第7話 数々の疑問

 門脇は総務部の自席に戻ると、専務の菅崎から言われたとおり、録音をイヤホーンで聞きながら、地下室での出来事をパソコンに打ちこんだ。周りでは、忙しそうに株主総会の準備作業に追われている者たちが、ときおり、この時期に勝手なことをしていやがるというような、敵意に溢れた視線を門脇に浴びせてくる。

 株主総会は四週間後に迫っていた。取締役員の人事は株主総会で正式に決定するが、その前に取締役会で人事の内定が行われる。そのため、明日の午後、臨時の取締役会が開催されるという。しかし、例年ならばもっと早い時期に、役員人事の内定が行われている。株主への総会開催通知も、すぐに発送しなければ間に合わない時期に来ている。その遅れている理由には、さまざまな真偽のはっきりしない情報が社内で流れている。その中でも度々耳にするのが、社長の中目黒が自らの勇退時期を決めあぐねているというものだ。

 中目黒が大株主の銀行からいきなり社長としてやって来てから八年になる。中目黒が来る前のD化学の業績は、言わば乱高下で、好調な翌年には必ずと言っていいくらい赤字に転落するという有様だった。それが、銀行から社長を迎えなくてはならない最大の理由だったのだが、それにしても、数字で見る限り業績の好転は見事で、中目黒が社長就任後二年目以降は、リーマンショックの影響も最小限に止め、常に対前年増収・増益を続けている。経済誌などには、「元々高い技術力のあったD化学を、経営手腕によって開花させた中目黒」という特集記事が載るほどだった。社内では、経営手腕というよりも、単に幸運だったに過ぎないと陰口が聞こえるが、誰も中目黒に逆らえないのは、その業績から考えて致し方ないと門脇は思う。

 中目黒が勇退時期を決めあぐねているというのは、自分の後を誰に任せるのにせよ、安心できるものにしたいということだろう。

 中目黒が最も信頼しているのが専務の菅崎であるのは、日頃から総務部長の山瀬が言っていることだが、それは間違いないだろう。取締役員は副社長が二人、専務がひとりに常務が五人、それに社外取締役が二人いる。社長の下の副社長は事業本部長が兼ね、コーポレートガバナンスの担当として専務という布陣になっている。副社長が二人とも事業本部長なのは、何と言っても会社で収益を上げているのは事業部であることを考慮しているからだが、副社長は中目黒が就任以来、任期は例外なく二年で、その後は比較的大きな関連企業の社長に転出するのが常だった。それを踏襲すれば、菅崎が次期社長で問題なく進むと考えられる。しかし、二人の副社長のうち、ひとりが次期社長に意欲を示しているという噂があるのだ。二人のうち、森川という名の副社長は石油化学本部長で、こちらの方は自分は社長には向かないと公言しているのだが、もうひとりは高機能製品事業本部長とさほど大きくはないいくつかの事業本部の本部長を兼職している渋沢という男で、事業本部系の執行役員から人望があり、担ぎ上げられているらしいのだ。それに、中目黒も渋沢の能力を認めていないわけではないのだが、問題はその年齢で、渋沢は六十三だった。中目黒が六十五だからほとんど変わらないのだ。高齢の社長が二代続いては、会社のイメージが悪い。しかし、事業本部系の役員たちの意向も無視するわけにはいかない。

 役員たちを若返らせたいとも、中目黒は常々口にしているらしい。実際、今の社外を除いた取締役たちは全員五十を越えている。仮に菅崎が社長に就任すれば、全員年長の役員が社長を支えることになる。この時代に年齢は関係ないという意見もあるだろう。しかし、企業の創業家出身の若い社長ならいざしらず、お互い出世を競い合ってきた社員同士、上が自分よりはるか後輩だというのは内心面白いわけがない。それが内紛の種にならないという保証はない。

 菅崎が、社長は霧久保を取締役に入れたいらしい、と言っていたが、若い霧久保を役員に入れて、菅崎を社長になった時の、菅崎を支える布陣にしようとしているのではないか。霧久保以外にも、今の取締役より下の世代を取り入れようと考えているのかもしれない。恐らく、そんなところで中目黒は勇退次期を決めあぐねているのだ。

 それにしても、会社所有の霧久保のノートパソコンに、監物の遺書の文面が残されていたのは、どういうことなのか? その文面の保存時刻は、監物の自殺の数時間前だという。監物本人がわざわざ霧久保のノートパソコンに、遺書の文面を書きこむことはあり得ないだろう。紺野の見立てによれば、何者かが監物の死を予見し、かれの自席のパソコンに偽装した遺書を書きこむために、予めその文面を作成した。それが何らかのミスで、削除した積もりが残っていたというのだ。「死を予見し」というのは、普通に考えれば、その後に殺害するつもりだったということだ。紺野はそこまでは言っていないが、そういうことになる。もしそうであれば、霧久保のノートパソコンをその時刻に使用していた者がやったということになる。会社所有のノートパソコンは、起動時に貸与された者のパスワードが必要で、霧久保以外の者が使用していたとは考えられない。その点については、紺野の見立てはもっともなものだ。霧久保は、一週間ほど前に監物と言い争いまでしている。霧久保を疑う要素は充分にあるのだ。霧久保が殺人を犯したと断定することはできないかもしれないが、自殺に追い込むというようなこともあるのかもしれない。それについては、紺野はまったく触れていないが、いずれにしても、解明すべき疑惑であることは間違いない。警察は念入りな調査の結果、自殺と断定したとはいえ、これは警察に知らせるべきことではないのか? 専務の菅崎はそれはできないと言う。株主からの投書でもあったように、殺人事件の噂は会社の外に出つつある。さらに、警察の再調査にでもなったら、会社のダメージは計り知れない。確かに警察の調べでは、ひとりで転落したのを疑う余地はないし、その前後に他には誰もいなかったという。また、次期社長とも目されている経営の幹部としては、そんなことにはしたくないというのは自然な発想なのかもしれない。専務にそのように言われたら、そうせざるを得ないが、しかし、疑惑をそのままに終わらせるわけにはいかないだろう。

 門脇が、周囲でわざとらしいとも思えるほど騒々しく振舞っている同僚たちを無視して思いにふけっていると、いつの間にか後ろに山瀬が立っていた。

「ペーパーはできたのか?」

 門脇が頷くと、山瀬は総務部室の奥にある小会議室に向かって歩き出した。

「ドアを閉めろ」

 山瀬は、門脇が小会議室に入るや否や、語気を強めて命じた。

「専務のところに行く前に、頭の中を少し整理しておきたいんだが……」

 山瀬は、門脇が差し出した、地下室でのやりとりを記録した紙に目を通しながら言った。

「セキュリティセンターの紺野は、これは殺人事件だと言っているように、おれには聞こえたが、お前はどうだ?」

「私にもそう聞こえました」

「そうだよな。そして、霧久保部長が怪しいと……」

「そうです。それに、霧久保部長と監物さんは、言い争いがあったそうです」

「言い争い?」

「研究開発部の部員から聞いたんですが、開発した技術に関する見解の相違から、日頃穏やかな監物さんが大声を挙げたことがあったそうです」

 門脇は、睦月から聞いた話を大まかに伝えた。

「そんなことがあったのか。一応、それも菅崎専務の耳に入れておく必要があるな。しかし、霧久保部長が殺人犯などという馬鹿げたことは絶対にないと思う。紺野は霧久保という男がどういう人物か知らんのだろう。おれも霧久保について何でも知っているというわけではないが、言い争い程度で殺人を犯すほど愚かではないということは、間違いない。殺人どころか、暴力に訴えるということもしない男だ。彼は物事を行う前に、すべて計算して行動に移すタイプの人間だ。D化学の諸葛亮孔明などという渾名がついたぐらいだからな」

 それについては門脇も頷きざるを得なかった。そもそも、犯罪は割りに合わない行為なのだ。ある目的のための犯罪は、それによって得られた利益以上の不利益を自分に課すことになる。多くの犯罪は結局露見するし、仮に結果的に露見しないとしてもその保証はないのだから、不安に長い間おそわれることになるからだ。ものごとを深く考える人間ならば、犯罪になること以外の手段を考えるだろう。霧久保部長ほどの人間が、そんなことをするはずはない。誰でもそう思う。だからこそ、あの若さで取締役に就任させるという社長の意向も分からずではないのだ。

「明日の取締役会では、役員人事はすんなり決まりそうもないでしょうね?」

「ああ、そうだろうな。今の話を聞いて、すべて社長がどう判断するかにかかっているが、場合によっては、すんなり決まらないどころか、社長の人事構想は白紙に戻さざるを得ないからな。役員人事を決める取締役会の直前に、こんなことになるなんて夢にも思わなかった。明日、人事を発表するとマスコミに伝えてある。今回の人事は大胆なものになるから、経済誌の記者をいつもより多く呼ぶようにと社長から命令されていたから、余計、取締役会を延期するわけにもいかん。ただでさえ、人事の内定が今年は遅れているから、延期しようものなら、社内で内紛があるんじゃないかと疑われかねん」

「今年の役員人事の内定が遅れたのは、やはり、渋沢副社長のことに加えて役員を大幅に若返らせたいという社長の意向があったからですか?」

 門脇は、先ほど思いついたことを訊いてみた。

「渋沢副社長か。お前の耳にも入っているか。確かに、事業本部の部長級以上は渋沢さんを押しているらしい。しかし、渋沢さんの実力は誰でも認めているが、菅崎専務と比べれば、会社経営という観点から見劣りする。それに、年がいっている。社長が専務を押せば、事業本部の連中も仕方がないと考えるだろう。それよりも、役員の若返りが一番の問題らしい。社長は、半分ぐらいの取締役を四十代にしたいと考えていると菅崎専務が言っていたよ。今は全員が五十以上だからな。人事の内定が遅れたのは、四十代の役員候補を選定するのに時間がかかったということだろう。専務の言うには、言葉は悪いが、みんなどんぐりの背比べで、霧久保を除いては、飛びぬけて優秀という人材が見当たらないからだということだ。三十八の霧久保部長を、思い切って取締役に入れるはその目玉らしい。だから、記者をいつもより多く呼べと言ったんだと思う」

「社長の人事構想は、現在の取締役の中でも若い菅崎専務を社長に就任させ、それを支える役員全体を若返らせ、安定させたいということなんでしょうか?」

「そうだな。社長としては、盤石な体制で次の社長にバトンを渡したい、そう考えているんだろう。だから、次期社長はもとより、取締役員も執行役員も、これで良し、と言える人事を残して引退したい、そう考えているんだと思う」

「なるほど……」

「遺書の文面が何でこんな時に出てくるのか、分からんが、まあしかし、明日、霧久保が出張から帰ってくれば疑問は解決するだろう」

山瀬はそこまでしゃべると立ちあげった。山瀬の頭の中はいくらか整理がついたらしいが、門脇の方は混乱するばかりだった。霧久保は非常に怪しいが、そんな愚かなことをするとは思えない。果たして、霧久保の話を聞いても疑問は解決するのだろうか?

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