第2話 噂はどこから

 門脇はエレベーターで十四階の情報統括室に向かった。十四階というのは、総務や財務といったコーポレート部門が一階から三階までにあるのに対してだいぶ離れているが、これは情報統括室が五年ほど前に作られた新しい部署だからだ。ここではコンピュータシステムの設計管理が主な任務なのだが、それに加えて会社が発するさまざまな情報が会社にとって適切なものかどうか判断することや、外部からのハッキング、情報漏洩などの監視を行っている。

 情報統括室のドアもコンプライアンスメール読み取り端末の置かれている部屋と同様にロックが掛けられていた。他のほとんどの部屋は社員ならば自由に出入りができるのだが、機密性がある部署は権限のない者の出入りが禁止されている。

門脇は社員カードを読み取りスリットに通してドアを開けた。門脇には通常は出入りする権限はないのだが、業務改善の計画書を取りに行くと予告してあるので、情報統括側であららかじめ権限を付与してあったのだ。

 情報統括室長は鳥井剛三という名だった。鳥井はアメリカのビジネススクールでMBAつまり経営学修士を取得してD化学に入社している。入社後も、全執行役員が参加する経営会議の事務局にあたる経営企画室に十年ほど在籍し、三年前に情報統括室長に異動した。会社の中枢にいるという意識があるせいか、門脇とは同年なのだが、日頃からお前らとは出来が違うという態度が顔に出ていた。確かに、室長という職位は門脇のチームリーダーという役職より上に違いないが……。

 鳥井はコンピュータのサーバーやモニターが並んだ室内の奥で、ひときわ大きな机の前に座っていた。そこには三台のコンピュータモニターがあり、鳥井はせわしなくモニターの前のキーボードを叩いていた。席に近づくと、鳥井の横に男が立っていて、男は門脇に気づくと腕を伸ばし、素早く三台のモニター画面前に置かれたキーボードを連続して押して、それまでの画面を消した。何をしているのか見られたくないという意図は明らかだが、業務の性質上そういうこともあるのかと、門脇は気にしなかった。

 男は外来者用のネームプレートを胸に着けていた。そこにはD化学がコンピュータシステムを納入しているF電機の会社名があった。

 男が「では、私はこれで」と言って立ち去ろうとすると、鳥井は「すぐに済むよ」と言ってそれを制した。

「改善計画書を取りに来たんだよね?」

 鳥井はやりかけの仕事を中断されたせいか、不機嫌そうな顔を門脇に向けた。

「できているけど、何もわざわざ取りに来なくても、メールで送れば済むことだろう」

 鳥井は、残業縮小への業務改善計画書をほうり出すように机の上に置いた。

「それはそうですが、上から早く揃えろと命令されているので、急いだんですよ。情報統括室以外は全部提出されているんでね」

 門脇は、あんたの提出が遅いから取りに来ざるを得なかったと言いたかったが、そこは抑えた。

 門脇は近くにあった折りたたみパイプ椅子を広げて座り、計画書をぱらぱらとめくった。

「何か疑問でもあるのか?」

 鳥井は不機嫌そうな顔を崩さなかった。

「いや、項目の記載漏れがあるかどうか見ているだけです」

 門脇は暫く書類に目を通し、ゆっくりと閉じた。

「何だ、まだ何か用があるのか?」

 鳥井は立ち上がろうとしない門脇に向かって言った。

「ここに来たのは、ちょっと訊きたいことがありましてね。監物さんが自殺した夜、システムエラーが起きましたよねぇ。その原因は何だってんですか?」

「システムエラー? そう言えば、そんなこともあったようだが、原因は知らんよ。その後すぐに修復して、システムは正常に戻っている。こっちの仕事はシステムが正常に作動しているかどうかが問題なんだ。原因は何であれ、正常に戻ればそれでいい。だから、問題にしなかった」

「そうですか。F電機さんも原因については分からないということですか?」

 鳥井の隣で下を向いていた男にも訊いてみた。

「はあ、申し訳ないですが、弊社も原因については正確に承知していません。あの夜に落雷があったと聞いていますから、たぶん、そのせいかと……。勿論、落雷からコンピュータを守る装置は設置してあります。落雷以外に変わったことがあったわけではないので、やはり、落雷のせいかと……」

 F電機の社員はいくらか困惑したように答えた。

「コンピュータシステムはたまに不具合を起こすが、その原因の詳細は分からないことが稀にあるんだよ。まあ、コンピュータの機嫌でも悪かったんだろうよ」

 鳥井が薄ら笑いを浮かべながら言った。用が済んだら早く帰れという意図が透けて見えた。鳥井がこういう人を馬鹿にしたような態度をとるのは初めてではなかった。誰にでも無愛想なのだ。総務部長の山瀬が「MBAか何かしらんが、あいつの態度は不愉快極まりない」と憤慨していたのを思い出す。門脇は、会社は色々な人間の寄せ集めで仕方ないとあまり気にも止めないようにした。地位が下の者にだけでなく、上の者にも同様の態度なのだから、まあ、ましとするほかはない。


 鳥井にシステムエラーの原因を訊きに行ったのが間違いだった。コンピュータシステムを管理しているは情報統括室だけではない。情報統括室は会社のシステムの中枢を設計管理するという役割を担い、システムエラーなどのメンテナンスの方は関連会社のセキュリティセンターが請け負っている。出退勤記録が消えたというのなら尚更、社員の出入りを管理しているセキュリティセンターの方が事情が分かるのではないか。それに、そこには情報統括室の社員より話が遥かに訊きやすいシステム担当者がいた。

 門脇は情報等室を出て一階に下り、エレベーターホールの隅で携帯電話を取り出した。他人に聞かれて困ることではないのだが、やはり、そのシステム担当者と話す時は周りに誰もいない方がやりやすい。門脇は壁際で行きかう社員に背を向けながら、該当する名前を選択し発信した。

「総務部の門脇ですが……」

「ハーイ、ミスターK。きょうは何の用? 遊んで欲しいの? 遊んであげるよー」

 いきなり会社の中としてはふさわしくない、歌うような陽気な声が携帯電話から響いた。

「いやその、あの。そうではなく……」

 門脇は混乱して間の抜けた声を出した。突拍子もないことを言ってくるのを半ば予想はしているのだが、それはいつも門脇の思考を超えていた。言葉に詰まっていると、うふっという小さな笑い声が聞こえてきた。

「何かいい話しー?」

「いやその、システムのことで訊きたいことがあって」

「なーんだ、仕事の話ね。今、休憩室にいるから、そこでどう?」

「オッケー、これからすぐに行く」

 電話の相手は鈴木瑪瑠理伊(メルリー)、二十四歳。近頃は、音を単に漢字で当てはめたような名前は珍しくなくなった。

 彼女は二年前にシステムメンテナンスの専用担当者として、セキュリティセンターに採用された。それ以前はコンピュータゲームの制作会社にいた。父親が大手電機会社の電子機器部門の技術者だった影響で子供の頃からコンピュータに興味を持ち、父親の書架から専門書を持ち出しては自分でプログラムを組んで遊んでいたそうだ。高校生の時には、ハッカーまがいの行為で警視庁のハイテク犯罪対策総合センターから厳重注意を受けたこともあるというから、この道には相当のレベルに達していることは間違いない。その後、専門学校に進み、就職では父親は自分の勤める電機会社に入れようとしたが言うことを聞かず、自分でさっさとコンピュータゲームの制作会社に決めてしまった。大手の電気会社は窮屈で、小さなゲーム製作会社なら自由がきくと考えたが、実際には小さな会社でも自由に仕事ができるわけでなかったらしい。 

 セキュリティセンターは、今いる本社中央棟とは別棟にある。門脇はエントランスホールの北側にある社員通用口に向かった。ここのドアは二十一階建のビルのわりには小さめにできていた。その前に社員が立ち、持っている社員カードをセンサーから五十センチ以内にかざすとそれを関知してドアが開く。つまり、セキュリティチェックを受けることになる。ドアを通過する際に、通過した社員がひとりでも複数でも、全員の社員カードを読み取り、社員名と通過した時刻を記録するようになっていた。勿論、社員通用口とは反対側の正面玄関にも同じような装置が設置されている。

 この中央棟だけでなく、本社敷地内にある社屋のすべての出入り口にはこのような装置が設置されていた。敷地内に入るには、正門で警備員に社員カードを提示する。社員カードを持たない者、つまりカードを忘れた社員や、来客、出入り業者は正門で社員カードに代わる認識カードを発行される。したがって、社屋に出入りする者は、たとえ社長といえども例外なく、氏名と通過時刻が記録されるシステムになっていた。その記録が、監物秀明が自殺した日だけ消えて残っていない。単に偶然に過ぎないかもしれないが、システムエラーがどうして起きたのか、兎も角その原因を知りたいと門脇は思った。

 D化学工業の本社は、東京の中心地から離れた大田区の多摩川沿いにあり、約八万平方メートルというかなり広い敷地を有していた。敷地内は整然と植えられた樹木と短く刈られた芝生に覆われ、美しく清掃の行き届いた公園のようだった。その中心に管理部門や各事業本部といった本社の主要な組織が入っている中央棟がそびえ、周りに本社機能に関係するいくつかのビル群がぽつぽつと点在していた。

 門脇は敷地内を中央棟から裏手に向かって歩いた。鮮やかな黄緑色の芝生の間を舗装されたまっすぐな道路が続いている。数分歩くと、門脇は足を止めた。右側奥にひときわ高いブナ科の木々に隠れるように、鈍色をした研究開発棟が見えたからだ。七階建てに相当する建物には窓がなく、屋根が動物の背骨のように丸い。ビルというよりも金属か合成樹脂でできた異様に大きな塊りのようだ。その建造物の裏の北側の壁から、監物が転落死した非常階段が地上に向かって降りていた。

 門脇の頭に、深夜まっ逆さまに落ちていく人間の姿が浮かんだ。勿論、警察の調べでも明らかなように、その瞬間を見た者は誰もいない。夜中まで残業で残っている社員がほかにいたとしても、この建物には窓がないのだから、非常階段のドアが閉まっていれば建物内からはまったく見えない。中央棟からは、非常階段は反対の位置にあるので完全に死角になっている。照明も緑色の非常灯の小さな明かりだけだ。もし、突き落とした犯人がいたとしたら、敷地内を巡回する警備員が過ぎ去った後ならば、誰にも見られずに実行することはたやすいことだ。

 とはいっても監物は遺書を持っていたし、彼が使用していたパソコンにも作成されたものが残されていたと警察は言っている。門脇自身も後で遺書の文面を確認している。自殺を疑うのはやはり馬鹿げている。

「こうして見ると、けったいな形をした建物ですなあ」

 立ち止まって研究開発棟を見つめていた門脇の後ろから、ふいに声が聞こえた。振り返らなくとも、特徴的な関西訛りから門脇には誰だか分かった。セキュリティセンター長の紺野晴男だ。普段は標準語で話しているが、時折、関西弁が口から出る。

「お忙しい門脇さんが、研究開発棟をしげしげと眺めておられるとはおめずらしい。あそこに何か変わったことでも?」

 紺野は門脇の横まで来て、今度は完全な標準語で話しかけてきた。足元を見ると普通の革靴を履いているが、足音がしなかった。門脇の後ろまで近づいてきたときも、聞こえなかった。どうやらこの男は、特殊な歩き方をするらしい。

 門脇は会いたくない男に会ったと思った。セキュリティセンターは、関東総合サービス株式会社という名のD化学の子会社の一部門で、紺野は三年前にセンター長として出向していた。その役職は、D化学本社の基準で言えば、部長職にあたる。それに、門脇より五歳ほど年長でもある。その紺野が、門脇には顔色を窺うような丁寧な話し方で接してくる。それが門脇には生理的に不快だったし、不自然な作為さえ感じた。この男は職務上総務部長と行動を共にすることが多い門脇を、総務部長の情報収集係りと邪推しているのではないか。確かに、総務部長は部長職で唯ひとりの、取締役ではないが執行役員であり、役職がら常務や専務、さらに社長とも会う機会が多い。門脇の知り得た情報が総務部長を経て、会社の上層部に上がっていくのではないかと想像しているのだろう。少しでも門脇に好印象を与えて、なるべく都合のいい情報が上層部に上がるようにと、彼なりにささやかな努力をしているということか。

「いやあ、立ち止まっていたのは、センター長がおっしゃるとおりけったいな形をしているなあと、つい目が行っただけです。これからセキュリティセンターの鈴木瑪瑠理伊さんに、システムのことでちょっと訊きたいことがあって伺うところです」

「セキュリティシステムのことなら、少しは私でも分かりますよ。どんなことでしょう?」

「大したことではないんです。システムの基礎的なことで分からないことがあるものですから、そこんとこを教わりたくて……」

「そうですか。彼女なら丁寧に教えてくれますよ。彼女はコンピュータのプロですから。いやね、私もセンターに行く前はITなんていうものはちんぷんかんぷんだったんですよ。それが彼女に基礎から教わったおかげで、少しは分かるようになりました。実にいい娘ですよ、彼女は」

 横に並んだ紺野は、微笑を浮かべながら首を傾け、門脇の顔を上目づかいに覗きこんできた。まだ何か言いたそうだった。

門脇は「では失礼します」と、かまわず歩き出した。紺野に付き合っている暇はない。

 セキュリティセンターは敷地内の北西の角に、塀にへばりつくように建てられた比較的小さな建物だった。塀の外は、すぐそこに多摩川が流れていた。玄関フロアに入ると、正面はガラス張りの部屋になっており、そこには二名の警備員が壁中に埋めこまれた監視カメラのモニターを、眠そうな目つきで眺めていた。右横の壁にはセンター社員の出勤予定が記されたボードがあった。なるほど、システム担当者の現在の出勤者は鈴木瑪瑠理伊だけだった。

 門脇がフロアの中を見回していると、左側の金属製のドアが鈍い音を立てて開いた。

「イエーイ、ミスターK。こちらにどうぞ」

カーキ色のセキュリティセンターの制服を着た鈴木瑪瑠理伊が、玄関フロアに響く陽気な声を出して現れた。

 二人は二階の休憩室に向かった。先に階段を上がる瑪瑠理伊のベージュの制服のパンツにぴっちりと包まれた、リズムカルに揺れる果実のような尻がいやおうなく門脇の視界に入った。門脇はすぐに視線を下ろした。彼女以外のセキュリティセンターのスタッフは全員男性なので女性用の制服を作らなかったせいなのか、彼女は男性用の制服を着用していた。それが却って身体の線を強調していた。

 門脇が瑪瑠理伊にコンピュータに関することを気軽に訊けるようになったきっかけは、門脇の自席のパソコンの内部電池が切れたことからだった。「時計は狂ってるし、また、調子が悪くなった」とキーボードをガンガン叩いていた門脇に、たまたま総務部にやって来ていた彼女が近づいてきた。胸元は一番上の制服のボタンがはずされていた。

「電池が切れてるんじゃない?」

「んっ?」

 門脇はパソコンに電池が使われていることも知らなかった。

「ボタン電池を取り替えればいいのよ。ちょっとどいて」

「ああ、はい」

 初対面とは思えない瑪瑠理伊の態度と言葉使いに圧倒されて、門脇が立ち上がると、彼女は持っていたプラスティック製のバッグを机の上に置いて、ディストップパソコンの横蓋を手際良く開けた。電池交換には一分もかからなかった。

「これでオッケイ。時計も正常に戻ったでしょ。調子が悪くなったら、いつでも呼んでね」

 と瑪瑠理伊は言うと、帰り際にウインクをして立ち去っていった。

「誰なんだ? あのグラマーなねえちゃんは」

 思わず口から出た不謹慎な言葉に、隣の席の若い社員がニヤニヤしながら答えてくれた。

「知らないんすか、セキュリティセンターに最近採用された鈴木瑪瑠理伊っていうシステム担当者ですよ。可愛いっすよねぇ」

 その頃の門脇は、同年輩の社員と同様にやはりパソコン操作が苦手だった。会社ではIT化が進み、それまで書類に手書きしていたものがすべて電子データに替わっていた。パソコンがいじれなければ仕事が進まなかったが、分からないことをいちいち隣の若い社員に訊くのも気が引けた。もっと気軽に訊ける相手はいないかと思いあぐねていた。電池の交換の後、暫くしてから門脇は試しにパソコンの不具合と偽って、彼女を呼んでみることにした。勿論、隣の若い社員が席を外している時のことだ。

 瑪瑠理伊は、ワードとエクセルの区別もつかない門脇に、笑顔で快く何でも教えてくれた。それ以来、コンピュータの知識については彼女から教わることにした。ちょうど、先生と生徒のようなもので、不思議なことに彼女の上下関係を無視した言葉遣い、俗に言うタメグチも気にならなかった。半年も経つと、隣の若い社員にも負けないぐらいの知識を得ることができた。

 セキュリティセンターの休憩室は、二階の中央管理室と書かれた部屋の向かい側だった。そこには、手前にテーブルとソファー、その横に給湯施設と小さなキッチンが備わっていた。壁には薄型テレビが据えつけられ、奥の方には簡易ベットが二台、カーテンの隙間から見えた。瑪瑠理伊に招き入れられた門脇は、まるでワンルームマンションのようだと思った。瑪瑠理伊と二人だけというのは、他人から見られたら誤解を生むかもしれない。

「ここ以外に話ができるところはないかな?」

 門脇は部屋から出ようとした。

「ここが一番いい場所だよー。この会社の敷地内は、あっちこっちに監視カメラがあるけど、この部屋に監視カメラはないの。ここならゆっくり話せるよ。それに防音だから、エッチなことをしても誰にも分からないしねー。くっくっく」

 瑪瑠理伊は喉を鳴らすような笑い声を立て、門脇の上着の袖をひっぱりながらソファーに座った。つられて門脇も腰を下ろしたが、彼女とは少し距離を置いた。先ほど、セキュリティセンター長にシステムの話を訊くと断わってある。誰かがここに入ってきても、言い訳はできると思い直した。

「冗談を言っている場合じゃないんだ」

門脇はできるだけ硬い表情をつくった。

「二週間前、研究開発部の監物君が自殺した日に、セキュリティシステムに障害が起きたことを覚えている?」

 瑪瑠理伊は少しの間門脇の顔を見つめると、それまでの笑顔から一転して、泣き出しそうな顔になった。

「話ってそのことなのね。勿論、覚えてる。私も死体を見たから」

「そうか、きみもあの現場にいたんだ」

「そう。あの夜、三時半頃だったかなあ、システム担当主任の菊池さんから携帯に電話があったの。センターは二十四時間、システム担当の誰かが詰めることになってるんだけど、あの夜の当番の菊池主任から、突然コンピュータシステムがダウンしたので、来てくれないかって呼び出されたの。二時十一分にシステムダウンが起って原因を探っているんだけど分からないって」

 門脇が現場に着いたとき、紺野センター長と菊池が警察に立ち会っていたのを覚えている。その周りには何人かの社員が恐る恐る遠巻きに眺めていたが、その中には彼女もいたらしい。

「突然のシステムダウンか。あの夜、落雷があったらしいけど、やはりそのせい?」

「そう、菊池主任は雷が何回か落ちて、その後にシステムがダウンしたと言ってた」

「一応、情報統括室にも訊いてみたんだ。その場にいたF電機の社員も落雷のせいじゃないかって言ってたよ」

「局地的でこの辺りだけだったらしいのよね。私が会社に着いたときには、もう落雷はなかったけど」

「そうか、やはり落雷のせいでシステムエラーが起きたんだね」

「でもねぇ。落雷が原因でシステムに障害が起きるなんて、ほとんど考えられないのよ。落雷でサージノイズってゆうんだけど、つまり過電圧が流れたりすることはよくあるので、その対策の防御システムは完備してるの。今回もそれが働いてるはずだから、落雷で障害が起きる可能性はゼロに等しいと考えていいんだけど」

「それじゃあ、落雷の影響で停電でも起きたのかな?」

「いいえ、それはなかったの。電源系統の破損もなかったし、敷地内の明かりも落ちるといこともなかった。念のため、東京電力にも問い合わせしたんだけど、この地域で停電はなかったそうよ」

「ふうん、停電でもないとすると、何なんだろう? コンピュータの機嫌が悪かった?」

「エラーの原因が難しくってなかなか突き止められないと、そういう言い方する人はたまにいる。でも、原因は必ずある。コンピュータは何といっても機械なんだから」

「とにかく、今のところは原因は断定はできないということだね」

 門脇は、システムエラーの原因に疑問を抱かせる何かがあって、そのことが殺人事件の噂に繋がったのでないかと、なかば期待のような思いにとらわれていた。しかし、どうやらそれは違っていたようだ。落雷が原因だと断定されなくても、落雷があった直後にシステムがダウンしたという事実を特に不審に感じる者はいないだろう。いくらかがっがりして下を向いた門脇に、瑪瑠理伊が呟くように言った。

「でも、おかしいのよ。システムはいつの間にか復旧してたのよねえ」

「どういうこと?」

 門脇は顔を上げた。

「それがね。菊池主任から電話があって、色々支度して……。女はすぐには出られないから、私がマイカーを飛ばして会社に着いたのが四時四十五分。その前に落雷の影響を見に菊池主任と制服の警備員さんが構内を巡回しに行って、監物さんの死体を発見したらしいの。それが四時十分頃だったらしいけど、もう大騒ぎで、システムのことなんか後回しになっちゃった。菊池主任は死体を発見して、すぐに警察と紺野センター長に電話したらしいから、警察がすぐに来て、センター長も私とほぼ同時にタクシーでやって来た。それに、泊り込みで仕事していた社員も何人か、そう三,四人かな、ぞろぞろ出てきた。それでみんなが研究開発棟の前に集まっている間に、いつの間にかシステムは復旧してたってわけ。正確に言うと、四時五十八分三十五秒に復旧してたの」

「よく分からないんだけど、ダウンしたコンピュータが、勝手にまた動き出すなんてことがあるの?」

「そんなの、聞いたことないわ。そのことをF電気に話したら、落雷によるものかどうか正確には原因は分からないけど、兎に角、復旧しているんだから問題ないでしょ、なんて言って、大して調べずに帰って行ったわ。連中もむしろ人が死んだことの方に興味があったみたい。いやになっちゃう。だから、システムがダウンした理由よりも、復旧した理由の方がミステリーなのよ」

「そうか、業務開始時刻までにシステムが復旧して、会社全体のコンピュータ環境には影響がなかったのは、セキュリティセンターのスタッフのおかげだと思っていたけど、そうじゃなかったんだ」

「その辺も正確には違うのよ。あのね、もともと、ダウンしたのは、セキュリティに連動しているシステムだけなの。販売や製造の会社運営情報システムは正常作動してて、社屋の入出管理とか監視カメラとか、防犯に関係しているものだけ止まってたの」

「何だって? 防犯に関係しているものだけ……」

 門脇は卵のようにすべすべした瑪瑠理伊の顔を凝視した。

「菊池主任によれば、落雷の後に監視カメラのモニターが真っ暗になって、明かりは消えてないんで、カメラが故障したのかと思ったそうよ。その後でコンピュータを調べたら、全体のシステムは作動しているのに、建物の出入り口にある記録装置や構内全部の防犯センサーがストップしているのが分かったらしいの。監視カメラはデータの蓄積をしなくなった状態だったと言ってた」

「社員の出退勤記録がなくなったのは、社屋の入出記録装置が駄目になったのと関係してる?」

「そう、入出記録のファイルが壊れたから、それに連動している出退勤記録もその日の分は作成されなかった」

「ファイルが壊れた?」

「パソコンを正常に終了させないと、使ってたファイルが壊れることがあるでしょ。そんな状態」

「ふうん。そんな状態ね」

 瑪瑠理伊からコンピュータの知識を教わったせいで、門脇はおぼろげながらイメージが湧いた。

「要するに、セキュリティに連動しているシステムの電源を抜いたような形なの」

「電源を抜いた?」

「そう。たとえて言えば、パソコンを終了させる時、普通は終了のコマンドを使って電源を落とすでしょ。それを、電源コンセントをひっこ抜いても、一応はパソコンはの動作は終了するわよね。使ってたファイルが壊れたり、何回もやってるとハードディスクに傷がついたりするから、やっちゃあいけないけど。後でコンセントを差し込めば、パソコンはまた動き出す。今回のことは、そんな感じなのよ。雷様が電源コンセントを抜いたとしら、説明がつくんだけど」

 瑪瑠理伊はくすっと笑い声を漏らしたが、門脇は表情を崩さなかった。

「雷様じゃあなくて、人間がコンセントを抜いたんじゃないか? 泥棒が入って……」

「外部からの侵入者がセキュリティシステムの電源を切ったと言いたいんでしょうけど、それは無理」

「どうして?」

「誰かが電源を切ろうとして、塀を乗り越えて敷地内に浸入したとしたら、その時点ではシステムは動いているのよ。塀には防犯センサーが設置されているし、監視カメラも動いているから警備員が急行。センサーは警察にも連動してるからとっくに捕まってる。だからそれはありえない」

「じゃあ、内部の人間だな」

「何を言ってるのよ。そんなことする人いるわけない」

 瑪瑠理伊はルビー色に塗られた唇を尖らせた。

「コンセントはどこにあるの?」

「コンセントじゃなくて、配電盤の該当する個別のスイッチ。それをオフにすれば該当する電源が落ちるけど、馬鹿なこと言わないで……」

「配電盤はどこにあるんだっけ?」

 門脇は瑪瑠理伊の言葉をさえぎって質問を続けた。

「敷地の横に東京電力の鉄塔があるわよねえ。そこから電源を引いているから、敷地内のその下あたりよ。ちょうど研究開発棟の裏側にあたるところ。そこに鍵の掛かった頑丈な物置のような建物があるの。それが配電室」

「研究開発棟の裏か。あの夜、そこに誰かが入った形跡は?」

「配電室の鍵はほかの社屋と違って、社員カードは要らないのよ。一応電子式だけど、六桁の番号を入力すれば開くようになってる。そこにあるのは配電盤以外にも、変電設備なんかもあるけど、全部東京電力の所有物。だから、機密にするようなことはないので、そんな鍵にしたみたいね。システムに連動してるわけじゃないから、何の記録も残らない。当然、誰かが入ったとしても分からない」

「その番号を知っていれば、入れるということか。番号を知っているのは誰?」

「誰って、番号はセキュリティシステム管理マニュアルに書いてあるから、それを見る立場の人間よ。警備員は必要ないから、センター長以下六名のシステム担当。それに、東京電力の技術屋さん」

「夜中に東京電力は来ないから、六名に可能性はある。主任の菊池さんはどうだろう?」

「あのね。菊池主任が初めにシステムがダウンしたのに気づいたのよ」

「自分で電源を落として、後から気づいたふりをしたのかもしれない」

 瑪瑠理伊は呆れた顔をして、前を向き、テーブルに置かれたリモコンを壁掛け式の薄型テレビに向けた。すると、テレビが映し出したのは、通常の放送ではなく、監視カメラの映像だった。

「このモニターは、防犯システムの出力端子にも繋がってるの」

 瑪瑠理伊は、門脇がテレビだと思っていたものをモニターと呼んだ。彼女がリモコンを操作すると、画面にはセキュリティセンターの玄関を照準にした映像が映しだされた。右上の墨には日付と、時刻が秒単位まで表示されている。それは監物の自殺当日の日付だった。

「このモニターの映像は二千時間記録できるの。システムダウンするまでのモニターの記録は見て分かるとおり、完全に残っているのよ。菊池主任はセンターの中にずっといて、ダウンする前つまり二時十一分までに、このカメラの範囲内を通過したのは構内巡回のための警備員だけ。それも警備員はダウン前には戻って来てる。構内の正門脇の警備室にもここと同じ監視カメラがあって、そこの警備員もダウンした時間には警備室内にいたの。つまり、システムダウンした時に、セキュリティセンターの人間で、建物の外に出てる者はいないってことよ」

 門脇はモニターの映像を見つめた。巡回から戻ったきまじめな顔をした警備員が写っていた。画像はかなり鮮明だった。

「そうか……。配電室の鍵の番号を知っている者は、建物の中か。ということは配電室に入れる人間はいないってことだ」

「監視カメラは塀を越えて侵入してくる者や社屋に忍び込む者を撮影するために、塀沿いと社屋の出入り口付近にしか設置されていない。本当は配電室の出入り口の映像があればいいんだけど、配電室は社屋じゃないから、監視カメラの死角になってるのよ」

 瑪瑠理伊はリモコンで監視カメラの映像を順送りに切り替えてみたが、研究開発棟の裏側にある配電室の映像は、外部からの侵入者を想定した塀沿いの遠景しかなかった。これでは出入り口が見えない。

「配電室出入り口の映像がないということは、研究開発棟の裏側の映像もないってことだね」

「裏側?」

「監物くんが転落したのは、研究開発棟の裏側にある非常階段からだから、その映像もないってことだ」

「ミスターK、いつから刑事さんになったの?」

「えっ?」

「あの日、警察もモニターの映像を見て、せっかくこれだけ監視カメラがあるのに、転落の瞬間の映像がないのを残念がってた。今のあなたと同じように。ミスターK、きょうのあなたは変よ、まるで警察みたい。ひょっとしたら、システムダウンと監物さんの死が関係があるって考えてるんじゃない?」

 門脇は他殺の噂について、瑪瑠理伊になら話してもいいと思った。もし噂を知らなかったとしても、ここで聞いたからといって、彼女が噂を広めて歩くようには見えなかった。それに、話しておいた方が協力が得やすくなりそうだ。

「ううん、関係がないといいんだけど。あのさ、つまらない噂があるんだけど、聞いたことがあるかな? 監物くんは本当は殺されたという噂なんだけど」 

「えーっ、そんなの聞いたことないわよ。誰なの? そんなへんなことを言いふらしているのは」

 瑪瑠理伊は眉をひそませ、門脇に抗議でもするように言った。

「それが、直接聞いたわけじゃないんで、誰が言っているのかまったく分からないんだけど。そうか、きみも聞いたことがないのか」

「そんな噂、セキュリティセンターにはないけど、D化学の本社では飛びかってるの?」

「飛びかってるかどうかは分からないんだけど、噂があるのは事実なんだ」

「それって、他殺を疑わせるようなことが何かあるってことかなあ。火のないところになんとかって言うでしょ」

 瑪瑠理伊も、門脇と同じような感想を抱いたようだ。

「煙は立たず。そうなんだ。警察が自殺と断定したんだから、間違いないはずなんだけど、噂があるということは、何かそれを想像させる理由があるんじゃないかと考えるのが自然だよな」

「警察の調べ方がいいかげんだったとか?」

「それはないと思う。担当刑事に聞いたんだけど、大企業で起きた事件だから、いつもより多めに警察官を動員したって言ってたしね。遺体には転落による損傷以外の、たとえば、転落する前に殴られたとか、そういう傷もないことも検死で確認してるし、第一、遺書が見つかっている。それに、司法解剖までして鬱病の薬を検出したんだからね。薬を処方した精神科の医院も、保険組合の診療記録から調べて、診察した医師の話も聞いているって言ってた。警察がきちんと調べたのは間違いないと思う」

「ずいぶん念入りに調べたのね」

「それがね、事件や事故の担当役員は菅崎専務なんだけど、専務が警察に、疑念のないよう徹底的に捜査をしてもらうよう頼んだらしいんだ」

「警察が念入りに調べたことが、返って疑いをもたれたのもしれない」

「それもありうるね。専務は、まさかそのことが殺人だなんて噂に繋がるとは思ってなかっただろうけど」

「分かった」瑪瑠理伊は跳ねるようにソファーから立ち上がった。「私がここに来てから二年間で、システムに障害が起きたのは二度あったけど、どっちも昼間で、原因は転勤の多い春と秋に社員の人事関係ファイルにアクセスが集中し過ぎたことだった。今回は夜中に防犯システムだけ、障害が起きた。警察もいやに念入りに調べてるし、これはなんか怪しいぞ、ってことだ」

「考えられないことじゃないね」

「誰かが防犯システムをストップさせて、その間に監物さんを突き落とした」

 瑪瑠理伊は部屋の中を歩き回りながら、ひとつひとつ区切るように言った。

「監視カメラもドアの通過記録も止まってるから、証拠が残らない。そんなことを考えた人がいて、噂ができあがったんだ。きっとそうよ」

「なるほどね」

 門脇は瑪瑠理伊の言うとおりかもしれないと思った。監物の転落死の前後、防犯システムが作動していなかったという事実がある。それを意図的に行った人間がいないとは言い切れないのだ。この辺のことは、明らかになっていない。警察も防犯システムの障害は把握していたようだが、転落死とは無関係と判断したのか、原因については敢えて追求していない。何かおかしい、と思った者がいて不思議ではない。噂を聞いたというコンプライアンス事務局へもメールも、会社に届いた投書も、この辺のことには触れていないので、菅崎専務は「根も葉もない噂」と言った。しかし、「根も葉もない」とは言えない。流れている噂の源流はここにあるのではないか。もしかすると、噂を流した社員は防犯システムの障害の原因について、何か詳しく知っているのかもしれない。

「監物さんのことを話題にするのは、やっぱり同じ部署の人間が一番多いでしょうねえ。いろいろと思い出を話しているうちに、誰かが自殺にしちゃ何かおかしいとか言い始まって、ひょっとしたら突き落とされたんじゃないかなんて話になる。そんな感じかなあ。研究開発部の人に噂のことを訊いた?」

「いや、まだ研究開発部の部員には話を訊いていないんだ。実はね、噂が流れているって、今朝、総務部に匿名の投書があったんだよ。だから、さっきも言ったとおり実際には誰からも直接聞いたわけじゃないんだ」

「そう。でも、誰だかわからないけど、きっと、面白半分に殺人事件を想像して喜んでいるんでしょうね。亡くなった監物さんが可愛そう。人の不幸をさかなに、あれこれ想像して楽しんでいるとしたら許せない。それに、……」

「何?」

「殺人ということは、犯人がいるってことよ。外部からの浸入がないとしたら、会社の中に犯人がいる。あやしいのはあいつだ、何て噂を流しているとしたら、とんでもない話」

 瑪瑠理伊は門脇を睨むように言った。門脇には、無責任な噂が社内でながれていることにあなたにも責任がある、と言われているように感じられた。

「まったく、同感だよ。これから、研究開発部に行ってそれとなく訊いてみる。いずれ、噂を流している張本人が見つかるかもしれない」

 人が殺されたということは、殺した犯人がいるということだが、メールにも投書にも犯人については何も書かれていない。噂も、今のところ犯人が誰だというようには流れていないのかもしれない。しかし、噂は、いずれ尾ひれがついて流れる。あやしいのはあいつだなどどいうふうにもなりかねない。菅崎専務が言うように、消えてなくなるから無視していいとは、決して思えない。

「面白半分だとしたら、厳重に注意してやって」

「そうするよ」

 門脇もソファーから立ち上がった。

「ミスターK、今度は楽しい話を持ってきて。その時はおいしいコーヒーを淹れてあげるね」

 瑪瑠理伊の顔にいつものような微笑が戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る