第4話 屋上アンテナ台座に昇る女性

 翌日、門脇は、相変わらず騒々しく株主総会の準備をしている総務部員たちから逃げるように、朝から地下の食堂の脇にある労働組合事務所に顔を出した。別に用事があるわけではなく、専従職員たちのご機嫌伺いのようなものだ。それに、門脇本人には嫌っているような態度を見せていたが、菅崎専務に門脇のことを「馬が合う」と言った書記長の様子を見てみたいとも思ったからだ。

 生憎、書記長は不在だった。門脇は、女性専従職員が淹れてくれたインスタントコーヒーを飲みながら、取り留めのない話をして組合事務所を出た。そのとき、門脇の携帯電話が鳴った。

 セキュリティセンターのシステム担当主任の菊池規正からだっだ。

「中央棟の屋上に上がっている女性社員がいます。すぐ、来てくれますか?」

「屋上に上がっている?」

「そうです。パラボラアンテナの台に乗っかっているんです。危険だから降りるように言っているんですが、言うことを聞かないんです」

「屋上の出入り口は施錠されていないんですか?」

「緊急時に屋上に避難する場合がありますので、施錠はしていません」

「そうですか」

 中央棟の屋上には、空調の室外機や給水タンク、それに通信用のアンテナがあるだけで、一般社員は立ち入りが禁止されている。いったいそこで何をしているんだろう?

「社員の上司は呼んだんですか? 上司に降りるようにいって言ってもらえればいいじゃないですか」

 門脇は口を尖らせていくらか強い口調で言った。そんなことで何でおれが行かなきゃいけないんだ、という思いがした。確かに、社員の異常な行動は職務違反に該当する可能性があるから、取り敢えず、労務担当に連絡するという気持ちも分かるが、何でもかんでも呼ばれるのはいい迷惑だ。

「上司にはまだ連絡してません」

「所属部署が分からないということですか?」

「いえ、それは分かっています。屋上のドアを通過するときに、社員カードを読み取りますから。部署は分かっていますが、上司を先に呼ぶと、話が大袈裟になるといけないと思って。取り敢えず門脇さんに来てもらってから、連絡しようかと思ったんですが……」

 確かに、上司を呼べば叱責されるだろう。深い意味もなく、何かの気まぐれでパラボラアンテナ台に昇ったのなら、降りてもらえばいいだけで、それ以上のことは必要ない。菊地の言うとおり、所属部署に連絡するかどうかは、後で判断すればいいのかもしれない。

「で、部署はどこなんですか?」

「海外営業本部第三部です」

「何だって、海外営業本部……?」

 門脇は思わず聞き返した。監物は転落死の前に、この部署と一緒に仕事をしていた。門脇は噂について訊きたかったが、特に親しくしている者もなく、そのきっかけがなかった。それが、都合よく向こうからやってきた。

「そうです。第三部ですが、何か?」

「いや、何でもありません。分かりました。兎に角、すぐに行きます」

 門脇は早口で答えた。これで監物の死が他殺だという噂が、海外営業本部第三部にあるのかどうか確かめることができると思った。

 一般社員が通常使っているエレベーターは十六階までで、その上に行くには役員用、さらにその上の屋上に上がるには、業者の資材運搬用である大型のエレベーターに乗る必要があった。女性社員は、仕事に疲れて気分転換に一休みしたくなって、深く考えずに人けのない屋上に上がったのだろうか? そうではないだろう。何気なく、というのなら、一般エレベーターとは反対側にあるこのエレベーターをわざわざ使うはずはない。それに、仕事に疲れたという時刻ではない。今はまだ、朝の十時前だ。

 門脇は、ふと胸騒ぎを覚えた。それは監物の事件からの連想だった。女性社員は屋上から飛び降りる気ではないだろうか。それもパラボラアンテナの台座の上に昇っているというのだ。自殺目的以外に、一般社員がそんなことをする理由があるのか。門脇は、上昇していくエレベーターの壁の向こうから、落下していく女性社員の叫び声が聞こえてくるような気がした。

 屋上階に到達し、エレベーターを降りると、屋内から外部に出る鋼鉄製のドアは開け放たれていた。屋上には空調や給水のパイプが縦横に走り、床の白い粗仕上げのコンクリートが陽射しに照らされて、眩しいほどだった。北側奥に巨大なパラボラアンテナが見えた。それを乗せる台座の脇で、警備員の制服を着た菊池が門脇に気づき手招きしている。門脇は屋上に張り巡らされたパイプの間を縫うように、台座のそばまで小走りで行った。

「ドアセンサーが反応したので来てみたら、社員があそこに」

 と菊池は言って、パラボラアンテナの人間の胸の高さほどある台座の方に首を向けた。パラボラアンテナは屋上の隅に設置してあり、台座は十八階建てビルの外壁に合わせて据えられている。このアンテナは現在の通信システムでは使えず、撤去予定になっているのだが、その費用が多額なのでそのまま放置されているような状態だった。  

 その台座の端に女が外側に足を降ろして座っていた。その足の先には、数十メートル下の地面まで何もない空間が広がっているはずだ。そこに視線をやれば、高所恐怖症でなくとも身のすくむ思いがするだろう。しかし、女はそれを気にしている様子はなく、背をアンテナの支柱に凭れ、目鼻立ちのはっきりとした顔をビルの外の大空にぼんやりと向けていた。脇には揃えて置かれたオレンジ色のハイヒールがあった。

 女にはすぐに飛び降りるという気配は見られなかった。

「そこにいては危険ですよ」

 門脇はなるべく穏やかな声で、下から声をかけた。

「景色を眺めたいのなら、そこから降りても充分見えますよ」

 女は睫毛の長い目をいくらか細め、じっと宙を見つめたままだった。

「さっきから降りるように言ってるんですが、声をかけても答えないんでよ。捕まえて降ろすしかないと思うんですが、私ひとりじゃ、危険な感じがして……」

 菊地が言い訳をするように言った。

「そうだな。それしかないようだな。ふたりなら何とかなるだろう。しかし、彼女はどこから昇ったんだろう?」

 ふたりは台座の周囲を見回した。

「あそこから昇れるようです」

左側を覗いた菊地が、昇降用に足をかけるための鉄の軸が台座の壁に何本か打たれているのを見つけた。

「ここに座っていると、風が気持ちいいんです」

 門脇が左横に回ろうとしたとき、上から呟くような声が聞こえた。

「そんなに降りろと言うのなら、降ります」

 女はそう言うと、パラボラアンテナの支柱に左手をかけながら、右手で傍らのハイヒールを引っかけ、ゆっくりと立ち上がった。

「動かないで。そこで、待っていて下さい」

 門脇は慌てて声をあげた。女のすぐ向こうは、ビルの外の地面に繋がる空間なのだ。身体を遮る柵のようなものがあるわけでもなく、その場でバランスを崩せば転落しかねない。

 女は門脇の声を聞いていないのか、アンテナの支柱から手を離し、門脇のいる方向に歩き始めた。二、三歩進み、下にいる門脇たちの近くまで来ると、ふとビルの外側を振り向き、胸のポケットあたりから赤いものを取り出して大空に向かって投げた。そして、次の瞬間、いきなり身体を傾けた。

 倒れこんだのが、幸いにも門脇と菊池が両手を差し出した方向だった。二人で台座の上から落ちてくる女の全体重をささえた。門脇の頬に柔らかい胸が押しつけられた。危うく三人ともコンクリートの床に倒れこみそうになったが、菊池は尻餅をつき、門脇は膝を床に打ちつけたところで、かろうじて踏みとどまった。

 数秒間はふたりの上に女が覆いかぶさっている状態でいた。門脇は押しつけられた胸から顔を横に背けた。その時門脇の視界の片隅に、女が大空に投げた赤いものがちりぢりになって宙を泳いでいるのが見えた。赤いものは、薔薇の花びらだった。それは、ときおり吹く強い風にのって、小さな鳥の群れのように大空を舞った。

「怪我はないですか?」

 先に立ち上がった菊池が、女の身体を起こしながら聞いた。

「大丈夫です。どこにも怪我はありません」

 女は荒い息づかいで答えると、スカートの裾を払いながらよろよろと立ち上がり、傍らに転がったオレンジ色のハイヒールに足を入れた。

「海外営業本部の楢沢響子さんですよね?」、

 菊池は、屋上のドアを通過する際にセンサーが読み取った社員カードの名前を言った。

「そうです。楢沢です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

楢沢響子という名の女性社員は、まっすぐに立ち、頭を下げた。

「あの、お二人は怪我をしませんでしたか?」

「われわれは大丈夫です」

 門脇もようやく立ち上がり、床に打ちつけた膝の痛みをこらえながら言った。

「総務部の門脇と申します。ここは一般社員は立ち入り禁止になっています。ご存知なかったんですか?」

「勿論、知っていました」

「で、あの上で何をしていたんですか?」

「あの、何となく屋上に上がったら、蒸し暑い感じがして、あの上に昇って風を浴びれば気持ちいいんじゃないかと思って……」

「何を言ってるんですか。あの上から落ちたら即死ですよ。そのぐらい想像できるでしょ?」

 横から菊池が責めるように大きな声を出した。

「済みません。でも……、本当にあの上で風を浴びていると、とても気持ちが良かったんです」

 楢沢響子は下を向いて、ぼそぼそと呟くように言った。

 門脇は楢沢響子の顔を覗いた。彼女の顔色は良く、頬はうっすらとピンク色に染まっていた。口元には微かに笑みも漏れていた。

「気持がいいからなんて、馬鹿なことを……」

 と詰問を続ける菊池を、門脇は手で制した。

「とにかく無事で良かった」

 門脇は、屋上に上がったのはひょっとすると自殺するためではないかと考えていた。ところが、その心配は楢沢響子の顔色からするとなさそうなのだ。下を向いた彼女は悪びれる様子はなく、まるで、いたずらをした子供がちょこっと舌を出して「ごめんなさい」と言うような顔つきをしていた。

 空調の効いた室内にいると分からないが、屋上に出てみると、五月の中旬だというのに梅雨のように確かに蒸し暑い。ときおり吹く、爽やかで気持の良い風にあたろうと、パラボラアンテナの台座に昇ったというのも分からなくはない。

 どうやら彼女の言うとおり、気分転換ような目的で屋上に上がり、深く考えもせずパラボラアンテナの台座に昇ったというのは本当のようだ。自殺と結びつけて考えたのは間違いのようだ。

「何事もなく良かったですが、このようなまねは二度としないでください。分かりましたね」

「分かりました。約束します。総務の方まで来ていただいて本当にすみません」

 楢沢響子はぺこりと頭をさげた。

「上司は呼ばなくていいんですか?」

 門脇がそれ以上叱責する意図がないことを見抜いたのか、菊池が不服げに門脇に言った。怪我もなく台座から降りたのだから、上司を呼ぶ必要はないだろう。上司に知らせれば、彼女の勤務評価にも影響が出るかもしれない。そんなことはしたくない。菊池としては、通常禁止されている区域に立ち入り、危険な場所に昇ったのだから、懲戒とまでいかなくとも上司から叱責ぐらいされてしかるべきだと考えたのだろう。菊池は生真面目というか杓子定規な性格らしい。その方がいい加減な人間よりも警備員としてはふさわしいが。

「いや、無事に済んだんだから、呼ばなくてもいいでしょう。彼女も二度としないと約束してくれたし」

「そうですか。門脇さんがそうおっしゃるなら、それでいいですが……」

 と菊池は承服したが、視線を横にずらし、不服そうな態度は変わらなかった。そして、「では通常勤務に戻ります」と言い、敬礼をしてその場を去った。

 門脇は肩を怒らすように歩いて行く菊池の背を目で追いながら、楢沢響子にさりげなく話しかけた。

「やはり、仕事はお忙しいんでしょうね?」

「いえ、一段落着いたところですから、今はそれほどでも」

 楢沢響子は口元に笑みを浮かべてはいたが、ややうつむきかげんで、視線の先は屋上を囲む鉄柵のかなたにあった。

「一段落?」

「研究開発部との共同の仕事が、ひとまず順調に行きましたから」

「あなたも監物さんと一緒に仕事をしていたのですか?」

 楢沢響子はすぐにはその質問に答えなかった。少しの間下を向いたままで、やがてゆっくりと顔を上げ、静かに頷き、「第三部では、ルーティン意外はその仕事に全員が携わっていました」と言った。

 そしてまた、視線を逸らして

「監物さんは、死んだんですよね」と、力のない声で言った。

 楢沢響子は、数ヶ月にわたり共に仕事をした同僚の死に、未だにショックを受けているようだった。無理もないことだ。つい先日まで一緒に仕事をしていた人間が、そういう身近な人間が、突然死んだと言われても、そう簡単には信じられないだろう。それは想像以上に辛いものなのかもしれない。彼女が立ち入り禁止の屋上でパラボラアンテナの台座に昇るという異常な行為をしたのも、その影響があったのだろうか。

「お気持は察します」

 門脇はそれ以上の言葉を失い、暫く黙った。とても監物についての噂を知っているかなどと訊ける雰囲気ではなかった。さりげなく横から凝視した門脇の目に、細い顎の下の風ではだけた襟元の白い喉に、薄青く血管が透き通って見えた。

門脇が質問を続けるべきか考えあぐねていると、屋上の出口の方から甲高い声が聞こえてきた。

「楢沢さーん、大丈夫ですかー?」

 振り返ると、女が二人こっちに向かって走っていた。D化学の女性社員なのだろうが、二人ともまだあどけない顔立ちをしていた。

「どうしたの? あなたたち」

 そばまで来て、肩で息をしているふたりに、楢沢響子は低く落ち着いた口調で訊いた。

 ふたりは胸にネームプレートをぶら下げていた。新入社員は半年間、ネームプレートの着用を義務づけられているので、二人ともそうに違いない。プレートにはアイザワユカとモロハシサユミとそれぞれ記されていた。最近では、漢字ではまったく何と読んでいいのか分からない名前が多いので、片仮名表記になっている。

「あのおー……、楢沢さんが急にー、屋上に行ってくると言って、姿を消したのでー。屋上は立ち入り禁止なはずなのに。それで、何となく心配になって」

 アイザワユカの方が息を切らしながらが答えた。少し、東北訛りがあった。

「少し屋上の空気を吸いたくなっただけよ。心配なんかいらないわ。それよりあなたたち、頼んでおいたワークシートのチェックは終わったの?」

「それはまだですけど……」

「こんなところに来ないで、すぐに仕事を始めなさい」

「はーい」

 楢沢響子の視線の定まらない物憂げな表情は、あとかたもなく消えていた。新入社員のふたりに接する態度はまるで学校の先生のようだ。

「楢沢さんはお二人の教育係ですか?」

 門脇は口を挟んだ。

「教育係? まあそうですね。二人は今年の新入社員、OJT指導プログラムは私が作りました」

「そうですか」

 楢沢響子は、日常的な落ち着きを完全に取り戻したようだ。つい先ほどまでパラボラアンテナの台座に昇るような異常な行動をしたのが嘘のようだ。恐らく、多忙を極める業務に同僚の突然の死が加わって、ふと日常から逸脱したいという欲求が起きたのだろう。この新入社員の二人は、心配で後を追って屋上までやってきたと言うが、楢沢響子に毎日接しており、それを敏感に感じ取ったのかもしれない。いずれにしても、楢沢響子の精神状態をそれほど心配する必要はなさそうだ。

 考えてみれば、この新入社員も監物が仕事をしていた職場にいた。妙な噂については楢沢響子よりむしろこの二人の方が訊きやすい。 

「大した話ではないんですが、二人に少し訊きたいことがあるので、ちょっと時間をいただいてもいいですか? そんなに時間はかかりません」

 教育係は彼女たちの上司のようなものだから、ここは楢沢響子に許可を得る必要がある。

「社内の規則に関係するようなことですか?」

「そんなところです」

「分かりました。かまいませんよ。どうぞ。では私は部に戻ります。ご迷惑をおかけしました」

 楢沢響子は、門脇に深々と一礼すると、くるりと背を向けて出口の方に歩き出した。

 新入社員の二人は、何か叱責でもされるではないかという表情で下を向いていた。

「総務の門脇です」

「存じています。新入社員研修で講師をされたので」

 モロハシサユミの方が顔を上げた。そうだった。入社前の一週間にわたる新入社員の集合研修で、門脇は就業規則の説明を一日行った。最近の若者は、常識で分かるだろうというような生半可な認識で臨んでいると、考えられないようなことをしでかすので、会社でやっていいこと悪いことと、個々具体的に説明したのを覚えている。新入社員は大学院卒から高卒まで百六十名もいたので、特に目立った者以外は、こっちは顔も名前も覚えていないが、受講した方は講師を覚えていたようだ。

「お二人にお会いするのは、あれ依頼ですから、二ヶ月ぶりということになりますね。どうですか? 会社にはもう慣れましたか?」

 門脇はつくり笑顔で言った。二人は顔を見合わせている。

「まあその辺のことは大丈夫だとして、訊きたかったのは実は楢沢さんのことなんですよ。本人の前では遠慮せざるをえないので、あなたがたに残ってもらったんです」

 突然、監物の死にまつわる噂を知っているかとは訊きづらい。実際にはそれほど心配をしているわけではないが、とりあえず、こういう言い方の方がいいだろう。

「楢沢さんが心配になって、屋上まで見に来たと言いましたよね? ひょっとしたら、彼女にこのところ何か変わった様子とかがあって、心配になったんじゃないかと思って。単に、屋上に行ってくると言い残しただけじゃ、それほど心配になることはないんじゃないかな? ここにやって来たときのあなたがたは、本当に心配そうな顔をしてましたよ」

 二人はまた、顔を見合わせた。

「楢沢さんは、さっきの様子だと元気そうで、ぼくも、ただ屋上で新鮮な空気を吸いに来たんだろうと思ったけど、あなたがたも心配になって見に来たというのは、やっぱり何か気になることがあるんでしょう?」

「それが……」

 モロハシサユミが、もじもじしながらぼそりと言いかけた。個人のプライバシーを他人においそれと話してはいけない、とためらっているのかもしれない。

「言ってもいいのかな?」

 モロハシサユミはアイザワユカの顔を窺った。

「ぼくの仕事は労務担当といって、社員が精神的にも健康であることを維持するのも重要な役目なんです。社員の精神的な問題を見聞きすることは仕事上ありますが、守秘義務がありますから、それを他人に漏らすことは決してしません。ですから、あなたがたから聞いたことは口外しませんよ」

 と門脇が言うと、アイザワユカがモロハシサユミの袖をつついた。

「総務の門脇さんなら、話しても大丈夫だよ」

「そうだね」

 もじもじしていたモロハシサユミのためらいが消えたようだ。

「楢沢さんは失恋したんじゃないかと……」

 門脇は、あっと小さく声をあげた。なんだ、そっちの方か。女性だけに限ったことではないが、それならありふれたことだ。恋愛がうまく行かないことで、精神的に不安定になる。誰でもありがちなことだ。

「周りの人は分からなくても、私たちには分かるんです。目を見れば分かるんです」

 と、今度はアイザワユカが門脇に向かって言った。

「女は恋をすると、目の色が変わるんです」

「目の色がねえ……」

 門脇はそういうものか、と思った。

「それが、最近は時々、目の輝きが失われているように見えるんです。以前はそんなことはなかったのに、二、三週間ぐらい前から、遠くを見つめて何か考え込んでいるような様子があるんです。恋愛がうまくいかなくなったからだと思います」

「そうか、それで今回のような、思いもよらない行動をとったのか」

「そうだと思います。ですから、こんなことがあっても、人事とかに悪い影響がないように何とかお願いします」

「教えてくれて、ありがとう。楢沢さんに、もし何かあったら、そういう事情があるということを知っているので、彼女を庇うことができるでしょう。知らなかったら、単に異常な人と考えてしまう。勿論、口外はしませんが」

「こちらこそ、ありがとうございます。楢沢さんをよろしくお願いします」

 ふたりは、揃ってぺこりと頭を下げた。

「それで相手の人は内の会社の人?」

「相手の人が誰だか、そこまでは分かりません」

 モロハシサユミが少し強い口調で答えた。門脇は恋愛問題というプライバシーに立ち入るつもりはく、念のため訊いたのだが、この質問にはいくらか抵抗感があったようだ。

「余計なことを訊いたようですね。勿論、相手が誰でもかまわないことですよね」

門脇は話を変えることにした。確かに、相手が誰かなどということは余計なお世話に違いない。

「ところで、自殺した監物さんについては、その後、部内で何か噂のようなものは聞いていませんか?」

 門脇は、唐突だが単刀直入に訊いてみることにした。

「何かって……。仕事に熱心なあまり、鬱になって、自殺したこと以外は……。ねえ」

アイザワユカは、なぜそんなことを訊くんだろうという訝しげな目つきをして、モロハシサユミの方を向いた。

「仕事熱心な、まじめな人だったんだと思います。監物さんは海外営業本部にもたびたびいらしてましたけど、私たちは遠くから眺めていただけで、それ以外は分かりません」

 とモロハシユミは答えた。

 新入社員は、比較的職場の様々なことに興味を持ち、周りの話には耳をそばだてるものだ。この二人が、監物の転落死に関する噂については聞いていないとすると、海外営業本部にも噂はないと考えていいのかもしれない。それに新入社員は、自分の所属する部だけでなく、他の部署に配属された新入社員同士とも話をする。噂があれば聞いているはずだ。ということは、不可思議なことだが、監物の噂は、極めて限られた一部の社員だけのもなのか。

「自殺した監物さんに、何かあったんですか? 不正行為とか?」

 アイザワユカが、逆に訊いてきた。

「いや、そんなことはありません。監物さんについて訊いたのは、別に深い意味はないんです。監物さんの事故報告書を書いているものですから」

 門脇は言い訳がましい口調になった。鈴木瑪瑠理伊に監物のこととなると、まるで刑事のようだと言われたが、今も無意識に、そんな態度になっているのかもしれない。ただでさえ、総務は社員のコンプライアンス違反を追及するだけの部門だと思っている者もいる。気をつけないと誤解を生む。

「お二人とも仕事があるでしょうから、この辺で戻ってもいいですよ」

 訊きたいことは訊いたので、門脇は二人を職場に帰すことにした。二人は再度、「楢沢さんをよろしくお願いします」と言って頭を下げ、顔を寄せ合い何ごとか囁きながら、階下に通じるエレベーターに向かって歩いて行った。

 門脇はとにかく事故もなく終わって良かったと思った。屋上から社員が転落したなどということにでもなれば、また警察や医療関係との対応に追われることになる。

 門脇はふうっとため息をつきながら、屋上を囲む鉄柵に近寄り、そこからの景色に目をやった。二十一階の中央棟からは、本社敷地の全景が見渡せた。中央棟に比較するとはるかに低い本社関連ビルが五,六個、広大な緑の芝生の中に建っている。北西の方角に視線を下に移すと、研究開発棟はあった。上から見降ろした湾曲した鈍色の屋根は、異様に大きな獣の背中のように見えた。

 門脇が鉄柵から離れようとした時、一瞬強い風が吹き、また、赤い薔薇の花びらが宙を舞った。楢沢響子がパラボラアンテナの上に残したものだろう。その時門脇は、楢沢響子がそこで何をしていたか理解したような気がした。彼女は監物が自殺した場所である研究開発棟に向かって、花びらを投げていたのではないか。ちょうど船舶が遭難した場所のその海に、水難死した乗客の遺族が花束を投げるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る