第5話 睦月三郎という男
D化学工業本社ビル中央棟十五階にある大会議室は静まり返っていた。ドアを勢いよく開けた門脇は、その音に振り返った数人の視線に会い、思わず首をすくめた。会議室の後方には二十数人の社員が肩を触れ合うように人垣をつくっていたが、集まっているのは皆部長以上の管理職だった。門脇が頭を下げながら手刀を切るような格好で前に進むと、前方には八十五インチの大型液晶テレビが中央の台座に置かれ、その周りに代表取締役社長中目黒雄二と六人の取締役兼執行役員がそれを取り囲むように座っていた。その手前には、テーブルを挟んで、右側に研究開発部の研究員、左側に海外営業本部第三部の部員がそれぞれ八人づつ、緊張しているのか背筋を伸ばして座っている。門脇の前には数人の管理職が両手を前に組み静かに立っていたが、一番前には僅かに左右に揺れている老人のような白髪の頭が目に入った。ここに集まっている管理職を門脇はすべて知っているわけもなく、見た顔だが名前を思い出せない者ばかりだが、この白髪の頭は顔を見なくても分かる。野依俊一、基礎化学事業本部営業企画第二部長、五十歳。門脇が入社二年目に基礎化学事業本部のマーケティング係に配属された時、一から面倒を見てくれた先輩だった。忘れることができるはずはない。門脇が仕事がうまくゆかず、宴席で「こんな会社、辞めてやる」と叫んだ時も、仕事の難問の解決法のヒントを、穏やかに指し示してくれたのが彼だった。そのヒントは今でも生きている。野依俊一は、その後も基礎化学製品ひとすじに、こつこつと実績と信頼を積み重ね、部長にまで上り詰めた。後ろから見ると、そのいくらか曲がった背中に苦労が染み出ているようだ。
ここにいる全員が一言も発することなく、フランスのテレビ局の衛星生放送を見詰めていた。テレビ画面は仏領ギアナ、クールー宇宙センターでのアリアンロケットの打ち上げの様子を映し出していた。打ち上げは夜間に行われていた。やや紺色をおびた黒い空には、地上のあまりの明るさのために星は姿を消している。その下に真昼のような照明に照らし出され、発射台に据えられたアリアン6型ロケットの白灰色の胴体が浮かびあがっていた。しばらく遠景で写していた映像が発射台から近距離の無人カメラに切り替わると、ロケットのずんぐりとした巨体が画面全体に映し出された。ロケット本体と両脇に括られた二本の固体燃料ブースタは、ペンシル型の宇宙ロケットを想像していた門脇には、異様に太く不器用な中年男の巨大な三本の指のように見えた。既に本体の第一エンジンは白い煙を発射台の床に吹きつけている。
テレビの音声は秒読みを始めているらしいのだが、どうやらフランス語らしく、門脇にはまったく理解できなかった。テレビの隣に立ち、音声の通訳を兼ねて、状況を解説している男がいた。研究開発部の坂本だった。本来なら、監物がやる役どころだろう。
「発射の二十秒前です。自動シーケンサ良好、メインコンピュータ、慣性誘導システムともに異常はありません。いよいよ、リフトオフされます」
二本の固体燃料ブースタのエンジンが点火され、オレンジ色の炎と大量の白煙で発射台全体が包まれた。総重量七百五十トン、全長は五十メートルを超える巨体がゆっくりと上昇を始める。同時にカメラは再び遠景に切り替わった。テレビは打ち上げ時のエンジン音を伝えていなかった。そのため、奇妙な静けさともにロケットは白煙のしっぽを地上近くまでたらしながら暗黒の空間に吸い込まれていく。テレビの音声は相変わらず理解不能だったが、アナウンサーがやや興奮ぎみであることは分かった。
その間、社長の中目黒をはじめ、全員が一言も発しなかった。
「打ち上げ後、三十秒、予定推力を維持しています、……。五十二秒、高度四十キロ通過、……。八十秒、飛行角度順調、……。百二十五秒、高度六十キロ通過、固体燃料ブースタ燃焼停止、切り離し成功」
坂本の、固体燃料ブースタの切り離し成功、この言葉を待っていた社長の中目黒雄二は勢いよく立ち上がった。
「諸君、おめでとう。これでわが社も航空宇宙産業の仲間入りだ」
アリアンロケットの固体燃料ブースタの噴射ノズルには、D化学工業の新技術、HM法で製造された三次元炭素繊維強化炭素複合材が使用されていた。そのブースタが役目を終え切り離されたということは新技術が成功したということになる。
社長の声とともに、座っていた者も立ち上がり、会議室の全員が一斉に拍手を始めた。
「中堅化学会社すぎないわが社の技術が、皆さんの努力によって、宇宙開発機関に認められたました。それも、日本のロケットではなく、欧州宇宙機関のアリアンロケットにわが社の技術が採用されたのです」
社長の中目黒は、拍手の収まるのを待って演説を始めた。
「こう言っては語弊があるかもしれませんが、日本の宇宙産業は先行き不透明です。日本の宇宙技術は世界の最先端を走っていますが、宇宙産業としては安定していません。残念ながら、宇宙ロケットを打ち上げても採算の見通しが立たないのです。今は国からの予算がありますからいいですが、商売としてやっていける見通しが立っていないのが実情です。世界では、例外的に未だに国の力で実施している中国を除き、国威高揚の目的だけでロケットを打ち上げる時代は、もう終わっています。既に、宇宙ビジネスの時代に入っているのです。ですが、世界で宇宙ロケットを上げて採算が採れるのはアメリカ、ロシア、それにヨーロッパだけです。なかでも、ヨーロッパは商業目的を徹底的に追求し、世界の衛星打ち上げ市場の過半数の実績をあげています。そこで、わが社は初めからヨーロッパを目指したのです」
中目黒の演説好きを社内で知らない者はいなかった。的を射ない話をだらだらと際限なく行うというわけではなく、それなりに聞き手の心をとらえ、話もうまいのだが、それにしても長かった。今年の入社式での演説は一時間を越え、突っ立ったまま緊張して聞いていた女性新入社員がひとり、貧血をおこして倒れるほどだった。
「宇宙ロケットに使用される部品には、さまざまなものがあります。その数は数千とも数万とも言われています。したがってアリアンにも、日本企業の部品が数多く使われています。特に、電子部品に関しては、日本企業のものが最も多いとも言われています。しかし、肝心のロケットエンジンそのものには、日本製の部品も材料もまったく使われていません。なぜならば、ロケットエンジンは、その国以外の企業から調達することはありえないからです。アリアンロケットに、欧州宇宙機関に参加している国以外から部品調達することはありえないのです。もちろん、日本どころか、アメリカからも調達されていません。それは、某国が宇宙ロケットと称して、ミサイルを打ち上げていることから分かるように、宇宙ロケットは容易にミサイルに転用できるからです。すなわち、軍事的な機密事項と密接に関連しているからです。それは誰でも想像がつくことだと思います。国際宇宙ステーションは各国の協力でなりたっていますので、世界の企業が参加しています。しかし、ロケットは違います。ヨーロッパのアリアンロケットは、そこにはすべて欧州の企業しか参加していません。ところが、それをわが社が始めて破ったのです。参加していません、が、参加していませんでした、と過去形になったのです。先日、私は、ESA欧州宇宙機関の長官であるジャン・ジャーク・ドーダン氏とお会いしました。長官はおっしゃいました。あなたがた日本企業の最先端技術を採り入れないほど、われわれは頑迷ではないと。また、その技術の売り込みの熱心さを、われわれ欧州人は見習わなければならないと。そうです。わが社が採用された理由は二つあります。ひとつは、世界トップクラスの技術力であり、もうひとつは海外営業本部第三部が果たした営業力です」
ここでまた、大きな拍手が沸きおこった。中目黒は、それをさえぎるように両手を広げ、演説を続けた。
「しかし、私たちには残念でならないことがひとつあります。世界トップクラスの技術力、すなわち、三次元炭素繊維強化炭素複合材の新製造法であるハイパーマトリックス法、略してHM法を開発した、わが社の誇るべき研究者、監物秀明くんの悲劇です。彼の開発した新製造法によって、この素材はより進化し、より柔軟な形の加工が可能になったのです。その成果がオリオンロケットのブースータノズルに現れたのです。彼はこの成果を見ずに、旅立たれました。皆さん、何という悲劇でしょうか。私たちは彼のためにも、この事業を成功させなければなりません」
中目黒は、胸のポケットからハンカチを取り出し、目頭を押さえた。
「この快挙、そう、文字どおり快挙と言っていいでしょう。この快挙を成し遂げた立役者のひとりが監物秀明くんですが、もうひとりの立役者は、とりもなおさず、海外営業本部第三部、霧久保拓也部長です。彼は今出張中で、パリにいます。勿論、彼もこの打ち上げ成功をわれわれと同じように見ているはずです」
ここで、中目黒は首を横に向けた。これは喉が渇いたという合図だ。すかさず、かたわらにいた、役員秘書室長がコップの水を差し出した。中目黒は音を立ててごくりと飲んだ。演説はさらに続く。
「アリアンを造っているのは、EADSアストリウムスペーストランスポーテーション社です。この会社はEADSという名前のとおり、親会社はヨーロッパ最大の航空宇宙企業であり、皆さんもご存知のとおり、その子会社にはエアバスを製造している会社、ユーロファイターという戦闘機を製造している会社などがあります。まさに、世界の航空宇宙産業のトップを走る会社であります。この会社にどうやって、食い込むか? そこでわが社の誇る霧久保拓也はどう考えたのか。ここが霧久保部長の天才的と言っていいところでしょう、ヨーロッパの文化、伝統、慣習を考えたそうです。ヨーロッパは、アメリカなどと違い、官僚制が根強く、民間企業よりも政府機関の方が力が強い。そのことにすぐに気がついたそうであります。EADSを相手にするよりも、国家機関、正確には国家連合ですが、ESA欧州宇宙機関を相手にした方が話が早いと考えたそうであります。それから、毎日のようにESAの宇宙開発部門に猛アタック、いわゆる営業をかけたのであります。それから、数ヶ月、これも霧久保部長の天才たるゆえんです。数ヵ月後には、ESAからの指示によって、EADSが動き、契約にこぎつけてしまったのです。まるで、マジックのようです。ファット、ア、ファンタスティック」
中目黒が、両手を挙げて大げさな身振りを見せると、会議室に拍手が大きく鳴り響いた。拍手は数分続き、終わりかえると、また一段と大きくなった。門脇も仕方なく周りに合わせて、下を向きながら力のない拍手を続けた。
「それは、ちょっと違うんだよなあ」
門脇の耳のすぐ後ろ、息がかかるほどの距離から、ぶすっと呟くような声が聞こえた。門脇は首をすくめるようにして、反射的に振り向いた。
「それは、ちょっと違うんだよなあ」
声の主は、そう繰り返し、「聞きたい?」と門脇に向かって言った。
「はあ? いや、まあ」
門脇は、咄嗟のことに返事に窮したが、相手は「こっちこっち」と言いながら、人垣をかき分け、会議室の出口付近に行った。後姿を見ると、グレーの作業着を着ていた。研究開発部の制服らしかった。どこかで見た顔だったが、誰だか判然とはしなかった。門脇は正面を向きなおした。会議室はまだ拍手に包まれていた。社長の演説はこの先小一時間は続くだろう。門脇は男の後を追うことにした。
研究開発部の制服を着た男の姿は会議室にはなかった。門脇はドアを開け、廊下に出て辺りを見回した。男は薄暗い廊下の突き当たりで待っていた。
「総務の門脇さん? 確かそうだよね」
門脇は頷きながら、相手の顔を覗きこんだ。浅黒く、無精髭を生やしているせいか、五十を過ぎているように見える。相手の顔は人事情報ファイルで見たものだった。
「研究開発部の睦月さんですよね」
相手は頭を下げた。門脇は思いだした。睦月三郎。技術者として工場を転々とし、研究開発部に配属されてからも、一度、地方の工場に転出し、三年前に戻ってきた社員だった。年齢は、ちょうど五十歳だったか、研究開発部長と同年ぐらいだ。そいいう社員も、それほど珍しいわけではないが、睦月ほど短期間に異動を繰り返す例はあまりないので、記憶に残っていた。
「先ほど、ちょっと違う、とか言ってましたよね?」
門脇は訊いた。
「ああ、あれね。社長が、霧久保部長が契約にこぎつけたのをマジックって言ってたでしょ。実際には、ちょっと違うんで、つい口に出ちゃったたんだよね」
「と言いますと?」
「ESA欧州宇宙機関の話が出てたでしょ? そこには長官の下に、三人の次官がいるんだけど、その内のロケット部門を統括している次官と、霧久保部長はたまたま知り合いだったんだよ」
「知り合い?」
「そう。霧久保さんは東京外語大のフランス語科を出た後、留学したのは知ってるよね。行った先は、パリ第八だったか、第九だったか、大学院の修士課程なんだけど、とにかくパリで下宿してたんだよ。その同じところに、ESAの今は次官さまになってる人間も下宿してたってわけよ」
「しかし、知り合いだからといって、そう簡単にうまくゆくとは思えませんが……」
「まあ、ゆっくり聞きねえ。知り合いといっても色々あるが、ふたりは親友だったんだよ。フランスってのはなあ、変なところで、大学よりもっと優秀な奴が行く学校があるんだってんだから、驚きよ。日本語だと、大学校と訳されるらしいけど、その中のエコールポリテクニークとかいうとんでもねえエリート学校に通っていたのが、現次官さまだったんだよ。霧久保さんも国費で留学してるんだから、かなり優秀だが、上には上がいたってえことだよ。ふたりは、そこの下宿で入魂の間柄になったんだが、それには理由があってね。実は次官さまは、ハンガリーの移民の子でね。子供ころは、純粋なフランス人に苛められたらしいんだよ。ハンガリー訛りのフランス語を笑われたらしいよ。外国人である霧久保さんも、妙な訛りのあるフランス語。訛りのあるどうしで意気投合したってわけよ。親友になったのは、それだけの理由じゃあねえだろうが、まあ、仲良くなるきっかけにはなるだろう。刎頚の友という言葉があるが、それに近いものだったらしいね」
睦月という男の口調は、そういう癖なのか、だんだん時代劇のようになってきた。日頃の研究業務のせいなのだろうが、爪の先まで黒くした手で無精髭を撫でながら話す姿は、江戸時代の職人のように見える。
「その親友が再会して、話がとんとん拍子に進んだということですか?」
「そういうこったな。次官は霧久保部長を信用している。そりゃ、話もまとまるのは早いだろう。EADSは民間企業だが、言わばEUの国策会社だ。ESAはその上に君臨している。ヨーロッパはアメリカと違って官僚が強いからねえ。その次官の鶴の一声で、契約締結ということだ。種を明かせばマジックでも何でもねえ。と言っても、マジックには、種は付き物だがなあ」
睦月の話はどこまで本当か分からないが、次官が霧久保部長の知り合いだというのは、あり得ることだと門脇は思った。そういった裏の事情がない限り、いくら霧久保でも短期間で契約にこぎつけることなど不可能だろう。
「話は変わるが、おととい、坂本と話をしてたよねえ。やっぱり、死んだ監物の件かい?」
睦月はそれまでどことなく笑みを浮かべていたが、急に真顔になって監物の顔を覗きこんできた。
「ええ、まあ、そうですが……」
「話を聞いていたわけじゃないんだが、監物が……、おっと、いけねえ。上司を呼び捨てにしちゃいけねえな。その監物さんがだよ、死んだすぐ後に一度、あんた訊きに来てたよね。でまた、あんたが研究開発に来たんで、やはり監物の件かなと……」
「それが、何か?」
「実はね。話したかったのはそのことなんだ。いやね。おれにはね、監物の……、おっと、つい呼び捨てにしてしまうが、悪気はねえんだ。監物も坂本も、おれより二十近くも若いんだ。まあかまわねえな。で、その監物の死んだのが、ただの自殺じゃねぇような気がするんだよ」
門脇は、一瞬、こいつが監物の噂を流している「犯人」ではないかと思った。門脇は、睨むように相手の顔を見た。噂を流しているのは、こいつに違いない。
「どういうことでしょう?」
「監物が死んだ早朝、おれも会社にいたもんでねぇ」
「えっ、転落死を目撃したんですか?」
「いや、そうじゃねえ。おれが現場に着いた時には、とっくにに死んでたんだ。警察の来る前だったが、周りに何人か、囲むように人がいたよ。それをおれは少し離れたところから見ていたんだが、何かただの自殺じゃねえような気がしたんだ」
「ただの自殺じゃないというのは、何か見たんですか? 何か根拠はあるんですか?」
門脇は、ついきつい言い方になった。
「まあ、そう、とんがった言い方をするもんじゃねえよ。おらぁ、何も見ちゃいねえよ。実はな、おれも監物がリーダーだった新素材研究グループの一員なんだんだよ。会議室での打ち上げ見物も、前のひな壇に一緒に並べと、部長に言われたんだが、こんな年寄りがいちゃあイメージが壊れるんで、遠慮したんだ。といっても、きのう別のグループに移る内示をもらってるんで、来週までしかいられないんだがね。これでグループを移るのは5回目だよ。研究開発部の新記録更新になっちゃうらいしいけど。ま、そんなことはどうでもいいんだが、監物は仕事のし過ぎで、鬱状態になって、それで自殺したことになってるんだよね?」
「まあ、そういったところです」
「とろがね、監物の鬱はだいぶ改善していたことを知ってるかい?」
「いや、知りません」
「そうだろうともよ。知ってるのは、おれぐらいなもんだろう。こう言っちゃなんだが、おれはベテランの境地とでもいうのか、年齢が離れている。今どき、アナログの職人は通用しませんよ、と言われたこともあるくらいだ。そんなわけで研究グループのみんなとは距離を置いているんだ。要は、若い連中をよく観察できる立場にいるってぇわけよ。いや、誤解しないでもらいたいんだが、おれだって給料分の働きはしっかりやってるよ。まっ、それはともかくとして、リーダーの監物をじっくり人間観察できたってぇわけなんだ」
「それで?」
「監物の鬱は二,三年前の方がひどかったんだ。当時の奴さんの顔ったら、頬がこけて見るからに悩みがありますってえ、顔してやがった。初めはおれも、奴さんはまじめだから仕事熱心なだけだろうと思っていたんだ。確かに、研究の中身は難しい仕事だったし、リーダーとしても立派に勤めていたからね。そんな時、一度ひょんなことから、奴さんのひきだしの中を見たことがあった。薬の壜が四種類あって、処方箋も壜の下にあった。悪いと思いつつも、つい読んだら、抗鬱薬や精神安定剤が四種類も処方されてた」
「他人のひきだしを開けたんですか」
「そう、怖い顔するなよ。悪気があったわけじゃあねぇんだ。監物が不在の時に、どうしても書類が必要で、ついひきだしに手がいったんだよ。でも、奴さんは自殺する半年ぐらい前から、飲む薬の量を大幅に減らしていたんだ。研究も徐々にうまくいってきて、ノーベル賞級とは言わねえが、会社に貢献することは間違いねえ研究成果をあげたんだ。確かに、奴さんは仕事中は苦虫を噛み潰したような真剣な顔をしていたが、顔色は以前と比べものにならねえくらい、だいぶ良くなった。いつだったか、朝からやけに機嫌がいいんで、小指を立てて、昨晩はこれとお楽しみかいって、からかってやったことがある。奴さん、紅くなって否定してやがった。冗談のつもりで言ったんだが、ひょっとしたら、本当に女がいたんじゃねかな。まあ、いたとしても何の不思議はねえが、ともかく、精神状態はどう考えても良くなったように思える。そんな時に、自殺する馬鹿がいるかい?」
監物が通院していた精神科医には、警察が事情を訊いている。門脇は、警察からそれを聞くというまた聞きなのだが、やはり、監物の症状は改善していたという。しかし、精神科医によれば、鬱が重症の時には自殺する気力すら失われ、むしろ、回復期に向かった患者の方が自殺の危険性は高くなるとのことだった。そのことから、門脇は自殺に疑問をもたなかった。睦月の話を聞くと、いくらか疑問が浮かばないではないが、それは素人考えで、信憑性は精神科医の話の方にあると思うのが自然だろう。
「お話は分かりますが、鬱病の回復期にも、自殺する人は多いと聞いたことがありますけど……」
門脇は、相手の意見を頭から否定せず、穏やかに言った。
「それはおれも知ってるんだよ。実はな、おれも最近、鬱病に関する専門書を読んでみたんだ。確かに、本にはそうも書いてあった。しかしな、実際に、自殺した人間をずっと見ていた側からすると、しっくりこねえんだよなあ」
門脇は、目の前にいる睦月を不思議な男だと思った。監物の自殺を疑問に思い、わざわざ鬱病に関する専門書まで読んだと言うのだ。医学の専門書は高価だから、図書館にでも行って読んだのだろうが、なぜそこまでするのだろうか?
「ひとつ、気になることがあるんだ。監物が自殺する一週間ほど前のことで、日頃穏やかな奴さんが霧久保部長と言い争いになって、大声をあげたことがあるんだよ」
睦月は、無精ひげに覆われた頬を撫でながら言った。
「それなら、そちらの坂本サブリーダーから聞きましたよ」
「そうかい。それで、何で言い争いになったか、坂本から聞いたかい?」
「いや、それは……」
「ひょっとしたら、この言い争いが、自殺の原因とまでは言えねえが、関係があるような、そんな気がするんだ。以前から、HM法で製造した場合のコンピュータシミュレーションを何度も行っていたんだが、あの時になって、一定の条件に達すると、リスクが高まることを監物は解析の結果、見抜いたんだ。それが、監物の技術者としての眼力の凄さなんだよ。製造した素材は当然ことながら、超高温、超高圧を受けることになるんだが、もうひとつ過酷な条件が加わることになる。それが、超強振動なんだ。その辺を何度もシミュレーションしているうちに、三千八百度前後で、一定の高圧と強振動が一定時間加わると、十万分の五から八の確率で亀裂が生じる恐れがあることに気づいたんだ。これは、宇宙ロケットの打ち上げ後、一分半から二分の間に到達する条件とぴったり同じなんだよ」
「十万分の……?」
「そう、十万分の五から八、つまり、二万回打ち上げて、一回以下の確率で、亀裂が生じるというものだよ」
「うーん、よく分かりませんが、世界中で打ち上げられる宇宙ロケットは、年間、多くて数十回ですよね。二万分の一といえば、無視していいようなものでしょう」
「いや、技術者からすれば、これは決して無視していい数字じゃねんだよ。この時、既に相手企業のスペーストランスポーテーション社では、HM法によってロケット推進用ノズルは製造後だった。だから、ここでどうするかが悩ましいところだ。相手企業にこのリスクを伝えると、ノズルの造り直しになるかもしれない。契約上、損害賠償の責任も生じる可能性もある。だから、黙ってこっちサイドだけで改善策を探求するか、判断が分かれる」
「で、結果的には、相手企業には伝えなかった?」
「そうだ。D化学という企業にとっては、その判断が自然なのかもしれねえが。それに、もうひとつ判断材料がある。そもそも、宇宙ロケットの打ち上げリスクとはどういうものか、ということだ。そのリスクの要因は山ほどあって、これはもちろんおれの専門外だが、ロケットの打ち上げは、ほかの事例、たとえば一般の航空機と比べると、リスク管理の考えが違うそうだ。航空機のリスクは数千万分の一でも問題になるが、宇宙ロケットは、それより二,三桁リスクが高くても決行するらしい。特に、今回のように無人の場合には、さらにリスクのハードルは低くなる」
「霧久保部長と監物さんの言い争いの原因はそこにあったんですね? つまり、霧久保部長はリスクを相手企業に伝える必要はないと判断し、監物さんは、やはり伝えるべきだと強く主張したということですね?」
「そのとおりだとも。言ってみれば、企業の論理と技術者の論理の違いだ」
「しかし、それが自殺の原因になりますか?」
「分からねえ。分からねえが、HM法が原因でロケットが爆発することを想像するのは、監物にとってはそら恐ろしいことには違えねえ。責任は自分にあると思うだろうからな。おれですら、さっきのテレビ中継で、打ち上げ後、一分過ぎた頃からひやひやものだったよ。爆発するんじゃねえかと、つい悪い方に気がいっちまう。死んだ監物も、あの世で気が気でなかったろうよ」
「確かに、監物さんにとっては心配ごとのひとつには違いないですね」
「そういうこった。あっ、それからな。これも自殺の一週間ほど前のことだが、奴さん宛てに郵便が来たことがあってな」。
「郵便物は以前と比べてぐっと少なくなっていますが、無くはない。それが何か変ですか?」
睦月は身体の向きを変え、門脇に顔を近づけてきた。
「それがな、研究開発部の郵便物は一階の郵便受けから、誰と決まっているわけじゃあねえが、部員が取ってきて配る。あの日はたまたま、おれが配り、監物に渡した。奴さんは暫くして封筒を開けたんだが、中を見るなり、顔色を変え、すぐさまシュレッターにかけたんだ。あの顔は、空恐ろしいほど、嫌なものを見たという感じだった」
「中身は、何だったんでしょうね?」
「封筒の表に監物様と書いてあって、差出人の名前はなかった。手触りから言うと、写真が一枚ぐらいのものだったな。中身が気になったが、何せ、すぐさまシュレッターだから分かりようがねえ。シュレッターの紙は回収業者が再生原料にするから、今頃は別の紙に化けてるだろうよ」
「先ほどの話であった研究のリスクに関係するものだったんでしょうか?」
「分からねえ。業務に関することだったら、すべてメールで送られてくるはずだしな」
「考えてみれば、そうですね。業務連絡は、すべて電子化されていますからね。で、その後の自殺するまでの一週間はどうだったんですか?」
「それが、奴さんは感情をあまり表に出す人間じゃねえせいもあるが、その後はいつもと変わらない様子だったんだよ」
「そうですか」
「まあ、何と言うか、霧久保部長との言い争いも、郵便の件も、自殺の原因になったとも、ならなかったとも断言できねえ。それで、おれとしては、気持がどうも治まらねえ、そんなところなんだ」
睦月はそう言うと、少し満足そうな笑みを浮かべた。睦月は、職場では部長を除けばひとまわり以上も年齢が下の者ばかりで、気軽に話す相手もいないのかもしれない。だから、門脇を掴まえて、思いを聞いて欲しかったのだろう。
その時、会議室のドアが開き、ぞろぞろと社員たちが出てきた。
「ロケットの打ち上げは、終わったようですね」
「ああ、そのようだな。話が長くなっちまって、悪かった。そろそろ仕事に戻らなきゃならねえ」
睦月はそう告げると、肩を揺らしながら去って行った。
睦月という男は、存外に人のいいやつなのかもしれない、と門脇は思った。初めはこの男が殺人事件だという噂を流している張本人ではないかと思ったが、それは間違いだったようだ。睦月は自殺自体を疑っているわけではなかったのだ。
睦月の話を要約すれば、こうなる。監物は鬱症状に陥っていたが、半年ほど前から改善した。しかし、死の一週間ほど前の考え方の違いから、霧久保部長と言い争いになった。そしてもうひとつ、同じ頃に睦月の表現では「そら恐ろしい嫌な」郵便物が届いた。鬱症状が改善したにもかかわらず自殺したのは、この二つに原因があるのではないか、ということだ。
門脇が訊いて廻った範囲では、殺人事件という噂はどこからも聞こえて来なかった。それでもどこかから噂が出たのは、睦月の言った二つの事実のせいかもしれない。それに尾ひれがついて、話が大げさになり広まったのではないか。門脇は、会議室を出て廊下を「ロケットとは、大したものだ」などと口々に言いながら歩く部長たちに頭を下げながら、そう思った。
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