が悪く、単に嫌われた場合もあるので、本当に能力がなかったのかどうかは分からない。課長昇進時にそういう評価を受けると、それがその後もついてまわる。いずれにしても、そういう場合は定年を課長で迎えるのが一般的だ。万年課長という言葉があるくらいだ。良くて、定年直前に次長昇格程度だろう。にもかかわらず、早坂は万年課長から一転、部長に昇格している。それも、次長職を経ないでだ。

 動画が撮影されたのが九月で、一ヵ月後に部長に昇格したことになる。D化学の人事異動の時期は、六月の株主総会を経て役員が確定し、それに伴って一般社員が動く七月が最も多い。一〇月の異動もなくはないが、その時期に定年退職や病気によって欠員が生じる場合がほとんどだ。早坂の場合も、部長ポストに空きが生じたのをいいことに、菅崎専務の力を借りてすべりこんだ。そう考えて間違いないだろう。

 しかし、早坂が作為的に霧久保のノートパソコンを壊したのなら、どこか不自然なしぐさがあるのではないか? その場面を目撃して、コンプライアンス委員会宛にメールを送ってきた女性社員がいる。そのメールを読んだ時は、早坂に対する日頃の不満をぶつけているだけだと考えて、そのままにしておいたのだが、状況を詳しく訊いてみる必要がありそうだ。メールの発信は会社の端末が使われているので、発信元を突き止めるのは簡単だ。

 門脇はひきだしからコンプライアンスメールをプリントしたものを取り出した。印刷面の上部に発信者のメールアドレスが印字されている。全社員に割り当てているメールアカウントリストから、発信者は早坂の部下で鵠沼久美子という三十八歳の女性社員であることがすぐに分かった。

 門脇はお昼の休憩時間が終わるのを待って、ポリエチレン事業部に電話した。鵠沼久美子はすぐに電話口に出た。電話口の相手は、総務部からの社内通話に「何のご用ですか?」と突慳貪に答えたが、コンプライアンス事務局だと告げると、急に態度が改まり、ひそひそ声を出した。門脇が三階にある各部共用ミーティングルームで話を訊きたいと言うと、鵠沼久美子は素直に承諾した。

 ミーティングルームに現れた鵠沼久美子は、おどおどして落ち着かない様子だった。

「あのメールは無かったことにして下さい」

 鵠沼久美子は椅子に腰を降ろすなり言った。

「どういうことですか?」

「密告するようなことをして申し訳ありません。あの時は、ちょっとだけですけど、許せないような気になって、つい……」

 早坂がノートパソコンを壊したことが、告発されるほどの行為ではないことを理解しているようだ。

「あの、このことは分かっちゃんでしょうか? メールしたことが早坂部長に知られちゃうんでしょうか?」

 と鵠沼久美子は怯えたような声で言った。どうやら、悪口めいたメールをしたことを、上司に知られるのを恐れているらしい。

「あなたからコンプライアンスメールがあったことを、早坂部長に知られることは絶対にありません。安心してください」

 門脇は、早坂の行為が会社の懲罰規定に触れるとまではいえないこと、鵠沼久美子のメールの意図は理解していること、したがって特に問題になることはないことを説明した。もとより、コンプライアンスメールの発信者を明かすことはあり得ないことだと強調した。鵠沼久美子は、不安な表情を一変させて安堵の表情を浮かべた。

「きょうお呼び立てしたのは、上に報告書を上げなければならないので、形式的にお聞きするだけです。特に問題はないということを上司に説明するために、お聞きするだけです。目撃したことをそのままおっしゃっていただければ、それで結構です」

「はい、分かりました」

「早坂部長がノートパソコンの持ち主にぶつかったことなんですが、その時の様子はどうでした?」

「部長は部下と大きな声で話をしながら歩いていて、ぶつかったんです。部長は部下の方を向いていたので、前から来る人に気がつかなかったんだと思います」

「歩き方がいつもと違うというようなことがありましたか?」

「そうですね。少し早歩きだったと思います。でも、部長はいくらかせっかちな方なので、そういう歩き方をしてもおかしくはありません」

「そうですか……。壊れたパソコンを、部下に命じて修理に出させたということですが、その時、変わった様子とかはありませんでしたか?」

「ええと、あの時は、部下の西山くんが、あっ、部長と一緒にいたのが西山くんです。西山くんが慌ててパソコンを拾い上げました。西山くんはパソコンの側面から何か飛び出していたので、中に押し込もうとしていました。部長よりも西山くんの方が慌てているように見えました。可愛そうに、自分のせいではないのに、相手の海外営業部の部長さんに泣きそうな顔で頭を下げていました。すると、早坂部長はすぐに修理に持って行けと、その場で命じたのです」

「早坂部長は、パソコンを点検しなかったのですか?」

「ええ、部長はパソコンにはまったく触りませんでした」

「触っていない?」

「はい。早く修理に持って行けと西山くんに大きな声で言って、海外営業部の部長さんに申し訳ないと腰を大きくかがめて謝罪してました。西山くんは頭をペコペコさせながら、パソコンを持って走って行きました」

「そうですか……」

 早坂が触っていないのならば、その時点では、早坂はパソコンに細工を施すようなことはしていないということになる。

「海外営業部の若い部長さんは、穏やかに笑みを浮かべて、ノープレブレムとか言っていましたが、英語を使っても気障には感じられないほど、とても紳士的な方でした。ああいう方が上司ならば、下の者はやりやすい……。いえ、すみません、余計なことを言いました」

 鵠沼久美子は下を向いて頬を緩めた。

「でも、随分細かいことを訊くんですね。警察みたいに……」

 鵠沼久美子は門脇の顔を下から覗くようにして言った。

「いや、あの、これで充分です。うまく上司に説明できます。ありがとうございました」

 門脇は「警察みたいに」という言葉に、少し慌てて、自分から先に腰を上げた。総務部の社員が何か嗅ぎまわっていると思われたら、印象を悪くする。兎に角、早坂がぶつかってノートパソコンを壊した時には、怪しいそぶりはなかったことは分かった。

 鵠沼久美子はミーティングルームを出ると、門脇と会っていたことを他人に見られるのを恐れるかのようにそそくさと歩きだし、ちょうどやってきた階上行きのエレべーターに乗り込んだ。少し遅れて門脇もエレベーターの前に行き、階下への矢印ボタンを押した。数秒待って扉が開き、ひとり先に乗っていた男と顔が合った途端、門脇はあっと声を上げそうになった。その顔は先ほど人事情報の写真で見た早坂本人のものだった。

「乗らないのかね?」

 早坂は荒々しい声を出した。

「すみません」

 門脇は頭を下げて乗り込むと、扉横の行き先ボタンの前に早坂に背中を向けて立った。

 エレベーターが一階に着くと、門脇は扉の開きボタンを押したまま、早坂を先に降ろした。早坂はエントランスホールの北側にある社員通用口に向かった。後姿を何気なく眺めていると、肩を怒らせながら歩いていた早坂は、上着のポケットからなにやら白い箱を取り出した。門脇は早坂がどこに行くのか、すぐに想像がついた。総務部に戻るつもりでいたのだが、後を追うことにした。早坂という人物を観察できる機会がやってきた。

 社員通用口から出て中央棟の壁に沿って十数メートル歩くと、ゴミ収集場所がある。そこにはゴミ収集用の分別できる大きな金属製の箱があり、その隣に本社敷地内で唯一喫煙が許可されている場所があるのだ。早坂がポケットから取り出したのはたばこだった。喫煙者は早く吸いたいという思いにかられ、喫煙場所の着く前に無意識にたばこを先に取り出してしまうことがあるのだ。

 早坂は、二台のスタンド式灰皿の前で宙に向かってゆっくりとたばこの煙を吐いてた。門脇はそこに近寄り、上着のポケット探るしぐさをした。

「ちぇ、デスクに置いてきちまった」

 門脇がそう言うと、早坂はにこりと笑い、吸っていたたばこの箱を差し出した。

「よかったらどうかね?」

 箱にはセブンスターの文字があった。

「ありがとうございます」

 門脇が箱から一本取り出すと、早坂は今どき珍しい高級そうなライターをカチッと鳴らし、火を点けてくれた。

「きみも愛煙家仲間か。近頃は肩身が狭いな。しかし、こうしてたばこをじっくり味わっている時間だけは厭なことを忘れていられるような気がする。そう思わんかね?」

「そうですね。そんな気がしますね」

 門脇は話を合わせた。門脇は、今はたばこを吸わなかった。もう禁煙して十年以上になる。久々に煙を吸い込むと、軽い眩暈がしそうでとても味わうというようなものではなかった。

 早坂は人事情報の写真よりも少し太り、首まわりに肉がついて二十顎になっていた。門脇のことは、どこの部門の社員だか知らないようだっだ。

「この喫煙場所もなくなるという話があるらしいが、聞いたことはあるか?」

「経営企画部に社員健康増進グループというのがあって、そこが敷地内全域を完全に禁煙にすると決めたらしいです。この灰皿も近いうちに撤去されるみたいです」

 早坂の口調は、初対面としてはぞんざいな言葉遣いだった。門脇を自分より年少で、職階も下だと見ているせいなのだろう。霧久保のノートパソコンを壊した件でコンプライアンスメールを送信してきた鵠沼久美子は、「いつも部下には、口やかましい」と書いていた。相手との上下関係を異常に重視するタイプのサラリーマンということなのだろうか?

 この男が菅崎専務と楢沢響子の密会を撮影し、その動画を会社のシステムに落としこんだ。それと同様に、どうすればそれが可能なのか分からないないが、霧久保のノートパソコンにも監物の遺書と同一の文面を紛れ込ませたのではないか? 目の前の相手に直接問いただしてみたい気もしたが、確かな根拠もあるわけではないのでそうもいかない。遠まわしに匂わせるようなことを尋ねてみようとも思ったが、そのあたりのいい考えが浮かばなかった。

「全面禁煙ということか。世の中の流れには逆らえないな……」

 早坂はそう言い残し、たばこを灰皿の端でもみ消すとその場を去った。早坂のゆっくりとした足取りの後姿は、何か勝ち誇っているようにも見える。この男が一連の企みに関わっているに違いない。その企みは、人に知られずうまく進んでいるようだ。そう思うと、早坂の背中からふふっという笑い声さえ聞こえてくるような、そんな気がした。

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