第6話 ノートパソコンに遺書が……

 その日の夕方、門脇はセキュリティセンターの主任の菊池に電話で呼び出された。菊池の用件はここのところ碌なことがない。門脇は後にしてくれと言ったが、相手は緊急だと言う。

 セキュリティセンターに出向くと、菊池が待っていて、地下室に案内された。地下室は二十メートル四方はありそうな大きな部屋で、たくさんの電子機器が並び、何に使うのか想像もできない多くの工具が整然と据え置かれている。部屋の隅の方には、机と椅子が十組ほど向かい合って置かれていた。

 そこに、センター長の紺野晴男が座っていた。脇には、D化学のコンピュータシステム全般を納入しているF電機の作業服を着た男が立っている。紺野の座っている机の上には、ノート型パソコンが置かれていた。

「お忙しいところをご足労いただいて恐縮です」

 紺野はそれまでノート型パソコンに向けていた顔を上げた。言葉遣いは相変わらず丁寧だが、表情は今までになく険しかった。

「ご用件は?」

と門脇が訊くと、

「まあ、お掛けください。すぐに、総務部長もおいでになります」

 と、椅子に座るよう促した紺野の声は、数日前に会った時の関西訛りのねっとりとしたものとは異なり、硬く乾いていた。

 門脇は紺野の向かい側に腰を下ろした。紺野は眉間に皺をよせ、閉じられたノートパソコンをじっと睨んでいた。紺野は総務部長まで呼んでいるが、門脇に用件の見当はつかなかった。このノート型パソコンに何か問題でもあるのだろうか?

 壁に沿って並べられた電子機器が、不規則に低く唸るような音を上げていた。暫く無言のままでいると、ドアの方で「どうぞ、こちらです」という菊池の声がした。

 総務部長の山瀬泰三が部屋の中を見回しながら、入ってきた。しかし、山瀬はひとりではなかった。その後ろに長身の背広姿が見えた。その顔を見るなり、紺野が反射的に立ち上がり、深々と頭を下げた。

 専務の菅崎進だった。門脇も立ち上がり、二人のために机の椅子をひいた。山瀬は門脇に「おまえもいたのか」とぶすっと言って、専務が腰を下ろすと隣の席に着いた。

「専務までおいでいただいて、申し訳ありません」

 紺野はまた、二,三度ぺこぺこと頭を下げた。

「いや、かまわんよ。総務部長から話を聞いて、ぼくも立ち会った方がいいと思ってね」

 菅崎は鷹揚な物言いで応えた。

 なぜ、専務まで呼んでいるのか? 門脇は、何か重大なことが始まるような気がした。さりげなく胸ポケットに手をやり、ボイスレコーダのスイッチを押した。門脇は、労働組合の役員と打ち合わせを行う時は、言った言わないという無用な悶着を避けるために、必ず録音する。役員たちとは、いつどこで出くわすかわからないので、いつもボイスレコーダは携行していた。無論、たいていの場合は録音することを相手に告げるが、密かに録音することも稀にはあった。今回の録音もきっと大いに役立つことだろう。

「霧久保部長のパソコンに何か妙なものが入っていると聞いたが、何かね?」

 山瀬は、穏やかな表情の菅崎とは反対に、険しい声で単刀直入に口火を切った。

「はい。時系列を踏んで、きちんとお話ししたいと思います。まず、菊地くんから」

 と紺野が少し離れて立っている菊池に声をかけた。菊池は近くに寄ると、一礼してから話し始めた。

「五日前に、このパソコンの修理を、ポリエチレン事業部の部員から依頼を受けました。パソコンは会社の貸与機材で、海外営業本部霧久保第三部長のものですが、何でも、ポリエチレン事業部の部長が、霧久保部長と不注意でぶつかり、その弾みで床に落ちたということでした。パソコンは電源を入れれば何とか起動し、基本的な動作には問題がないような状態でしたが、カバーが破損して内部が露出していましたので、F電機に修理を依頼しなければなりません。修理には機材占有者である霧久保部長のサインが必要なので、霧久保部長にもお会いしましたが、パソコンが破損したいきさつは間違いないようでした」

 門脇は、数日前のコンプライアンスメールを思い出し、ああこのことかと思った。告発メールは、ぶつかった拍子に相手のパソコンを壊したのは、ぶつかった社員の責任なのだから、会社の経費で修理するのはおかしい、というものだった。ぶつかった社員は慌てたらしく、落ちたパソコンをさらに蹴ってしまったとあった。その社員とは、ポリエチレン事業部長だったのだ。思わず笑ってしまうような構図だが、告発者は、この社員は、日頃経費の節減をうるさく言っている管理職なのだから、修理代を自分で負担すべきだと言う。告発者はこの管理職、つまりポリエチレン事業部長を日頃から良く思っていないようだった。しかし、悪意があって壊したのではないので、そこまで修理費を厳密に考える必要はないだろうと門脇は判断したのだが、こんな席であの告発が出てくるとは、夢にも思わなかった。

 菊池が後ろに退くと、紺野は「その続きは、F電機の田中くんにお願いします」と言って、田中と呼ばれたF電機の社員が話を引き継いだ。

「F電機の田中と申します。菊池主任さんから、お預かりしたパソコンはそれほど傷みはひどくなく、カバーなどの部品を交換し、動作確認をいたしました。ところが、念のために、プログラムファイルをすべてチェックしていたところ、そのファイルの中に、ワードで作成された文書、マイクロソフトのあのワードですね、その文書が紛れ込んでいたんです。別にプログラムに異常を起こす状態ではないのですが、使用者が大事な文書を、過ってプログラムファイルの中に落としてしまったのではないかと思い、菊池主任さんにお知らせしたしだいです。間違って思いもよらぬファイルの束の中に、落としてしまうことはたまにあることです。もちろん、パソコン内部を検索すれば、すぐに見つかるのですが、その方法を知らない方もいらっしゃるので、それで、……」

「田中くん、きみはその文書を開いて見てないのだよね」

 と、紺野は田中の言葉を遮り、念を押した言い方をした。

「はい、御社の重要な文書の可能性があるので、中を開けて見るようなことは、決していたしておりません」

「それでよし。この先の話は、わが社の内部の事柄になるので、田中くん、きみはここで退席してもらいたいのだが」

「わかりました。失礼させていただきます」

 F電機の田中は、紺野に予め言われていたのか、表情ひとつ変えず部屋を出て行った。

 紺野は、ノート型パソコンを起動した。

「紺野くん、早くその妙な文書とやらを見せなさい」

 山瀬がいらいらした声をあげた。

「お待ちください。今すぐです。どこに、行ったか、あ、これだ」

 紺野はやたらと大きな音を立ててキーを叩いた。ワードの文書が開くと、立っていた菊池がすっと動き、向かい合わせに座っている菅崎の前にパソコンを持って行った。

「ううん?」

 菅崎の横から画面を覗いた山瀬は、顔を歪めた。

「これは、自殺した監物くんの遺言と同じものだよ」

 菅崎がワードで書かれた文書を見て、山瀬に言った。門脇も後ろから画面を覗きこんだ。

《かあさん、ぼくはもう疲れたよ。今まで自分なりに精一杯やってきたけど、何もかもうまくゆかない。かあさん、ぼくはもう疲れたよ。親不孝な息子を許してください。秀明》

 監物が自殺した朝、警察は彼のスーツの内ポケットから二通の遺書を発見した。構内を巡回中の菊池主任と制服の警備員が遺体の第一発見者なのだが、規律に厳格な菊池が遺体は警察が来るまでそのままにすべきだと言って、誰にも触らせなかったという。一通は同僚宛の極めて簡単なもので、《研究グループの皆さん。大変、申し訳ない。後をよろしく頼む。監物》というものだった。そして、二通目が母親宛のこの文面だった。両方とも、パソコンで作成し、一枚ずつプリントアウトしたもので、自分の名前だけは手書きで書かれていた。門脇は母親宛の遺書の方を直接母親に届けたので、記憶していた。一字一句正確に覚えているわけではないが、《かあさん、ぼくはもう疲れたよ》という特徴的な言葉などから考えて、同じ文章だと言っていい。

「まさかと思いましたが、やはり、そうでしたか。秀明という名前があったので、監物氏の母親宛の遺書ではないかとは思いましたが、やはり……」

 紺野はそう言って、やや上目遣いで菅崎と山瀬の様子を眺めた。

「私の記憶に間違いなければ、まったく同じものだと思います。どうゆうことでしょうね。専務」

 老眼鏡を出し、目をしばたたきながら、山瀬は菅崎の横顔を窺った。

「なぜ、監物くんの遺書が、霧久保部長のパソコンにあるんだ? 一体どういうことだ?」

 菅崎は顔を上げ、憤るように言った。

「私の意見を述べさせていただいて、よろしいでしょうか?」

 と、紺野が待っていたように発言した。

「勿論、かまわんよ。われわれを呼んどるんだから、何か考えがあるんだろう? 是非きみの意見を聞かせてくれ」

 と山瀬が答えた。

「では、意見を述べさせていただきます」と、紺野は立ち上がり、咳払いをひとつして続けた。  

「事実はこうです。監物氏の遺書は、彼の自席に置かれた彼専用のパソコンで、マイクロソフトのオフィースソフト、ワードを使って作成されたと聞いています。母親と同僚に宛てたもので、二通ありました。勿論、この遺書が自殺と断定された根拠のひとつです。それがどういうわけか、このワードで作成された遺書の内、母親宛の方は、監物氏のパソコンと霧久保部長のパソコンに両方に存在していたのです。そして、霧久保部長のものに残されていたものは、実に奇妙なことに、自殺の数時間前、二十三時四十五分に保存されているのです」

「わからんな。どういうことだ?」

 山瀬が渋面をつくった。

「監物氏が自分のパソコンに遺書を書き込む前に、霧久保部長のパソコンにも、何らかの理由でわざわざその文面を書き込んだというように解釈できます。しかし、他人のパソコンに、なぜそんなことをする必要があったのでしょうか? どうやってそんなことができたのでしょうか?」

 と紺野は、予行演習でもしたかのように、抑揚のある芝居じみた口調で言った。

「監物くんがそんなことをしたとは、考えられんだろう」

 山瀬はすかさず、否定した。

「では、こう考えたらいかがでしょう? 監物氏以外の何者かが彼の死を予見し、予め遺書の文面を作成した」

「死を予見して、とはどういうことだ? 言っている意味がわからんぞ」

 山瀬の声は徐々に大きくなっていった。

「何者かが予め遺書の文面を作成し、監物氏の死に合わせ、その文面を監物氏の自席のパソコンに入力することを思いついた。そして、監物氏の死の直後、短時間で入力できるように、予め文面を作成しておいた。同僚宛の方は極短く簡単なものにすれば、その場ですぐに入力できる。しかし、母親宛の方は、不自然さをなくすために、少しだけ体裁をよくした。文面は頭の中で考えれば良さそうですが、いい文章を作るためにに、自分のパソコンで実際にワードで打ってみた。現に残された遺書の文面もよくできているというか、気持がよく表現されているという印象を受けます。そして、動揺したのか、あるいは、他人に覗かれそうになったのか、削除したつもりが過ってプログラムファイルの中に、落とすように保存してしまった。だから、パスワードも設定されていません。その後も、削除したと思っているので、そのままにしておいた」

 紺野はゆっくりと、文節を区切るように話した。

「紺野くん。自分の言っていることの意味が分かっているのか? それでは、遺書は偽装されたものということだぞ。それに、そんなものが霧久保部長のパソコンにあったということは、霧久保部長が最も怪しいということではないか」

 山瀬が、一段と大きな声をはりあげた。

「霧久保部長が怪しいとまでは言っていませんが、それ以外に説明のつくことがありますか?」

「うーん、……」

 山瀬は唸ったまま、下を向いた。

 殺人事件だという噂は、単なる「噂」では済まされないことになったと門脇は思った。警察が自殺と判断した理由には、遺書の存在が大きく影響している。その遺書が偽装されたものだとしたら、自殺の判断は揺らいでしまう。紺野の言うとおり、監物が霧久保部長のパソコンに遺書の文面を予め書きこむなどということはありえない。ということは、監物以外の何者かが、監物より先に遺書の文面を作成しているということだ。もし、他殺だとして、自殺を偽装しようとした犯人が、殺害後、すばやく監物のパソコンに入力するために、遺書の文面を作成しておくということは充分考えられる。そして、メモ書きのように作成したものを、事の重大さから動揺して、削除の操作を過ってしまったとしてもおかしな話ではない。

「それに、あの日は落雷でセキュリティシステムがダウンしました。何があっても不思議ではありません」

 と紺野はつけ加えた。そのことを記憶しているのは、セキュリティセンター長としては当然だ。

 監物の転落死とほぼ同時に、コンピュータのセキュリティシステムも障害を起こしている。その時に落雷も確かにあったのだが、セキュリティセンターの瑪瑠理伊によれば、落雷が原因でシステムがダウンすることは考えられず、人為的な操作が疑われるということだった。このことを考え合わせれば、むしろ、事故ではなく事件と考えるのが自然ではないのか?

「社内で妙な噂も流れているようだし、これは大変なことになったな」

 と山瀬が呟くように言うと、それまで黙っていた菅崎が口を開いた。

「そうだな。しかしとにかく、この話はここにいる者以外には口外しないで欲しい。それから、社長に報告するので、門脇くん、今までのやりとりをペーパーに起こしてくれ。きみは労組との交渉をやっているのだから、こういうのは得意だろう。ひょっとして、既に録音機をオンにしているんじゃないか?」

 菅崎は録音していることを見抜いていた。門脇は、自分がなぜこの席に呼ばれたのか疑問だったが、どうやら、記録係としてのようだ。紺野の指示で菊池が電話をよこしたのだろうが、紺野もこの場の記録を第三者の目で残す必要があると考え、その役目を門脇に負わせたかったのだろう。

 それにしても、これで収まる話ではない。霧久保部長は、監物の転落死の一週間ほど前に監物と言い争いをしている。転落死したその日にも、何かあったのかもしれない。そのことは、霧久保部長の疑惑をさらに深めそうで、紺野と菊池がいるこの場所で言い出しづらい。それは菅崎専務には後ほど伝えればいいのだが、いずれにしても、真相を究明するには、警察の力が必要なのではないか。

「門脇くん。何か言いたいことがありそうだな」

 菅崎が、つい息づかいが荒くなった門脇を見た。

「このことを警察に連絡すべきだと思いますが」

 門脇は口を尖らせた。

「それはできんよ」

 菅崎はきっぱりと否定した。

「なぜでしょうか?」

「警察が自殺と断定したのは、私が所轄の警察署長にまで電話して、徹底して調べて欲しいと要望し、それを受けての結論だからだ。警察は聞き取り調査で転落時には監物ひとりだったとし、転落した非常階段の踊り場も調べ、争った後はないと判断している。警察がその結論を覆すのは困難だ。それに、再度の警察の捜査など、社内の士気にかかわる。何よりも私は、会社から殺人犯など絶対に出したくはないのだよ」

 菅崎はめずらしく語気を強めた。そして、菅崎が発した「殺人犯」という言葉が、その場の雰囲気をさらに重苦しいものにした。

「とにかく、霧久保部長に話を訊く必要があるな。霧久保くんは出張からいつ帰って来る予定なんだ?」

 菅崎が山瀬に訊いた。

「明日の早朝に成田に着く予定です」

「そうか。うむ」

「明日は、時期の役員人事を内定する臨時の取締役会がありますね」

「そうだ。だから、大変なんだ」

「霧久保部長が次期役員に任用されるという噂がありますが?」

「そういう情報は、どこからともなく流れ出るものだから隠してもしかたがないので言うが、次期取締役に入れるのが、社長の意向だ」

「執行役員を経ずに、一気に取締役に、ですか。薄々は聞いていましたが、やはり……。」

「その話は後にしよう」

 菅崎は一般社員のいるこの場で、それ以上役員人事の話をするのを控えた。

「すみません」

 山瀬は、うっかり役員人事の話を口にしてしまったことを謝った。

「再度言うが、この話は口外しなでくれ。いいな。すべて私に任せてくれ。責任をもって私が処理する。それから、門脇くん。ここでのやりとりを早めにペーパーに起こしてくれ。総務部長はそれを私の部屋に持ってきてくれ。いいな」

 菅崎はそう言って立ち上がり、地下室を後にした。

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