第9話 社長の裁定

 門脇は総務部の自席に戻った。見ると机の上に厚生労働省安全衛生部からの分厚い通知文が載っていた。各担当者宛の文書は、同じ総務部の文書係が各自の机の上に配布していく。文書係は新入社員にやらせているが、こういう仕事は数十年前からあり、デジタル時代の今でもすべてがメールに置き換わっているわけではないので変わることはない。表紙に各事業所安全衛生担当者殿とあり、安全衛生部長の名前と印が押してある。規則の改定の通知のようだ。毎度のことだが、役人は文書さえ出せば、すべてを知らしめたことになると思っているらしい。文書が分厚くなっているのは、関連する法律と通達が本文の後ろに長々と続くからだ。知らなかったでは済まされないので、目を通したが頭に入ってこない。霧久保に届けるノートパソコンの遺書の文書ファイルを消去し、これから持って行こうかとも思ったが、何となく後にしたい気分だった。しばらく机の上で頬杖をついていると、意外に早く、総務部長の戻ってくる姿が見えた。

「どうなりました?」

 部長席に近寄り、声をかけると、山瀬は小会議室へ行けと目配せをした。

 門脇が先に行って待っていると、すぐに山瀬が入ってきた。

「それがな、やはりと言うべきか……」

 山瀬は小会議室のドアが閉じきらない前に話し出した。

「霧久保部長の取締役入りは、見送りになった」

「と、おっしゃいますと?」

「霧久保を現地法人のD化学ヨーロッパの社長に就けるそうだ。前々からD化学ヨーロッパは小さすぎるので、資本増強して大きくする計画はあったそうなのだが、それを今秋十月に実施する。その社長に霧久保を就けるということだが、下準備もあるので、九月一日付けで就任させるそうだ」

「それでは、栄転のようにも見えますが……」

「そうだな。取締役などという話を聞いていなければ、順当な人事というように見える。栄転と捉える人もいるだろう」

「しかし、本社から遠ざかるという意味もありますね」

「それが、社長の判断ということだろう」

「どういうことです?」

「分からんか? 霧久保の任期は恐らく三年ぐらいだ。三年もあれば、この妙な噂も消えてしまうに違いない。このまま本社にいれば、霧久保への噂も大きくなるかもしれないが、海外に行けば、結構早くみんな忘れてしまう。人の噂など、そんなものだ。それから呼び戻せばいいということだ。役員になるまで三年間の回り道になるが、それもやむを得まい」

「そうですか。で、そのほかの役員人事はどうなったんですか?」

「うん、それなんだが、社長は概ね留任させる、と言うんだよ」

「概ね、ですか」

「そう言ったんだ。おれもどういう意味か疑問だった。すかさず、菅崎専務が訊き返したんだが、社長は、後で分かることだと答えたきりだった。確かに、午後からの臨時取締役会ですべて分かることには違いない。しかし、専務も取締役なんだから、専務にはそこで告げてもよさそうなもんだ」

「妙ですね……」

「そうだ。妙なんだよ。それにな。社長室を出ると、情報統括の鳥井が部屋の前にいて、おれたちに気づくと頭を下げた。専務は鳥井に何の用で社長に会うのか訊こうとしたが、鳥井の奴はそれを無視するように社長室に入って行った」

「何かの情報を伝えに行ったんですかね?」

「まあ、そうなんだろうな。鳥井の仕事は情報を扱っているんだからな。しかし、祖組織上、情報統括はコーポレートガバナンス担当の専務の下にあるんで、専務に無断で動くのはおかしい。鳥井の奴は何を考えているか分からんよ」

「人事と関係があるんでしょうかね?」

「そうかもしれん。社長の、概ね、という言葉と関係があるのかもな。専務もそれについては把握してないようだ。専務は、いずれにしても社外取締役が変わること以外は、概ね留任ということだろうと言っていた。社長も勇退せず、とりあえず一年間は概ね今のままで行くということだ。勿論、正式には午後から開かれる臨時取締役会で決まるのだが……」

「わが社はやはり、人材不足なんですかね?」

「そうだな。たとえば鳥井だが、あいつは頭は切れるが、性格に難がある。だから、人望がない。長所があると短所がある。そういう奴が多いということだろう。菅崎専務や霧久保ほどの卓越した人材は、他にはいないということだよ。それにな、おれにはよく分からんが、社長の考えでは、組織には卓越した人材と、それにほど良く従う者がいれば、うまく回るそうだ。むしろ卓越した人材が二人以上いると、船頭多くして舟、山に登る、となるらしい。会社役員も同じことで、卓越した人材がひとり、それに次ぐ人材が数人、残りはほどほどの能力があればいいそうだ。近い将来の卓越した人材として霧久保が抜擢できなければ、他のそれに次ぐ人材を選んでも意味はないということらしい」

「そんなものですか」

「それよりな、うちの会社も来年から、CEOとかCOOとかの英米由来の役員名称を使い、役員組織の大幅な変更をするそうだ。その組織変更の責任者を菅崎専務に頼むと、社長は言っていた。菅崎専務の管掌はいわゆるコーポレートガバナンスなので、当然と言えば当然なのだが、社長は、その時はおれはいないので、専務にすべて任せるとまで言っていた。渋沢福社長のことは名前も出なかったよ。いずれ菅崎専務の天下が来るのは分かっていたが、社長の言い方は事実上の政権移譲みたいに聞こえたよ」

「何か急に、社長は少し投げやりになったような印象を受けますが?」

「専務に聞いた話では、最近になって、社長には出身銀行に戻れるツテができたそうだ。それも、副頭取クラスで戻るという話らしい。銀行協会の理事も兼務するという話もあるそうだ。出身銀行はメガバンクだから、うちの会社とは比べものにならないぐらい大組織だ。製造業で社長として経営を八年。そろそろ専門の金融に戻り、もう一花咲かせたいという気持なんだろう」

「それで、気持ちはもう戻った先の方に行っている、ということですか」

「そうかもしれんな。いずれにしても、中目黒社長の時代はそろそろ終わり、菅崎次期社長の時代がいよいよ始まるわけだ」

「いよいよ、菅崎次期社長の時代ですか。でも、菅崎専務は部長のことを信頼しているでしょうから、部長にとっても悪い話ではないですよね……。」

「おれのことか? おれは専務とは何とかうまくやっているから、お前の言うとおり、専務が社長になるのは悪い話ではないな。さっきも、専務はおれに力を貸して欲しいと言っていた。うまくいけば、常務クラスに引き上げてくれるのかもしれない」

 山瀬は神妙な顔をして話を続けた。

「おれは思うんだが、菅崎専務の最も優れているところは、人の能力を見抜く力じゃないかな。専務がこれまでどこの部門でも好成績を上げてこられたのは、部下の力を見抜いて、ちょうどうまく使ってきたからじゃないかと思う。ということは、おれの能力も見抜いているのだろう。おれが大した能力を持っていないのは、おれが一番知っている。それでもおれを重宝がって使ってくれるのは、おれが臨機応変に誰とでも合わせられるタイプだからだ。おれがここまでやって来れたのも、そのせいだろうと思っている。おれのように特に優れたところないサラリーマンは、そうでないとこの世界を泳いではいけないんだ。お前もその辺はおれを見習えよ」

山瀬は笑い声を漏らした。

「それから、監物にまつわる妙な噂やパソコンの件といった奇妙な出来事の真相のことだが、門脇、分かる範囲でかまわんから、お前が調べてくれ。社長から命令された手前、一応報告しなきゃならん。他に頼める人間はおらんのだ。頼んだぞ」

 山瀬は門脇の肩を敲いた。

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