第4話

__________許さない。


その瞳が、その怒りが、私の中に入り込んでくる。名前も知らない他人、だけど確かに繋がりのある彼女の言葉をいつまでも夢に見る。


私を許さないでくれ。私も私を許さないから。


なんて結局のところ、そんなのは自己満足でしかない。


聴き慣れたアラームの音に目を覚ます。

時刻を見るとスヌーズ設定になっていたアラームは既に何度も鳴っていたらしい。


いつもと変わらない夢、いつもと変わらない朝。カーテンの隙間から差し込む光から逃れるようにベッドから起き上がり、声を上げながら伸びをする。


四月一日家は今日も変わらず静かだ。


相変わらず生活感のないリビングに行くと、壁一面に飾られた写真が目に入る。

母は動物カメラマンをしていて、そこそこ有名な人だ。それゆえ忙しく家を開けることが多い。

父もそこそこ有名な植物医で今はアメリカの大学にいるらしい。らしい、というのは研究のために各地を飛び回っているから定住することがほとんどなく、今ももしかしたらアフリカやアマゾンの奥地にいるかもしれないからだ。


つまるところ、この無駄に広い一軒家で私は実質一人暮らしをしている。

食費はほとんど菓子パンと野菜ジュースとサプリに、余った大量の生活費は使うこともないから勝手に貯まっていってる。


おぼつかない足取りで洗面台に向かい、歯を磨く。顔を洗い、休みたい気持ちを抑えながらリビングに戻り、机に置かれた菓子パンの山を見る。


朝は……いいか。

冷蔵庫からトマト味のドロっとした野菜ジュースを出して、適当に振り、そのままラッパ飲みをするとやっと頭が覚醒してくる。

携帯を見ると、数件のメッセージが溜まっていてどれも有紗からのものだ。


『今から行くね』

『りょ』


昨日有紗に住所を教え、私の家から高校まで近いこともあり、有紗は毎日迎えにくると張り切っていた。

慣れきった1人の朝は少し短くなってしまったらしい。


________ピンポーン。

インターホンの音が家に響く。

……いくらなんでも早すぎる。


モニターを確認すると当たり前のようにいる有紗。まだ用意すらしてないんだけど。


しょうがない。家に入っててもらうか。


扉を開けると、制服に着替えた有紗が門の前で手を振っているのが見える。かくいう私はパジャマ姿だ。


「まだ用意してないから入って」

「わかった!」


こいつ、それが目的できたんじゃないよな?

玄関まで小走りでやってきた有紗は、きょろきょろと家の中を見る。


「あ、親は仕事で海外だから私しかいないぞ」

「そうなの!?一人暮らしってこと!?」

「まあ、そんな感じ。入って」

「わかった!」


靴を脱いだ有紗をリビングまで案内する。

物珍しそうに写真を眺める有紗を横目に、私はパジャマのボタンを外す。


そうやってキャミソール一枚になった私に気づいた有紗はギョッとした顔で私を見た。


「ななな、ななななんで脱いでるの!?」

「着替えるからだけど」


何を当たり前のことを、と首を傾げていると耳まで真っ赤にした有紗は顔を逸らして目を瞑っているのが見えた。


「女同士なんだから別にいいだろ」

「よくない!」


よくないらしい。「後ろ向いてるから!」と後ろを向く有紗の行動が漫画みたいだな、なんて考えながら着替えを終わらせる。


「終わったよ」

「瑠璃は可愛いしかっこいいんだから軽率な行動は控えて!」


ビシッと指をさしてそう言ってくる有紗。有紗の目からは私はそう見えているらしい。


「はいはい」


投げやりに返事をしてところどころ跳ねた髪をどうしようかと考える。

いつもは適当に櫛を入れて直しているが、短めの今ではこういう髪型と言われたら納得してしまいそうだ。


「逆におしゃれか?」

「いや、おしゃれじゃないから。直すから座ってて」


ソファに座らされた私と鞄から櫛を取り出す有紗。

有紗は慣れた手つきで、私の髪を溶かしだした。


「まずは手櫛が大事なの」

「それ知ってる気がする」


細い指が髪に入れられて、軽く頭皮を撫でる。こそばゆさと少しの快感が電流のように奔り抜けて、思わず声が漏れた。


「だ、大丈夫!?痛かった?」

「……あるだろ、美容室でシャンプーされる時のやつ、あの感覚」

「じゃあ気持ちよかったってこと?」

「そうは言ってない」


顔を逸らして返答する。真っ暗なテレビの反射には、少し緊張した面持ちの有紗が映っている。


「なんかこれ……えっちじゃない?」

「えっちじゃないから、やるなら早くやってくれ」

「う、うん」


おそるおそる有紗が髪に手を入れて、ゆっくりと掻くように手櫛する。蚊に噛まれた患部なら戦力外通告間違い無しな力で触れるように髪を溶かしていく。

思わず目を細めてしまうぐらいは見逃してくれるだろう。



「出来たよ」

鏡に写る整った髪を撫でながら、ゆっくりと立ち上がると時計の針が目に入る。

時刻はとうに普段私が出る時間を超過していた。


「時間やばい」

「そう?」


私は慌てて用意を済ます。

慌てなくても間に合いはするだろうが、私は余裕を持って着いていないと不安になってしまうし、多少の時間に余裕を持ってゆっくり朝の空気感じながら歩くのが好きだ。


リュックの中に教科書が入っていることを確認して、リビングに戻る。


用意している間、写真を眺めていた有紗はとある写真に見入っていた。


「有紗?」

「ねえ、この写真って誰が撮ったの?」


それは賞も取っていない、見るからに素人が撮った写真。

被写体は一輪の花で、薄暗い部屋で水がたっぷりと入ったガラス瓶に入れられている。

角度や光の当たり加減、何回も調整して何回も撮りなおした写真。有名動物カメラマンの一人娘の作品。


タイトルなんてもうないその写真を有紗は指さした。


「私」

「やっぱり」


そうだと思った、と納得したように頷く有紗。


「この写真だけ、本当に大事にされていたから」

「他と何も変わらないだろ」


有紗の隣に行き、写真を見るがどう違うのかまったく分からない。


「このフォトフレーム、有名ブランドのやつだよ。ほら、ここに名前が入ってるでしょ?」

「ほんとだ」

「他のもネットでしか見たことないような良い写真ばかりだけど、このブランドのフォトフレームに入ってるのはこれだけだった。愛されてるね?」


揶揄からかうような有紗の視線。


本当に。

もう既に決別した自分に対して、そう笑った。


私は気恥ずかしさと淀んだ感情から目を背け、玄関へ向かう。

小走りで追いついてきた有紗はご機嫌で、顔に花を咲かせている。


扉を開けると、まだ冷たい朝の風が頬を撫でてくる。


「まだ寒いね~」

有紗の言葉にこくり、と頷く。

いつもならイヤホンをして、外界とは完全に切り離されているから、こうして音のある中、この通学路を歩くのは久々だ。


有紗は私の隣にぴったりとくっついていて、チラチラ、と私の手を見ている。


「繋がないぞ」

「駄目か~」


この場所は高校からも近いし、人の目もある。

わざわざ陰でこそこそしているやつらに餌を与える必要なんてない……ってのも言い訳で、結局そういう接触から身を潜めて生きてきた身としては恥ずかしいのだ。


人と手を繋ぐ、なんてと思ってしまう私が確かにいる。

これまで培ってきた価値観は、含羞がんしゅうの人となった今の私を形成していた。


会話は途切れ、同じ学生服を着た者たちが視線の先に見え始める。


ほとんどの人間が近しい存在以外に興味がないように、彼、彼女たちもほとんどが私たちに興味はない。

だが隣を歩く葉山 有紗という人間は怯えた顔を貼り付かせる。


他が敵ではないと教えることは簡単で、理屈も単純明快だ。

だけどそんなもので、納得できず割り切れないのが人間というめんどくさい生き物で、こんな状況をひっくり返せる便利な弁を私は持っていない。


だけど彼女が私を友人と呼ぶ以上、私は彼女に対してどうにかしてあげるべき、というのが一般論なんだろう。


だから私は。含羞の人である私は少しだけ、手を彼女の手に触れさせた。


言いようのない羞恥が湧き上がってくる。


だけど私と違って、彼女は驚いた顔で私を見て、直ぐに離れていった手を視界に入れて破顔した。


「優しいね」

「実はな」


気の利いた返しなんて出来ない私に、彼女はまた笑った。




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