真夜中のオフィースコンピュータは鈍色に輝く

夏原 想

第1話

 門脇洋一郎は出勤すると自席のある総務部を素通りして、廊下の最も奥まった部屋の前まで行った。他の部屋には、ドアの上部に総務部や営業部といった部署を示す表示があるが、ここにはそれがなかった。門脇はドアノブを廻しロックがかかっているのを確認すると、あたりを見まわした。人に見られて困るというわけではないが、この部屋に入るときには無意識に人の目を気にしてしまう。門脇は手早く上着のポケットから社員カードを取り出し、ドアノブの横のスリットに差しこんだ。ロックが解除される金属音が微かに聴こえた。

 部屋の中は薄暗かったが、門脇が足を一歩踏み入れるとセンサーが働き、明るく無機質な照明が点いた。この部屋は、社内のほとんどの文書が電子化される以前に書庫として使われていた。広さは二十メートル四方もあり、天井まで届くスチール製の書架が何台も並べられている。書庫として使われていた当時は、企画書やら会議用資料やら伝票やらの社内文書が、ダンボール箱に収められびっしりと積み上げられていたものだが、今はがらんとして、ところどころ錆びついたスチールの柱と横板がそこらじゅうに見えるだけだった。書架に挟まれた通路の行き止まりに、壁に接して机と椅子があり、そこに一台のパソコンとプリンタが置かれていた。

 門脇は椅子に腰を下ろし、パソコンの起動ボタンを押した。数秒待つと、パソコン画面にはマイクロソフト社のロゴーマークに続いて、「社員の本人認証が必要です」という文字が表れる。門脇は手に持ったままにしておいた社員カードを、パソコン下部の識別装置に差しこんだ。カードは機械内部に音もなく引きこまれる。すると間をおかず、今度は「パスワードを入力してください」と四桁の暗証番号を要求された。門脇はキーボードに手を伸ばしたが、すぐにその手を止め、手帳を取り出した。暗証番号は毎月変更され、三日前に新しくなったばかりで、まだ正確に記憶していなかった。入力を一度でも間違えると社員カードは無効になり、再発行しなければならない。門脇は手帳を見ながらパスワードを入力した。画面は「門脇洋一郎 総務部労務課チームリーダー アクセス可」と変り、「D化学工業株式会社 コンプライアンス事務局」というタイトルのページに移動した。

 D化学工業株式会社は石油化学製品、つまり、合成樹脂、合成繊維、合成ゴム製品を中心に、ありとあらゆる化学製品を製造している総合化学メーカーだった。D化学連結グループ全体の売上高は一兆二千億円、従業員は一万五千人を超える。門脇はD化学の本社総務部に在籍していた。

 画面中央に電子メールの受信トレイがあり、今朝は二通溜まっていることを示している。最近は週に一、二通ぐらいのペースだから、日に二通あるのはめずらしい。受信時刻は一通目が昨日の十八時十五分、終業時刻のすぐ後だ。

門脇はこれらのメールを開くとき、いつもいくらか自分の鼓動が速くなるのを感じる。見てはいけない他人の手紙をこっそり覗こうとしているような、なぜかそんな後ろめたい気分を味わう。そしてすぐに、これは仕事なのだと気持ちを落ち着かせ、意識的にゆっくりとマウスをクリックする。

《ひとにぶつかって、その拍子にそのひとの持っていたパソコンを壊し、その修理を会社の経費でやっている社員がいます。私用のパソコンを社内に持ち込むことは禁止されていますので、そのひとが持っていたノート型パソコンは会社のものだと思いますが、壊した原因がぶつかった社員の落ち度にあるのですから、個人の責任で賠償すべきだと思います。それもこの社員は、いつも部下には経費の節減を口やかましく命令している管理職なのです。そもそも、この社員がそのひとにぶつかったのも、若い部下のささいなミスに突然大声で怒り出し、腕を大きく振り回したからです。そこをたまたま通りかかった人の抱えていたパソコンに、腕が当たったのです。その怒り方があまりにも異常で、ぶつかった拍子に落ちたパソコンを、この社員ははずみで蹴っとばしました。パソコンは二メートルぐらい飛んで床に落ち、中から部品が飛びだすほど壊れてしまいました。若い部下の方が慌てて拾い上げると、この社員は、ぶつかった人に一応謝りましたが、悪びれることなく、若い部下にセキュリティセンターで修理してもらうよう命令していました。その部下は、可愛そうに壊した責任が自分にあるかのようにパソコンの所有者に謝り、部品が飛び出さないように抱えながら、おずおずとセキュリティセンターに向いました。ということは会社の経費で修理したに決まっています。修理代は壊した人が払うべきです。是非、このような社員にひとこと注意をしてもらいたいと思います》

 門脇は一通目のメールを読み終わって、近頃はこんなメールばかりだと溜息をついた。このメールは署名のない匿名だったが、メールアドレスを見ると、会社の略号があった。社内のパソコン端末から送信されものだ。調べれば社員の名前も特定できるが、その必要もないだろう。送信者は文面から考えて、上司に対する不満が相当溜まっている女性社員に違いない。「経費の節減に口やかましい」のはその部下でしか分からないことだから、パソコンを壊した社員とは送信者の上司だろう。「若い部下」とは彼女が思いを寄せるイケメン社員なのかもしれない。確かに厳密にいえば、会社の備品を不注意で毀損した場合はその社員が自費で賠償すべきだが、故意でもない限り、誤って毀損した場合には会社の経費で修理するのが社内の慣習のようになっている。送信者もそういう実情はわかっているのだ。その証拠に、個人名も挙げず、長い文章の最後に、「ひとこと注意をしてもらいたい」という言葉だけで締めくくっている。現実に会社が調査に乗り出して、賠償させることまで期待してはいない。管理職である上司を、「この社員」と書いているのは、上司 と思いたくないほど、嫌悪しているということだろう。要するに、日頃の不満をコンプライアンス事務局宛のメールで発散させているのだ。女性社員が昼間の休み時間にコーヒーショップで、「ねえ、聞いてよ、うちの上司ときたらまったく……」と社内では吸わないたばこをふかしながら、悪口を言い合っているのと同じ類だ。一応、報告書には載せるが、放って置いていい。

 企業の不祥事が頻繁にマスメディアで報道される昨今では、コンプライアンス、つまり法令や規則の遵守はどこの会社にとっても、ますます重要な課題になっている。どんなに業績がいい会社でも一度不祥事が起きれば、業績など吹き飛んでしまい、最悪の場合は会社の存亡にもかかわるからだ。

D化学工業株式会社には、監査役の下に監査室があり、会計と業務の内部監査を行っている。規則違反があれば摘発し懲戒処分の対象としている。しかし、監査室の室長を除く常勤八名は、一度退職した社員の嘱託に過ぎない。その他の室員は業務に精通した社員が所属する部署と兼務で、年二回の調査計画が実行される時のみ、召集されるのだ。彼らはベテランなのだが調査に対する意欲が乏しく、形式的でおざなりのもので終わるのは日本の多くの会社と同様である。

 そこでD科学では不祥事を未然に防ぐために、社員からの内部告発を大いに奨励した。不祥事とは、公になって初めて不祥事になるのであり、規則違反であれ、法律違反であれ、外部に漏れる前に社内で処理できれば、不祥事がなかったことと同じと考えたのだ。そのためには、できるだけ小さな不正の段階で情報を掴む必要がある。それが、コンプライアンス事務局への告発制度の目的だった。

 当初は、告発を電子メールだけに限定したわけではないが、発足当時から、電話や郵便等は皆無だった。恐らく告発者は匿名を好み、電話では自分の声を聞かれ、郵便では筆跡や発送地域が分かってしまうことを嫌ったためなのだろう。

 この制度は功を奏したと言っていい。ここ数年間、D化学工業ではマスメディアに騒がれる不祥事は一度もなかったのだから。D化学工業株式会社のコンプライアンス組織は監査室とは別に、人事・総務部門を統括する取締役役員を委員長に、各事業本部や事務系の部門の部長で構成されるコンプライアンス委員会があり、その下に事務局を置いている。事務局は、事務局長が総務部長で、総務、人事企画、法務、財務の四部からそれぞれ二、三人ずつの社員が日常業務とは別の仕事として携わっており、総務部労務担当の門脇もそのひとりだった。事務局は、日頃は社内規則や法律の解説などのいわゆる啓蒙活動をおこなっていたが、効果があるのは、やはりこの告発メールだと、門脇は思っている。

 半年前の神奈川県の工場からの告発の例では、小型船舶用の合成樹脂を製造する工程で、一定以上の不純物が混入した不良品は、社内規定では処理業者に委託し廃棄することになっているが、ある社員が廃棄すべき不良品を自らトラックに載せ、どこかに運んでいるというものだった。告発メールを送信してきたのは新入社員だった。そのメールによれば、《その社員は、該当する作業工程のリーダーで、処理業者とは別の業者に売り飛ばしているようです。そのことを管理者である製造部長に告げても見て見ぬふりをしている》という。

 コンプライアンス事務局へのメールを読むのは、総務部の門脇だけではなく、他の部の事務局員三人との輪番制になっている。この告発メールのときは、財務部の社員が最初に読み、すぐに事務局長の総務部長に報告した。総務部長、山瀬泰三はコンプライアンス委員長である担当取締役役員に連絡すると同時に、直属の部下でもある門脇を従え、その日のうちに神奈川県の工場に向かった。

 現場に着いた総務部長と門脇は、工場長を通じ関係者を一同に集め実情を訊いたが、話しは唖然とするものだった。不良品をどこかに運んでいた作業工程のリーダーは課長職に相当するベテランで、そのやり方に口出しできる者は製造部長以外にいなかった。その課長相当職にある者が、処理業者と感情的トラブルを起こし、腹いせに処理業者の工場の裏山に不良品を投げ捨てていたというのだ。しかも、この不良品には人体に極めて有害な重金属が混入しているという。部下の監督を怠った製造部長は、その理由を問われると一時間以上も押し黙ったままだった。技術畑をこつこつと歩み続け、退職を来年に控えた工場長が、「一緒に辞表を出そう」と泣き声混じりで迫ったとき、製造部長はやっと重い口を開いた。製造部長はその社員に個人的秘密を知られてしまい、それ以来、秘密をばらされるのを恐れ強く出ることができなくなったというのだ。そして、その秘密とは、実は製造部長の女装趣味で、社内の個人ロッカーに女性用の衣類をしまっていたことを、その社員に知られたのだという。

 総務部長と門脇は顔を見合わせて苦笑しながらも、すぐに善後策を講じた。投げ捨てたという現場を調べさせると、幸いにも、この不法投棄に処理業者はまったく気づいていないことがわかった。また、密閉容器から不良品が漏れ出した痕跡もないという。

 投棄された密閉容器は四個で、ちょうど樹木に覆われ周囲からは視線が遮られた場所にあった。総務部長と門脇は念のために夜中になるのを待って、数名の工場の社員とともに容器を素早く回収した。容器には社名が大きく刻印してあった。このまま放置されて、社外の者の目に触れ、警察や行政当局に通報されたら取り返しのつかないことになるところだった。なぜベテランの技術者がこのような愚かな行為をしでかしたのか? 結局、それはわからなかった。人間は時として、ふと何かに憑かれたように異常な行為に走ることがあるものだという感慨に、門脇はただ浸っただけだった。

 最近は、こういう告発メールが非常に少なくなった。一通目のメールのように、壊したパソコンを個人の費用で修理させろというような、些細なことを通報してくるものばかりだ。それは会社にとっては、この告発制度の効果が現れているとも言え、問題を起こすような社員が減っているということは非常に好ましいことではある。しかし、こういう業務に携わる者にとっては、大きな声では言えないが、退屈でつまらないことなのだ。重大な結果を招くようなことを時として行う社員、そういう社員がいてくれないとコンプライアンス推進業務に従事しているおもしろさは、正直に言えばない。

 門脇は、次のメールもどうせつまらないものだろうと、冷めた気分になって二通目のメールを開いた。しかし次の瞬間、突然、門脇はパソコン画面に向かって「何っ」と甲高い声をあげた。門脇の眼に初めに飛び込んできた文字が、「殺人」という単語だったからだ。新聞の社会面でもあるまいし、社内に殺人などということがあるはずもない……。門脇は思わず身を乗り出し、画面に顔を近づけた。

 《社内で殺人事件の噂が流れていることをご存知ですか? 昨日、私がトイレの個室で用を足していると、ドアの外からふたりの男性社員のひそひそ話が聞こえてきました。どうせ、上司の悪口だろうと黙って聞いていると、驚くべき話でした。先日、会社のビルから飛び降り自殺をしたと思われている研究員は、なんと、実は突き落とされたというのです。目撃者もいるが、特別な事情があって名乗り出られないとまで言っていました。それに、もうひとりが、おれもその話は聞いたことがあると応えていました。私は話の真偽を確かめようと、慌てて衣服を整え個室を出ましたが、既に二人はいませんでした。二人の声に聞き覚えがありませんので、どこの部署の社員なのかも分かりません。社内で殺人事件があったなどという噂が流れているとしたら、大変なことです。勿論、社内で殺人などありえないことで、悪質な噂を誰かが流しているのだろうと思います。こんな話を同僚に訊くわけにもいきませんので、是非、コンプライアンス委員会で悪質にもほどがある噂を流している人物を探し出し、罰してください》

 門脇は画面から眼をそらし、宙を睨んだ。

 二週間前の深夜、本社敷地内の研究開発棟の六階非常階段から、ひとりの研究員が転落死した。あの日、労務担当の門脇も早朝から電話で呼び出された。眠い眼をこすりながらタクシーで会社に着くと、既に警察の現場検証が始まっていた。警察に立ち会っていたのは、本社の警備を担当しているセキュリティセンター長の紺野晴男だった。その脇に遺体の第一発見者の、同じくセキュリティセンターのシステム担当主任菊池規正が岩のように固い表情でつっ立っていた。門脇が警察官に身分を名乗りながら近づくと、コンクリートの上に、真っ赤というよりも黒々とした血だまりの中に頭を突っ込み、うつ伏せになった死体が見えたのが忘れられない。

 転落死したのは、研究開発部の素材研究グループリーダー監物秀明三十四歳だった。監物は、昨年炭素繊維素材の画期的な製造法を開発し、その検証実験などで、死の数ヶ月前から毎日のように残業が続いていた。警察は本人のスーツの内ポケットから、会社の同僚と母親に宛てた二通の遺書を発見した。その遺書は自席のパソコンで転落死する直前に作成されたものであることも確認した。さらに、念のために司法解剖も行われ、血液中から抗鬱薬トレドミンを検出した。会社はそれまで把握していなかったことだが、本人の自宅近くの精神科に通院していた事実も判明した。それらの結果、警察は転落死した一週間後に、過労による鬱症状から起きた自殺と断定した。自殺というのは、誰が考えても疑う余地がないことだと思われた。

 社員が業務に関係して死傷したときは、労働基準監督署に「労働者死傷病報告書」を提出することが労働基準法で義務付けられている。D化学工業でこの役目を負っているのが、労務担当で社会保険労務士の資格も持っている門脇だった。「労働者死傷病報告書」は速やかに提出しなければならないので、警察の自殺の断定後に既に提出していた。この報告書の「災害発生状況及び原因」という欄には、社内の上層部の意向にそって、門脇が「過労が原因による自殺」とはっきりと記入した。社内で起きた事故が労災に該当するか否かを決定するのは、無論、労働基準監督署だが、会社側が自殺と業務に因果関係ありと素直に認めた形だった。会社は従業員の安全に充分配慮しなければならないが、「安全」には精神の領域も含む。転落死した監物が、鬱症状で通院していた事実を把握していなかったことを、会社は重大な落度と認識した結果だった。

 監物の自殺の原因となったと考えられる長時間労働は、D化学では特に部長級、課長級の中間管理職で極めて多かった。これは上司は率先して働くという会社の伝統のようなものの影響もあるのだが、管理職は昨今の人員削減により、以前は部下に任せていた仕事を上司自らやらざるを得なくなったのだ。それに、管理職は何時間残業しても数字として記録されることがない。一般社員の残業に支払われる超勤手当は経営上厳しく管理されているが、管理職のその代わりに支払われる管理職手当ては定額なので、管理職の残業が何時間あったのかは問題にされることはなかったのだ。深夜勤務については、管理監督者にも労働基準法上、二十二時から翌朝五時までの間の深夜勤務手当てが発生するが、それも会社にいたとしても休憩時間として扱えば深夜勤務には該当しない。その場合の休憩なのか勤務なのかを判断するのは管理職自身なのだが、部門毎に細かく賃金コストと業績が評価されているので、ほとんどの者が自分の手当てを増やし賃金コストが上がるようなことはしないのだ。業績が上がれば、さらに上のポストに就けるのだから、そこは我慢するしかないというわけだ。そのような事情から、郊外に自家を持った管理職は、通勤時間を省略するために会社に泊まりこんで仕事をするという悪習が一部であったのだ。自殺した監物もその中のひとりということだった。監物の死後、会社はすぐに管理職を含め長時間労働を抑制する措置を講じた。原則、会社の泊まり込みは禁止になったし、週一の残業をしない日も制定した。そういった改善は、常に犠牲者が出た後に成されるのが世の常なのかもしれない。

 門脇は送信者に直接会って話を訊いてみたいと思い、改めて画面を見直した。しかし、このメールも一通目と同様に匿名で、メールアドレスは社内のパソコン端末や会社が貸与している携帯電話のものではなかった。会社所有の通信機器は、メールアドレスや電話番号が登録されているので、誰のものから発信されたのかが分かるようになっている。このメールのには、アドレスの末尾にIT企業の使用するYで始まるアルファベットがあった。Yメール、これはWebメールと呼ばれるもので、インターネットに接続できる環境さえあればアドレスをいくつでも取得でき、送受信が可能だ。これでは警察が強権を発動して捜査にでも乗り出さない限り、送信者を特定することができない。

 送信者は、なぜ特定されるのを嫌っているのか? 送信者の不利益になることは何もないのだから、名前を隠す必要はない。そもそもこういう重大な問題は、本来はメールでなく、直接コンプライアンス事務局に来て話すことではないのか? 噂を流している人物をコンプライアンス委員会で探し出し罰してくださいとあるが、手がかりがなければ探しようもない。

 門脇はこのメールはいたずらではないかと思った。会社の正式な組織にいたずらメールを送るというような行為は社員ならありえないと思われがちだが、実際に過去にあったのだ。二年ほど前、同僚が使い込みをやっているという告発メールがあったが、調べてみるといたずらだった。送信した社員は、特に悪意はなく、退屈しのぎにコンプライアンス委員会がどう動くのか見たかっただけだという。当然、この社員は減給処分された。呆れた話だが、現実には様々な人間が会社にはいるのだ。今回のメールもそんな類なのではないか。いたずらなら、発信元を隠してもおかしくはない。

 門脇がとりあえず報告用にメールを印刷しようと、プリンタの電源を入れた時、スーツの内側ポケットの携帯電話が鳴った。総務部長の山瀬泰三からだった。

「門脇くん、今どこにいる?」

 山瀬の声はいつものゆっくりとした口調とは違って、妙に早口だった。

「はあ、一階のコンプライアンスメール受信室ですが……」

「そうか。悪いが、すぐに十七階まで上がって来てくれないか。隣に菅崎専務取締役がいらっしゃる」と言うなりこちらの都合も聞かず、山瀬は電話を切った。

 上司である山瀬から電話で呼び出されることは日常的によくあることだが、十七階に呼び出されるのは初めてだった。そこは取締役員執務室や応接室のあるフロアーで、総務部の一部員に過ぎない門脇には業務上無縁の世界だった。その十七階で、総務部長の山瀬は専務取締役の菅崎進と同席しているという。門脇には呼び出される理由が思い当たらなかった。菅崎専務といえばコーポレートガバナンス担当役員、つまり人事・総務担当の総責任者で、当然、その職掌の中に労務も含まれている。労務課の門脇にとって上司ともいえるが、直接、業務に関する指示や命令を受けるわけではないので、今まで口をきいたこともない遥か上の存在だった。

「とりあえず、行くか?」

 門脇はひとりごとを言って立ち上がった。

コンプライアンスメール受信室を出ると、ビルの正面玄関側にあるエントランスホールに向かった。そこには四基のエレベーターがあり、その内三基は十六階止まりで、十七階以上に行くには一番奥の役員専用のものに乗らなければならない。手前のエレベーターの前には一般社員が何人も並んでいた。門脇はその社員たちの間をすり抜け、役員専用エレベーターのボタンを押した。

エレベーターに乗り込み、扉の横の壁に手を伸ばしたが、目の前には行き先階を押すボタンがなかった。門脇が周りを見渡していると、扉が閉まり天井から女性の声が聞こえてきた。

「何階にお止めしますか?」

 自動音声装置の声だった。勿論、こんな装置は一般社員用にはない。

四十一歳になる門脇がこのエレベーターに乗るのは入社以来、三回しかなかった。ひとりで乗ったことがないので、今まで自動音声装置があることに気づかなかった。門脇が行き先階を告げると、「かしこまりました」と静かに上昇を始めたが、その動きもいやに滑らかに感じられた。

 門脇の役職名は、チームリーダーというものだった。三年前に、門脇が総務部労務担当課で課長職に推薦されたのと同時期に、D化学工業では組織改正があった。組織のスリム化という名目で、中間管理職である課長職が廃止され、それに相当する役職がチームリーダーと名づけられた。超勤手当てが無くなり管理職手当てが支給されているので管理職には違いないが、部下がいなかった。担当する仕事を率先してこなし、ついでに後輩の面倒もみるという文字どおりリーダーの役割が課されただけだった。課長昇格を心待ちにしていた妻は、それでも祝いのケーキを買って来た。妻は、お父さんはきょうからチームリーダー、偉くなったのよと、小学二年生の息子ににこやかに言った。すると息子は、踊りながら喜んだ。

「ワーイ。チームリーダーだって、僕と同じだ。僕もお父さんと同じチームリーダーなんだよー」

 妻は、息子が学校の兎飼育チームのリーダーになっていたのを忘れていたのだ。以前は兎班長と呼んでいたが、カタカナの方が聞こえが良く、チームリーダーという名称に変えたのだった。門脇は無邪気にはしゃぐ息子の姿を、エレベーターの中で思い出し苦笑した。おれはついに息子に並ばれたか。チームリーダーの上は部次長または、室長だが、ポストの数からいえば、チームリーダー五人にひとりの割合になる。おれにはこれ以上昇格するという保証はない。息子の学校では学級委員長という名称もクラスマスターに変わった。いずれ息子もその地位に就くのかもしれない。リーダーよりマスターの方が誰が聞いても上だから、おれがチームリーダー止まりだとすれば、役職名ではその内息子に抜かれることになる……。

 エレベーターを十七階で降りると、絨毯が敷かれた廊下の手前に役員秘書室があった。そこには既に女性秘書が待っていて、門脇に役員用応接室に行くよう告げた。門脇は柔らかい絨毯の毛並みを靴の底で感じながら、入社以来、未だに行ったことがない廊下の奥へと進んだ。

 役員用応接室に呼び出されるということは、総務部長の山瀬がいっしょだとしても、当然、菅崎専務の方に用があるということだ。専務は労務の責任者でもあるから、用件は門脇の日常業務に関することだろう。ということは……。門脇はあることを思い出して、思わず足が止まった。呼び出された理由はあのことに違いない。

日常業務の中には、労働組合との交渉という労務担当者には欠かせないものがある。たとえば、会社は労働組合と労働協約を締結しなければならないが、それにあたっては、まず実務担当者同士が、概略から詳細にいたるまで十分に事前交渉を行い、最後に双方の代表者が締結文に署名捺印をするという形をとる。その実務担当者にあたるのが、会社側は労務担当で、組合側は書記長以下賃金対策部長やら、業務対策部長などといった名称の専門委員たちだった。

 D化学の労働組合は、同じ産業の組合間でも穏健で物わかりの良いことで知られていた。門脇はほとんどの組合の幹部たちとはうまくわたりあい、交渉もスムーズに運んでいた。しかし、この四月に組合幹部の改選があり、地方組織から中央本部に上がって来た新書記長とは、初めからそりが合わなかった。門脇より五つほど若いこの書記長は、労使は対等だというのが口癖で、組合幹部の自分は会社の経営幹部と対等なのだから、労務担当の社員など相手にしないといわんばかりの態度を門脇にとっていた。組合委員長は社長に、書記長は総務担当役員に相当するというわけだ。

 三日前、超勤手当に関する労働協約の部分改定のための事前説明の席上だった。書記長がいささか無理な要望を出し、門脇が「そんなことはちょっと……」と口ごもった言い方をしたとたん、相手は机を叩いて席を立った。

「そんなこととは何だ。組合側が真剣に考えていることにそんなこととは何だ。大体あんたの説明では会社の誠意が伝わってこない。もっと上の役職者が出てこない限り、おれは話を聞かんぞ」

 門脇には分かっていた。この席には組合側に書記長と三人の事務局員、その他に書記長の出身地方組織の役員が四人オブザーバーとして入っていた。この四人は休暇を取って東京見物に来ていたのを、わざわざ書記長が勉強のために見ていけと呼んだのだった。要するに、おれは偉くなったのだというところを以前の仲間の組合員に誇示したかったのだ。

 あの男なら、担当者を替えろと総務担当役員に、つまり菅崎専務に直接訴えかねない、と門脇は思った。何しろ、書記長という役職は総務担当役員に相当すると日頃口走っている男だ。そういう主張が組合側からなされれば、労務担当者として門脇は不適格という烙印を押されかねない。菅崎専務から呼び出されたのは、このことに違いない。どういう態度で組合幹部に接しているのだと、重役から詰問されるのだ。門脇は、いつも正面を向かずに横目で相手を見つめる癖のある書記長の顔を思い出し、「あの野郎」とつい口走ってしまった。

 重厚な扉のついた応接室はすぐそこだったが、足が進まなかった。門脇は詰問に対する自分なりの言い訳を考えるために、ひとりトイレの個室にでもこもる時間が欲しかった。出直して来ようかとも思い、後ろを振り返ると、廊下の向こうに先ほどの女性秘書がこっちを見ていた。戻るわけにはいかない。門脇の口走った声が聞こえたのかもしれない。

 仕方なく応接室の前まで行き、ノックして重いドアを押し開けると、部長と菅崎専務が隣り合って座り、門脇に目もくれずに何やら低い声で話し合っていた。門脇の後の新しい労務担当者の人選をしているように思えた。

「まあ、座れ」

 ほどなくして、山瀬が緊張気味に立っている門脇に顔を上げた。

「はぁ」と門脇は応えて腰を下ろしたが、ソファーのあまりの柔らかさに腰が沈み、危うく身体がのけぞりそうになった。門脇が慌てて座りなおすと、菅崎が静かに口を開いた。

「門脇くんだったね。忙しいところ、十七階まで来てもらって済まない」

 その声と物腰は意外にも詰問調とは遠く、柔らかかった。呼び出されたのは書記長の話しではないのかもしれない、と門脇は思った。

「いえ、とんでもありません」

門脇がおどおどと下を向いていると、山瀬がさっそく用件を切り出した。

「きみを呼んだのは、実はね、先日自殺した社員の件なんだが……」

「ええーっ?」

 門脇はつい大声をあげた。呼び出されたのが監物のことだとは思わなかった。門脇は組合書記長のことで頭がいっぱいになり、つい先ほどのメールの件を忘れていたのだ。大声が出たのも、詰問されるわけではなさそうなので気持ちが緩んだせいだ。

「何だ、どうしたんだ?」

「はあ、実は今朝」

「何だね?」

「コンプライアンス事務局宛に、監物くんは殺されたのだというメールが。いえ、正確に言うとそういう噂があるというメールがありまして……」

「何っ」

 と今度は山瀬と菅崎が同時に大声をあげた。

「そんな馬鹿げた噂があるとは思えないのですが、こ、これです」

 門脇はふたりの顔を上目づかいで見ながら、コンプライアンスメール受信室で印刷したメールをテーブルの上に置いた。先に菅崎がメールを一瞥し、その後で山瀬が懐から老眼鏡を取り出し、しげしげと見つめた。そのしぐさは、門脇にはやけに年寄りじみて見えた。門脇は、用件が自分の仕事の失態を責められることとは別のことだと分かり、目の前のふたりを観察する余裕ができた。部長の山瀬は専務の菅崎より年長で、二人並んでいると年の差が際立って見える。だが考えてみれば、五十代半ばの山瀬が部長として特別に高齢というわけではなかった。他にもの同年齢の部長職は何人もいる。山瀬が高齢というよりも、専務の菅崎の方が若いのだ。

 菅崎進は、四十三歳というD化学工業始まって以来の異例の若さで取締役に抜擢された。理由はD化学の社員なら知らない者はいないだろう。菅崎は営業職についていた若手社員の頃から成績は常にトップクラスで、部長職に昇進したのも同期の誰よりも早かったという。部長昇進後も、担当した部門の業績はすべて好転させた。石油化学事業グループのフィルム事業部長の時には、それまで十数年赤字続きで、撤退を余儀なくされつつあったものを単年度で黒字化した。それは菅崎マジックと呼ばれたほどだ。

 どんなやり方をすればそのようなことが可能なのか、門脇には見当もつかなかった。単にラッキーなだけだと妬む者も多かったが、経営トップがその手腕を見逃すはずはなかった。現社長の中目黒雄二は、八年前の、菅崎の部長昇進とほぼ同時期に大株主である銀行からやって来た。中目黒が社長に就任する以前のD化学の業績は、好不調を著しく繰り返していたが、中目黒の代になって安定した高成長を続けている。この高成長に、少なからず菅崎が貢献したと考えるのは当然ともいえる。社長の中目黒の強い引きで常務取締役を兼ねる事業本部長に、そしてすぐにコーポレートガバナンス総括担当の専務取締役に任用され、その後三年が過ぎ、いずれ社長にまで昇るのは確実だというのが、門脇に限らず、ほとんどの社員が予想していることだった。

「このメールを読むと、先ほどの投書も納得がいきますね」

 と山瀬が老眼鏡をはずしながら、菅崎専務に向かって言った。

「うーむ。今度は社内で噂を聴いたということだからな」

 菅崎が答えた。

「はあっ? どういうことでしょう?」

 門脇は意味が分からなかった。

「実はな、同じような投書が届いているんだよ」

 けげんな眼差しの門脇に山瀬が言った。

「これと同様に殺人事件の噂があるというメールがですか?」

「メールではなく、封書で郵送されてきたんだが、……」

 と山瀬は言いながら、菅崎の方に視線をやった。

「見せてもかまわんよ」

 という菅崎の言葉を得て、山瀬はテーブルの上のメールの横に、封筒と一枚の便箋を置いた。宛名は社長、差出人は一株主となっていて匿名だった。便箋にはペン習字のお手本のような達筆な文字がびっしりと並んでいた。門脇は投書を手に取った。

《私は貴社の一株主ですが、ごく最近、株主として看過できないことがありましたので、ひとことご注意申し上げるべく筆をとりました。先日、仕事帰りに居酒屋でひとり杯を傾けている時、近くの席から信じがたい話が漏れ聞こえてきたのです。何んと、会社の中で、殺人事件があったにもかかわらず、それが自殺として処理されたという話が聞こえてきたのです。自分の耳を疑いながらも、声のする方向を見ると、四人組のサラリーマン風の男が、まるでミステリィドラマのような話をしていました。ひそひそ話をしているのですが、酒のせいか、時々大きな声になってしまうという具合でした。突き落とされたんじゃないか、という言葉が今も耳に残っています。私は目を細め、この男たちを凝視しました。すると、四人とも背広の襟に同じバッジをつけていました。DにCの文字が斜めに重なったマークです。私にはそれに見覚えがありました。D化学工業の社章にまちがいありません。なぜなら私は長年にわたる株主ですから、貴社の広報誌やホームページに載っている社章は見慣れているのです。七、八年前から、貴社の業績はそれまでの長期にわたる低迷から一転して好調に推移し、それに伴って株価も上昇を続け、今年には上場以来の最高値を記録しました。しかし、このようなとんでもない話が世間に知れ渡ったら、どうなるでしょう。実際に殺人事件があったなどと私も思いませんし、誰もそうは考えないでしょう。しかし、世間は面白半分に噂話をしたがるものです。社内で殺人事件が会ったなどという噂がマスコミにでも出たら、会社の評判を傷つけ、株価は転がるように下がってしまうのではないでしょうか。一株主として、心配でなりません。是非、善処されたく、お願い申しあげます》

 門脇は、総務部長の山瀬が「先ほどの投書も納得がいきますね」と言った意味が分かった。コンプライアンス委員会へのメールは、門脇が考えたような単なるいたずらではなかったのだ。社内で殺人事件という噂が流れているというメールがあり、その噂話をD化学の社員が酒席でしていたという株主からの投書が届いた。メールには「先日、飛び降り自殺した社員」、投書には「突き落とされた」という言葉が入っている。両方とも監物秀明の転落事件に関することで、二つは符合している。

「社長宛の郵便物全部に目を通すのは総務部長の私の役目だ。その中の特に匿名の投書には、嫌がらせや単なる勘違いのものも少なくない。だから、全部の郵便物を社長にお見せするわけにはいかない。この投書の場合も、社章を他の会社のものと見間違えたという可能性もあるとは思って、専務のご意見を伺っていたところだ。しかし、同じ内容の社内メールが届いたからには、間違いなくわが社のことだ」

山瀬が溜息混じりに言った。

「そういうことだね」

 と、菅崎が相槌をうち、門脇の方に視線を向けた。

「きみは労災の担当者だったね? 事故の事務処理担当者のきみなら噂を聞いたことがあるんじゃないかと思ってここに呼んだんだが、どうだね? 聞いたことはあるかね?」

「いえ、私はまったく初耳です」

「そうか、きみでも聞いたことはないのか。勿論、山瀬さんも私もこんな噂があるとは夢にも思っていなかった。我々の見聞きできないところで、社員たちは困った噂話に興じているということだね」

 と言う菅崎の口調は、門脇に初めに話しかけた時と変わらず、穏やかなものだった。門脇がコンプライアンス委員会宛てにもメールが来ていることを告げた時には、さすがに大声をあげたが、それ以外は表情も変えない。門脇にはそれが、並はずれたスピードで出世する男の鷹揚さだと感じられた。

「飛び降り自殺をした研究員、つまり監物秀明が何者かに殺されたという噂が社内で流れているということは間違いない。ということは、警察も自殺と断定した事故を、殺人だなどと吹聴している社員がいるということになる。なぜ、何の根拠でそんなことを言いふらすのか、できれば、直接そのけしからん社員に問い質したい。その糸口として、メールの送信者に会って話を訊きたいんだが、アドレスから送信者は分からんのか?」

 と、山瀬が憤りを隠せない表情で門脇に訊いた。

「いえ、それが分かりません。このアドレスには、人物を特定できる要素がまったく含まれていません。というのは……」

「分かった。おまえが分からんというなら、分からんのだろう」

 日頃からITが苦手な山瀬は、門脇が説明しようとするのを遮った。

「投書をしてきた株主にも勿論、話は聞けない。社内の噂を調べるからといって、組織だって調査をするわけにもいかん。各部長を呼んで、こんな噂があるようだがと尋ねれば、かえって噂を広めることになってしまう。それに、来月には株主総会も控えている。そこで、噂を聞いた株主から質問でも出たら、とんでもないことになる。うーん、困ったものだ」

 山瀬は唸るような声を出し、宙を睨んで腕を組んだ。

「ところで、監物秀明くんに関係する事務処理はどこまでいっているのかね? きみを呼んだのは、その辺も訊きたかったからだ」

 菅崎が門脇におもむろに訊いた。

「そうだ、肝心の労災関係はどこまでいってるんだ? 会社は労災の認定について争わないことを決めているのだから、早く終えてしまえばいい」

 山瀬も、門脇に訊いてきた。このところ門脇は労働組合対策が忙しく、部長の山瀬に監物秀明に関する途中経過を報告していなかった。直属の上司である山瀬は、部下の仕事を把握していないと思われてはまずいと考えたのか、いくらか慌てた様子だった。

「遺族が労基署に労災の請求書を提出すれば、後はスムーズに進むと思いますが、まだ、提出されていません」

「そうか。だったら、社会保険労務士の資格を持っているおまえが代理で申請すればいいじゃないか」

 労災は本人または遺族の申請を原則としているが、社会保険労務士や弁護士も代理申請ができることになっている。しかし、この場合はそうはいかない。

「いや、あくまで私はD化学の社員で、言ってみれば利害関係者ですから、それは無理です」

「確かに、それはそうだな。しかし、申請の手助けはできるだろう。監物くんの遺族は、確か、栃木に暮らしている母親だけだったな?」

「はい、彼は独身で、父親を早く亡くしてますから、労災の請求権があるのは母親だけです」

「母親ひとりでは請求書を書くのは大変だろう。是非、手伝ってやれ」

「はい、そのつもりです。近々、母親の元へ行こうと考えていたところです。労災の申請さえ出れば、労基署が認定して、後は所定の手続きに従うだけです。残っているのは、退職金と亡くなった月の給与月額を、今月の給与支払日に合わせて遺族に支払うことだけです。」 

 門脇は、ここで自分の言った「給与月額」という言葉から、ふとあることを思い出した。亡くなった月の給与月額には、超勤手当、俗にいう残業代も当然に含まれる。その超勤手当は社員の出退勤記録から、コンピュータシステムで自動的に計算される。それが、監物が自殺した日にシステムエラーがあり、当日の出退勤記録が消えてしまったのだ。総務部の若い給与担当者が、先日、門脇に訊きにきた。

「亡くなった当日の監物さんの超勤時間のことですけど、どうすればいいでしょうか?」

「どうすればいいって、システムエラーで出退勤記録が消えたのは全社員分だろう。ほかの社員と同じことだろう?」

 門脇はぶっきらぼうに答えた。

「ほかの社員には自己申告してもらっていますが、監物さんにはそれが無理です」

「そりゃそうだな。死んだ人間が自己申告できるわけがないか。それじゃあ、警察は午前一時から三時の間に転落死したと言っているから、一時まで残業していたことにしておけばいいんじゃないか? それで特に問題が起こることもあるまい」

「わかりました。そのようにしときます。でも、今のコンピュータシステムを導入してから三年間、エラーなんて起きなかったのに、監物さんが自殺した日に起きるなんて、なんか変ですよねえ。それも、システムに障害が起きた時刻が午前三時頃なんて、偶然なんでしょうかねえ?」

「偶然でなかったら、何なんだ?」

「監物さんの怨霊が、会社のコンピュータにとり憑いて……」

 若い給与担当者は、冗談とも本気ともとれぬ顔つきで言った。

「くだらないことを言うな」

 と叱責した門脇は、今どきの若い者は何かにつけ心霊現象を持ち出したがると思っただけでそのときは気にも留めなかった。

 門脇が専務と総務部長を前にして給与担当者の言葉を思い出したのは、監物の転落死の日に起きたシステムエラーが、殺されたという噂と関係しているのではないかと思ったからだ。給与担当者は「午前三時頃、システムの障害が起きた」と言っていた。自殺とシステムエラーとは因果関係があるとは考えられず、それはまさに偶然にすぎないだろう。しかし、給与担当者が言っていたように、特に若い社員たちは、その二つが同時刻に起きたということから、何か超自然的なものを感じ、それが愚かな噂に結びついたのではないか。

 門脇はシステムエラーが起きたそもそもの原因を聞いていなかった。門脇の自宅で使っているパソコンは時々フリーズ状態になり、なぜなのかは分からないが、しばらくすると正常に戻る。コンピュータというものはそういうもので、時としては不具合を起こすものだという漠然とした思いが強く、敢えてその原因を知ろうとは思わなかったのだ。

 もし、システムエラーが噂と結びついているのだとしたら、起きた原因が分かれば噂の出所も見当がつくかもしれないと思った。コンピュータシステムの担当部署は情報統括室だ。監物の自殺以後、会社を挙げて残業縮小へ取り組むことにし、すべての部門に計画書の作成を義務づけたのだが、それを取りまとめ、報告するのが門脇の仕事だった。他のすべての部門は提出されているのだが、情報統括室だけが未提出のままだった。それををきょうにも取りに行くと予告してあるのでちょうどいい。ここの話が終わったら早速行ってみよう。

 このところつまらないメールばかりが続き、仕事も組合の書記長のことのような、うんざりすることが多かった。メールが単なるいたずらでないことが分かった今、調べてみるのも悪くない。会社は組織だって調査できないが、個人が動くのだったら問題はないだろう。もし、くだらない噂を初めに流した社員が分かれば、とっちめてやるのも会社のためだ。門脇は久々に霧が晴れたような気分になった。

「ほかに何かあるのか?」

 山瀬が、視線を逸らし考え事をしていた門脇に言った。

「いいえ、特にありません」

 門脇は思いついたことを言わないことにした。ここでそのことを言うより、少し調べてみて、何か分かったら報告すればいい。

「そうか、できるだけ早く、事務的なことは終わらせろ」

「はい、分かりました」

 と門脇が答えると、菅崎が

「会社としては、監物に関係する事務処理を早く終わる以外にすべきことはない。事務局に同様のメールが届いていても同じことだ」

 と総括するように静かな口調で話し始めた。

「私はつまらない噂は無視していいと考えている。どんな噂も噂にすぎない。いずれ時間がたてば消えてしまうものだ。会社としては、今後、自殺者など決して出さないように、事実上青天井だった残業を厳しく制限する制度も作ったし、精神科の産業医も毎日常駐させている。それに、会社に多大な貢献をしてくれた監物くんのご遺族には、特別に慰労金を出す準備を進めているところだ。会社としてできることをすべて終わらせれば、つまらない噂もじきに消えてしまうだろう」

「私もそのように思います」

 山瀬がいくらか大げさに頷き、菅崎に合わせた。

「門脇くん。したがって、できるだけ早く事務処理をして欲しい。私からは以上だ」

 門脇はもう一度「分かりました」と言って頭を下げた。立ち上がり、ドアノブに手をかけた時、菅崎の声が後ろから聞こえた。

「ああ、それから、新しい組合書記長のことだが……」

 門脇は心臓が止まるかと思った。やはり、担当を替えろと専務に言ってきたのか。門脇は恐る恐る振り返り、菅崎の顔を見つめた。

「きみとは交渉がしやすいと、彼は言ってたよ」

「はああ?」

「きみとは馬が合いそうだとね。組合役員が替わると労働組合対策も苦労が多いと思うが、門脇くん、よろしく頼むよ」

「ああ、はい。書記長がそう言ってましたか。私にとっても、やりやすい相手です。全力で取り組みます、はい」

 門脇は首をかしげながら、役員用応接室を出た。専務が言った書記長の言葉は予想してたものとは正反対だった。門脇が思っていたより案外、相手はおとなで、会社側と波風を敢えて起こしたくないと考えているのかもしれない。だとしたら、門脇にとってこれほどやりやすいことはない。ここのところ、書記長の態度がずっと頭から離れなかったが、当分の間、組合のことは横に置き、自殺した監物のことに専念することにしよう。

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