第10話 霧久保の素顔 

 門脇は自席に戻り、霧久保部長に電話で、これからノートパソコンをお届けしますと告げたが、それも少し億劫になってきた。自分が届けると言った時には、霧久保にまだ訊きたいことがあると思っていたのだが、山瀬から役員人事の話を聞いてからは、それも無駄なような気がしてきたのだ。結局、霧久保の役員入りは遠ざかった。彼のパソコン内にあった遺書のせいで、そうなったといえる。もし仮に、監物にまつわる奇妙な出来事が、この役員人事に関係していたとするならばどうなるのだろう。ありふれた推理では、利益を得た者が仕組んだ仕業だということになる。しかし、今回の人事では霧久保に不利益があったというだけで、誰かが利益を得たとは言えないだろう。菅崎専務の次期社長が確立したとも考えられるが、次期社長への道筋は、以前からあった既定路線上のものだ。霧久保の役員入りがどうであれ、それは決まっていたのだ。また、霧久保を嫌っている者が、彼の役員入りを阻止したとも一応は考えられるが、そのためにトリックを使ったというのは、あまりにも荒唐無稽なように思える。出世の早い者が嫉妬心から憎まれることは想像できるが、この不可解な出来事を仕組むほど、人を憎むなどとは考えられない。

 結局のところ、さまざまな不可解なことの真相がどうあれ、社長の決断が覆ることはないだろう。専務の言うとおり、妙な噂も時間が経てば消えてしまうだろう。紺野も「真相は分からんといういうことで終いやな」と言った。そのとおりだ。コンプライアンス事務局へのメールから始まって、監物の死には奇妙なことが湧き出てきた。しかし、それも分からずじまいで終わるのだ。山瀬は社長からの命令だから、分かる範囲でいいから調べろと言うが、何をどう調べろと言うのだ。門脇が調べられるわけはないのだ。今さら、身に覚えがないと言う霧久保に話を訊いても無駄だろう。彼には、ただノートパソコンを届けるだけにしよう。

 海外営業本部は、石油化学や基礎化学といった会社の中核となる事業本部のさらに上の階の、関連事業部門も入る十二階にあった。ドアを開けると、第一部から第五部まで十数列の机が整然と並べられていた。その中央付近に座っていた霧久保が、ドア付近で部屋の中を見回していた門脇の姿を先に見つけ、軽く右手を上げて手招きした。電話で外国語を話している男子社員の脇を通り門脇が近づくと、霧久保は立ち上がり、「わざわざ届けていただいて、ありがとうございます」と言って、深々と頭を下げた。

「いえ、それ程のことは……」

 門脇は、相手の丁寧すぎる態度にやや恐縮し、言葉に詰まった。すると、霧久保は笑顔を見せて、さらに意外なことを言った。

「お礼言っては何ですが、お急ぎでなければ旨いコーヒーでも飲んでいきませんか?」 

「いえ、その……」

「自分から旨いと言うのは変ですが、本当に旨いんですよ。急いで淹れますので、あちらで、待っていてください」

 霧久保は返事も聞かず、応接室を指差し、フロアの隅の給湯室に向かって歩き出した。

 変わった男だと、門脇は思った。部長でありながら、コーヒーを頼むと女性社員に出させるならともかく、自分で淹れるつもりなのだ。

 取り敢えず部長席にパソコンを置き、応接室で待っていると、霧久保がポットやカップやらを盆に載せて現れた。

「フランスのコーヒーは飲んだことがありますか?」

 門脇が否定すると、霧久保は手馴れた手つきでカップにコーヒーを注ぎ、言葉を続けた。

「フランスのコーヒーといっても、勿論フランス産の豆という意味ではありません。フランスがかつて殖民地にしていたか、或いは強い影響力をもっていた北アフリカの豆を、フランスでブレンドしたものという意味です。そのブレンドが、私には絶妙と思えるんですよ。今朝、成田に着いて、今封を切ったばかりですから香りが違うでしょう?」

 フランスに主張に行った土産がコーヒーの豆というわけだった。給湯室から豆を挽く音も聞こえたから、霧久保はコーヒーミルも会社に持ち込んでいるらしい。確かに、香りは極上に思えたが、味の方の良さは門脇には分からなかった。

「門脇さんも、私を疑っているのですか?」

 コーヒーカップを口に当てていた門脇に、霧久保が唐突に訊いてきた。カップの渕が歯に当たり、ゴツッという音がした。

「どういう意味ですか?」

 門脇は訊き返した。

「監物さんの自死に、私が何か関与したのではないか、そう思っているのではないかと。会社の中で転落死の報告者を書いた門脇さんが、状況を最も詳しく知っているのではないかと思いますが、その門脇さんがどう思っているのか、お聞きしたいと思いまして」

 霧久保はまっすぐ門脇の眼を見つめていた。疑ってなんかいませんよ、と答えようとしたが、霧久保に見つめられていると、なぜか正直に答えなければいけない気がしてきた。霧久保の眼は、自分の身に一体何が起きたのか知りたい、そんな眼をしていた。

「監物さんが亡くなったあの日に、セキュリティシステムの障害があって、殺人ではないかという噂が社内で流れた。そして、今度のパソコンの件が起きた。監物さんと仕事をなさっていた霧久保部長が、何か関係しているのではないかと正直思いました……」

 門脇はこれまでの不可解な経緯を説明し、自分以外にも霧久保に疑惑を持っている者がいるのではないかと思うと告げた。

「そうですか。しかし、私には潔白を証明することはできない。そのせいで取締役会での次期人事で、私の役員入り内定はお預けになりました」

「ご存じだったんですか?」

「ええ、森川副社長からさっき電話をもらいました」

 森川副社長とは霧久保の上司にあたる海外営業本部長のことだ。この副社長は、いくつかの事業本部長などの役職を兼務している。考えてみれば、副社長からその旨の一報があってもおかしくはない。

「残念でしたね」

「残念と言えるかどうか。正直なところ、私はそれほど望んでいる訳ではないんですよ」

「え?」

 霧久保は静かに笑みを浮かべていた。

「取締役員入りはありがたい話ですが、そうなるとだんだん現場の仕事から離れて、会社経営のために全体を見る仕事になって行く。私はそういう仕事に今のところ、あまり興味を持っていないんです。今の仕事は私にとって充分面白い。私の能力を買って頂いた会社上層部の人たちには申し訳ないと思っていますが、今の仕事をもう少し続けたい、そう思っています。それが私の希望です」

「そうですか」

 門脇には、俄かには信じられない話だった。酒席で「出世などどうでもいい」と言い放つ者は沢山いる。しかし、「どうでもいい」のではなくて、本人がどう思おうと出世しようにもできないのが本当のところなのだ。「偉くなると忙しくなる。平のままでいた方が、のんびりできていい」とも言う者もいる。しかし今どき、「平のままで、のんびり」などとさせておく会社はない。むしろ、下位職種にいけばいくほど、仕事の量は多い。それは、上位職種ほど質の高い仕事をしていると見なされ、下位は質より量でこなせという意味合いがあるからだ。それに耐えられなければいつ辞めていただいても結構です、というのが普通の会社なのだ。霧久保は、門脇の今まで会ったことのない人物のようだ。

「ところで、少し失礼な質問ですが、霧久保さんはなぜD化学に入社を希望したんですか? 語学に堪能で、フランスに留学までしている。外務省とか、あるいは総合商社とか選択は色々あったと思うんですけど」

 門脇が以前から一度訊いてみたかったことだった。

「それについては何度も訊かれたことがありますが、答えづらい質問ですね」

「すみません。つまらないことをお訊きしました」

「いや、かまいませんよ。お答えするには、少し長くなりますが。私には子供の頃からフランスへのほのかな憧れがあって、大学でフランス語を勉強しました。パリの大学院に進んだのも、その憧れの延長のようなものです。パリでは、社会学の中でフランス文化論を中心に学びました。日本に帰って来た時には、母校の大学に助手か講師としての口を斡旋してくれる人もいました。あるいは、別の大学院で博士課程に進むという選択肢もありました。しかしその時、私は本腰を入れて学者の道を選ぶという気持になれなかった。学問を志すには、それなりの情熱がなければなりません。それなりのというより寧ろ、迸るような情熱がなければならないと言うべきでしょう。しかし、私にはそれがなかった」

 門脇は下を向き、黙って聞いていた。霧久保の声は、少し低音でNHKのアナウンサーのように、聞いていて心地よいものだった。穏やかで、欧米風のややオーバーな手振りで話す姿に、門脇はふと、自分が女だったらうっとりしてしまうかもしれない、とさえ思った。

「正直に言って、今でも私には自分の進むべき道というようなものが掴めないのですよ。他の人はどうなのでしょうか? 自分が本当は何をやりたいのか、今だもって本当に分からない。語学を活かして、例えば外務省に入る。それも選択のひとつではあったのですが、外務省に入って特別にやりたいことがあったわけではない。だから、そういう選択はしなかった。しかし就職しなければ、生計はなりたちません。そこにたまたまD化学の就職口があった。給与面も含めて、悪い労働条件ではなかった。だから、入社した。こういうふうに説明するしかないのです」

 霧久保の話はいくらか唐突だった。門脇とは親しいどころか、ふたりで話をしたのは初めてと言っていい。少なくとも門脇の方の心の扉は開いてはいない。それにも拘わらず、門脇の方から訊いたこととはいえ、いきなり心情を吐露されるとは思わなかった。自分の潔白を印象づけるために、欲得で動く人間ではないと強調しているのだろうか? どうも、そうとも思えない。作り話には聞こえなかった。門脇は、結局のところおれだってあなたと同じだ、就職活動でD化学に採用された、だから入っただけだ、別にどこでも良かった、と霧久保の話を聞きながら考えてしまっていた。

 霧久保を三国志の諸葛亮孔明のようだと評する者がいた。それは、彼が頭脳をフル回転させて、最適な方策を導き出し、実践することからくるのだろう。三国志という激動の時代の話から、天下を制定したいというような野望を持った人物というイメージを持ったが、そうではないのだ。それは会社という組織の中で、何が何でも出世という階梯を上昇しようとする人物ではないということだ。

 門脇は、霧久保に一種の憧憬を感じた。それは霧久保の端正な容姿や心地よい声からくるのか、それとも彼の淹れてくれた極上のコーヒーの香りからくるのか、自分では分からなかった。

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