第3話 研究開発部での聞き込み

 門脇はセキュリティセンターから直接、研究開発部に行って話を訊きたいところだったが、朝から自席を空にしているので、一旦、総務部に戻り自席に着いた。周囲の同僚の目も気にしなくてはならない。唯でさえ、労務担当は何をしているか分からないと思われているのに、朝から一度も席に着いていないと、どこであいつは油を売っているんだと陰口を叩かれる。

 門脇がパソコンを起ち上げ、社内の連絡事項を眺めていると、後ろの方から、ざわざわとした声やパソコンのキーを慌しく叩く音が聞こえる。同じ総務部のIR係、つまり、主に投資家向けの情報を提供している係が、来月に予定されている株主総会の準備をしているのだ。毎年、この時期になると季節行事の祭りのように、連中はせわしなく動きまわる。総会屋がどうだの、事前に株主に郵送された案内に不備があるとかないとか言って、大騒ぎをしている。しかし、今年の株主総会は、会社の業績が順調なので特に懸案事項はないはずだ。注視されるのは役員人事がどうなるかぐらいだろうが、役員人事は来週あたりに開催される取締役会で内定され、それを総会の案内に載せればいいだけだ。今年の役員人事は、社長はもう数年留任し、先ほど門脇を呼び出した菅崎専務が次期社長の候補として副社長に昇格するというものから、社長は退任し、後任には二人の副社長のうちどちらかが就任するなどさまざま憶測が飛び交っている、総務部員たちはそんな話をつまみに作業を進めながら、机でパソコンを凝視している門脇を見ると、暇だったら手伝えと言ってくる。冗談ではない。総会当日は総務部全員で会場整理にあたるのだから、それで十分だろう。こっちだってやることは山ほどある。

 門脇は研究開発部に電話をかけた。監物秀明の下で仕事をしていた坂本に、監物のことで話を訊きたいと言うと、相手は快く応じた。十五分程度の時間で良ければこれからでもいいと言う。坂本は素材研究グループリーダーの監物を補佐する立場のサブリーダーだった。監物の転落死の直後、労働基準監督署に提出する「労働者死傷病報告書」を作成するために、研究開発部長といっしょに坂本にも、自殺前の状況と監物の携わっていた仕事について訊いている。その時は、おもに答えたのは部長の方で、坂本は隣に座って、部長の言葉に「そうだと思います」というような相槌を打つ程度だった。隣の上司に遠慮して自分の意見は言いづらい、そんな印象だった。彼にも言いたいことはあっただろう。もう少し詳しく訊きたいと電話で言ったら、即座に「いいですよ」と答えてきた。門脇は、またどこかへサボりに行くのかと言いたげな目つきをしている総務部員たちを尻目に、逃げるように総務部を出た。

 研究開発棟のエントランススペースに入ると、坂本が正面奥の見るからに頑丈そうな鋼鉄製のドアから、ちょうど出てくるところだった。このドアの先からが研究開発の施設で、部に所属する社員のカードを所持していないとドアロックが解除されず、部員以外は先へは進めない。坂本は門脇と目が合うと軽く会釈をして、エントランススペースの脇に五つほど並んだミーティングルームのひとつに手招きした。

「お忙しいところ、お時間を頂いてすみません。監物さんの仕事についてもう少し突っこんだ話を訊きたかったものですから」

 門脇は、ミーティングルームのプラスティック製の椅子に腰を降ろす前に、深々と頭を下げた。坂本に会うのは公の業務というわけではない。ここは丁重な態度で臨んで、相手を持ち上げる方が色々と訊きだせるだろう。

「いや、かまいませんよ。今、ちょうど仕事の区切りが着いたところですから」

 坂本は存外に機嫌がよさそうだった。口元には笑みが漏れていた。前回、研究開発部長と同席した坂本は、憔悴したかのように虚ろな表情を浮かべていたものだった。

「ありがとうございます。早速ですが、監物さんが携わっていた研究のテーマなんですが、炭素なんとかという……」

 話の糸口はどこでも良かった。相手は研究が専門なので、その辺から始めれば機嫌を損なうことはないだろうと思っただけだった。

「カーボンカーボンコンポジット、日本語で言えば、炭素繊維強化炭素複合材。その製造法の画期的な改善です。前回も説明しましたよね」

「はっ……」

 そうだった、と門脇は思った。しかしその時は、専門的な研究分野については理解できず、炭素という言葉が二度出てくる難解な名前の化学素材ということしか覚えていない。研究開発部長の説明は一方的にしゃべるだけで、それを補佐するように話した坂本の言葉も、ぼそぼそとして良く聞き取れなかった。というよりもむしろ、門脇としては監物の研究内容を報告書に記載するために事務的に説明を受けただけで、身を入れて聞いてはいなかったのだ。

 坂本は一瞬、どうせこの男に説明しても分かりはしないというような、軽蔑した眼差しを門脇に向けたが、すぐに元の表情に戻った。

「炭素繊維は、元々、化学繊維メーカーだったT社などが、その得意な分野を活かして、研究開発された高度技術数社が圧倒的なシェアを占めていて、わが社で製品化しているのはほんの僅かです。ゼロに等しいと言っていいでしょう。だから、お分かりにならないのは無理はないとは思いますが、炭素繊維強化炭素複合材とは金属よりも丈夫で熱に強く、軽いという優れた素材です。これからますます、需要が見込まれる分野で、その製造法の改善の研究をやっているわけです」

「炭素繊維複合材といえば、最近、最新鋭の航空機の胴体なんかにも金属の替わりに使われていることが話題になっていますよねえ」

 門脇は新聞で読んだ記事を口にした。少しは、理解しているというふうに相手に思わせたかった。

「あれは炭素繊維複合材には違いないですが、おもに使われているのは炭素繊維強化プラスティック複合材です。あれもT社を含めて日本の二、三社が世界でも六十パーセント以上のシェアを占めています。われわれのグループがやっているのはそれをさらに熱処理して、耐高熱性、強靭性を高めた材質で、炭素繊維に炭素マトリックスを三次元的に複合したものです。航空機で言えば、胴体ではなく、ディスクブレーキに使われています」

 前にもそこまでの説明があったような気がしたが、よく覚えていなかった。門脇は黙って聞いていた。

「ロケットの先端部分やエンジンノズルに使われるほど、丈夫で高温に強い材質だと言えば、何となく理解していただけるでしょう。専門的なことはお分かりにならないと思いますが、重要なことは、その材料をより高性能で低単価なものにできる画期的な製造法を、われわれ研究グループが開発したということです。われわれは、ハイパーマトリックス法、HM法と呼んでいます。勿論、特許も出願しています。その優れた製造法によって、会社に多大な貢献ができると思います。このことはわれわれの誇りです」

 坂本は、われわれという言葉に力を入れて、何度も口にした。研究していたのはリーダーの監物だけではなく、サブリーダーの自分も含めてグループ全員であると強調しているように聞こえた。

「皆さんで、優れた研究をされているのは分かりました」

 門脇はこのまま聞いていると約束した時間がなくなるので、相手の説明をさえぎるように言った。単刀直入に、殺されたという噂を聞いたことがあるかと訊きたいところだが、そうはいかない。それでも、監物の死に話を持っていけば、相手が噂を聞いたことがあるかどうかはそれとなく分かるだろう。

「話を監物さんに戻します。難しい研究でお疲れだったのは、みなさん全員だと思いますが、監物さんだけ特に忙しかったというような事情があるんでしょうか? あの夜、彼はひとりで仕事をしていたんでんですよね?」

「そのようです。製造法の開発も完成し、一段落した後ですから、私も含めて、監物リーダー以外は定時に帰りました。われわれ以外のグループも、全員帰ったと研究開発部長が言ってましたから。研究開発部で残っていたのは監物さんだけだと思います」

「そうですか、一段落したのに、監物さんだけ、なぜ夜中まで仕事をしていたのでしょうね?」

「それはですねえ、研究開発が終われば、われわれの仕事は原則として終わりなんですが、その後の営業もやっていたんですよ」

「営業を?」

「会社としては、開発した新製造法、もしくはそれによって造られた製品を売らなければ一円の得にもなりませんから、営業があるわけです」

「それはそうです」

「HM法が完成する見通しがたったのは半年ほど前ですが、その頃から高機能素材事業部が中心となって販路の開拓を始めました。ところが、わが社では炭素繊維の実績がほとんどないので、国内ではなかなか販路を開拓するのが難しかったようなんです。そんな時に、海外営業本部にこのHM法を売り込もうという動きが現れたのです」

「海外に?」

「そう、ヨーロッパ地域担当の営業第三部です。そこの霧久保部長が先頭に立ち……」

「霧久保? あの霧久保部長ですか?」

「ああそうです。あの霧久保部長です」

 坂本は含み笑いような表情を浮かべ、頷いた。

 海外営業本部第三部長霧久保拓也。D化学工業の中で、三十台後半で部長職に就いているのは彼だけのはずだった。過去には、現専務の菅崎進が三十七歳で農業化学事業部長に就いたことがあった。菅崎の場合は、営業マンとしてもその後の課長としても、成績がずば抜けていたことが抜擢された理由だと言われている。それは数字として誰の目にも見えるものだが、霧久保拓也の場合は違った。

 社内の漏れ伝わってくる話によれば、霧久保はとてつもない課題処理能力を持っているという。どんな難題があろうと、その解決策を誰もが納得するほど理路整然と提示し、それを実行に移せばすべて成功したというのだ。まるで、三国志に登場する諸葛亮孔明のようだと言った人がいた。二十代の頃、霧久保の上司だった課長がずっと自分の手元に置きたがり、なかなか手放そうとしなかった。それを知った異なる部門の部長が自分の部の課長として引っ張り、すぐに部次長に昇格させ、自分の補佐役としてあたかも軍師のように置いた。さらにそれを知った海外営業本部長が、霧久保を部長として自分のところに引き上げた。海外営業本部の営業方針はすべて霧久保が作成したものだともいう。勿論、門脇はこの話はオーバーだと思っているが、その時、海外営業本部の実績が急上昇したことは確かだった。とにかく、そんな話が伝わってくるほど、霧久保は社内では「有名人」なのだ。

「その霧久保部長が先頭に立って、ヨーロッパのロケットエンジン製造メーカーに、HM法によって強度を増した炭素繊維強化炭素複合材の使用を働きかけたのです。そのためには、HM法に精通した技術者が必要です。それが研究グループリーダーの監物さんだったのです。何しろ、HM法に最も精通しているのは監物リーダーですから、他に適任者はいないでしょう。その頃から、監物リーダーは霧久保部長と行動を共にして、たびたびヨーロッパにも出張に行くようになりました」

「海外営業部と共同作戦というわけですね」

「そうです。今考えると、監物リーダーの過労はその時から始まっていたのかもしれません。出張から帰ってきたその日から、HM法の点検作業も欠かさずやる、というようなことがおうおうにしてありましたから。あの夜も、向こうの技術者と連絡を取り合っていたんだと思います。言ってみれば、監物リーダーは、研究開発と営業を同時にやっていたようなものです」

「しかし、国内でさえ販路の開拓が難しいのに、相手が海外のメーカーでは、採用してもらうのは到底無理でしょう」

「それが、採用されたのです」

「えっ?」

「われわれも初めは無理だと思ってました。炭素繊維強化炭素複合材の用途で最も多いのは、先ほども言ったとおり、航空機や競争用自動車のブレーキなんですが、それらの国内メーカーにも未だに採用してもらえていません。高機能素材事業部では、国産のHⅡAロケットのエンジンにもアプローチしたそうですが、主幹企業のM重工業から相手にされなかったと聞いています。やはり、これまでまったくといっていいほど実績がないことが、ネックとなっているようです。ところが、海外営業本部の霧久保第三部長は、ヨーロッパのロケットエンジンメーカーと交渉して、ロケットの先端ノズルに試用してもらうことを短期間で了承させたのです。これには驚きました。ロケットの主力エンジンではなく、両脇に取りつける補助エンジンブースタの方で、かつ一回かぎりの試用というかたちですが、品質が予想したとおりの結果が出れば、その後の本格採用に道が開けます」

「それは本当に驚きですね。ヨーロッパのロケットといえば、あのアリアンですか?」

 門脇は新聞かテレビで聞いたことのある名前を口にした。

「そうです。よくご存知ですね。そう、アリアンです。それを製造しているのがEADSアストリウムスペーストランスポーテーション社という長い名前の会社です。この会社は、エアバス社や戦闘機メーカーを傘下においているヨーロッパ最大の航空宇宙企業です。この馬鹿でかい会社に霧久保部長は、なんと三ヶ月で、HM法を使って先端ノズルを製造することを認めさせたのです。実績がないことは国内と同じなのに、どうやってヨーロッパの企業に食い込んでいったのか、実は私にもよく分かりません。その辺を監物リーダーに訊いたことがありましたが、自分は相手方に技術的な説明をしただけで、交渉はすべて霧久保部長がやっていたので分からないと言っていました」

「すべて霧久保部長がですか……」

 門脇は、長身の霧久保が外国人の企業幹部と交渉する姿を想像し、あいつならそんなこともあり得るのかもしれない、と思った。

 門脇は霧久保と直接話をしたことはないが、海外営業本部の事務担当課長と会っている時に、近くで誰かと打ち合わせをしている姿を見たことがある。その物腰は柔らかで、やや大げさに身振り手振りを交えて話す姿に、まるで西洋人のような印象を受けた。その霧久保が外国人の企業幹部を説得し、短期間に交渉をまとめあげることは、門脇には充分あり得ることのように思えた。

「私が具体的な話を聞いた時には、すでに試用契約が締結されていました。試用が決まってからは、監物リーダーだけでなく、研究チームの五人が三回ほどヨーロッパを訪れることになるのですが、それは非常にハードなものでした」

 坂本はいくらか懐かしむような表情を浮かべ、話を続けた。

「たいへんな苦労があったでしょうね」

「スペーストランスポーテーション社の本社にあたるところがパリにあるのですが、エンジンの製造部門はドイツのミュンヘン郊外にあるんです。その間を飛行機で何度往復したか分かりません。一番苦労したのが、言葉の問題です。相手の技術者とはすべて英語です。われわれも日頃から、英語の専門の文献は読んでいるので、専門的な単語は分かります。しかし、会話はやったことがありませんので、どう表現していいか分からないことが多々ありました。通訳には、海外営業本部と現地のD化学ヨーロッパの社員がついたんですが、彼らは化学の専門用語がまったく分からないときてるので、お互いの言い分が正しく伝わらないのです。あれには本当に苦労しました。なかでも、こっちの技術者の代表である監物リーダーは、英語が特に不得意のようで、意思疎通が思うようにできないことにとてもいらいらしてました」

「その頃から、監物さんは心労が溜まり始めたんでしょうね?」

「だと思いますよ。いつも決まった時刻に薬を飲んでいたんですが、われわれには胃腸薬だと言ってました。その時は、みんな胃がきりきりするぐらいな状況だったので、疑いませんでしたが、今考えれば、あれは抗欝薬だったんだと思います。われわれも、もっと監物リーダーを支えてやれば良かったんですが、もともとHM法の基本的なアイデアは監物リーダーが思いついたもので、ついついリーダーに重要なことは任せてしまうきらいがありました。それでもなんとか、エンジンの先端ノズルの製造が完成し、日本に帰ってきた時には、リーダーは疲れきっていたんだと思います。みんなもそれなりに疲れていたのと、完成した高揚感で、リーダーのことを考える心の余裕がなかったんですね。その後も監物リーダーは、ひとりで黙々とHM法の点検作業を続けていたのにもかかわらず……。リーダーを自殺に導いた責任の一端は、われわれに、中でもサブリーダーだった私にあります」

 坂本はうつむきかげんになり、目をしばたたかせて、大きくため息をついた。

「いや、責任があるとすれば、関係するみんなにあると思います。職場の労働環境を改善する責務を負っている労務担当者の私にもあるでしょう。言ってみれば、会社全体に責任があるんじゃないでしょうか」

 門脇は、坂本を庇うように言ったが、責任は会社全体にあるというのは本音だった。門脇ですらこれまでの仕事の中で、死にたくなるぐらい辛いと思ったことが、やはり一度や二度はあった。しかし、「死にたくなる」というのは言わば比喩であって、本当に自殺したい思ったわけでは決してない。社員を自殺に追いこむほどの仕事を与えるなどということを、会社は決してしてはならないのだ。

「それに、研究開発部には成果を急ぐ事情もあったんです」

 坂本はうつむきかげんの顔を上げた。

「と言いますと?」

「研究開発部にはここ数年間、ヒット作といえる成果が出てないんですよ。ご存知だと思いますが、研究開発を行っているのは、研究開発部だけではありません。各事業部の工場でも研究開発はやっているんです。研究開発部は各事業部から独立して、それらにとらわれない独創的な研究をするために設立されたんですが、やはり目立った成果を出さないと、部の存在意義を問われることになります。各事業部でも研究をしているのだから、独立した開発部が本当に必要なのかという議論になるわけです。最近、部長から聞いたんですが、社の上の方では、すぐに廃部とはしないまでも、部の縮小、つまり今ある研究グループを減らすことが検討されているらしいんですよ。とにかく成果を出さないと、自分のグループが無くなるんじゃないか、そんな焦りにも似た雰囲気が漂っていたような気がします。特にグループリーダーには、重圧に感じられたと思います」

「なるほど、そうですか。どこの部門にも大変な苦労があるものですね」

 門脇は、以前は研究開発部については他の部門とは隔絶された、いわば独立した研究機関のようなもので、ただ好きな研究をやっていれば給料をもらえるようなところだと思っていた。そう思っていたのは、別に根拠があってのことでではなく、労務担当者でも機密性を理由に施設内部には立ち入りが禁止されているので、外から勝手なイメージを抱いていただけだった。サラリーマンは、とかく他の部署の仕事は楽なものだと思いこむ癖がある。

 坂本は監物の仕事ぶりから研究開発部の現状まで話すと、自分たちの苦労が理解されたと思ったのか、いくらか満足げな表情を浮かべた。

 ここまでの坂本の話には、監物の自殺を疑う要素が感じられない。もし、自殺ではなく、何者かに突き落とされたのではないかなどという噂を聞いていれば、話のどこかでそのことに触れてもよさそうなものだ。研究開発部でその噂が広まっていれば、監物に最も近い立場にいた坂本の耳に届いているだろう。というより、職場でそのような不謹慎な噂話などできる雰囲気ではないようだ。

 さりげなく腕時計を見ると、約束した時間の十五分をとっくに過ぎていた。門脇は、この辺で話を終わらさなければならないと思ったが、最後にひとつ訊いておきたかった。自殺する人物にとって、直前に何か、きっかけのようなものはあるのだろうか? また、周りの人間から見て、変化ののようなものがあったのだろうか?

「ところで、自殺の直前ですが、監物さんに変わった様子とかなかったですか?」

「変わった様子? 何か、刑事ドラマで警察が訊くような質問ですね」

 坂本は薄笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻り、「いや、失礼。ふと、そんな気がしたもんですから。そうですねえ。変わったことねえ。強いて言えば……」と腕を組み、思い出すそぶりをした。

「あれは、自殺の一週間ほど前だったですかね、日頃温和なリーダーの怒鳴るような、大きな声が聞こえたことがありました。霧久保部長と二人で、実験フロアの脇にある小会議室に入りこんで話し合っていた時なんですが、突然、リーダーの声が聞こえたんです。それは、何とかだー、と言ったんですが、何とかの部分はよく聞こえなかったんです。普通にしゃべっていれば、小会議室の声は外には漏れないようになっているんで、相当大きな声を出したんだと思います」

「大きな声を、ですか。何かあったんでしょうか? たとえば、意見が大きく違ったとか」

「私も気になって、リーダーが小会議室から出てきたときに訊いたんですが、不機嫌そうに、何でもない、と言ってその場を去ってしまったんです。あくる日にももう一度訊いたんですが、今度はいつものリーダーらしく穏やかな表情で、ふたりの主張が少しだけ違っただけさ、気にしないでくれ、と言うんです。まあ、確かに、研究には意見の違いはつきもので、意見を戦わせることでいい方向に向いていくということが多々あるものなんです。だから、私もそれ以上、訊きませんでした」

「そうですか」

 坂本の言うとおり、意見の違いぐらいは日常的にあるのだろう、と門脇は思った。大したことではないが、精神的に疲労していた監物は、日頃見られない大きな声を出してしまった。そんなところだろうか。それが自殺への兆候と言えば、そうとも言える。

「変わったことと言えば、それぐらいですかね」

と坂本はあっさりと言うと、うれしそうな表情を浮かべ言葉をつないだ。

「それよりも、あさってに、アリアンの打ち上げが予定されているんですよ。われわれのHM法によって製造されたロケットノズルを積んでいます。大会議室でその打ち上げを確認することができるんです」

「大会議室で?」

「そうです。今回はフランスの公共放送フランス2で打ち上げが生放送されるんですよ。その中継放送を大型テレビモニターのある大会議室で見るわけです」

「ロケットの打ち上げは、フランスじゃあ、その都度生中継されるものなんですか?」

「重要な衛星を打ち上げるときは中継するようですよ。今回のアリアンはガリレオを上げるんです」

「ガリレオ・ガリレイですか?」

「いや、そのガリレオじゃありません。GALILEOです。欧州の衛星を使った即位システム、その英語の頭文字をとったものです。日頃、われわれが使っているGPSと言うものがありますね、あれはアメリカがつくったものです。中国も同じようなものをつくっていますが、そのシステムをヨーロッパでもつくろうということです。ESA欧州宇宙機関というところがやっているんですが、今まで四基の衛星が打ち上げられています。それらの四基ともロシアのソユーズを使って打ち上げていました。それが、今回からアリアンを使うことになったんです」

「なるほど、その打ち上げが成功すれば、わが社のHM法にとっても大成功というわけですね」

「そうです。社長以下、役員も集まると聞いていますが、もし、暇ならばあなたも是非ご覧になったらいかがですか?」

「いや、それほど暇と言うわけではないので……」

 と門脇は首を横に振ったが、時間があれば大会議室に行ってもいいと思った。そこに集まる者は、ロケット製造に使われたHM法が、自殺した監物の成果であることを知っているだろう。ということは、誰かの口から監物の話も聞かれるかもしれない。

「他にも、お尋ねのことが何かありますか?」

 坂本も予定の時間をとっくに過ぎていることに気づいたようだ。

「貴重な時間をありがとうございました。予定をオーバーしてしまって、すみません」

 門脇が礼を述べると

「いや、かまいませんよ。何か私にできることがありましたら、開発部のリーダーとして協力しますよ」

 と坂本が笑顔で鷹揚に言葉を返した。

 きょうの坂本は、雄弁といっていいほど話しぶりが滑らかで、朴訥な印象を受けた前回と比べれば別人のようだった。話の内容も研究開発部全体を見回したかのように、視座が高くなっているのだ。それにどこか機嫌がよさそうで、上司にあたる人間の死に関わる話をしているのに、ときおり笑顔さえ見せた。、その辺に何か違和感があったが、その理由が分かった。坂本は、来月一日付けでグループリーダーに昇格する内示を受けたのだ。「開発部のリーダーとして」とは、サブリーダーとして、ではなく、グループリーダーとしてという意味だ。門脇はこの人事異動については総務部長から薄々聞かされていたが、それをここで思い出した。

 坂本は、サブリーダーになって二年だから、グループリーダーになるには、他の研究グループのサブリーダーを四,五年経験しなければならないのが通常の人事だ。それが、監物の死によって突然の空きができたので、昇格が四,五年早まったのだ。研究開発部のグループリーダーは部長の一段下の役職で、他の部では部次長にあたる。門脇のチームリーダーより上の役職になっている。年齢も、門脇より五つほど若い。

 それが坂本の機嫌のいい理由に違いない。現在のグループリーダーは空席で、内示が出ているのだから、既に事実上のグループリーダーの職責を果たしているはずだ。

 時間も十五分と約束したが、グループの管理者ならば、やりかけの仕事があっても「ちょっと出かけてくるから、やっとけよ」と部下に任せればいい。時間はどうにでもなる。

 門脇は微かに憤りを覚えたが、表情には表さなかった。坂本は上司の死を知った時は自分にも責任があるとを感じながら苦しみ、やはり悲しんだに違いない。しかし、それはそれとして、結果的にその死によってもたらされた幸運は別なことで、その幸運をも悲しまなければならない理由はない。坂本はグループリーダーとして、今後どうやって職場を動かしていくか色々と抱負を練っているのだろう。それが他人には機嫌よく見えたとしても、責める方がおかしいのだ。

 門脇は話が終わって立ち上がってから、丁寧な言葉遣いをしておいて良かったと思った。何しろ、相手は門脇より上の役職なのだから。

 門脇は総務部に戻り自席に着いた。結局、坂本の話からは研究開発部には殺人事件の噂などまったくなさそうだった。セキュリティセンターにもなさそうだったし、勿論、総務でそんな話は聞いたことがない。坂本は、監物は海外営業本部の第三部と一緒に仕事をしていたと言っていたので、噂の出所としてはそこも考えられる。しかし、監物の所属部署には事故報告書を作成するという名目が立つが、それ以外の部署に、おいそれと訊いて回るわけにはいかない。労務係は警察ではない。特に親しくしている者がいれば、それとなく訊くこともできるが、海外営業本部にはそういう者はいなかった。

 何か海外営業本部を訪れる名目はないかと門脇は考えたが、妙案は浮かばなかった。時計を見ると、午前十一時を過ぎていた。このまま席に着いていると、後ろの部員たちの喧騒が仕事の邪魔になってしかたがない。きょうは、これから早めの昼食をとり、午後からは監物の遺族である母親の所へ行き、労働基準監督署に提出する労災の申請書の手伝いをすることにしよう。門脇は自席の電話を取り、栃木県に住む母親の番号を押した。

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