第9話

 彼の座骨には衝撃が走った。キスを待っていた女の子にいきなり突き飛ばされたもんだから、そりゃ受け身の態勢も取れていないのも当然だ。柔道の先生でもない限り、彼は尻餅をつく運命なのだ。しかも、尻餅だけではなく、背中も着地し、頭蓋骨にも衝撃は走った。私はせっかくの慶応頭脳を、一つぶっ壊してしまったかもしれない。


「す、すいません!」


 美園先輩に抱かれた時のように抜け出しても良かったけど、これはあまりにも申し訳ない。でもワタル君は、思いきり地面に頭を打っておかしくなったのか、腹筋を収縮させ、痙攣させ、声なき爆笑を堪能していた。明石家さんまの一歩手前である。


「ヒカリちゃん、めっちゃキス待ち顔していたじゃーん。いきなり張り飛ばすって何なの」


「ほんと、ごめんなさい……」


「唇ひょーんととんがらせていてさ、いかにもキスしたことないんだなーって思っていたんだけど」


 ワタル君は私を馬鹿にするように、唇を魚のように尖らせていた。突き飛ばしていてなんだけど、かなり腹立たしい。未経験なの、分かっているじゃんのに。


「キスしたことなくてぇっ、悪かったですね~」


 ワタル君の真似をして、口笛を吹こうとする。でも、双葉ヒカリ、同じ芸術でも、音楽方面に滅法弱いのだ。口笛なぞ人生で一度も成功したことない。ひゅーひゅーと虚しい風音が夜空に鳴る。


 虚勢張って口笛に失敗する私を見て、更にワタル君はゲラゲラ笑う。それを見てさらに私は恥ずかしくてイライラする。またそれをワタル君はゲラゲラ笑う。それをかれこれ三十分ぐらい続けていた。私ら暇人か。


「ヒカリちゃんてさ、まじで面白いよね」


「え、どこが。キスも怖い処女のどこが面白いのよ」


「そういうとこ。お嬢様学校の無駄なプライドあるじゃん」


 ワタル君は爆笑した。こいつ、一発殴ってやりたい。腹の底から殺る気が沸き上がり、既に喉元まで至っていたが、ギリギリのところで止まった。


「俺、ずっとヒカリちゃんをこうやって虐めていたい」


「えーじゃー東京電力辞めてやろっかなー」


「だからさ、ヒカリちゃん、俺と付き合ってよ、自慰の手伝いするから」


「………いいよ」


 女の子をエスコートする時には、自慰という言葉を使ってはいけないような気がする。


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